信託法(新井誠著)

最近は好きな歴史関係の本ばかり読んでいましたが、勉強の方を疎かにすると研究が計画通りに進められなくなるので、研究関係の書籍もぼちぼち読み始めました。

最初に取り掛かったのは信託法について概要を把握すること。
研究テーマである「投資信託委託会社(投資運用業者)の忠実義務」については、金融商品取引法や投資信託法(投資信託及び投資法人に関する法律)に定められているところですが、そこでは具体的な言及がなされていません。

また、投資信託という仕組みにおいては投信会社と信託銀行の間で信託契約が結ばれていることから、信託契約の当事者ではない受益者(投資家)と投信会社との法的な関係は必ずしも明らかではありません。

そのため、まずは信託という仕組みと信託法における忠実義務を参考にしてみようと考え、信託法について考えてみることにしました。

信託法については有名な学者が何人かいらっしゃいますが、私が最初に選んだのは、新井誠中央大学教授の「信託法」という書籍です。
信託制度の歴史や信託法の各論点がうまくまとまっていてわかりやすかったということに加え、以前に前の版を読んだことがあり、信託法といえば新井先生、というイメージがあったためです。

本書は信託制度の歴史の説明から始まります。
よく知られているように、信託は英国発祥で、十字軍に参加する騎士が自分の土地などを家族のために管理することを信頼できる友人等に託したことに始まるといわれています。
その後、それが課税の潜脱に使われたことからユース(信託)禁止法が制定されましたが、それに対抗する形で信託制度は変容していきました。
そして、その信託制度は米国にも伝わり、米国では商事信託として発展しました。

日本に信託制度が導入されたのは明治時代。
その後数々の混乱を経て、大正11年には信託法が制定されます。
昭和18年には現在の信託銀行という業態を生み出した兼営法が制定され、さらに平成16年には信託法が改正され、信託の成長に沿った法整備がなされることになりました。

ちなみに日本においても信託に近い仕組みが古来より用いられていたそうです。
最古の例は空海による綜芸種智院の創設(829年)にさかのぼり、織田信長も皇室に対する経済的支援のために信託制度(本書では信長信託と命名されています)を活用したそうです。

信託のルールを考えるにあたっては、まず信託とは何か、ということを考える必要があります。
長い歴史を持つ信託ですが、意外にもその性格については諸説あります。
通説としては「債権説」がありますが、それに挑戦する学説も多くあり、近年においても新しい学説が提起されているようです。
投資信託も信託の一形態ですが、どの学説がしっくりくるのか、というのは研究においても重要なポイントになるため、きちんと整理しておく必要がありそうです。

本書では信託の各種形態についても紹介されており、投資信託についても言及されていました。
その中で、「日本型の投資信託スキーム(とりわけ、委託者指図型)はきわめて複雑であり、信託法理の面からみても問題が少なくない」と指摘されていました(P100)。
この点は自分も感じていて、だからこそ研究テーマとして考えていたので、この一文に出会えただけでも本書を読んだ甲斐があったと思います。

また、委任や代理といった類似の契約形態との関係や、忠実義務・善管注意義務といった論点についても詳細に説明がされていて、自分の考えをまとめるのに大変役立ちました(忠実義務が任意規定化されているという指摘も大変重要なポイントでした)。

ちなみに研究では委任や信託などの制度を比較して投資信託委託会社の忠実義務を検討しようとしていましたが、道垣内弘人先生(道垣内説)によると「「義務の面においては、信託、委任、会社等の制度は連続性を有する一連の制度だとみるべき」であり、「それらの制度における各義務者は、本質的に同様の義務を負う」」と指摘されています(P54)。
自分の研究とも関係する重要な指摘なのですが、この説をどのように自分の研究に反映させるべきか、悩ましいところです。

まずは信託法について概要を見てましたが、次はどのような制度をターゲットにしようか検討中です。
大きい壁ですが、やはり民法は避けて通れなさそうなので、早めに民法の教科書を読んだ方がいいかもしれません。

また、海外の投資信託を取り巻くルールも研究に反映させていきたいと思っていますので、投信主要国の投資信託法制なども概要を把握しておきたいところです。

まだまだゴールは見えませんが、千里の道も一歩から。
まずは一歩踏み出すことができたのはよかったかなと思います。

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織田信長 不器用すぎた天下人

どの学術分野においても研究は日進月歩で進んでいますが、それは歴史学においても当てはまります。

史料の解読の精度が向上したり、新しい資料が発見されることで歴史上の出来事の実態が解明されたり、我々がこれまで持っていた歴史上の人物のイメージが史実とは異なることが明らかにされることも多くなっています。

そして、それは日本史上最高の人気を誇る織田信長においても例外ではないようです。
むしろ、人気があり、多くの創作がなされているからこそ、研究が進むと実際の人物像との乖離が見えてくると言った方が正しいかもしれません。

史学においても講学においても、信長は多くの人間から裏切られ、裏切りによってその生涯を閉じたことが知られています。
その「裏切られた」という事実に注目して、史料を用いて信長の実際の人物像に迫る書籍「織田信長 不器用すぎた天下人」を読んでみました。

本書で紹介される、信長を裏切った人物は7人。
浅井長政、武田信玄、上杉謙信、毛利輝元、荒木村重、松永久秀、そして明智光秀。
前の4人は同盟者、後の3人は家臣ですが、裏切ったという点については共通しています。
そして同盟者との関係が外交問題、家臣については人間関係や家中の統治という観点から検討がなされます。

【信長の外交】
本書によると、信長の外交というのは気を遣う割に稚拙なところがあり、織田家と相手、あるいは同盟者と別の同盟者との利害調整に無頓着な点が散見されます。
その結果、同盟者との関係が破綻してしまっていることが多いようです。
例えば、武田信玄との関係については下記のような変遷をたどっています。

もともと、織田家と武田家は良好な関係にあり、その関係は信長が武田家の同盟相手である今川義元を破った桶狭間の戦いより前から構築されていました。

桶狭間の戦い後、今川家の傘下にあった松平元康(徳川家康)は独立して信長と同盟を結んだことは有名ですが、この時点において信長は武田・徳川両家と同盟を結んだことになります。
そして、家康と信玄は共同で今川家を攻撃し、今川家は滅亡します。
しかし、この共同作戦中に武田家は徳川家の取り分にまで手を伸ばそうとし、逆に徳川家は一存で今川家と和睦しようとするなど、武田家と徳川家の間に摩擦が生じ、これが後の死闘の伏線になります。
この時点で信玄は信長に対し、家康に今川家との和睦をやめるよう働きかけるように依頼していますが、信長は特段の対応をしなかったようです。

その後、今川家と同盟していた北条家も武田家と交戦することになり、武田家は今川・北条・上杉(及び潜在的には徳川家も)に包囲されるという窮地に陥ることになります。

その後、信長のあっせんもあり、信玄と上杉謙信は和睦。家康とも起請文を交わし、小康状態になり、武田家の危機は去ります。

しかし、その後も武田・徳川の関係は改善されず、武田家は北条家と同盟し、徳川家は上杉家と同盟するなど、両者の緊張関係は高まっていきます。

その間も織田家と武田家の関係は良好だったため、信長も信玄に対し特段の警戒をしていなかったようですが、1572(元亀3)年10月3日、信玄は徳川家に対して出陣します。
皮肉にも信長はその2日後に信玄に対し、丁寧に近況報告を行っています(通信の発達していない時代であるため情報の伝達に時差があります)。

信玄は信玄で、「3年間の鬱憤を晴らしてやる」と鼻息荒く、信長は「信玄とは未来永劫絶交する」と憤懣やるかたない様子です。
ちなみに信玄の言う3年間とは、家康に自ら請うて起請文を交わし、また宿敵である上杉謙信とも心ならずも和睦をした1569(永禄12)年からの機関を指していると推測されています。

また、信長自身も武田家との国境に位置する、武田家に従属していた遠山家が後継者不在となった際に軍勢を派遣して息子の信房を後継者に据えるということをして武田家と摩擦を招いています(元亀3年)。

このように、信長は相手を信用して疑うことが少ない一方、相手がどのように考えているかということについてはあまり意識をしていないように見受けられます。

同盟関係を破ったのは信玄なので、信玄の裏切りということにはなるのでしょうが、信玄の方は「いい加減にしろ!」と思っていても仕方がなかったのかもしれません。

これは上杉家や毛利家に対しても同じで、かなり自分本位に動いていながら、相手との友好関係を信じて疑わず、むしろなぜそこまで無頓着でいられるのかが不思議です。

ちなみに信長は裏切った相手に対してはずっと恨み続けており、武田家に対しては信玄の死後、勝頼が和睦を図っても一切応じず滅ぼしていますし、それは上杉家に対しても同じでした。
毛利家とは羽柴秀吉が本能寺の変を受けて和睦を結んでいますが、信長が生きていれば毛利家も滅亡に追いやられた可能性は高いように思えます。

こうしてみると、信長の外交というのは稚拙なのか、と思えるのですが、ある意味自分はその果実を十分に得ているので、その意味ではむしろ上手かったのかもしれません。

【信長の家中統制】
一方、裏切った家臣である荒木・松永・明智とはどうだったのでしょうか。

彼らが信長を裏切った理由は諸説あり、必ずしも特定されていませんが、その理由を推測する事実が本書では提示されています。

例えば、松永久秀は大和(奈良県)を本拠としていましたが、信長は同じく大和に勢力を持つ筒井順慶を重用しています。
久秀は2回信長を裏切っていますが、2回とも順慶と中央権力との縁組(足利義昭・信長)が契機になっていると推測されています。

この点において、信長は各地のローカルな事情については無頓着であったのではないかと指摘されています。
もっとも、そういうことに無頓着であったからこそ本拠地を変えていくことができたという側面もあるかもしれませんので、この点については評価が難しいかもしれません。

また、荒木村重についても裏切りの理由は諸説ありますが、信長の家中統制の甘さが指摘されています。

元々彼は摂津の国衆である池田氏の家臣でしたが、信長に仕えた後は急速に頭角を現し、摂津の統治及び中国方面の司令官を任されることになりました。

しかし、その後中国方面の責任者は羽柴秀吉に変更され、これが村重離反の背景にあると考えられます。

また、村重は一般に戦上手と評価されていますが、著者はその評価に疑問を呈するとともに、上月城救援の際に秀吉と村重が有効な手立てを打てなかったことについて、織田家重臣の滝川一益と佐久間信盛が村重にのみ皮肉のきいた短歌を送っていたことが紹介されています。

このように、織田家中における村重の立場が苦しくなっていたことが離反の原因として挙げられるのではないかと指摘されています。

織田家は信長の強いリーダーシップのもと、厳しく統制されているというイメージがありますが、実際には必ずしもそうではなく、信長が村重を守ってやれなかったことがこのような結果を招いたのかもしれません。
なお、織田家の家中不和といえば、上杉謙信との手取川の戦いで、総大将の柴田勝家と従軍していた羽柴秀吉が口論し、秀吉が勝手に戦場離脱したという事例もあります。

注目されるのは、裏切った久秀や村重に対して、信長は即座に激怒するのではなく、事実関係を確認したうえで、一度は話を聞こうとします。
不足があるなら言えばいいし、望みはかなえてやるから、とまで言っています。

しかも村重に対しては直筆で書状まで出して説得しようと試みています(信長直筆の書状はほとんど残っておらず、直筆の書状はかなり珍しいとされています)。

このように、信長はただ苛烈なのではなく、かなり人の意見を聞こうとする人物だったと思われます。

では、明智光秀はどうでしょうか。
本能寺の変についても原因については諸説あり、いまだに特定はされていません。

著者も特定はしていないものの、最近注目を集めている「四国説」を取り上げています。
光秀は四国の長曾我部元親との外交を担当しており(取次)、その中で信長から「四国は切り取り次第」と保証されていたにもかかわらず、信長の方針転換により「長曾我部は土佐・阿波半国のみ」とされ、面目を失うとともに、長曾我部を裏切った信長の姿勢に疑問を持ったというものです。
元親も当初はこのような方針転換に反発しています。

2014年に、長曾我部元親が信長の意向を受け入れて恭順するとの意向を示した書状が発見されて話題になりましたが、書状の日付は本能寺の変の10日前。
本能寺の変の時点で織田家は四国遠征軍を派遣する直前でしたが、信長がこの書状を読んでいたとしたら、光秀や元親にとっては酷すぎる事態です。

戦国大名の「外交」』でも紹介されているとおり、取次は外交相手の利益の代弁者という役割も担っており、立場上、あるいは精神的に追いつめられた光秀は謀反せざるを得なかったという可能性は否定できません。

こうしてみてみると、信長が裏切りによって足元をすくわれ続けたのは、相手が一方的に裏切っているというよりも、信長が相手のことをあまり気にかけず、相手の不満が爆発したといった感じで、むしろ信長の方に問題があったようにも思えます。

他人のことに無頓着だったから成功したのか、他人のことに無頓着でも他の要素が優れていて成功したのかはわかりませんが、個人的には、ここまで他人の利害関係を考えずによく天下統一直前まで行けたものだと不思議に思います。

相手の立場になって考える」というのは仕事をするうえで基本的なこととして教わってきましたが、その常識すら覆して成功した信長は、やはり「常識破りの革命児」だったのでしょうか。

 

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重版未定

文章の面白さは書き出しによって大きく左右されるといいます。
それほどに文章の書き出しは難しいものと言えます。

まさにこの記事を書くときがそれで、どうした書き出しにしようか悩みました。

その結果がこの書き出しでいいのか・・・、という感じですが、文章を書くというのは結構難しいなと思わされます。

そして、その文章の最たるものの書籍を創るとなると、その難しさたるや想像を絶するものがあります。

書籍を創る難しさは多岐にわたり、企画の選定、書き手の選定、コンテンツ制作のスケジュール管理、印刷会社との交渉、さらには製本後の営業・販促等、挙げていけばきりがなさそうです。

出版業については、本が好きなことに加え、書籍の販売数の低下やKindleなど電子書籍の参入、ドラマ化などで関心を持っていましたが、たまたまそんな出版業の実態を知らしめてくれるマンガと出会いました。

その名も「重版未定」。非常に生々しいです。
重版が滅多にかからない弱小出版社の日常について描かれています。
表紙でも主人公が「そんなに刷ってどうするの?」、「本なんて売れるわけないだろ」なんてつぶやいてます(笑)

ストーリーは主人公の編集者がゲラに赤字を入れているところから始まります。
ゲラとは原稿を校正用にプリントアウトしたもので、原稿完成後の仕上げの作業はゲラの修正から始まります。
ゲラが出てきたところで作者や校正者の指摘を赤字で入れていき、それが最終的に印刷される版に反映されます。
この段階でも注意力が要求されるうえ、入稿データは決められた新刊発行の日に間に合うように印刷業者に送信しなければならないため時間との勝負になります。

面白いことに「間に合うかな」という主人公のつぶやきがキーワード扱いされていますが、本当に編集者の懸念は「間に合うかな」に集約されていて、センスいいなーと思ったりしました。
※ちなみに「間に合うかな」の説明は「多くの編集者が常に抱き、日々自問し続けているテーマ。ひとしきり問い掛けた後は、間に合うように仕事をする。不思議なことにだいたい間に合う。」でした(笑)。

またどのような書籍を出版するかという企画会議の様子も紹介されていますが、弱小出版社にとっては、とにかく出版して取次に納品して目の前の売り上げを確保することが大事、という考え方が描かれており、興味深かったです。
※一般的に出版社は取次に納品した段階で前金が支払われ、売り上げを計上できるのですが、返本を受け付けているため、返本された場合は売り上げが減ることになります。ただし岩波書店は売り切りという、返本を受け付けない販売体制になっているようです。

この点について、取次業者が「取次は金貸しじゃねえんだぞ!」とすごむシーンがありますが(ただしフィクションです)、実際貸金業法との関係でどう整理されているのかは興味があるところです。

重版が未定の書籍については、在庫管理にも独特の難しさがあります。
書店から注文が来た場合、普通であれば在庫が減ってありがたいと思うところですが、重版が未定だと在庫を増やすことができないため、在庫が僅少のときは万が一のことを考えて注文を受けないこともあるようです。
書店の通販ページやAmazonで「在庫切れ」となっている書籍をよく見かけますが、本当はちょっとだけ在庫があるのかもしれませんね。

このほかにも誤植対応や作家とのやり取り(いわゆる缶詰め)、販促のイベント企画など、出版社の仕事の実態が描かれていて、読んでいて編集者の苦労が伝わってきました。

自分も以前、冊子を編集する仕事をしていて、営業こそなかったものの作家と編集の業務を経験したので、編集者の方の苦労には共感するものがあります。

誤植は何度見直してもなくならないし、スケジュール管理は大変だし、印刷会社にも無理をお願いすることもあるし…etc。

でも、この本からは編集者の本や本が支える文化に対する愛情が伝わってきます。
もちろん仕事なので、目の前のスケジュールをこなしていくことに必死なのですが、それでも心の底には愛情がある。
編集者の皆さんはへとへとでしょうが、その愛情は素晴らしいと思います。

自分もできるだけ書籍を読んで(というか買って?)、編集者の皆さんの愛情の後押しをできたらいいなと思います。

これからもたくさん素晴らしい本を読みたいものです。

編集者の皆さん、楽しい本の出版よろしくお願いします!!

P.S.
ちなみに本書が重版になったかはわかりませんが、続編も出ていますので多分重版になったのだと思います。

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一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)

日本国内における最も有名な戦いといえば??
ほとんどの人が関ヶ原の戦いを挙げると思います。

慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原における戦いだけでも両軍合わせて10万を超え、さらに東北や中国・九州でも激しい闘いが行われました。
活躍した人物も徳川家康や福島正則に石田三成・島左近、地方においては黒田如水に加藤清正、直江兼続に最上義光と綺羅星のごとくです。

関ヶ原においては石田三成が東軍を包囲する見事な布陣を行い、一方東軍は小早川秀秋らを内通させるなど謀略を駆使し、勝利の算段をつけて戦いに臨みます。
そしていざ戦闘が始まると、武功に欠けると思われていた石田三成が奮戦し、その甲斐もあって西軍が優勢に戦いを進め、その状況を見て、優柔不断な小早川秀秋は寝返りを決断できずにいました。
そんな秀秋に寝返りを決断させるため、家康は秀秋隊に向かって銃撃を行い、秀秋はついに西軍を攻撃。
何度か小早川軍を押し返すなど奮戦した大谷吉継も連鎖的な寝返りに耐え切れず戦死。
そのまま西軍は崩壊し三成らは逃走。さらに島津義弘が敵中を突破する。
このように関ヶ原の戦いはドラマチックに描かれてきました。

さらに、関ヶ原の戦いのきっかけとなる徳川家康の上杉景勝・直江兼続への挑発と直江状による挑戦、上田城における真田昌幸・信繁(幸村)親子の活躍、大津城・安濃津城における京極高次や富田信高の奮戦など、関ヶ原に至るまでにもドラマは多いです。

しかし、関ヶ原の戦いは規模が大きく、またドラマ性にも優れているため、多くの軍記物や小説によって取り上げられ、我々の持っているイメージがかなり創作に基づくものが多いと思われます。

では、実際の関ケ原の戦いはどのようなものであったのか。
それを探るには、当時の文書や手紙などの一次史料が重要な手掛かりになります。
そのような発想から、先入観を排除し一次史料から関ヶ原の戦いを描いていく本を読んでみました(高橋陽介著「一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)」)。

一次史料から推測される関ヶ原の戦いの様相は、我々のイメージあるいは通説と異なる点が多々あることが指摘されていますが、そのうち印象に残ったものをいくつかご紹介します。

・石田三成は西軍のリーダーではなかった
一般的には西軍の首謀者は石田三成で、彼が毛利輝元・宇喜多秀家を担ぎ上げて関ヶ原の戦いに至ったといわれています。
しかし、当時の書状では、石田三成を西軍の中心として認識しておらず、むしろ毛利輝元や大谷吉継、あるいは三成を含めた「奉行衆」が中心になっていたとみられていたようです。
そして、吉継が三成に西軍参加を促したことにより、三成も西軍として戦うことになったようです。
つまり、三成は大きく見積もっても「首謀者の一人」に過ぎなかったようです(秀吉死後は家康と三成はむしろ良好な関係にあったようです)。
したがって、豊臣家のために一人敢然として立ちあがった忠臣というのも、もしかしたら言いすぎなのかもしれません。

・総大将の毛利輝元は関ヶ原の戦い以前に東軍と和睦していた
前述のとおり、西軍の総大将は五大老の一人、毛利輝元でした。
通説では、毛利輝元は大坂城にいて、一族である毛利秀元・吉川広家が関ヶ原で毛利軍の指揮をとりましたが、広家はすでに東軍に内通していたので毛利軍を一切戦わせず、秀元も動けなかった、とされています。

しかしながら、一次史料によると、関ヶ原の戦いの直前の9月14日には吉川広家が家康と輝元の和睦を取りまとめており、関ヶ原の戦いの時点では毛利家は東軍になっていました。
つまり、総大将が寝返っていたことになります。

西軍の諸将からしたらたまったものではありませんが、応仁の乱にもみられるように、実は総大将が寝返ってしまうというのは案外よくあることだったのかもしれません。

・小早川秀秋は関ヶ原の戦いが始まった時点で東軍だった
関ヶ原の戦いの行方を決したのは、松尾山に布陣した小早川秀秋が戦いの最中東軍に寝返って西軍を攻撃したことであるというのが一般的な認識です。

しかし、実際には小早川秀秋は、すでに松尾山に布陣していた伊藤盛正を攻撃して松尾山を占拠しています。
当然これは西軍に対する敵対行為で、それ以前にも不審な点が多かったことから西軍は彼を敵とみなし、松尾山を攻撃しています。

その際に援軍として駆け付けたのが徳川家康率いる東軍で、その結果発生したのが関ヶ原の戦いというのが一次史料から推測される実態のようです。
もちろん、家康が秀秋の陣地に銃撃させたというのも実際にはなかったようです(そもそも、家康は戦場にいなかったようです)。

・石田三成は武将としても優秀であった
石田三成の一般的なイメージとしては、本人は文官で武芸・武略には長けておらず、島左近をはじめとする優秀な家臣団が石田軍を支えたというものだと思われます。
また、関ヶ原の戦いの前哨戦では島津義弘が夜襲を献策してもそれを拒否したというのもそのようなイメージにつながっているようです。

しかし、実際には関ヶ原の戦いにおいて三成はその優れた戦略眼で多くの献策を行っています。
小早川秀秋の動向に最も神経をとがらせていたのも三成だったようです。

関ヶ原以前にも、三成は朝鮮に軍監として渡航し対応策を講じたり、賤ケ岳の戦いにおいても武功を立てるなど、武将としての働きがなかったわけではありません。
失敗例として忍城の戦いの水攻めがありますが、それも三成は反対しており、秀吉の強い命令で実行せざるを得なかったようです。
このように、関ヶ原を含む各局面で重要な役割を担っていることを勘案すると、三成は武将としても秀吉や諸将から評価されていたと考えられます。

以上、本書で紹介されていた通説と一次史料から推測される実態との相違点について紹介してみました。

もしかしたら今後の研究で新たな実態が判明するのかもしれませんが、我々のイメージとはずいぶん異なる関ヶ原の戦いの姿を見るのは非常に興味深かったです。

小説などの影響もあって非常にドラマチックな戦いというイメージがありますが、事実は小説より奇なりという言葉のとおり、実際の関ケ原の戦いも多少味気ないところもありますが、通説とは異なった面白さがありました。

大河ドラマは最新の研究成果を世に広める絶好の機会という話を聞いたことがありますが、今後このような研究結果が大河ドラマなどに反映されて、新たな関ヶ原の戦いの姿が描かれるのが楽しみです。

 

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はじめての判例分析

法学を学ぶアプローチというのは何種類かありますが、その一つに判例分析というものがあります。

判例とは裁判における裁判所の判断、特に最高裁判所の判断を指しますが、具体的な事案において、誰と誰が、どのような点で争って、どのような法令が引き合いに出され、各裁判所はどのように判断したのか、ということを分析して、法令解釈やその背景、適用範囲などを考えていくのが判例分析です(非常にざっくりとした説明ですが)。

一般的な会社において一番法律と向き合う仕事といえば、おそらく法務とコンプライアンスでしょう。
私の理解では、そのうち法務は会社の契約を主な業務対象として、会社と取引先の具体的な法律関係について扱う業務であり、場合によっては訴訟関係も含まれるものです。
一方コンプライアンスは会社の各種の業務が法令の要件を満たしているかという観点での業務であり、個々の契約ではなく、業務のプロセスそのものの適法性を確保する業務と言えます。
(とはいえ、法務とコンプライアンスは全くの別物ではなく、法務にもコンプライアンス的な要素があったり、コンプライアンスの立場からも契約内容の確認をしたりすることがあります。実際に法務とコンプライアンスを同一の部署が担っているケースも少なくなありません。)

自分自身はずっと資産運用会社でコンプライアンス業務を担当していたため、業務に関連する法令についてはそれなりに理解していますが、実際の裁判における法令解釈の仕方、原告・被告の争点の出し方や裁判の手続きなどについてはほとんど意識することがありませんでした。

資産運用会社自体は訴訟の当事者になることは少ないので、これまで通りコンプライアンス業務をこなしていくだけなら敢えて判例に触れる必要はないのかもしれませんが、自分の研究を進めるにあたって役に立つ可能性があることに加え、せっかくお金を払って大学院に行くのであれば、これまで知らなかった世界を見てみるのも大事なことだと思って、判例分析を行うことにしました。

担当した事案は「西武鉄道株式会社による有価証券報告書の虚偽表示事件」。
2004(平成16)年10月に、西武鉄道株式会社は有価証券報告書において株主構成を虚偽表示しており、本当は東京証券取引所の上場基準に合致しないことを公表しました。
その結果、上場廃止の見通しとなったことによって株価が急落し、西武鉄道株に投資していた個人投資家・機関投資家は損失を被ったため、西武鉄道などに対し損害賠償を求めたという事件です。

本件は東京地裁から東京高裁を経て最高裁まで争われた事案ですので、各裁判所における議論と判例を確認していきます。
具体的には、各裁判所の判例について、判例タイムズや判例時報といった判例を収録した雑誌で判例の内容を読み込んでいきます。
今回の事案は個人投資家と機関投資家で別の裁判でしたので、3×2=6回分の判例を読み込むことになりました。
もっとも最高裁だけはまとめて判例が出ていたので5回分というのが正しいですが、それにしても結構な量でした。

本件については、争点は下記の通り3つありました。
①有価証券報告書の虚偽表示は不法行為か?
②株主に損害は発生しているのか?
③損害が発生しているのであれば、それはどの程度か?

不法行為については、民法709条に「故意又は過失によって他人の権利または法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と定められています。
つまり、この事案は証券取引法(現在の金融商品取引法)に定められる有価証券報告書の虚偽記載をテーマとしながら、民法上の損害賠償について争っていることになります。

論点を整理するためには、まず原告と被告の主張を見てみるのですが、想像以上にお互いにハードルの高い主張をしていることに驚きました。
どちらの主張も「それは厚かましいんじゃないの?」と。

ただ、それは裁判上のテクニックでもあり、当然それは両者織り込み済みで、それぞれ次の矢を用意しています。
それらを予備的主張と呼び、最初に放った主張は主位的主張と呼ばれます。
ある意味主位的主張が最も厚かましく、予備的主張はそれに比べると妥協が入っているので現実的になっていきます。

原告は当然「有価証券報告書の虚偽記載は不法行為である」、「虚偽表示に伴う株価の下落で損害を被った」とし、損害額については「上場していない株式は無価値なので取得額全額が損害」(主位的主張)と主張します。

対する被告は、「株主構成は重要な事項ではないので不法行為に該当しない」、「株主は自己責任に基づき株式を取得したので損害賠償すべき損害は発生していない」(主位的主張)と主張しています。

ここから先は裁判所の判断に注目が移ります。

①の論点については、有価証券報告書の趣旨は、自己責任で投資をするために、投資家が正しい情報に基づき投資判断を行うことができるようにすることにありますが、正しい投資判断を行うには会計情報のみならず、株主構成や上場の有無も重要な要素であることから、地裁から最高裁にに至るまで不法行為と認定しています。

②についても、不法行為である以上損害賠償すべき損害が発生していると、やはり地裁から最高裁に至るまで一貫した見解となっています。

この事案における最大の争点は③の損失額でした。
今回は虚偽表示の公表に端を発した株価の下落が損失の原因となりましたが、損失額をどのようにとらえるのかは難しい問題です。

分かりやすい考え方としては、取得価額から売却額を引いた額といえます。つまり、投資によって生じた損失がそのまま損害額となるという考え方です。
では、投資による損失はすべて虚偽表示によるものかというと、そうとも言い切れません。
株価を形成する要因は複雑で、株価の下落の原因は虚偽表示によるものではなく、業績が悪化しているから、あるいは業界全体に悪い風が吹いていたからかもしれません。
つまり、虚偽表示による株価の下落がどの程度であったかを特定することが難しいのです。

また、損害額を考える上で重要な考え方に、相当因果関係説というものがあります。
不法行為と損失額の因果関係を考えるにあたって、相当の因果関係が認められれば、その行為が当該損失をもたらしたとみなす考え方です。
我が国における法学上の因果関係の考え方としては相当因果関係説が最も一般的とのことですが、今回の場合、虚偽表示がなければそもそも上場されていないため、個人投資家も機関投資家も西武鉄道額を購入していないと考えられるため、損害額の算定のベースは取得価額であると最高裁は断じています。

個人的には、取得時から虚偽表示公表時までは貸しのない上場銘柄として取引されていたので、損害額の算定のベースは取得額ではなく虚偽表示公表日の終値であると思い、その点については授業中にも議論をさせていただきました(ちなみに最高裁判決の補足意見でもそのように算出すべきとされていたので、頓珍漢な意見でもないと思います)。

ちなみに、損害額については正解がないので、こういう場合は民事訴訟法第248条に基づき、裁判所が損害額を認定することができます。
最後は決めの問題になるので、算定根拠の妥当性を議論し尽くした後は裁判所が決めてしまうということですね。
裁判の手続きを含め、手続法についてはこれまで触れることがなかったので、このような定めがあることも新鮮に感じました。

一回の授業で一つの事案を報告・議論するので不完全燃焼感が少々残りましたが、初めて判例を読み込んで、自分なりにいろんな角度から分析し、その過程で手続法にも触れることができるなど、実りの多い学習機会となりました。

やはり新しいことに触れてみるのは、世界が広がって楽しいものです。

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応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱

有名だから名前は知っているし、何なのかもなんとなく知っている。でも注目もされていないし、詳しくは知らない。
そういうものって、自分の好きな分野や仕事においても結構多いと思います。

その代表格が、戦国時代における「応仁の乱」ではないでしょうか。
私を含め、戦国時代が好きな方は多いと思いますが、その戦国時代の幕開けとなった戦乱である応仁の乱については、あまり熱く語られることもなければ、テレビ番組で取り上げられることも少ないように思います。
自分自身、応仁の乱について意識することはあまりなく、教科書程度の知識しかありませんでした。

そんな折、何がきっかけになったのかわからないのですが、中公新書の「応仁の乱」(呉座勇一著)が爆発的に売れているということで、気になったので読んでみました。

一般的に、応仁の乱は室町幕府八代将軍・足利義政の後継について、息子の義尚派と弟の義視派が争い、それぞれ有力大名の細川勝元山名持豊(宗全)が後ろ盾となって生じた戦乱であると認識されていると思います。
また、守護大名が京都に集結したことや慢性的に戦乱が続いたことにより、それぞれの領地で家臣団が力を持ち、下剋上の契機になったともいわれています。

それ自体は間違ってはいないのですが、本書で解説されている応仁の乱の背景は上記の説明以上に複雑です。
また、大きな役割を担う人物の数もかなり多く、それゆえに人間関係は複雑になるとともに、見どころも多く、応仁の乱の面白さ(?)を初めて知りました。

本書は、奈良にある興福寺経覚尋尊という二人の僧侶の視点から応仁の乱を追っています。
興福寺は藤原氏の氏寺として設立され、平安時代には南都北嶺と称された有力寺院で、実質的には大和国の守護の役割も果たしていたといわれています(大和には守護が設置されていませんでした)。
経覚・尋尊はそれぞれ興福寺のトップである別当を努めた人物で、二人とも詳細な日記を残していることで知られています(経覚の日記については一部焼失していますが)。
また、大和は応仁の乱の中心となった京都にも近く、興福寺もいろんな形で影響を受けています。
このような背景に加え、二人の性格の違い(経覚は好奇心旺盛で当事者のような視線で語るのに対し、尋尊は一歩引いたところから俯瞰している傾向があるようです)もあって、この二人を語り部として選んだのではないかと思います。

本書によると、応仁の乱の火種となったのは、管領家の一つ・畠山家の家督争いです。
なお、室町時代における管領は将軍の補佐役であり、幕府のナンバー2といえる存在で、一時期を除けば細川家・斯波家・畠山家が交代で就任していました。

関東で関東公方・足利持氏が幕府や関東管領・上杉憲実と対立した永享の乱の後に起きた結城合戦の際に、当主である畠山持国が出陣を拒んだことから将軍・足利義教の不興を買って失脚し、弟の持永に家督を譲らされます。
しかし、義教が嘉吉の乱で暗殺されると、持国は武力で家督を取り戻します。
その際、もう一人の弟である持冨は持国を支持していたため、実子がいなかった持国は持冨を養子としていました。

しかし、その後持国には実子が生まれます。後に応仁の乱を引き起こす畠山義就(よしひろ)です。
持冨にとっては残念なことですが、持国の実子なのだから、義就が後継者になるべき…とはいきませんでした。
義就の母は側室であったため嫡子とはされず、一部の家臣団は血筋のよい持冨の子・弥三郎を後継者に望むようになります。
持国は弥三郎擁立を企む家臣団を攻撃しますが、彼らは有力大名である細川勝元・山名宗全を頼ります。
その結果、畠山家対細川・山名家という構図になり、畠山家の勢力は大きく削がれることになりました。
この過程の中で、一時持国は隠居しましたが、事態処理の中で山名宗全が失脚し、持国方は勢いを取り戻し、弥三郎を京都から追い落とすこととなりました。
その後弥三郎は病死し、政長がその跡を継ぎます。

その後、義就は畠山家の家督を継ぐものの失脚し、政長が家督を継ぎ、管領になります。
しかし義就は引き下がらず、政長との係争が長く続くことになります。

一方、将軍家においても畠山家と似たような状況で、将軍・足利義政には実子がおらず、弟の義視を後継としていましたが、その後実子の義尚が誕生します。
では義尚を後継とするか、その前に中継ぎで義視を挟んで義尚を将軍とするか、ということになりそうですが、それは将軍の一存で決められるものではなかったようです。

当時幕府には①伊勢貞親ら将軍側近グループ②細川勝元グループ③山名宗全グループがおり、それぞれ異なった思惑を持っていました。
そして、斯波家の家督争いを契機に細川・山名は共闘して側近グループを潰しますが、将軍の後継について思惑が異なっているので、いずれは対立することが明白でした。

その時義就は伊勢貞親らと共闘するつもりで上洛しようとしていましたが、貞親らが失脚したため、大和近辺での勢力拡大を図りました。

そんな折、細川勝元と対立していた山名宗全は自陣営の増強を図るため、義就を引き入れようとしていました。
細川勝元は義就と対立する畠山政長を支持していましたので、義就は山名方につきました。
そして、義就は義政の許可を得ないまま、宗全の呼びかけに応じて上洛します。

義政は細川・山名には政長・義就を支援させず、当事者間の争いで勝った方を支持するとしており、細川方は将軍の指示に従ったものの、山名方は義就を支援したため、政長は敗走(御霊合戦)。
応仁の乱は文正2年(1467年)の、この戦いから始まったといわれます。つまり、畠山家の家督争いが直接のきっかけになったといえそうです。
細川勝元は武家の棟梁としても雪辱を果たす必要があり、各地で細川方に山名方を攻撃させます。

そして、細川方・山名方は京都に集結。細川方は京都の東側に布陣したため東軍、山名方が西側であったことから西軍と呼ばれます。
京都の西陣織の名前が、西軍が布陣した場所に由来していることは有名です。

東軍は義政を味方につけ、義政は義視を東軍の総大将とします。
しかしながら、その後義視は失脚し、なんと西軍の総大将になります。
西軍は義視を将軍に擬し、幕府と同様の統治機構を整備したようです(西幕府)。

和睦を模索していた義政の試みもうまくいかず、その後細川勝元・山名宗全の両巨頭が死去した後も、義就・政長らは戦いを続けることになり、戦乱は11年の長きにわたることになりました。

ちなみに、肝心の細川・山名は戦争開始数年後には事態を終結させたいと思っており、勝元・宗全は当主の座を降りています。
二人の死後、文明6年(1474年)に細川家・山名家は単独で講和し、西軍の総大将であった山名家が東軍に移ります。

最終的には山名家の後の西軍の主力であった大内政弘が文明9年(1477年に)東軍に降伏(実質的には和睦)して帰国するという形で戦乱は終結しました。

しかし、その後も畠山義就・政長は抗争を続けますし、各地では守護代が守護大名を脅かしていたりして、本書のタイトルの通り、戦国時代の幕開けとなります。

政治的背景や人間関係が複雑すぎて、応仁の乱を正確に把握するのは難しそうですが、足利義政や細川勝元・山名宗全といったしかるべき役割を担っている人物が、きちんとリーダーシップを発揮して和睦交渉を行っていれば、戦乱もこれほど長引かなかったのではなかったか、と思いました。
リーダーシップの欠如による組織・事態の迷走は今でもみられることであり、そういう意味ではいい教訓とも言えるでしょうか。

戦国時代以降、応仁の乱の中心であった足利家・山名家・細川家・畠山家・大内家がいずれも零落していることは、象徴的な後遺症であったといえるかもしれません(熊本の大名の細川家は庶流)。

印象としてはグダグダ、ダラダラな応仁の乱ですが、当事者たちはいずれも必死に生きていたし、戦闘のあり方も変化があって、決して地味な戦乱ではなかったと思います。
総大将格の人間がそれぞれ相手陣営に移っているというのもなかなかドラマチック(?)

応仁の乱の当事者の人生や西幕府の存在、戦闘方法の変化などについてはこれまで知らなかったので、日本史を代表する事件の全体像を俯瞰するとともに、新たな一面を知ることができて、大変勉強になった一冊でした。

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