Fintechと法律

世の中にはいろんな業態の金融業がありますが、共通して言えるのは、「規制が厳しい」こと。
大きな規模のお金を動かしているため、経済に対するインパクトが大きいことから、健全な業務運営、財務体質を確保するために厳しい規制が課せられているといえます。

主なところでいえば、銀行には銀行法があり、証券には金融商品取引法、保険には保険業法があります。
私が所属する資産運用会社も、やはり金融商品取引法や投資信託法といた業規制に服しています。

しかし、Fintechの登場により、これまでの業規制では対応しきれない金融のあり方が生じています。
一方で、Fintechといえど、金融サービスを提供する以上、適切な業規制に服することが健全であると考えられます。

では、Fintechはどのような業規制に服するのか、服すべきなのか、同時にFintechビジネスを展開しようとする際にはどの規制に留意すべきなのか。
金融が規制業態である以上、このような観点は必要不可欠です。
特に私はコンプライアンスを生業としており、Fintechにも関心があるので、この点については一度整理しておきたいと考えていました。

そんな折、ちょうど学校で「Fintechと法律」について授業があったので出席しました。
しかも講師はFintechに詳しい弁護士の方。ワクワクします。

以下、学んだことを少しだけご紹介。

考え方にもよるのでしょうが、Fintechの影響を受けFintech対応された法令は3つ。
銀行法、資金決済法、そして金融商品取引法。

銀行法では、銀行は関連業務を除き、他社の株式を5%超保有することは認められていません。
資金力を誇る銀行が他社株を制限なく保有することができると、その支配力が過度に大きくなるためであると考えられます。
しかし、Fintech関連の会社であれば、例外として株式保有の制限が適用されません。
したがって、Fintech関連の会社には制限なく出資することができ、Fintechビジネスの発展にまい進することができます。
ちなみに保険業法では保険会社はやはり一部例外を除き、10%を超える他社の議決権を保有することはできない規定がありますが(第107条第1項)、この規定とFintechについては触れられませんでした。
今後保険業法はどのように変わっていくのかということにも注目したいところです。

資金決済法においては経済的価値の交換や決済のあり方が定められていますが、この中で「仮想通貨」の定義がなされました。
ブロックチェーン等Fintechで生まれた新たな価値の流通の体系が、法令にも組み込まれたと言えそうです。
もっとも、資金決済法の中では整理されたとはいえ、金商法や貸金業の中での整理はまた別だと思いますので、複雑な法体系の中にブロックチェーン等が組み込まれていくのはまだ先のことになるのでしょう。

金融商品取引法では、クラウドファンディングに対応して業規制が改正されています。
原則として、株式や債券の募集は第一種金融商品取引業者、組合持分などの募集は第二種金融商品取引業者が行うことができますが、それぞれ資本規制などが厳しく定められています。

しかし、クラウドファンディングで株式や組合持分などを募集して資金調達する場合、規模が大きくないため、第一種・第二種金融商品取引業者としての業規制をクリアするのが難しいという課題がありました。

そのため、クラウドファンディング業者限定で、第一種少額電子募集取扱業第二種少額電子募集取扱業というカテゴリーを新たに設定し、クラウドファンディングを行うことに限定して、業規制のハードルを低くし、クラウドファンディン業界の振興と規制の網をかけることを両立させています。

このように、いくつかの法令ではFintechに対応して法改正がなされています。
ただ、Fintechのビジネスも概ね既存の金融の延長線上にあることから、抑えておくべき法令も基本的には自分の行いたい業態に即したものであり、Fintechだから特別に押させておく必要がある法令というのは多くはなさそうな印象でした。

しかしながら、Fintechが今後どのような形で金融業を変えていくかは未知数であり、その形に即して法令を抑えられるように、コンプライアンス担当者としても、ビジネスの本質を理解する能力はこれまで以上に重要になってくるようにも思いました。

Fintechに関する法令を概観する機会はこれまであまりなかったので、貴重な授業でした。

ちなみに授業終了後、本校の卒業生で、オランダ留学時代に同じ大学で学んでいた方と遭遇しました。
卒業後も顔を出されていたようで、世間の狭さを再確認しました(笑)。

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流されるな、流れろ! ありのまま生きるための「荘子」の言葉

先日弱小出版社の日常を描いた「重版未定」を読んでいたら、コマの中に「流されるな、流れろ!」という標語が貼ってあり、気になったので調べてみました。

すると、なんと同じ著者がそのままのタイトル、「流されるな、流れろ! ありのまま生きるための「荘子」の言葉」という本を出していたので、こちらも読んでみました。
ちなみに、「重版未定」はコミックでしたが、こちらは半分イラスト、半分文章です。

荘子は中国の戦国時代の思想家で、「無為自然」を説きました。
俗世間を離れて生きる、というのではないですが、積極的に何かを行う、というよりは「あるがままに生きる」「なすがままに任せる」ことを重視しました。

本書ではそのような荘子の教えについて、著者なりの解釈を加え、重版未定のキャラクターに語らせています。

例えば…
A「毎日目まぐるしく変化していくなあ。ついていけないや……。ふうふう。」
B「いいよいいよ、のんびりしようよ。」(P116)
Aが俗人(読者)、Bが荘子の思考です。

荘子は、普通の人は心を疲弊させながら働くのに対し、聖人は愚鈍そのものであらゆるものに交じりながら染まることはなく、純粋なままである、と説きます。
解釈の仕方は人それぞれですが、毎日の変化を追いかけることに必死になるあまり、それに振り回されるのは心を疲弊させるだけ、と読めるかもしません。

他には、
A「もういいや。年収とか気にするの、疲れたし、飽きた。」
B「そうだ、捨てちゃえ。そんな価値観。」(P68)

これはそのままですね。
人の価値観・社会の価値観は相対的なもので、絶対的なものではありません。
お金はたくさんあった方がいいとは言うものの、お金の価値自体が相対的なものです。
お金に限らず、人や社会の価値観は相対的なもので、また移り変わります。
だから、そんなものに振り回されるのはやめた方が精神的な安寧につながりそうです。

さらに、頑張らないといけないと焦っている人にお勧めしたいのが、
A「ハア……がんばらなきゃって思うんだけど、どうしてもがんばれない……。」
B「いいよ、がんばらないで。がんばると心が折れるよ。」(P20)

このひらがなの使い方がうまいと思うのですが、それはさておき。
荘子曰く、「果実は熟せばむしられもがれ、大きな枝は折られ、小さな枝は間引かれる。これはその能力のせいでかえって苦しんでいるのと同じである」と。
優秀さをアピールしたり、頑張って成果を出せば楽になるのではなく、却って自分に負担を強いてしまうということです。

同様の趣旨のことは、他の話でも出てきます。
A「また「使えないヤツ!」って、こっぴどく怒られたよ……。この会社、つらいことばっかだなあ。・・・(以下略)」
B「よかったじゃん、無能で。のんびりできるよ。」(P64)

職場の中で優秀な人に業務が集中し、その人が疲弊してしまうということはよくあることですが、無能であれば無理を押し付けられないので、過剰に心をすり減らすことはありません。

頑張ることは大事かもしれませんが、それが自分の幸せにつながるとは限りません。
焦ると心が辛くなるし、仕事が増えると心身の健康がそがれます。
自分を守るためには、時には優秀でないこと、頑張らないことを大事にすることも必要なのかもしれません。
現状に悶々としたり、劣等感に苦しむことも少なくない自分にとっては、目から鱗が落ちる思いでした。
自分の職場にこのように考えている人がいると困ってしまいますが(笑)

このように、荘子は自分を取り巻く環境に対し積極的に働きかけるのではなく、現実を受け入れ、ありのままに生きる、なすがままに任せることの重要性を説いています。

もちろん、このような考えの人ばかりだと、社会は発展しませんし、我々は科学技術の恩恵を享受することはなかったでしょう。
我々の便益は間違いなく、「なすがままに任せる」ことを拒んだ人によって築かれています。

ただ、頑張ること、成果を出すこと、目まぐるしい変化についていくことを求められる社会で自分を守るためには、このような荘子の考え方も有益だと思います。
自分の心身を守ってこそ頑張れますし、頑張っても自分が壊れてしまっては報われません。
だからこそ、流されるのではなく、自ら流れることが大事なのではないでしょうか。
まさに、「流されるな、流れろ!」です。

世の中にはいろんなことでストレスをため、追いつめられている人がたくさんいます。
仕事や家庭のストレスで自殺してしまう人も少なくありません。

そのような人たちに無責任なことは言えませんが、少しでも多くの人が荘子のような考え方を取り入れ、自分の心の逃げ道を作り、気持ちを楽にすることができたら生きやすい社会になるのではないかと思います。

そして自分も、自分の器の大きさを見誤らず、自分を追い込みすぎないように生きたいものです。

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信託法(新井誠著)

最近は好きな歴史関係の本ばかり読んでいましたが、勉強の方を疎かにすると研究が計画通りに進められなくなるので、研究関係の書籍もぼちぼち読み始めました。

最初に取り掛かったのは信託法について概要を把握すること。
研究テーマである「投資信託委託会社(投資運用業者)の忠実義務」については、金融商品取引法や投資信託法(投資信託及び投資法人に関する法律)に定められているところですが、そこでは具体的な言及がなされていません。

また、投資信託という仕組みにおいては投信会社と信託銀行の間で信託契約が結ばれていることから、信託契約の当事者ではない受益者(投資家)と投信会社との法的な関係は必ずしも明らかではありません。

そのため、まずは信託という仕組みと信託法における忠実義務を参考にしてみようと考え、信託法について考えてみることにしました。

信託法については有名な学者が何人かいらっしゃいますが、私が最初に選んだのは、新井誠中央大学教授の「信託法」という書籍です。
信託制度の歴史や信託法の各論点がうまくまとまっていてわかりやすかったということに加え、以前に前の版を読んだことがあり、信託法といえば新井先生、というイメージがあったためです。

本書は信託制度の歴史の説明から始まります。
よく知られているように、信託は英国発祥で、十字軍に参加する騎士が自分の土地などを家族のために管理することを信頼できる友人等に託したことに始まるといわれています。
その後、それが課税の潜脱に使われたことからユース(信託)禁止法が制定されましたが、それに対抗する形で信託制度は変容していきました。
そして、その信託制度は米国にも伝わり、米国では商事信託として発展しました。

日本に信託制度が導入されたのは明治時代。
その後数々の混乱を経て、大正11年には信託法が制定されます。
昭和18年には現在の信託銀行という業態を生み出した兼営法が制定され、さらに平成16年には信託法が改正され、信託の成長に沿った法整備がなされることになりました。

ちなみに日本においても信託に近い仕組みが古来より用いられていたそうです。
最古の例は空海による綜芸種智院の創設(829年)にさかのぼり、織田信長も皇室に対する経済的支援のために信託制度(本書では信長信託と命名されています)を活用したそうです。

信託のルールを考えるにあたっては、まず信託とは何か、ということを考える必要があります。
長い歴史を持つ信託ですが、意外にもその性格については諸説あります。
通説としては「債権説」がありますが、それに挑戦する学説も多くあり、近年においても新しい学説が提起されているようです。
投資信託も信託の一形態ですが、どの学説がしっくりくるのか、というのは研究においても重要なポイントになるため、きちんと整理しておく必要がありそうです。

本書では信託の各種形態についても紹介されており、投資信託についても言及されていました。
その中で、「日本型の投資信託スキーム(とりわけ、委託者指図型)はきわめて複雑であり、信託法理の面からみても問題が少なくない」と指摘されていました(P100)。
この点は自分も感じていて、だからこそ研究テーマとして考えていたので、この一文に出会えただけでも本書を読んだ甲斐があったと思います。

また、委任や代理といった類似の契約形態との関係や、忠実義務・善管注意義務といった論点についても詳細に説明がされていて、自分の考えをまとめるのに大変役立ちました(忠実義務が任意規定化されているという指摘も大変重要なポイントでした)。

ちなみに研究では委任や信託などの制度を比較して投資信託委託会社の忠実義務を検討しようとしていましたが、道垣内弘人先生(道垣内説)によると「「義務の面においては、信託、委任、会社等の制度は連続性を有する一連の制度だとみるべき」であり、「それらの制度における各義務者は、本質的に同様の義務を負う」」と指摘されています(P54)。
自分の研究とも関係する重要な指摘なのですが、この説をどのように自分の研究に反映させるべきか、悩ましいところです。

まずは信託法について概要を見てましたが、次はどのような制度をターゲットにしようか検討中です。
大きい壁ですが、やはり民法は避けて通れなさそうなので、早めに民法の教科書を読んだ方がいいかもしれません。

また、海外の投資信託を取り巻くルールも研究に反映させていきたいと思っていますので、投信主要国の投資信託法制なども概要を把握しておきたいところです。

まだまだゴールは見えませんが、千里の道も一歩から。
まずは一歩踏み出すことができたのはよかったかなと思います。

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織田信長 不器用すぎた天下人

どの学術分野においても研究は日進月歩で進んでいますが、それは歴史学においても当てはまります。

史料の解読の精度が向上したり、新しい資料が発見されることで歴史上の出来事の実態が解明されたり、我々がこれまで持っていた歴史上の人物のイメージが史実とは異なることが明らかにされることも多くなっています。

そして、それは日本史上最高の人気を誇る織田信長においても例外ではないようです。
むしろ、人気があり、多くの創作がなされているからこそ、研究が進むと実際の人物像との乖離が見えてくると言った方が正しいかもしれません。

史学においても講学においても、信長は多くの人間から裏切られ、裏切りによってその生涯を閉じたことが知られています。
その「裏切られた」という事実に注目して、史料を用いて信長の実際の人物像に迫る書籍「織田信長 不器用すぎた天下人」を読んでみました。

本書で紹介される、信長を裏切った人物は7人。
浅井長政、武田信玄、上杉謙信、毛利輝元、荒木村重、松永久秀、そして明智光秀。
前の4人は同盟者、後の3人は家臣ですが、裏切ったという点については共通しています。
そして同盟者との関係が外交問題、家臣については人間関係や家中の統治という観点から検討がなされます。

【信長の外交】
本書によると、信長の外交というのは気を遣う割に稚拙なところがあり、織田家と相手、あるいは同盟者と別の同盟者との利害調整に無頓着な点が散見されます。
その結果、同盟者との関係が破綻してしまっていることが多いようです。
例えば、武田信玄との関係については下記のような変遷をたどっています。

もともと、織田家と武田家は良好な関係にあり、その関係は信長が武田家の同盟相手である今川義元を破った桶狭間の戦いより前から構築されていました。

桶狭間の戦い後、今川家の傘下にあった松平元康(徳川家康)は独立して信長と同盟を結んだことは有名ですが、この時点において信長は武田・徳川両家と同盟を結んだことになります。
そして、家康と信玄は共同で今川家を攻撃し、今川家は滅亡します。
しかし、この共同作戦中に武田家は徳川家の取り分にまで手を伸ばそうとし、逆に徳川家は一存で今川家と和睦しようとするなど、武田家と徳川家の間に摩擦が生じ、これが後の死闘の伏線になります。
この時点で信玄は信長に対し、家康に今川家との和睦をやめるよう働きかけるように依頼していますが、信長は特段の対応をしなかったようです。

その後、今川家と同盟していた北条家も武田家と交戦することになり、武田家は今川・北条・上杉(及び潜在的には徳川家も)に包囲されるという窮地に陥ることになります。

その後、信長のあっせんもあり、信玄と上杉謙信は和睦。家康とも起請文を交わし、小康状態になり、武田家の危機は去ります。

しかし、その後も武田・徳川の関係は改善されず、武田家は北条家と同盟し、徳川家は上杉家と同盟するなど、両者の緊張関係は高まっていきます。

その間も織田家と武田家の関係は良好だったため、信長も信玄に対し特段の警戒をしていなかったようですが、1572(元亀3)年10月3日、信玄は徳川家に対して出陣します。
皮肉にも信長はその2日後に信玄に対し、丁寧に近況報告を行っています(通信の発達していない時代であるため情報の伝達に時差があります)。

信玄は信玄で、「3年間の鬱憤を晴らしてやる」と鼻息荒く、信長は「信玄とは未来永劫絶交する」と憤懣やるかたない様子です。
ちなみに信玄の言う3年間とは、家康に自ら請うて起請文を交わし、また宿敵である上杉謙信とも心ならずも和睦をした1569(永禄12)年からの機関を指していると推測されています。

また、信長自身も武田家との国境に位置する、武田家に従属していた遠山家が後継者不在となった際に軍勢を派遣して息子の信房を後継者に据えるということをして武田家と摩擦を招いています(元亀3年)。

このように、信長は相手を信用して疑うことが少ない一方、相手がどのように考えているかということについてはあまり意識をしていないように見受けられます。

同盟関係を破ったのは信玄なので、信玄の裏切りということにはなるのでしょうが、信玄の方は「いい加減にしろ!」と思っていても仕方がなかったのかもしれません。

これは上杉家や毛利家に対しても同じで、かなり自分本位に動いていながら、相手との友好関係を信じて疑わず、むしろなぜそこまで無頓着でいられるのかが不思議です。

ちなみに信長は裏切った相手に対してはずっと恨み続けており、武田家に対しては信玄の死後、勝頼が和睦を図っても一切応じず滅ぼしていますし、それは上杉家に対しても同じでした。
毛利家とは羽柴秀吉が本能寺の変を受けて和睦を結んでいますが、信長が生きていれば毛利家も滅亡に追いやられた可能性は高いように思えます。

こうしてみると、信長の外交というのは稚拙なのか、と思えるのですが、ある意味自分はその果実を十分に得ているので、その意味ではむしろ上手かったのかもしれません。

【信長の家中統制】
一方、裏切った家臣である荒木・松永・明智とはどうだったのでしょうか。

彼らが信長を裏切った理由は諸説あり、必ずしも特定されていませんが、その理由を推測する事実が本書では提示されています。

例えば、松永久秀は大和(奈良県)を本拠としていましたが、信長は同じく大和に勢力を持つ筒井順慶を重用しています。
久秀は2回信長を裏切っていますが、2回とも順慶と中央権力との縁組(足利義昭・信長)が契機になっていると推測されています。

この点において、信長は各地のローカルな事情については無頓着であったのではないかと指摘されています。
もっとも、そういうことに無頓着であったからこそ本拠地を変えていくことができたという側面もあるかもしれませんので、この点については評価が難しいかもしれません。

また、荒木村重についても裏切りの理由は諸説ありますが、信長の家中統制の甘さが指摘されています。

元々彼は摂津の国衆である池田氏の家臣でしたが、信長に仕えた後は急速に頭角を現し、摂津の統治及び中国方面の司令官を任されることになりました。

しかし、その後中国方面の責任者は羽柴秀吉に変更され、これが村重離反の背景にあると考えられます。

また、村重は一般に戦上手と評価されていますが、著者はその評価に疑問を呈するとともに、上月城救援の際に秀吉と村重が有効な手立てを打てなかったことについて、織田家重臣の滝川一益と佐久間信盛が村重にのみ皮肉のきいた短歌を送っていたことが紹介されています。

このように、織田家中における村重の立場が苦しくなっていたことが離反の原因として挙げられるのではないかと指摘されています。

織田家は信長の強いリーダーシップのもと、厳しく統制されているというイメージがありますが、実際には必ずしもそうではなく、信長が村重を守ってやれなかったことがこのような結果を招いたのかもしれません。
なお、織田家の家中不和といえば、上杉謙信との手取川の戦いで、総大将の柴田勝家と従軍していた羽柴秀吉が口論し、秀吉が勝手に戦場離脱したという事例もあります。

注目されるのは、裏切った久秀や村重に対して、信長は即座に激怒するのではなく、事実関係を確認したうえで、一度は話を聞こうとします。
不足があるなら言えばいいし、望みはかなえてやるから、とまで言っています。

しかも村重に対しては直筆で書状まで出して説得しようと試みています(信長直筆の書状はほとんど残っておらず、直筆の書状はかなり珍しいとされています)。

このように、信長はただ苛烈なのではなく、かなり人の意見を聞こうとする人物だったと思われます。

では、明智光秀はどうでしょうか。
本能寺の変についても原因については諸説あり、いまだに特定はされていません。

著者も特定はしていないものの、最近注目を集めている「四国説」を取り上げています。
光秀は四国の長曾我部元親との外交を担当しており(取次)、その中で信長から「四国は切り取り次第」と保証されていたにもかかわらず、信長の方針転換により「長曾我部は土佐・阿波半国のみ」とされ、面目を失うとともに、長曾我部を裏切った信長の姿勢に疑問を持ったというものです。
元親も当初はこのような方針転換に反発しています。

2014年に、長曾我部元親が信長の意向を受け入れて恭順するとの意向を示した書状が発見されて話題になりましたが、書状の日付は本能寺の変の10日前。
本能寺の変の時点で織田家は四国遠征軍を派遣する直前でしたが、信長がこの書状を読んでいたとしたら、光秀や元親にとっては酷すぎる事態です。

戦国大名の「外交」』でも紹介されているとおり、取次は外交相手の利益の代弁者という役割も担っており、立場上、あるいは精神的に追いつめられた光秀は謀反せざるを得なかったという可能性は否定できません。

こうしてみてみると、信長が裏切りによって足元をすくわれ続けたのは、相手が一方的に裏切っているというよりも、信長が相手のことをあまり気にかけず、相手の不満が爆発したといった感じで、むしろ信長の方に問題があったようにも思えます。

他人のことに無頓着だったから成功したのか、他人のことに無頓着でも他の要素が優れていて成功したのかはわかりませんが、個人的には、ここまで他人の利害関係を考えずによく天下統一直前まで行けたものだと不思議に思います。

相手の立場になって考える」というのは仕事をするうえで基本的なこととして教わってきましたが、その常識すら覆して成功した信長は、やはり「常識破りの革命児」だったのでしょうか。

 

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重版未定

文章の面白さは書き出しによって大きく左右されるといいます。
それほどに文章の書き出しは難しいものと言えます。

まさにこの記事を書くときがそれで、どうした書き出しにしようか悩みました。

その結果がこの書き出しでいいのか・・・、という感じですが、文章を書くというのは結構難しいなと思わされます。

そして、その文章の最たるものの書籍を創るとなると、その難しさたるや想像を絶するものがあります。

書籍を創る難しさは多岐にわたり、企画の選定、書き手の選定、コンテンツ制作のスケジュール管理、印刷会社との交渉、さらには製本後の営業・販促等、挙げていけばきりがなさそうです。

出版業については、本が好きなことに加え、書籍の販売数の低下やKindleなど電子書籍の参入、ドラマ化などで関心を持っていましたが、たまたまそんな出版業の実態を知らしめてくれるマンガと出会いました。

その名も「重版未定」。非常に生々しいです。
重版が滅多にかからない弱小出版社の日常について描かれています。
表紙でも主人公が「そんなに刷ってどうするの?」、「本なんて売れるわけないだろ」なんてつぶやいてます(笑)

ストーリーは主人公の編集者がゲラに赤字を入れているところから始まります。
ゲラとは原稿を校正用にプリントアウトしたもので、原稿完成後の仕上げの作業はゲラの修正から始まります。
ゲラが出てきたところで作者や校正者の指摘を赤字で入れていき、それが最終的に印刷される版に反映されます。
この段階でも注意力が要求されるうえ、入稿データは決められた新刊発行の日に間に合うように印刷業者に送信しなければならないため時間との勝負になります。

面白いことに「間に合うかな」という主人公のつぶやきがキーワード扱いされていますが、本当に編集者の懸念は「間に合うかな」に集約されていて、センスいいなーと思ったりしました。
※ちなみに「間に合うかな」の説明は「多くの編集者が常に抱き、日々自問し続けているテーマ。ひとしきり問い掛けた後は、間に合うように仕事をする。不思議なことにだいたい間に合う。」でした(笑)。

またどのような書籍を出版するかという企画会議の様子も紹介されていますが、弱小出版社にとっては、とにかく出版して取次に納品して目の前の売り上げを確保することが大事、という考え方が描かれており、興味深かったです。
※一般的に出版社は取次に納品した段階で前金が支払われ、売り上げを計上できるのですが、返本を受け付けているため、返本された場合は売り上げが減ることになります。ただし岩波書店は売り切りという、返本を受け付けない販売体制になっているようです。

この点について、取次業者が「取次は金貸しじゃねえんだぞ!」とすごむシーンがありますが(ただしフィクションです)、実際貸金業法との関係でどう整理されているのかは興味があるところです。

重版が未定の書籍については、在庫管理にも独特の難しさがあります。
書店から注文が来た場合、普通であれば在庫が減ってありがたいと思うところですが、重版が未定だと在庫を増やすことができないため、在庫が僅少のときは万が一のことを考えて注文を受けないこともあるようです。
書店の通販ページやAmazonで「在庫切れ」となっている書籍をよく見かけますが、本当はちょっとだけ在庫があるのかもしれませんね。

このほかにも誤植対応や作家とのやり取り(いわゆる缶詰め)、販促のイベント企画など、出版社の仕事の実態が描かれていて、読んでいて編集者の苦労が伝わってきました。

自分も以前、冊子を編集する仕事をしていて、営業こそなかったものの作家と編集の業務を経験したので、編集者の方の苦労には共感するものがあります。

誤植は何度見直してもなくならないし、スケジュール管理は大変だし、印刷会社にも無理をお願いすることもあるし…etc。

でも、この本からは編集者の本や本が支える文化に対する愛情が伝わってきます。
もちろん仕事なので、目の前のスケジュールをこなしていくことに必死なのですが、それでも心の底には愛情がある。
編集者の皆さんはへとへとでしょうが、その愛情は素晴らしいと思います。

自分もできるだけ書籍を読んで(というか買って?)、編集者の皆さんの愛情の後押しをできたらいいなと思います。

これからもたくさん素晴らしい本を読みたいものです。

編集者の皆さん、楽しい本の出版よろしくお願いします!!

P.S.
ちなみに本書が重版になったかはわかりませんが、続編も出ていますので多分重版になったのだと思います。

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一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)

日本国内における最も有名な戦いといえば??
ほとんどの人が関ヶ原の戦いを挙げると思います。

慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原における戦いだけでも両軍合わせて10万を超え、さらに東北や中国・九州でも激しい闘いが行われました。
活躍した人物も徳川家康や福島正則に石田三成・島左近、地方においては黒田如水に加藤清正、直江兼続に最上義光と綺羅星のごとくです。

関ヶ原においては石田三成が東軍を包囲する見事な布陣を行い、一方東軍は小早川秀秋らを内通させるなど謀略を駆使し、勝利の算段をつけて戦いに臨みます。
そしていざ戦闘が始まると、武功に欠けると思われていた石田三成が奮戦し、その甲斐もあって西軍が優勢に戦いを進め、その状況を見て、優柔不断な小早川秀秋は寝返りを決断できずにいました。
そんな秀秋に寝返りを決断させるため、家康は秀秋隊に向かって銃撃を行い、秀秋はついに西軍を攻撃。
何度か小早川軍を押し返すなど奮戦した大谷吉継も連鎖的な寝返りに耐え切れず戦死。
そのまま西軍は崩壊し三成らは逃走。さらに島津義弘が敵中を突破する。
このように関ヶ原の戦いはドラマチックに描かれてきました。

さらに、関ヶ原の戦いのきっかけとなる徳川家康の上杉景勝・直江兼続への挑発と直江状による挑戦、上田城における真田昌幸・信繁(幸村)親子の活躍、大津城・安濃津城における京極高次や富田信高の奮戦など、関ヶ原に至るまでにもドラマは多いです。

しかし、関ヶ原の戦いは規模が大きく、またドラマ性にも優れているため、多くの軍記物や小説によって取り上げられ、我々の持っているイメージがかなり創作に基づくものが多いと思われます。

では、実際の関ケ原の戦いはどのようなものであったのか。
それを探るには、当時の文書や手紙などの一次史料が重要な手掛かりになります。
そのような発想から、先入観を排除し一次史料から関ヶ原の戦いを描いていく本を読んでみました(高橋陽介著「一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)」)。

一次史料から推測される関ヶ原の戦いの様相は、我々のイメージあるいは通説と異なる点が多々あることが指摘されていますが、そのうち印象に残ったものをいくつかご紹介します。

・石田三成は西軍のリーダーではなかった
一般的には西軍の首謀者は石田三成で、彼が毛利輝元・宇喜多秀家を担ぎ上げて関ヶ原の戦いに至ったといわれています。
しかし、当時の書状では、石田三成を西軍の中心として認識しておらず、むしろ毛利輝元や大谷吉継、あるいは三成を含めた「奉行衆」が中心になっていたとみられていたようです。
そして、吉継が三成に西軍参加を促したことにより、三成も西軍として戦うことになったようです。
つまり、三成は大きく見積もっても「首謀者の一人」に過ぎなかったようです(秀吉死後は家康と三成はむしろ良好な関係にあったようです)。
したがって、豊臣家のために一人敢然として立ちあがった忠臣というのも、もしかしたら言いすぎなのかもしれません。

・総大将の毛利輝元は関ヶ原の戦い以前に東軍と和睦していた
前述のとおり、西軍の総大将は五大老の一人、毛利輝元でした。
通説では、毛利輝元は大坂城にいて、一族である毛利秀元・吉川広家が関ヶ原で毛利軍の指揮をとりましたが、広家はすでに東軍に内通していたので毛利軍を一切戦わせず、秀元も動けなかった、とされています。

しかしながら、一次史料によると、関ヶ原の戦いの直前の9月14日には吉川広家が家康と輝元の和睦を取りまとめており、関ヶ原の戦いの時点では毛利家は東軍になっていました。
つまり、総大将が寝返っていたことになります。

西軍の諸将からしたらたまったものではありませんが、応仁の乱にもみられるように、実は総大将が寝返ってしまうというのは案外よくあることだったのかもしれません。

・小早川秀秋は関ヶ原の戦いが始まった時点で東軍だった
関ヶ原の戦いの行方を決したのは、松尾山に布陣した小早川秀秋が戦いの最中東軍に寝返って西軍を攻撃したことであるというのが一般的な認識です。

しかし、実際には小早川秀秋は、すでに松尾山に布陣していた伊藤盛正を攻撃して松尾山を占拠しています。
当然これは西軍に対する敵対行為で、それ以前にも不審な点が多かったことから西軍は彼を敵とみなし、松尾山を攻撃しています。

その際に援軍として駆け付けたのが徳川家康率いる東軍で、その結果発生したのが関ヶ原の戦いというのが一次史料から推測される実態のようです。
もちろん、家康が秀秋の陣地に銃撃させたというのも実際にはなかったようです(そもそも、家康は戦場にいなかったようです)。

・石田三成は武将としても優秀であった
石田三成の一般的なイメージとしては、本人は文官で武芸・武略には長けておらず、島左近をはじめとする優秀な家臣団が石田軍を支えたというものだと思われます。
また、関ヶ原の戦いの前哨戦では島津義弘が夜襲を献策してもそれを拒否したというのもそのようなイメージにつながっているようです。

しかし、実際には関ヶ原の戦いにおいて三成はその優れた戦略眼で多くの献策を行っています。
小早川秀秋の動向に最も神経をとがらせていたのも三成だったようです。

関ヶ原以前にも、三成は朝鮮に軍監として渡航し対応策を講じたり、賤ケ岳の戦いにおいても武功を立てるなど、武将としての働きがなかったわけではありません。
失敗例として忍城の戦いの水攻めがありますが、それも三成は反対しており、秀吉の強い命令で実行せざるを得なかったようです。
このように、関ヶ原を含む各局面で重要な役割を担っていることを勘案すると、三成は武将としても秀吉や諸将から評価されていたと考えられます。

以上、本書で紹介されていた通説と一次史料から推測される実態との相違点について紹介してみました。

もしかしたら今後の研究で新たな実態が判明するのかもしれませんが、我々のイメージとはずいぶん異なる関ヶ原の戦いの姿を見るのは非常に興味深かったです。

小説などの影響もあって非常にドラマチックな戦いというイメージがありますが、事実は小説より奇なりという言葉のとおり、実際の関ケ原の戦いも多少味気ないところもありますが、通説とは異なった面白さがありました。

大河ドラマは最新の研究成果を世に広める絶好の機会という話を聞いたことがありますが、今後このような研究結果が大河ドラマなどに反映されて、新たな関ヶ原の戦いの姿が描かれるのが楽しみです。

 

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