織田信長 不器用すぎた天下人

どの学術分野においても研究は日進月歩で進んでいますが、それは歴史学においても当てはまります。

史料の解読の精度が向上したり、新しい資料が発見されることで歴史上の出来事の実態が解明されたり、我々がこれまで持っていた歴史上の人物のイメージが史実とは異なることが明らかにされることも多くなっています。

そして、それは日本史上最高の人気を誇る織田信長においても例外ではないようです。
むしろ、人気があり、多くの創作がなされているからこそ、研究が進むと実際の人物像との乖離が見えてくると言った方が正しいかもしれません。

史学においても講学においても、信長は多くの人間から裏切られ、裏切りによってその生涯を閉じたことが知られています。
その「裏切られた」という事実に注目して、史料を用いて信長の実際の人物像に迫る書籍「織田信長 不器用すぎた天下人」を読んでみました。

本書で紹介される、信長を裏切った人物は7人。
浅井長政、武田信玄、上杉謙信、毛利輝元、荒木村重、松永久秀、そして明智光秀。
前の4人は同盟者、後の3人は家臣ですが、裏切ったという点については共通しています。
そして同盟者との関係が外交問題、家臣については人間関係や家中の統治という観点から検討がなされます。

【信長の外交】
本書によると、信長の外交というのは気を遣う割に稚拙なところがあり、織田家と相手、あるいは同盟者と別の同盟者との利害調整に無頓着な点が散見されます。
その結果、同盟者との関係が破綻してしまっていることが多いようです。
例えば、武田信玄との関係については下記のような変遷をたどっています。

もともと、織田家と武田家は良好な関係にあり、その関係は信長が武田家の同盟相手である今川義元を破った桶狭間の戦いより前から構築されていました。

桶狭間の戦い後、今川家の傘下にあった松平元康(徳川家康)は独立して信長と同盟を結んだことは有名ですが、この時点において信長は武田・徳川両家と同盟を結んだことになります。
そして、家康と信玄は共同で今川家を攻撃し、今川家は滅亡します。
しかし、この共同作戦中に武田家は徳川家の取り分にまで手を伸ばそうとし、逆に徳川家は一存で今川家と和睦しようとするなど、武田家と徳川家の間に摩擦が生じ、これが後の死闘の伏線になります。
この時点で信玄は信長に対し、家康に今川家との和睦をやめるよう働きかけるように依頼していますが、信長は特段の対応をしなかったようです。

その後、今川家と同盟していた北条家も武田家と交戦することになり、武田家は今川・北条・上杉(及び潜在的には徳川家も)に包囲されるという窮地に陥ることになります。

その後、信長のあっせんもあり、信玄と上杉謙信は和睦。家康とも起請文を交わし、小康状態になり、武田家の危機は去ります。

しかし、その後も武田・徳川の関係は改善されず、武田家は北条家と同盟し、徳川家は上杉家と同盟するなど、両者の緊張関係は高まっていきます。

その間も織田家と武田家の関係は良好だったため、信長も信玄に対し特段の警戒をしていなかったようですが、1572(元亀3)年10月3日、信玄は徳川家に対して出陣します。
皮肉にも信長はその2日後に信玄に対し、丁寧に近況報告を行っています(通信の発達していない時代であるため情報の伝達に時差があります)。

信玄は信玄で、「3年間の鬱憤を晴らしてやる」と鼻息荒く、信長は「信玄とは未来永劫絶交する」と憤懣やるかたない様子です。
ちなみに信玄の言う3年間とは、家康に自ら請うて起請文を交わし、また宿敵である上杉謙信とも心ならずも和睦をした1569(永禄12)年からの機関を指していると推測されています。

また、信長自身も武田家との国境に位置する、武田家に従属していた遠山家が後継者不在となった際に軍勢を派遣して息子の信房を後継者に据えるということをして武田家と摩擦を招いています(元亀3年)。

このように、信長は相手を信用して疑うことが少ない一方、相手がどのように考えているかということについてはあまり意識をしていないように見受けられます。

同盟関係を破ったのは信玄なので、信玄の裏切りということにはなるのでしょうが、信玄の方は「いい加減にしろ!」と思っていても仕方がなかったのかもしれません。

これは上杉家や毛利家に対しても同じで、かなり自分本位に動いていながら、相手との友好関係を信じて疑わず、むしろなぜそこまで無頓着でいられるのかが不思議です。

ちなみに信長は裏切った相手に対してはずっと恨み続けており、武田家に対しては信玄の死後、勝頼が和睦を図っても一切応じず滅ぼしていますし、それは上杉家に対しても同じでした。
毛利家とは羽柴秀吉が本能寺の変を受けて和睦を結んでいますが、信長が生きていれば毛利家も滅亡に追いやられた可能性は高いように思えます。

こうしてみると、信長の外交というのは稚拙なのか、と思えるのですが、ある意味自分はその果実を十分に得ているので、その意味ではむしろ上手かったのかもしれません。

【信長の家中統制】
一方、裏切った家臣である荒木・松永・明智とはどうだったのでしょうか。

彼らが信長を裏切った理由は諸説あり、必ずしも特定されていませんが、その理由を推測する事実が本書では提示されています。

例えば、松永久秀は大和(奈良県)を本拠としていましたが、信長は同じく大和に勢力を持つ筒井順慶を重用しています。
久秀は2回信長を裏切っていますが、2回とも順慶と中央権力との縁組(足利義昭・信長)が契機になっていると推測されています。

この点において、信長は各地のローカルな事情については無頓着であったのではないかと指摘されています。
もっとも、そういうことに無頓着であったからこそ本拠地を変えていくことができたという側面もあるかもしれませんので、この点については評価が難しいかもしれません。

また、荒木村重についても裏切りの理由は諸説ありますが、信長の家中統制の甘さが指摘されています。

元々彼は摂津の国衆である池田氏の家臣でしたが、信長に仕えた後は急速に頭角を現し、摂津の統治及び中国方面の司令官を任されることになりました。

しかし、その後中国方面の責任者は羽柴秀吉に変更され、これが村重離反の背景にあると考えられます。

また、村重は一般に戦上手と評価されていますが、著者はその評価に疑問を呈するとともに、上月城救援の際に秀吉と村重が有効な手立てを打てなかったことについて、織田家重臣の滝川一益と佐久間信盛が村重にのみ皮肉のきいた短歌を送っていたことが紹介されています。

このように、織田家中における村重の立場が苦しくなっていたことが離反の原因として挙げられるのではないかと指摘されています。

織田家は信長の強いリーダーシップのもと、厳しく統制されているというイメージがありますが、実際には必ずしもそうではなく、信長が村重を守ってやれなかったことがこのような結果を招いたのかもしれません。
なお、織田家の家中不和といえば、上杉謙信との手取川の戦いで、総大将の柴田勝家と従軍していた羽柴秀吉が口論し、秀吉が勝手に戦場離脱したという事例もあります。

注目されるのは、裏切った久秀や村重に対して、信長は即座に激怒するのではなく、事実関係を確認したうえで、一度は話を聞こうとします。
不足があるなら言えばいいし、望みはかなえてやるから、とまで言っています。

しかも村重に対しては直筆で書状まで出して説得しようと試みています(信長直筆の書状はほとんど残っておらず、直筆の書状はかなり珍しいとされています)。

このように、信長はただ苛烈なのではなく、かなり人の意見を聞こうとする人物だったと思われます。

では、明智光秀はどうでしょうか。
本能寺の変についても原因については諸説あり、いまだに特定はされていません。

著者も特定はしていないものの、最近注目を集めている「四国説」を取り上げています。
光秀は四国の長曾我部元親との外交を担当しており(取次)、その中で信長から「四国は切り取り次第」と保証されていたにもかかわらず、信長の方針転換により「長曾我部は土佐・阿波半国のみ」とされ、面目を失うとともに、長曾我部を裏切った信長の姿勢に疑問を持ったというものです。
元親も当初はこのような方針転換に反発しています。

2014年に、長曾我部元親が信長の意向を受け入れて恭順するとの意向を示した書状が発見されて話題になりましたが、書状の日付は本能寺の変の10日前。
本能寺の変の時点で織田家は四国遠征軍を派遣する直前でしたが、信長がこの書状を読んでいたとしたら、光秀や元親にとっては酷すぎる事態です。

戦国大名の「外交」』でも紹介されているとおり、取次は外交相手の利益の代弁者という役割も担っており、立場上、あるいは精神的に追いつめられた光秀は謀反せざるを得なかったという可能性は否定できません。

こうしてみてみると、信長が裏切りによって足元をすくわれ続けたのは、相手が一方的に裏切っているというよりも、信長が相手のことをあまり気にかけず、相手の不満が爆発したといった感じで、むしろ信長の方に問題があったようにも思えます。

他人のことに無頓着だったから成功したのか、他人のことに無頓着でも他の要素が優れていて成功したのかはわかりませんが、個人的には、ここまで他人の利害関係を考えずによく天下統一直前まで行けたものだと不思議に思います。

相手の立場になって考える」というのは仕事をするうえで基本的なこととして教わってきましたが、その常識すら覆して成功した信長は、やはり「常識破りの革命児」だったのでしょうか。

 

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