重版未定

文章の面白さは書き出しによって大きく左右されるといいます。
それほどに文章の書き出しは難しいものと言えます。

まさにこの記事を書くときがそれで、どうした書き出しにしようか悩みました。

その結果がこの書き出しでいいのか・・・、という感じですが、文章を書くというのは結構難しいなと思わされます。

そして、その文章の最たるものの書籍を創るとなると、その難しさたるや想像を絶するものがあります。

書籍を創る難しさは多岐にわたり、企画の選定、書き手の選定、コンテンツ制作のスケジュール管理、印刷会社との交渉、さらには製本後の営業・販促等、挙げていけばきりがなさそうです。

出版業については、本が好きなことに加え、書籍の販売数の低下やKindleなど電子書籍の参入、ドラマ化などで関心を持っていましたが、たまたまそんな出版業の実態を知らしめてくれるマンガと出会いました。

その名も「重版未定」。非常に生々しいです。
重版が滅多にかからない弱小出版社の日常について描かれています。
表紙でも主人公が「そんなに刷ってどうするの?」、「本なんて売れるわけないだろ」なんてつぶやいてます(笑)

ストーリーは主人公の編集者がゲラに赤字を入れているところから始まります。
ゲラとは原稿を校正用にプリントアウトしたもので、原稿完成後の仕上げの作業はゲラの修正から始まります。
ゲラが出てきたところで作者や校正者の指摘を赤字で入れていき、それが最終的に印刷される版に反映されます。
この段階でも注意力が要求されるうえ、入稿データは決められた新刊発行の日に間に合うように印刷業者に送信しなければならないため時間との勝負になります。

面白いことに「間に合うかな」という主人公のつぶやきがキーワード扱いされていますが、本当に編集者の懸念は「間に合うかな」に集約されていて、センスいいなーと思ったりしました。
※ちなみに「間に合うかな」の説明は「多くの編集者が常に抱き、日々自問し続けているテーマ。ひとしきり問い掛けた後は、間に合うように仕事をする。不思議なことにだいたい間に合う。」でした(笑)。

またどのような書籍を出版するかという企画会議の様子も紹介されていますが、弱小出版社にとっては、とにかく出版して取次に納品して目の前の売り上げを確保することが大事、という考え方が描かれており、興味深かったです。
※一般的に出版社は取次に納品した段階で前金が支払われ、売り上げを計上できるのですが、返本を受け付けているため、返本された場合は売り上げが減ることになります。ただし岩波書店は売り切りという、返本を受け付けない販売体制になっているようです。

この点について、取次業者が「取次は金貸しじゃねえんだぞ!」とすごむシーンがありますが(ただしフィクションです)、実際貸金業法との関係でどう整理されているのかは興味があるところです。

重版が未定の書籍については、在庫管理にも独特の難しさがあります。
書店から注文が来た場合、普通であれば在庫が減ってありがたいと思うところですが、重版が未定だと在庫を増やすことができないため、在庫が僅少のときは万が一のことを考えて注文を受けないこともあるようです。
書店の通販ページやAmazonで「在庫切れ」となっている書籍をよく見かけますが、本当はちょっとだけ在庫があるのかもしれませんね。

このほかにも誤植対応や作家とのやり取り(いわゆる缶詰め)、販促のイベント企画など、出版社の仕事の実態が描かれていて、読んでいて編集者の苦労が伝わってきました。

自分も以前、冊子を編集する仕事をしていて、営業こそなかったものの作家と編集の業務を経験したので、編集者の方の苦労には共感するものがあります。

誤植は何度見直してもなくならないし、スケジュール管理は大変だし、印刷会社にも無理をお願いすることもあるし…etc。

でも、この本からは編集者の本や本が支える文化に対する愛情が伝わってきます。
もちろん仕事なので、目の前のスケジュールをこなしていくことに必死なのですが、それでも心の底には愛情がある。
編集者の皆さんはへとへとでしょうが、その愛情は素晴らしいと思います。

自分もできるだけ書籍を読んで(というか買って?)、編集者の皆さんの愛情の後押しをできたらいいなと思います。

これからもたくさん素晴らしい本を読みたいものです。

編集者の皆さん、楽しい本の出版よろしくお願いします!!

P.S.
ちなみに本書が重版になったかはわかりませんが、続編も出ていますので多分重版になったのだと思います。

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一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)

日本国内における最も有名な戦いといえば??
ほとんどの人が関ヶ原の戦いを挙げると思います。

慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原における戦いだけでも両軍合わせて10万を超え、さらに東北や中国・九州でも激しい闘いが行われました。
活躍した人物も徳川家康や福島正則に石田三成・島左近、地方においては黒田如水に加藤清正、直江兼続に最上義光と綺羅星のごとくです。

関ヶ原においては石田三成が東軍を包囲する見事な布陣を行い、一方東軍は小早川秀秋らを内通させるなど謀略を駆使し、勝利の算段をつけて戦いに臨みます。
そしていざ戦闘が始まると、武功に欠けると思われていた石田三成が奮戦し、その甲斐もあって西軍が優勢に戦いを進め、その状況を見て、優柔不断な小早川秀秋は寝返りを決断できずにいました。
そんな秀秋に寝返りを決断させるため、家康は秀秋隊に向かって銃撃を行い、秀秋はついに西軍を攻撃。
何度か小早川軍を押し返すなど奮戦した大谷吉継も連鎖的な寝返りに耐え切れず戦死。
そのまま西軍は崩壊し三成らは逃走。さらに島津義弘が敵中を突破する。
このように関ヶ原の戦いはドラマチックに描かれてきました。

さらに、関ヶ原の戦いのきっかけとなる徳川家康の上杉景勝・直江兼続への挑発と直江状による挑戦、上田城における真田昌幸・信繁(幸村)親子の活躍、大津城・安濃津城における京極高次や富田信高の奮戦など、関ヶ原に至るまでにもドラマは多いです。

しかし、関ヶ原の戦いは規模が大きく、またドラマ性にも優れているため、多くの軍記物や小説によって取り上げられ、我々の持っているイメージがかなり創作に基づくものが多いと思われます。

では、実際の関ケ原の戦いはどのようなものであったのか。
それを探るには、当時の文書や手紙などの一次史料が重要な手掛かりになります。
そのような発想から、先入観を排除し一次史料から関ヶ原の戦いを描いていく本を読んでみました(高橋陽介著「一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)」)。

一次史料から推測される関ヶ原の戦いの様相は、我々のイメージあるいは通説と異なる点が多々あることが指摘されていますが、そのうち印象に残ったものをいくつかご紹介します。

・石田三成は西軍のリーダーではなかった
一般的には西軍の首謀者は石田三成で、彼が毛利輝元・宇喜多秀家を担ぎ上げて関ヶ原の戦いに至ったといわれています。
しかし、当時の書状では、石田三成を西軍の中心として認識しておらず、むしろ毛利輝元や大谷吉継、あるいは三成を含めた「奉行衆」が中心になっていたとみられていたようです。
そして、吉継が三成に西軍参加を促したことにより、三成も西軍として戦うことになったようです。
つまり、三成は大きく見積もっても「首謀者の一人」に過ぎなかったようです(秀吉死後は家康と三成はむしろ良好な関係にあったようです)。
したがって、豊臣家のために一人敢然として立ちあがった忠臣というのも、もしかしたら言いすぎなのかもしれません。

・総大将の毛利輝元は関ヶ原の戦い以前に東軍と和睦していた
前述のとおり、西軍の総大将は五大老の一人、毛利輝元でした。
通説では、毛利輝元は大坂城にいて、一族である毛利秀元・吉川広家が関ヶ原で毛利軍の指揮をとりましたが、広家はすでに東軍に内通していたので毛利軍を一切戦わせず、秀元も動けなかった、とされています。

しかしながら、一次史料によると、関ヶ原の戦いの直前の9月14日には吉川広家が家康と輝元の和睦を取りまとめており、関ヶ原の戦いの時点では毛利家は東軍になっていました。
つまり、総大将が寝返っていたことになります。

西軍の諸将からしたらたまったものではありませんが、応仁の乱にもみられるように、実は総大将が寝返ってしまうというのは案外よくあることだったのかもしれません。

・小早川秀秋は関ヶ原の戦いが始まった時点で東軍だった
関ヶ原の戦いの行方を決したのは、松尾山に布陣した小早川秀秋が戦いの最中東軍に寝返って西軍を攻撃したことであるというのが一般的な認識です。

しかし、実際には小早川秀秋は、すでに松尾山に布陣していた伊藤盛正を攻撃して松尾山を占拠しています。
当然これは西軍に対する敵対行為で、それ以前にも不審な点が多かったことから西軍は彼を敵とみなし、松尾山を攻撃しています。

その際に援軍として駆け付けたのが徳川家康率いる東軍で、その結果発生したのが関ヶ原の戦いというのが一次史料から推測される実態のようです。
もちろん、家康が秀秋の陣地に銃撃させたというのも実際にはなかったようです(そもそも、家康は戦場にいなかったようです)。

・石田三成は武将としても優秀であった
石田三成の一般的なイメージとしては、本人は文官で武芸・武略には長けておらず、島左近をはじめとする優秀な家臣団が石田軍を支えたというものだと思われます。
また、関ヶ原の戦いの前哨戦では島津義弘が夜襲を献策してもそれを拒否したというのもそのようなイメージにつながっているようです。

しかし、実際には関ヶ原の戦いにおいて三成はその優れた戦略眼で多くの献策を行っています。
小早川秀秋の動向に最も神経をとがらせていたのも三成だったようです。

関ヶ原以前にも、三成は朝鮮に軍監として渡航し対応策を講じたり、賤ケ岳の戦いにおいても武功を立てるなど、武将としての働きがなかったわけではありません。
失敗例として忍城の戦いの水攻めがありますが、それも三成は反対しており、秀吉の強い命令で実行せざるを得なかったようです。
このように、関ヶ原を含む各局面で重要な役割を担っていることを勘案すると、三成は武将としても秀吉や諸将から評価されていたと考えられます。

以上、本書で紹介されていた通説と一次史料から推測される実態との相違点について紹介してみました。

もしかしたら今後の研究で新たな実態が判明するのかもしれませんが、我々のイメージとはずいぶん異なる関ヶ原の戦いの姿を見るのは非常に興味深かったです。

小説などの影響もあって非常にドラマチックな戦いというイメージがありますが、事実は小説より奇なりという言葉のとおり、実際の関ケ原の戦いも多少味気ないところもありますが、通説とは異なった面白さがありました。

大河ドラマは最新の研究成果を世に広める絶好の機会という話を聞いたことがありますが、今後このような研究結果が大河ドラマなどに反映されて、新たな関ヶ原の戦いの姿が描かれるのが楽しみです。

 

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はじめての判例分析

法学を学ぶアプローチというのは何種類かありますが、その一つに判例分析というものがあります。

判例とは裁判における裁判所の判断、特に最高裁判所の判断を指しますが、具体的な事案において、誰と誰が、どのような点で争って、どのような法令が引き合いに出され、各裁判所はどのように判断したのか、ということを分析して、法令解釈やその背景、適用範囲などを考えていくのが判例分析です(非常にざっくりとした説明ですが)。

一般的な会社において一番法律と向き合う仕事といえば、おそらく法務とコンプライアンスでしょう。
私の理解では、そのうち法務は会社の契約を主な業務対象として、会社と取引先の具体的な法律関係について扱う業務であり、場合によっては訴訟関係も含まれるものです。
一方コンプライアンスは会社の各種の業務が法令の要件を満たしているかという観点での業務であり、個々の契約ではなく、業務のプロセスそのものの適法性を確保する業務と言えます。
(とはいえ、法務とコンプライアンスは全くの別物ではなく、法務にもコンプライアンス的な要素があったり、コンプライアンスの立場からも契約内容の確認をしたりすることがあります。実際に法務とコンプライアンスを同一の部署が担っているケースも少なくなありません。)

自分自身はずっと資産運用会社でコンプライアンス業務を担当していたため、業務に関連する法令についてはそれなりに理解していますが、実際の裁判における法令解釈の仕方、原告・被告の争点の出し方や裁判の手続きなどについてはほとんど意識することがありませんでした。

資産運用会社自体は訴訟の当事者になることは少ないので、これまで通りコンプライアンス業務をこなしていくだけなら敢えて判例に触れる必要はないのかもしれませんが、自分の研究を進めるにあたって役に立つ可能性があることに加え、せっかくお金を払って大学院に行くのであれば、これまで知らなかった世界を見てみるのも大事なことだと思って、判例分析を行うことにしました。

担当した事案は「西武鉄道株式会社による有価証券報告書の虚偽表示事件」。
2004(平成16)年10月に、西武鉄道株式会社は有価証券報告書において株主構成を虚偽表示しており、本当は東京証券取引所の上場基準に合致しないことを公表しました。
その結果、上場廃止の見通しとなったことによって株価が急落し、西武鉄道株に投資していた個人投資家・機関投資家は損失を被ったため、西武鉄道などに対し損害賠償を求めたという事件です。

本件は東京地裁から東京高裁を経て最高裁まで争われた事案ですので、各裁判所における議論と判例を確認していきます。
具体的には、各裁判所の判例について、判例タイムズや判例時報といった判例を収録した雑誌で判例の内容を読み込んでいきます。
今回の事案は個人投資家と機関投資家で別の裁判でしたので、3×2=6回分の判例を読み込むことになりました。
もっとも最高裁だけはまとめて判例が出ていたので5回分というのが正しいですが、それにしても結構な量でした。

本件については、争点は下記の通り3つありました。
①有価証券報告書の虚偽表示は不法行為か?
②株主に損害は発生しているのか?
③損害が発生しているのであれば、それはどの程度か?

不法行為については、民法709条に「故意又は過失によって他人の権利または法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と定められています。
つまり、この事案は証券取引法(現在の金融商品取引法)に定められる有価証券報告書の虚偽記載をテーマとしながら、民法上の損害賠償について争っていることになります。

論点を整理するためには、まず原告と被告の主張を見てみるのですが、想像以上にお互いにハードルの高い主張をしていることに驚きました。
どちらの主張も「それは厚かましいんじゃないの?」と。

ただ、それは裁判上のテクニックでもあり、当然それは両者織り込み済みで、それぞれ次の矢を用意しています。
それらを予備的主張と呼び、最初に放った主張は主位的主張と呼ばれます。
ある意味主位的主張が最も厚かましく、予備的主張はそれに比べると妥協が入っているので現実的になっていきます。

原告は当然「有価証券報告書の虚偽記載は不法行為である」、「虚偽表示に伴う株価の下落で損害を被った」とし、損害額については「上場していない株式は無価値なので取得額全額が損害」(主位的主張)と主張します。

対する被告は、「株主構成は重要な事項ではないので不法行為に該当しない」、「株主は自己責任に基づき株式を取得したので損害賠償すべき損害は発生していない」(主位的主張)と主張しています。

ここから先は裁判所の判断に注目が移ります。

①の論点については、有価証券報告書の趣旨は、自己責任で投資をするために、投資家が正しい情報に基づき投資判断を行うことができるようにすることにありますが、正しい投資判断を行うには会計情報のみならず、株主構成や上場の有無も重要な要素であることから、地裁から最高裁にに至るまで不法行為と認定しています。

②についても、不法行為である以上損害賠償すべき損害が発生していると、やはり地裁から最高裁に至るまで一貫した見解となっています。

この事案における最大の争点は③の損失額でした。
今回は虚偽表示の公表に端を発した株価の下落が損失の原因となりましたが、損失額をどのようにとらえるのかは難しい問題です。

分かりやすい考え方としては、取得価額から売却額を引いた額といえます。つまり、投資によって生じた損失がそのまま損害額となるという考え方です。
では、投資による損失はすべて虚偽表示によるものかというと、そうとも言い切れません。
株価を形成する要因は複雑で、株価の下落の原因は虚偽表示によるものではなく、業績が悪化しているから、あるいは業界全体に悪い風が吹いていたからかもしれません。
つまり、虚偽表示による株価の下落がどの程度であったかを特定することが難しいのです。

また、損害額を考える上で重要な考え方に、相当因果関係説というものがあります。
不法行為と損失額の因果関係を考えるにあたって、相当の因果関係が認められれば、その行為が当該損失をもたらしたとみなす考え方です。
我が国における法学上の因果関係の考え方としては相当因果関係説が最も一般的とのことですが、今回の場合、虚偽表示がなければそもそも上場されていないため、個人投資家も機関投資家も西武鉄道額を購入していないと考えられるため、損害額の算定のベースは取得価額であると最高裁は断じています。

個人的には、取得時から虚偽表示公表時までは貸しのない上場銘柄として取引されていたので、損害額の算定のベースは取得額ではなく虚偽表示公表日の終値であると思い、その点については授業中にも議論をさせていただきました(ちなみに最高裁判決の補足意見でもそのように算出すべきとされていたので、頓珍漢な意見でもないと思います)。

ちなみに、損害額については正解がないので、こういう場合は民事訴訟法第248条に基づき、裁判所が損害額を認定することができます。
最後は決めの問題になるので、算定根拠の妥当性を議論し尽くした後は裁判所が決めてしまうということですね。
裁判の手続きを含め、手続法についてはこれまで触れることがなかったので、このような定めがあることも新鮮に感じました。

一回の授業で一つの事案を報告・議論するので不完全燃焼感が少々残りましたが、初めて判例を読み込んで、自分なりにいろんな角度から分析し、その過程で手続法にも触れることができるなど、実りの多い学習機会となりました。

やはり新しいことに触れてみるのは、世界が広がって楽しいものです。

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応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱

有名だから名前は知っているし、何なのかもなんとなく知っている。でも注目もされていないし、詳しくは知らない。
そういうものって、自分の好きな分野や仕事においても結構多いと思います。

その代表格が、戦国時代における「応仁の乱」ではないでしょうか。
私を含め、戦国時代が好きな方は多いと思いますが、その戦国時代の幕開けとなった戦乱である応仁の乱については、あまり熱く語られることもなければ、テレビ番組で取り上げられることも少ないように思います。
自分自身、応仁の乱について意識することはあまりなく、教科書程度の知識しかありませんでした。

そんな折、何がきっかけになったのかわからないのですが、中公新書の「応仁の乱」(呉座勇一著)が爆発的に売れているということで、気になったので読んでみました。

一般的に、応仁の乱は室町幕府八代将軍・足利義政の後継について、息子の義尚派と弟の義視派が争い、それぞれ有力大名の細川勝元山名持豊(宗全)が後ろ盾となって生じた戦乱であると認識されていると思います。
また、守護大名が京都に集結したことや慢性的に戦乱が続いたことにより、それぞれの領地で家臣団が力を持ち、下剋上の契機になったともいわれています。

それ自体は間違ってはいないのですが、本書で解説されている応仁の乱の背景は上記の説明以上に複雑です。
また、大きな役割を担う人物の数もかなり多く、それゆえに人間関係は複雑になるとともに、見どころも多く、応仁の乱の面白さ(?)を初めて知りました。

本書は、奈良にある興福寺経覚尋尊という二人の僧侶の視点から応仁の乱を追っています。
興福寺は藤原氏の氏寺として設立され、平安時代には南都北嶺と称された有力寺院で、実質的には大和国の守護の役割も果たしていたといわれています(大和には守護が設置されていませんでした)。
経覚・尋尊はそれぞれ興福寺のトップである別当を努めた人物で、二人とも詳細な日記を残していることで知られています(経覚の日記については一部焼失していますが)。
また、大和は応仁の乱の中心となった京都にも近く、興福寺もいろんな形で影響を受けています。
このような背景に加え、二人の性格の違い(経覚は好奇心旺盛で当事者のような視線で語るのに対し、尋尊は一歩引いたところから俯瞰している傾向があるようです)もあって、この二人を語り部として選んだのではないかと思います。

本書によると、応仁の乱の火種となったのは、管領家の一つ・畠山家の家督争いです。
なお、室町時代における管領は将軍の補佐役であり、幕府のナンバー2といえる存在で、一時期を除けば細川家・斯波家・畠山家が交代で就任していました。

関東で関東公方・足利持氏が幕府や関東管領・上杉憲実と対立した永享の乱の後に起きた結城合戦の際に、当主である畠山持国が出陣を拒んだことから将軍・足利義教の不興を買って失脚し、弟の持永に家督を譲らされます。
しかし、義教が嘉吉の乱で暗殺されると、持国は武力で家督を取り戻します。
その際、もう一人の弟である持冨は持国を支持していたため、実子がいなかった持国は持冨を養子としていました。

しかし、その後持国には実子が生まれます。後に応仁の乱を引き起こす畠山義就(よしひろ)です。
持冨にとっては残念なことですが、持国の実子なのだから、義就が後継者になるべき…とはいきませんでした。
義就の母は側室であったため嫡子とはされず、一部の家臣団は血筋のよい持冨の子・弥三郎を後継者に望むようになります。
持国は弥三郎擁立を企む家臣団を攻撃しますが、彼らは有力大名である細川勝元・山名宗全を頼ります。
その結果、畠山家対細川・山名家という構図になり、畠山家の勢力は大きく削がれることになりました。
この過程の中で、一時持国は隠居しましたが、事態処理の中で山名宗全が失脚し、持国方は勢いを取り戻し、弥三郎を京都から追い落とすこととなりました。
その後弥三郎は病死し、政長がその跡を継ぎます。

その後、義就は畠山家の家督を継ぐものの失脚し、政長が家督を継ぎ、管領になります。
しかし義就は引き下がらず、政長との係争が長く続くことになります。

一方、将軍家においても畠山家と似たような状況で、将軍・足利義政には実子がおらず、弟の義視を後継としていましたが、その後実子の義尚が誕生します。
では義尚を後継とするか、その前に中継ぎで義視を挟んで義尚を将軍とするか、ということになりそうですが、それは将軍の一存で決められるものではなかったようです。

当時幕府には①伊勢貞親ら将軍側近グループ②細川勝元グループ③山名宗全グループがおり、それぞれ異なった思惑を持っていました。
そして、斯波家の家督争いを契機に細川・山名は共闘して側近グループを潰しますが、将軍の後継について思惑が異なっているので、いずれは対立することが明白でした。

その時義就は伊勢貞親らと共闘するつもりで上洛しようとしていましたが、貞親らが失脚したため、大和近辺での勢力拡大を図りました。

そんな折、細川勝元と対立していた山名宗全は自陣営の増強を図るため、義就を引き入れようとしていました。
細川勝元は義就と対立する畠山政長を支持していましたので、義就は山名方につきました。
そして、義就は義政の許可を得ないまま、宗全の呼びかけに応じて上洛します。

義政は細川・山名には政長・義就を支援させず、当事者間の争いで勝った方を支持するとしており、細川方は将軍の指示に従ったものの、山名方は義就を支援したため、政長は敗走(御霊合戦)。
応仁の乱は文正2年(1467年)の、この戦いから始まったといわれます。つまり、畠山家の家督争いが直接のきっかけになったといえそうです。
細川勝元は武家の棟梁としても雪辱を果たす必要があり、各地で細川方に山名方を攻撃させます。

そして、細川方・山名方は京都に集結。細川方は京都の東側に布陣したため東軍、山名方が西側であったことから西軍と呼ばれます。
京都の西陣織の名前が、西軍が布陣した場所に由来していることは有名です。

東軍は義政を味方につけ、義政は義視を東軍の総大将とします。
しかしながら、その後義視は失脚し、なんと西軍の総大将になります。
西軍は義視を将軍に擬し、幕府と同様の統治機構を整備したようです(西幕府)。

和睦を模索していた義政の試みもうまくいかず、その後細川勝元・山名宗全の両巨頭が死去した後も、義就・政長らは戦いを続けることになり、戦乱は11年の長きにわたることになりました。

ちなみに、肝心の細川・山名は戦争開始数年後には事態を終結させたいと思っており、勝元・宗全は当主の座を降りています。
二人の死後、文明6年(1474年)に細川家・山名家は単独で講和し、西軍の総大将であった山名家が東軍に移ります。

最終的には山名家の後の西軍の主力であった大内政弘が文明9年(1477年に)東軍に降伏(実質的には和睦)して帰国するという形で戦乱は終結しました。

しかし、その後も畠山義就・政長は抗争を続けますし、各地では守護代が守護大名を脅かしていたりして、本書のタイトルの通り、戦国時代の幕開けとなります。

政治的背景や人間関係が複雑すぎて、応仁の乱を正確に把握するのは難しそうですが、足利義政や細川勝元・山名宗全といったしかるべき役割を担っている人物が、きちんとリーダーシップを発揮して和睦交渉を行っていれば、戦乱もこれほど長引かなかったのではなかったか、と思いました。
リーダーシップの欠如による組織・事態の迷走は今でもみられることであり、そういう意味ではいい教訓とも言えるでしょうか。

戦国時代以降、応仁の乱の中心であった足利家・山名家・細川家・畠山家・大内家がいずれも零落していることは、象徴的な後遺症であったといえるかもしれません(熊本の大名の細川家は庶流)。

印象としてはグダグダ、ダラダラな応仁の乱ですが、当事者たちはいずれも必死に生きていたし、戦闘のあり方も変化があって、決して地味な戦乱ではなかったと思います。
総大将格の人間がそれぞれ相手陣営に移っているというのもなかなかドラマチック(?)

応仁の乱の当事者の人生や西幕府の存在、戦闘方法の変化などについてはこれまで知らなかったので、日本史を代表する事件の全体像を俯瞰するとともに、新たな一面を知ることができて、大変勉強になった一冊でした。

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逆境経営-山奥の地酒「獺祭」を世界に届ける逆転発想法-

最近大人気の日本酒・獺祭
キーボードで「だっさい」と打つと、自動で変換されるくらいメジャーです。
(もっとも、レギュラークラスのプロ野球選手なら大体変換されるくらい、最近のアプリケーションは優秀なようですが。)

あまりに話題になっているので、普段は高級なお酒を飲まない私も飲んでみたいと思って酒屋さんに行ったら数量制限があり(一人1本か2本だったと思います)、その人気ぶりを感じた次第です。

そんな獺祭ですが、決して順風満帆な中で生まれたものではなく、むしろ逆境の中で生まれたものであることを、獺祭を製造している酒蔵である旭酒造の桜井社長の著書で知りました。その名も「逆境経営」。

日本酒市場自体が縮小傾向にあるのですが、その中でも地方の中小酒蔵は知名度もなければスケールメリットを追求することも難しく、桜井社長が社長になった頃はまさに逆風でした。
さらに会社自体も雰囲気が弛緩しているうえ、社長就任後しばらくすると、酒造りの中核となる杜氏たちが退職してしまったそうです。
立地の点でも東京などの大都市はおろか、山口県の主要都市である岩国市からも遠く、マーケットへのアクセスも困難で、八方ふさがりの感があります。

本書はタイトルの通り、そんな困難な状況から、獺祭によって成長を遂げた旭酒造の物語です。

今でこそ獺祭は大人気ですので、社長の目論見通り、順風満帆に行ったように見えそうですが、獺祭が成功を収めるまでには数多くの失敗や試練があり、またその背景には社長の強いポリシーがあったようです。

まず、商品について。
獺祭というお酒が非常に素晴らしいものであることは、世の評価や価格などを見ても想像できますが、品質には徹底的にこだわっています。
元々は安価な普通酒を製造していた旭酒造ですが、限られた量しか製造できないというキャパシティから逆算して、高品質なものに集中するという選択をされたようです。

そして、高品質に特化するからには、その品質にはとことんこだわる。
当然のことと言うのは簡単ですが、米、酵母、水、製法など、それぞれの要素について高みを目指し続けるというのは決して容易なことではないと思います。
そして、高みを目指すうえでわき道にそれない。
色んなブームがある中で、自社製品をそれに合うようにカスタマイズするということは珍しくないと思いますが、旭酒造はそういうことをせず、愚直に獺祭そのものの品質の向上に努めています。

また、経営においても素晴らしいポリシーがあります。
読んでいてガツンとやられたのは、「コストパフォーマンス(費用対効果)を考えた瞬間にずば抜けたものはできなくなる」ということでした。
本書によると、「「費用対効果」と言った瞬間に、この程度でいいんだ、という甘さが出る」とのことです。
費用対効果という考え方は、費用に対して効果が一定水準を上回っていればよい、という考え方ですが、その考え方では無意識のうちに「この水準をクリアすればそれでいい」という意識を生んでしまうように思います。
経営・ビジネスの観点からは間違っていないと思いますが、そういう考え方だけでは、本当にずば抜けた商品やサービスは生まれないというのもまた間違っていないと思います。
本当に必要なところには、コストパフォーマンスや採算を度外視して資源を投入することも、強力な武器を手に入れるためには大切だということを改めて考えさせられました。

また興味深かったのは、桜井社長は単に獺祭の売り上げが上がればそれでよい、というのではなく、お客さんにきちんと味わって、適正な量を飲んでほしいと考えていることでした。
確かに、お酒を飲みすぎると、へべれけになってだらしないし、お酒の味わいもわからなくなってきます。そのうえ、場合によっては吐くこともあれば、けんかや飲酒運転などのトラブルのもとにもなりかねません。
お酒の作り手から見てみると、丹精込めて作ったお酒をそのような飲み方で飲んでほしくはないでしょう。
当たり前といえば当たり前なのでしょうが、お酒の作り手としての矜持が垣間見えます。

他にも素晴らしい内容がたくさんあったのですが、あまりネタバレになってしまうとよくないのでこの辺で(笑)

本書は酒造メーカーのお話でしたが、私が属する資産運用業界についても大変参考になると思います。

例えば、商品のラインナップについて。
資産運用業界(投資信託業界)がよく受ける批判として、販売会社の意向に沿って新しい投資信託を次から次へと作って、販売会社が乗り換え販売をする一因となっている、というものがあります。

確かに産業構造が日々移り変わっていく中で注目されるテーマや投資対象も変わっていくので、それに対応した投資信託というのはニーズがあるのかもしれません。
そのような見方をすると、現在の投資信託会社や販売会社(銀行・証券会社など)の方針は間違ったものではないでしょう。

しかし、本当に息の長い、お客さまに愛され続ける投資信託を作りたいのであれば、新しい投資信託を作り続けるのではなく、産業構造や経済環境の変化に対応できる投資信託を作り、投資家に提供するべきであるともいえます。
旭酒造の考え方はこちらになるでしょうし、私自身そうあってほしいと思っています。

このような考え方は、投資信託を直接販売している投資信託会社に顕著に表れていると思います。
例えば、「いい会社(これからの社会にほんとうに必要とされる会社、 皆さまがファンとなって応援したくなるようないい会社)に投資する」ことを掲げている鎌倉投信は国内外の産業構造や経済環境が変わったからと言って、新しい投資信託を作ってはいません。
「いい会社に投資する」というポリシー・お客さまとの約束を厳格に守り、その中で投資信託の運用を続けています。
また、鎌倉投信は投資信託を運用するだけでなく、運用報告会などで投資対象の会社と投資家が接点を持つ機会を提供してくれています。これも鎌倉投信の投資信託の大きな魅力の一つです。

既存の投資信託業界のあり方にも長所があるので頭から否定する気はありませんが、獺祭のような投資信託が増えてくると、自然と投資家の方々も投資信託を愛してくれて、投資信託の残高が増えるという好循環が生まれると期待していますし、コンプライアンス担当者として、そのような投資信託に関わることができるような仕事をしてみたいと常々思います。

一方、コストパフォーマンスを時として度外視する、ということについては、案外資産運用業界は頑張っているのではないかと思うこともあります。
資産運用業界においては、日々新しい投資対象や投資手法・システムの発掘・開発に取り組んでいますが、その中には「とりあえずやってみよう」というものもあるように思います。
そのような積み重ねが、現在の資産運用会社の幅広いラインナップや高度な投資手法につながっていることを考えると、これまでのイノベーションを支えた業界の方々には頭が下がります。
日々仕事をしていると、「これって採算合うのかな?」と思うこともありますが、イノベーションの種なんだと思って、温かく見守っていきたいと思います(内容によりますが…)。

本書によって、獺祭と投資信託には類似点があるように思いましたので、投資信託や仕事のあり方で悩んだ時には、獺祭を片手にじっくり考えたいと思います(笑)。

※本記事は特定の金融商品ないしお酒を推奨するものではありません。

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百万ドルをとり返せ!

先日、ジェフリー・アーチャーの「ケインとアベル」を読んだら引き込まれたので、彼の処女作である「百万ドルをとり返せ!(原題:NOT A PENNY MORE, NOT A PENNY LESS)」を読んでみました。

著者は投資詐欺にあって無一文になり、政治家としての地位も失ってしまいましたが、本書はその経験を基に書かれた作品です。
自分の失敗をそのまま小説にするとは、やはり只者ではありません。

ということで、本作品は投資詐欺がテーマです。

とある株式を騙されて買ってしまった4人の人物。
数学者、スティーブン・ブラッドリー。
医者、ロビン・オークリー。
画商、ジャン=ピエール・ラマン。
貴族、ジェイムズ・ブリグズリー。
彼らはインサイダー情報を信じて大枚をはたいて株を買ってしまったものの、もともと詐欺のための銘柄なので、紙くず同然。4人で合計百万ドルの大損失です。

ほとんどの人間は諦めて泣き寝入りするところですが、彼らはそうではありませんでした。
この詐欺的行為に憤り、損した分をそっくりそのままとり返すために立ち上がります。
百万ドルきっちり、1ペンスも多くもなく、1ペンスも少なくもなく。
原題のNOT A PENNY MORE, NOT A PENNY LESS、はここからきています。

とはいえ、相手は稀代の詐欺師、ハーヴェイ・メトカーフ。ただ立ち上がるだけでは勝ち目はありません。
しかし、幸いなことに、彼らはそれぞれ専門分野がありました。
学術、芸術、医学、そして演劇。
彼らは、それぞれの強みを生かしてハーヴェイから損失分を巻き上げようと画策します。

彼らはどのような策略を仕掛けるのか。
ハーヴェイはそれを見破るのか、はたまた彼らの策にかかってしまうのか。
手に汗握る知能戦にドキドキハラハラしつつ、たくらみの中で醸成される彼らの友情にホロリとすること請け合いです。

ちなみに、この話では株式が詐欺の対象になっていますが、最近はファンドという箱(株式もファンドも、投資家のお金を一つの箱に集めているという意味では同様の仕組みです)で同様の詐欺的行為が行われており、不公正ファイナンスとして問題視されています。

特に証券取引等監視委員会では不公正ファイナンス防止に力を入れており、「悪質なファンド販売業者に関する注意」として注意を呼び掛けています。
ハーヴェイの手口を読みながらこのことを思い出して、人のすることはいつの時代も似ているものだと思わされました。

皆さんも、不公正ファイナンスにはお気を付けください!
(ちょっとコンプライアンス担当者らしいオチにしてみました(笑))

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