織田信長

戦国日本を近代化しようとした稀代の革命児

織田信長は、1534年に、尾張(愛知県西部)の戦国大名、織田信秀の息子として生まれた。但し、長男ではなかった(長兄は信広)。しかし、正妻の子であるため、嫡子として扱われていた。
織田信秀に関しては、信長の裏に隠れてあまり語られないが、分裂していた尾張を次第に統一し、美濃(岐阜県)の斎藤道三や、駿河(静岡県)の今川義元と戦い、朝廷や熱田神宮に金を献上し、政治的に利用するなど、信長のしてきたことをまさに先駆けて行っている。つまり、信長は信秀を見習っていた、ということだ。

信長は、父には可愛がられていたが、母には可愛がられなかった。そもそも、彼は生まれた時から他の人と違っていた。
当時は、大名などの子供には、実の母ではなく、代理の母(乳母)が母乳を与える慣わしだったのだが、彼は、なかなか乳母になじまず、乳を噛み切ってばかりいた。癇の強い子供だったのだ。こんな調子なので、母親はなかなか可愛がることができない。しかも、弟の信行は大変おとなしく、礼儀正しい。母は信行を信長の分まで可愛がった。信長とて人間。母親の愛情がいらないわけはないのだが、結局母の愛情をもらわないまま育っていった。
その分、信秀は信長を大変可愛がっていた。後見人に、筆頭老臣の平手政秀をつけるなど、その期待を一身に背負っていた。

幼い頃の信長にこのようなエピソードが残っている。
ある時、信長が小さい蛇をつかんでいた。信長は近くにいた家臣に「このような蛇をつかんでいることは勇気のあることかな?」家臣は答える「いや、小さい蛇をつかんでも勇気のある行為とは言えません」。信長は言い返す「小さい蛇でもこの蛇は毒があるんだ。この信長にも毒があるぞ!」。なめるな!ということだろう。幼い頃から強気だった。

信長の少年時代は、よく言われるように、変わった子供だった。だらしない格好で、不良たちを連れてぶらぶらして、人々からは嫌われていた。その一方で、目を民衆のところまで下ろしていたということで、好感をもたれてもいた。また、国内の地理を調べて回るなど、鋭いところも見せている。また、このようにたわけ(馬鹿)なふりをしていたのは、周囲の大名たちを油断させるためであったとも言われる。

信長の正妻は斎藤道三の娘、濃姫。斎藤道三に勝てないと思った信秀が、道三と同盟するために迎えた政略結婚である。濃姫に関しては、信長とともに亡くなったとも、信長死後も長い間生きたとも言われる。
これで奇行はなくなった、というわけでもないのだが。(一般的なイメージのように仲がよかったのであれば)濃姫も苦労したことだろう。

しかし、信秀あっての信長だ。信秀が亡くなると、本当は奇行をやめなければならない。しかし、信長はやめなかった。信秀の葬式では喪主なのになかなかやってこず、来たと思えばだらしない格好で、おまけに、焼香を投げつける。これで、家臣たちは信長を信用せず、そっぽを向いてしまった。

ここから、信長の長い戦いが始まる。信長は天下統一という野望を若い頃から持っていたが、まず、尾張から統一しなければならない。彼には、信秀のライバルと、さらに、彼に敵対する信秀の家臣だった者たちという敵がいた。さらに、頼りにしていた平手政秀が、信長の奇行を諌めるために自害してしまう(信長は彼を弔うために、政秀寺という寺を建立している)。

この頃、信長は斎藤道三に顔を見せに行った。道三はあらかじめ、途中でこっそり信長を見ていた。だらしない格好でいかにもたわけだが、兵は良く鍛えられ、めずらしい鉄砲も数多くあり、道三は油断のならない男、という印象を受けた。
さらに、会談するときには正装でビシッときめ、道三をうならせた。これで道三は信長にほれ込み、自分の死後、美濃を信長に譲るとさえ言っている。加えて、「自分の死後、息子たちは彼の家臣になってしまうだろう」と。
このことを、平手政秀が聞いたら、涙を流して喜んだだろうか。

信長は、弟の信行のもとに反対派を集結させ、一気に反対派を粛清した。もちろん、信行も。但し、有能な柴田勝家林通勝など、有能な者は抱えるなど、柔軟なところを見せている。
それ以前に兄の信広も謀反を起こしているが、鎮圧している(信広は除名され、以後は織田家に尽くす)。
さらに、ライバルたちを次々と蹴散らし、何とか尾張統一を終える。

しかし、1560年、終わり統一を成し遂げた矢先、外から大敵がやってきた。当時最強を謳われた、駿河・遠江(静岡県)・三河(愛知県東部)の大名、今川義元だ。彼は3万もの軍勢を尾張に向ける。もともと尾張は国力は大きいのだが、内乱のため、国力が落ちており信長の元には3000程度の兵しかいなかった。圧倒的に信長の不利。
家臣たちは篭城を勧めたが、信長には同盟国はなく(斎藤道三は、息子の義龍に殺害され、義龍は信長に敵対していた)、援軍は期待できない。篭城は滅亡を意味すると言っても過言ではない(ただし、ごく希に例外はあるが。鍋島直茂の籠城+奇襲など)。信長は死中に活を求める作戦に出る。奇襲だ(奇襲ではなかったとの説もある)。

信長は、全力を挙げて今川軍の進路を探る。すると、食事時に田楽狭間で昼食を摂るということを突き止めた。そして、一気に食事中の今川軍に突撃する。不幸なことに、今川軍は狭いところに固まっていたので動きがとれず、また、雨であったので、前後の軍もこの事態に気づかず、救援できなかった。
今川義元も奮戦するものの、結局討ち取られてしまう。この戦いで、全国の注目が信長に集まった。この戦いが、桶狭間の戦いである。

今川義元について、少し述べておくと、義元は、この戦いに敗れ、公家かぶれの愚将と思われがちだが、決してそのようなことはなかった。義元は、甲斐(山梨県)の武田信玄、相模(神奈川県)の北条氏康という、日本の全時代を見回しても一流の名将たちと互角に渡り合った、名将だった。だからこそ、義元に勝った信長は注目されたのだ。

この桶狭間の戦いでも信長のエピソードは数多くある。
まず、戦いの前に、軍議をほとんど開かず、開いても世間話ばかりするなど、平然としていた。もちろん、水面下では必死に情報を収集していたのだが。おかげで、出陣の時は、数人の家臣しかついてこず、なかなか集まらなかった。とりあえず、熱田神宮に集まった家臣たちを前に、信長はお祈りをする。すると、中から音がした。これを聞いた家臣たちは奮い立った。これも信長の作戦だった。あらかじめそのように用意していたのだ。
戦いの後の戦後処理もなかなか感じるものがある。信長が戦功第一としたのは、情報収集によって勝利をもたらした梁田政綱。いかに信長が情報を重視していたかがわかる。

なお、義元の首級は尾張の鳴海城で戦い続けていた岡部元信の申し入れにより、鳴海城の開城と引き換えに今川方に返された。

義元を破って意気あがる織田軍は攻勢に出る。最初に目標としたのは美濃の斎藤氏と伊勢(三重県)の北畠氏。さらに、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を組み、後顧の憂いを除く。

美濃攻めはなかなか進まなかった。美濃は斎藤道三の築いた稲葉山城を中心に大きな国力を誇っていた。しかし、斎藤家にも次第に疲れが見えてくる。
しかも、当主の龍興は愚鈍で、太守の器ではなく、家臣たちにも見放されていた。信長はそこをついて攻め立てた。
さらに、家臣の木下藤吉郎に、稲葉山城の近くに、極秘に城を築かせる。藤吉郎は見事に成し遂げ、稲葉山城攻撃の足がかりを築いた。さらに、藤吉郎は斎藤家の重臣の美濃三人衆をも味方につけた。さらに、隠居していた、智謀の男・竹中半兵衛を味方につける。この木下藤吉郎こそ、後の羽柴秀吉・豊臣秀吉だ。
いくら城が堅くても、中にいる人間が無能なら、守りきることはできない。稲葉山城はついに落城し、龍興は追放され、斎藤家は滅亡した。
さらに、この後、伊勢の神戸氏に三男・信孝を養子に入れ、乗っ取っている。こうして、北伊勢も手に入れた(北畠氏には次男・信雄を養子にして併呑している)。

こうして、信長は、尾張・美濃・北伊勢を掌握し、大大名の仲間入りをした。この後、信長は天下統一に向かって、一気に歩を進めていくことになる。

 尾張・美濃・伊勢を掌握し、天下有数の大名になった信長は、これから天下統一へと、具体的な行動を起こしていく。天下を統一するのに、必要なこと、それは、上洛、つまり京都へ進軍することだ。京都には、足利幕府と朝廷という、二つの権威がそろっていて、この権威を後ろ盾にすることができるからだ。もちろん、信長も上洛を目指す。そのため、まず、近江(滋賀県)の浅井長政と同盟を結ぶ。この時、長政に嫁いだのが、絶世の美女として有名な、信長の妹、お市である。

さらに、信長の元に絶好の口実が転がり込んでくる。なんと、元将軍の弟・足利義昭が信長を頼ってきたのだ。義昭の兄、将軍足利義輝は、畿内の大名・三好氏や、その家臣の松永久秀に殺害されたのだ。その弟の義昭も狙われたのだが、何とか難を逃れ、越前(福井県)の朝倉義景を頼っていった。朝倉家は強大で、京都からも近く、天下に最も近いと言われていた大名だった。しかし、義景には上洛する様子が見受けられず、義昭は見切りをつけて、新興大名の信長に期待してやってきた。この仲介をしたのが明智光秀だ。

義昭を保護した信長は、早速行動に移す。浅井長政にも呼びかけ、数万の軍で上洛の軍を起こした。途中、南近江・伊賀の大名・六角義賢らの抵抗もあったが、一蹴し、すぐに上洛を果たした。

上洛した信長は、義昭を将軍職につけた。これに感謝した義昭は、信長を父と敬い、副将軍職か管領(どちらも重臣)に就けようとした。しかし、義昭を主君と思っていない信長はこれを拒否し、当時日本で有数の商業都市、の支配権を容認させる。堺は自治都市で、軍隊も持っていて、信長の支配を最初は拒否したが、信長の脅迫の前に屈した。こうして、大きな財源を確保した。さらに、堺は鉄砲の生産地であり、このことが、信長の天下統一事業を促進していくことになる。

ちなみにこの頃、信長は領内で徴収した米を京都の承認に託して運用させ、その収益を皇室に献上して朝廷の経済的基盤の充実に協力している。
この事例は我が国における歴史上の信託の活用例として知られている(新井誠「信託法」)。

しかし、信長はこれから長い苦闘を経験することになる。信長にないがしろにされていると感じた義昭が、全国の大名に、信長を討て!と命令したのだ。
もともと、他の大名たちは自らに先駆けて上洛した信長を機会あれば討ちたいと思っていたので好都合だった。この要請に応じたのは、朝倉義景、武田信玄石山本願寺三好氏、後には北条氏政上杉謙信毛利元就の孫・輝元なども加わる。
ここに、日本中を巻き込んだ信長包囲網が形成された。
なお、武田信玄・上杉謙信・毛利輝元は元々は同盟相手であり、彼らが敵対することになった背景には信長の外交の稚拙さがあるとの指摘がある(金子拓「織田信長 不器用すぎた天下人」参照)。

まず、信長は朝倉義景に、上洛するように義昭の名前で命令した。もちろん、義景は無視。これを口実に信長は、盟友の徳川家康と共に朝倉家を攻撃する。圧倒的な軍事力で、どんどん押していくが、ここで信じられないことが起こった。信長の義弟・浅井長政が裏切り、退路を断とうと動いたのである。

もともと、浅井家と朝倉家は長年の盟友で、長政も信長に「朝倉家を攻撃する時は事前に相談して欲しい」と言っていて、了解をとっていた。しかし、信長は無断で攻撃したため、そのことに怒った浅井家、特に長政の父・久政が信長との断交を主張した、と言われている。
ただ、異説もあり、信長の価値観についていけない長政が、いつかは決別しなければならないだろう、ということで攻撃した、あるいは信長は浅井家を家来扱いしており、相容れない存在となることが予想されたため決別したとも言われている。

このとき、浅井長政の妻であった妹・お市が陣中見舞いとして、左右を縛った小豆入りの袋を送ってきて、それを見た信長が浅井の裏切りに気づいたというエピソードがある。

朝倉領の奥深く進入していた織田軍は、危機に陥った。いつもは冷静沈着な信長も「浅井朝倉と刺し違えてくれる」と、半ばやけっぱちになるほどだった。しかし、ここで、一人「急ぎ撤退してください。殿(しんがり。最後尾のこと)は私がつとめます」と言ってのけた武将がいた。羽柴秀吉だ。信長は撤退を決意。身一つで逃れた。道案内は松永久秀。命からがらの撤退だった。ちなみに秀吉は、信長においていかれた家康と共に朝倉家の攻撃をしのいで、無事に撤退を完了した。これを「金ヶ崎退き口」と言う。

京都に帰った信長は、ただちに体勢を立て直し、家康と浅井朝倉を攻撃する。1570年、姉川の戦いである。
織田軍は浅井家と、徳川軍は朝倉家と戦った。ちなみに軍勢は織田>徳川、朝倉>浅井。ちょっと、変である。しかし、少ないはずの浅井軍は、織田軍の構えを次々と突破し、信長のところにまで迫ろうとする勢いだった。しかし、朝倉軍を破った徳川軍が浅井軍を攻撃し、さらに、織田の救援軍が現れ、何とか勝つことができた。ちなみに、当時、浅井や徳川の軍は精強を謳われる一方、織田の兵は弱兵として知られていた。栄養は一番摂っていたらしいが。

とりあえず、当面の敵を叩き潰した信長の前に、恐らく最大のライバルであろう敵が現れる。本願寺顕如だ。本願寺が信長の最大のライバルであるのは、単にその兵力が大きい、というだけでなく、信長の排除したい既存の概念の象徴こそ、石山本願寺であったからだ。

信長はまず、伊勢長島に本願寺の長島寺を攻める。1571年のことである。しかし、頑強な抵抗に遭い、撤退。この際に、兄の織田信広が討ち死にしたり、重臣の柴田勝家が負傷したりと、大きな被害を出す。さらに、比叡山延暦寺が朝倉家の兵をかくまっていると聞き、引きわたしを要求するが、聞き入れられなかった。
怒った信長は、焼き討ちを命じる。明智光秀は、その文化的価値の大きさを説明し、何とか焼き討ちをやめるように信長を諌めた。しかし、信長は聞き入れず、焼き討ちを決行した。皮肉にも、光秀もその実行役にされてしまった。

この焼き討ちで、面白い話が残っている。焼き討ちの責任者になったのは、羽柴秀吉と明智光秀だった。秀吉の価値観は、どちらかと言えば、信長に近いものがあった。しかし、焼き討ちに際して、秀吉は、無駄な殺戮を行わず、できるだけ逃がせる人は逃がした。逆に、光秀は厳格に殺戮を行ったそうである。もちろん、秀吉ならともかく、光秀が怠慢を行うとどのようなことになるか分からないので、光秀が秀吉より冷酷、とは一概には言えないのだが。

翌1572年には、戦国最強の武将、甲斐(山梨県)の武田信玄が、上洛の軍を起こした。最初の敵は、徳川家康。家康は、信玄に野戦を挑んだが、野戦では特に強い武田の騎馬隊、徳川軍は散々に蹴散らされる。三方ヶ原の戦いだ。後に東海一の弓取りと言われる家康だったが、やはり信玄は強かったということだろう。

そして、信玄は尾張国境にまで迫る。このことを聞いた反信長勢力は、このことを聞いて勇み立つ。足利義昭や松永久秀が畿内で挙兵した。浅井・朝倉も健在、石山本願寺もいて、信長、最大のピンチだ。

しかし、信長はこの危機を脱した。信玄が病死し、武田軍が撤退したのだ。信玄は「3年間は喪を秘せ」と言い残したが、不自然な死に、信長はじめ、諸大名はすぐに信玄の死を悟った。

そこで、信長は義昭を攻め、一度は和平をするが、再び義昭は挙兵し、これを破り、追放した。さらに、朝倉義景を攻め滅ぼし、返す刀で浅井家の本拠、小谷城も落とす。こうして、信長は危機を一つ乗り越えた。

この頃の信長に、おぞましい話が残っている。憎き浅井・朝倉を滅ぼした翌年の祝賀の席で、信長は集まった人々に、とんでもないものを披露した。金箔で彩られた茶器、のようなものだった。何かと皆がいぶかっていると、信長は「これは浅井長政・久政・朝倉義景のドクロである」と言った。皆、腰を抜かしたが、不快な顔をするわけにもいかず冷や汗をかきながら過ごしたらしい。このあたり、信長の精神は通常ではなかったと言われる(ただし、この行為自体は相手に敬意を示すもので、侮辱的なものではなく、また他にも事例があることも指摘されている)。

浅井・朝倉を滅ぼしたとはいえ、強力な敵は残ったままだ。武田家は、信玄が亡くなったとはいえ、後継者の勝頼のもと、精強な兵と名将たちは依然として健在。また、畿内にも石山本願寺があり、また、信長に茶器を献上して許された、爆弾・松永久秀もいた。

武田勝頼は、しばらくすると、再び攻勢に出る。まず、徳川家の高天神城を伺った。この城は、信玄も落とせなかった名城で、勝頼はこの城を落とすことで武威を示そうとしたのだ。徳川家は、単独では武田家と戦うことはできないので、しかも、家康自身が三方ヶ原で勝頼に追い立てられているので勝頼を恐れていて、信長に救援を要請。信長は、救援するために大軍を編成した。しかし、なかなか出陣しない。徳川家からは矢の催促。しかし、信長が重い腰を上げたのは、城が落城する寸前だった。

これには裏があった。信長は、最初から徳川家を救援するつもりはなく、誰をも警戒させずに伊勢長島城を攻撃しようとしたのだ。この作戦は大成功し、長島城を落とす。

しかし、長島城落城の裏には悲劇があった。信長は、長島城を徹底的に締め上げ、干乾しにし、降伏を受け入れると見せかけ、場外に出てきた者は、全てだまし討ちで殺害したのだった。

1575年には、武田勝頼が三河に進出。再び徳川家康は信長に救援を要請した。今回も信長は出陣に時間をかけた。しかし、今度は武田家と戦うつもりだった。武田の騎馬隊は戦国最強と言われていたため、信長も慎重になる。武田の騎馬隊に対して、信長は鉄砲をかき集める。そして、武田軍と、織田・徳川連合軍は三河の長篠にて対峙した。

信長は、武田軍の3倍の兵力を擁していたが、武田軍は少しも恐れていなかった。武田の強兵は、織田の弱兵などいくらでも蹴散らせると思っていたのだ。しかし、信長は、弱兵の弱点を補う戦法を考えていた。それこそ、集団戦法であり、謀略であり、情報であり、鉄砲であった。

長篠の戦いでは、武田軍が、一方的に鉄砲隊に突っ込んでいったように思われているが、それが誤解であることは、戦いが8時間にも及んだことから察せられる。この時点で鉄砲が普及しており、武田家でも使用していたため、勝頼も鉄砲の恐ろしさは十分に認識していたと思われる。鉄砲の対策をした戦法も考えられていた。
しかし、やはり、大量の鉄砲と集団戦術、それに、武田軍内部の相克(武田家の当主は勝頼だったが、その権力は必ずしも強いものではなかった)があり、敗れた。勝頼が愚かであったのではなく、信長があまりにも独創的であったといったほうが妥当だろう。

この戦いで、武田家は信玄と戦陣を共にした多くの名将を失い、天下を目指す資格を失う。残る強敵は、石山本願寺と、西進して衝突した毛利家、未だ強力な戦力を維持する上杉謙信率いる上杉家。

長篠の戦いで武田勝頼を破った信長は、天下への道を固めていく。まず、信長の領地の美濃に攻め込み、そこで頑張っていた武田方の名将・秋山信友(虎繁)を破り、殺害する。さらに紀伊(和歌山)に雑賀衆を破り、畿内での地盤を強化した。

秋山信友に関しては、面白い話が残っている。
秋山信友は、信玄の侵攻に伴い信濃から美濃に攻め込んだ。そのとき、東美濃の要衝・岩村城を守っていたのは信長の叔母だった。もっとも、信長よりも若いのだが。この叔母は、美人で有名で、そのことを信友も知っていた。ちょうど、この叔母は、夫を亡くし、独身。そこで、信友は信長の叔母を妻にすることを条件に開城させようとした。信長は信玄をはじめ、多くの敵に囲まれ、救援する余裕がなかった。となると、このまま籠城を続けていたのでは、いつかは城兵が犠牲になる、と考えた叔母は、信友の条件を飲み、結婚する。
そして、長篠の戦いで武田軍を破った信長は、岩村城を攻撃する。
信友は必死に防戦するが、本国からの援軍はなく、次第に窮地に陥る。無駄な犠牲を出すよりは、降伏するほうがよい、と考えた信友は、織田軍に降伏した。
しかし、信長の怒りは尋常ではなく、叔母が信友と礼を言いに言ったところ、突然捕らえられ、磔にされたという。信玄が侵攻してから、長篠の戦いまで2年。たった2年だったが、一人の女として、城主としての気負いから解放され、一人の男を愛することができたのは、幸せであったかもしれない。

さらに、信長は天下統一をにらんだ事業を始める。安土城建設だ。領国中から労働者を集めるだけでなく、全国から素晴らしい素材を集め、しかも、その巨大さを全国に宣伝した。こうして、信長の威勢は日に日に増していった。さらに、安土城下では楽市楽座制を敷き、城下に商人たちを集め、貨幣経済を浸透させていった。

安土城築城に関しても面白い話がある。安土城建築に際して、大きな石を山の上に運ぶことになった。そこで、大量の人を使って山を登ろうとする。最初のうちはいいのだが、ある程度上ると、そこで止まってしまう。信長は誰かうまく山の上に上げられる人を募集した。そこで名乗りをあげたのが羽柴秀吉。秀吉は山の上に美人の集団を集め掛け声を上げさせる。さらに、もうちょっとというところで止まってしまうと、最後にはすけすけの服を着させて引っ張る人に最後の力を出させる。こうして、巨大な石は山の上にたどり着いたのだった。

さらに、信長は朝廷に蘭奢待を所望した。蘭奢待というのは、朝廷が東大寺に保管している名木で、足利義政など、ごく限られた人しかもらえない、とても貴重なものだ。現代のお金に換算すると、国家予算にも匹敵するとさえ言われる。そのような貴重なものをもらう、というだけでステータスになる。結局、朝廷は信長に下賜した。こうして、信長は威信を高めていった。ちなみに、蘭奢待という字をよく見ると、「東」・「大」・「寺」という字が入っているのがわかる。

順風満帆のように見える信長の経略であるが、まだまだ課題が多かった。
武田家を退けた次は、上杉謙信との戦いが待っていた。

もともと織田家と上杉家は友好関係にあり、信長は信玄と謙信の和睦を仲介していたこともある。
しかしながら、謙信と約束した共同作戦を信長が違えるなど、謙信の貢献に信長が応えきれなかった上、謙信が越中・加賀に勢力拡大を図っていたところ、信長が越前の一向一揆を壊滅させ、重臣の柴田勝家を配置したことから緊張関係が高まったことから上杉家との友好関係が破綻したようである。

そして上杉・織田両軍は手取川で激突する。柴田勝家も織田家中では猛将として知られていたが、謙信はさらに強かった。上杉軍は織田軍に猛攻をかけ、圧勝する。しかし、上杉軍はそのまま越後に帰国した。

畿内では、上杉家の侵攻を期待して、信長に反旗を翻した人物がいた。松永久秀だ。しかし、上杉は結局来ず、織田軍に囲まれる。ここでも信長は茶器を差し出せば許す、と言った。しかし、今度は久秀は承諾せず、果敢に戦った後、茶器に火薬を仕込んでかぶり、茶器もろとも爆死した。

この直後、謙信は病死し、戦国期を彩った巨星と言われる名将たちは、ほとんどいなくなった。海道一の弓取り・今川義元は1560年桶狭間で戦死し、関東の雄・北条氏康、中国の雄・毛利元就、南九州の雄・島津貴久は1571年、戦国最強と謳われた名将・武田信玄は1573年に、そして、1578年、信玄の最大のライバルで、信長が信玄同様に恐れた謙信も病死した。こうして、信長の行く手をさえぎる勢力は絶対的にも、相対的にも弱くなっていった。

謙信の死で、信長は北陸方面へ攻勢をかける。北陸担当軍団長・柴田勝家は上杉家を次第に圧迫していった。しかも、上杉家にとって悪いことに、内紛が起きたので、あっという間に勢力を拡大できた。

ちなみに、上杉家の内紛は、謙信の親類の上杉景勝と、北条氏康の子で、謙信の養子の景虎が後継者の座を争ったものである。御館の乱といわれる。景勝はこの時、武田勝頼に救援を求める。一方、景虎は実家の兄・北条氏政と、北条家の同盟者の勝頼に救援を求めた。景勝は勝頼に領土と金を差し出し、同盟を求め、当初は景虎の支援を行い、その後景虎と景勝の和睦を仲介しようとしていた勝頼も景勝を応援し、景虎は敗れ、自害した。この結果、勝頼は上杉家と同盟するが、北条家と断交し、苦しい立場におかれた。

さらに、信長は西の播磨、さらに、その背後の毛利家に対しても攻勢をかけた。その方面の担当をした軍団長は羽柴秀吉。秀吉は少ない兵力ながらも謀略を駆使し、何とか播磨を攻略する。この間、摂津(大阪府)方面軍団長・荒木村重の信長に対する反乱があったり、秀吉には苦しい時期だったが、秀吉は強い意思で乗り切った。村重の反乱からも、信長の行為に対する疑問を持っている家臣がいることが伺える。

なお、松永久秀や荒木村重が反乱した際、信長は有無を言わせず鎮圧をするのではなく、「不満があれば叶えるから話してほしい」と対話する姿勢を見せている。
特に荒木村重にはほとんど現存しない(=滅多に書かれない)信長の直筆書状による説得がなされたと言われ、家臣に対して冷たい絶対君主であったという指摘はから名寿司も当たらないと思われる。

さらに、石山本願寺や武田家にも攻撃を加え、締め上げていく。そして、1580年には石山本願寺と、開城を条件に和睦。実質的な降伏である。こうして、信長の最大のライバルの一つがいなくなった。

この時期には武田家・上杉家への攻勢を強めており、両家とも織田家との和睦(実質的な降伏と思われる)を進めようとしていたが、信長はそれを拒否している。
その背景にはそれぞれ前代の武田信玄・上杉謙信が信長との同盟を破棄ししたため、信長の恨みが大きかったことが指摘されている。

1582年には、武田勝頼を滅ぼす。攻めることにかけては、天下一品の武田家だったが、守勢に立たされると、精神的な脆さが出て、急速に瓦解していった。一族でさえ、最後には勝頼を見放した。最後まで勝頼のために戦ったのは、弟の仁科盛信と、信州の真田昌幸くらいである。名家・武田家の最期としては悲しいものがある。

勝頼の首を見た信長の態度には二通りの説がある。一つは、勝頼の首を蹴飛ばし、憎悪の念を叩きつけたというもの、もう一つは、敬意を持って接した、というもの。
浅井長政たちに対する扱いを見ると、前者かと言えるかもしれないが、長篠の戦いでは、戦死した武田方の名将・馬場信春に対して敬意を持って接しているので、後者かもしれない。歴史の常として、信長の行為で悪く言われているのは、徳川時代に捏造された可能性もあるので、何とも言えない。

こうして、東方にも進出した信長は、今度は西に目を向ける。折から、羽柴秀吉から毛利家に手を焼いているから援軍に来てほしいという要請があり、直々に出陣することにする。そのため6月に京に入る。
信長は、この時、兵をほとんど連れていなかった。京は、信長の治世のもと、治安はよかったし、信長に反抗する勢力もなかったからだ。しかし、このことが仇となった。信長に反抗する勢力は外にではなく、内にいた。

京に入った信長は、砦とも言える構えを持った本能寺に宿泊する。嫡男の信忠は足利家の居城だった二条城に宿泊した。信忠も500程度の兵しか連れていなかった。

6月2日未明。顔を洗いに起きた信長は外が騒がしいことに気づく。小姓の森蘭丸に様子を見に行かせたら、とんでもないことを報告した。「明智殿、謀反にございます!」。信長の反応は二通り考えられている。「是非もなし(仕方ない)」と、「なぜ光秀が?」。
とにもかくにも、光秀の謀反は確実。粘り強く、決して諦めない信長だったが、この状況で、緻密な光秀の謀反と言うことで、ついに諦める。しばらくは槍を取り、弓を取り戦うが、多勢に無勢。ついに、寺に火をかけ、炎の中で自害した。享年49。光秀は二条城にいた信忠も殺害した。

天下の支配者・織田信長を殺害した光秀だったが、11日後の6月13日、中国から急いで帰った羽柴秀吉に、山崎の戦いで敗れた。世に言う、天王山の戦いだ。こうして、光秀の天下はあっという間に終わった。まさに、三日天下だった。

信長の後継者を決める清洲会議では、秀吉は信忠の子供の秀信を、柴田勝家は信長の三男・信孝を推した。結局、光秀を討ち、発言力の大きい秀吉の案が通り、以後、秀吉が天下への道を歩むことになる。

信長は、なぜ、ここまで大きくなったのか?
やはり、信長が既存の概念から飛び出した、ということがあるだろう。当時の大名は、農民を兵士としていたため、農繁期には合戦はできなかった。しかし、信長は兵農分離を進め、いつでも、長い間でも合戦ができるようにした。熱田や堺といった商業の中心地を抑えたことも大きい。
また、鉄砲や長槍を積極的に合戦に使用したのも信長の凄いところだ。
茶器を領土の代わりに褒美に使ったと言うのも信長の天才的なところだろう。信長に茶器をもらったり、茶会を開く権利を得たなら、それだけでステータスになったので、土地よりむしろ茶器をほしがった人も多かった。武田家滅亡後、関東管領となった滝川一益も、「関東管領や領土より、名茶器が欲しかった」と嘆くほどだ。これによって、褒美として土地を与える必要がなくなったので、土地に困ることもなくなり、また信長の死後も、織田家自体の土地の減少が少なくなっていたはずなので、織田家自体の力の低下もなくなっていただろう。

さらに、信長が人材を適材適所に使ったというのも、織田家が成長した理由だろう。羽柴秀吉や明智光秀、滝川一益、荒木村重などは浪人出身だったが、信長はそのようなことに拘らずに起用した。その結果、織田家内部にも活気が生まれ、また、外からも出世を夢見て織田家に来る人材が入ってきた。こうして、織田家には有能な人材が多く集まった。

しかし、信長には欠点も多くあった。一番大きかったのは、家臣への接し方だろう。
逸話ではあるが、荒木村重に饅頭を刀に刺して食べさせたり、光秀を足蹴にしたりしていては、家臣も感情を持っているので反発するのも無理はない。実際、光秀の謀反の原因のひとつに、信長への恨みというものが考えられている(最近では光秀が四国の長曾我部家との板挟みになったためという説も有力であるが、それも光秀の状況をあまり斟酌していなかったことの証左とも言える)。
ただし、信長が家臣に冷たかったというのは当たらない。秀吉の妻、寧々が夫の浮気を訴えると、その愚痴に対し丁寧に返事をしているし、裸足で戦った兵に対し、自分の草鞋を与えたり、単身赴任中の家臣には早く家族を呼び寄せるように促す、というエピソードも残っている。

また、虐殺などむごい事をしたり、降伏を許さなかったりしたケースがあることが、人々の抵抗を大きくし、結果として信長の覇業を遅らせたと言える。
浅井・朝倉氏のようにそもそも降伏を申し出ていない勢力も多いし、また三好氏や石山本願寺のように実質的な降伏を受け入れているケースもあるので、必ずしも降伏を受け入れていないわけではないが、武田氏や上杉氏のように和睦を申し出ていても受け付けていないケースもある。
信長の後継者の秀吉は、信長を反面教師としたのか極力和睦して政権かに組み入れる方針を採ったので、信長死後10年足らずで天下を取ることができた。

信長が我々に残した教訓は大きい。信長の人生を振り返り、この時代、我々がどのようにあるべきかを考えてみることはきっと有意義なことだろう。

・「織田信長 不器用すぎた天下人」の書評

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