応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱

有名だから名前は知っているし、何なのかもなんとなく知っている。でも注目もされていないし、詳しくは知らない。
そういうものって、自分の好きな分野や仕事においても結構多いと思います。

その代表格が、戦国時代における「応仁の乱」ではないでしょうか。
私を含め、戦国時代が好きな方は多いと思いますが、その戦国時代の幕開けとなった戦乱である応仁の乱については、あまり熱く語られることもなければ、テレビ番組で取り上げられることも少ないように思います。
自分自身、応仁の乱について意識することはあまりなく、教科書程度の知識しかありませんでした。

そんな折、何がきっかけになったのかわからないのですが、中公新書の「応仁の乱」(呉座勇一著)が爆発的に売れているということで、気になったので読んでみました。

一般的に、応仁の乱は室町幕府八代将軍・足利義政の後継について、息子の義尚派と弟の義視派が争い、それぞれ有力大名の細川勝元山名持豊(宗全)が後ろ盾となって生じた戦乱であると認識されていると思います。
また、守護大名が京都に集結したことや慢性的に戦乱が続いたことにより、それぞれの領地で家臣団が力を持ち、下剋上の契機になったともいわれています。

それ自体は間違ってはいないのですが、本書で解説されている応仁の乱の背景は上記の説明以上に複雑です。
また、大きな役割を担う人物の数もかなり多く、それゆえに人間関係は複雑になるとともに、見どころも多く、応仁の乱の面白さ(?)を初めて知りました。

本書は、奈良にある興福寺経覚尋尊という二人の僧侶の視点から応仁の乱を追っています。
興福寺は藤原氏の氏寺として設立され、平安時代には南都北嶺と称された有力寺院で、実質的には大和国の守護の役割も果たしていたといわれています(大和には守護が設置されていませんでした)。
経覚・尋尊はそれぞれ興福寺のトップである別当を努めた人物で、二人とも詳細な日記を残していることで知られています(経覚の日記については一部焼失していますが)。
また、大和は応仁の乱の中心となった京都にも近く、興福寺もいろんな形で影響を受けています。
このような背景に加え、二人の性格の違い(経覚は好奇心旺盛で当事者のような視線で語るのに対し、尋尊は一歩引いたところから俯瞰している傾向があるようです)もあって、この二人を語り部として選んだのではないかと思います。

本書によると、応仁の乱の火種となったのは、管領家の一つ・畠山家の家督争いです。
なお、室町時代における管領は将軍の補佐役であり、幕府のナンバー2といえる存在で、一時期を除けば細川家・斯波家・畠山家が交代で就任していました。

関東で関東公方・足利持氏が幕府や関東管領・上杉憲実と対立した永享の乱の後に起きた結城合戦の際に、当主である畠山持国が出陣を拒んだことから将軍・足利義教の不興を買って失脚し、弟の持永に家督を譲らされます。
しかし、義教が嘉吉の乱で暗殺されると、持国は武力で家督を取り戻します。
その際、もう一人の弟である持冨は持国を支持していたため、実子がいなかった持国は持冨を養子としていました。

しかし、その後持国には実子が生まれます。後に応仁の乱を引き起こす畠山義就(よしひろ)です。
持冨にとっては残念なことですが、持国の実子なのだから、義就が後継者になるべき…とはいきませんでした。
義就の母は側室であったため嫡子とはされず、一部の家臣団は血筋のよい持冨の子・弥三郎を後継者に望むようになります。
持国は弥三郎擁立を企む家臣団を攻撃しますが、彼らは有力大名である細川勝元・山名宗全を頼ります。
その結果、畠山家対細川・山名家という構図になり、畠山家の勢力は大きく削がれることになりました。
この過程の中で、一時持国は隠居しましたが、事態処理の中で山名宗全が失脚し、持国方は勢いを取り戻し、弥三郎を京都から追い落とすこととなりました。
その後弥三郎は病死し、政長がその跡を継ぎます。

その後、義就は畠山家の家督を継ぐものの失脚し、政長が家督を継ぎ、管領になります。
しかし義就は引き下がらず、政長との係争が長く続くことになります。

一方、将軍家においても畠山家と似たような状況で、将軍・足利義政には実子がおらず、弟の義視を後継としていましたが、その後実子の義尚が誕生します。
では義尚を後継とするか、その前に中継ぎで義視を挟んで義尚を将軍とするか、ということになりそうですが、それは将軍の一存で決められるものではなかったようです。

当時幕府には①伊勢貞親ら将軍側近グループ②細川勝元グループ③山名宗全グループがおり、それぞれ異なった思惑を持っていました。
そして、斯波家の家督争いを契機に細川・山名は共闘して側近グループを潰しますが、将軍の後継について思惑が異なっているので、いずれは対立することが明白でした。

その時義就は伊勢貞親らと共闘するつもりで上洛しようとしていましたが、貞親らが失脚したため、大和近辺での勢力拡大を図りました。

そんな折、細川勝元と対立していた山名宗全は自陣営の増強を図るため、義就を引き入れようとしていました。
細川勝元は義就と対立する畠山政長を支持していましたので、義就は山名方につきました。
そして、義就は義政の許可を得ないまま、宗全の呼びかけに応じて上洛します。

義政は細川・山名には政長・義就を支援させず、当事者間の争いで勝った方を支持するとしており、細川方は将軍の指示に従ったものの、山名方は義就を支援したため、政長は敗走(御霊合戦)。
応仁の乱は文正2年(1467年)の、この戦いから始まったといわれます。つまり、畠山家の家督争いが直接のきっかけになったといえそうです。
細川勝元は武家の棟梁としても雪辱を果たす必要があり、各地で細川方に山名方を攻撃させます。

そして、細川方・山名方は京都に集結。細川方は京都の東側に布陣したため東軍、山名方が西側であったことから西軍と呼ばれます。
京都の西陣織の名前が、西軍が布陣した場所に由来していることは有名です。

東軍は義政を味方につけ、義政は義視を東軍の総大将とします。
しかしながら、その後義視は失脚し、なんと西軍の総大将になります。
西軍は義視を将軍に擬し、幕府と同様の統治機構を整備したようです(西幕府)。

和睦を模索していた義政の試みもうまくいかず、その後細川勝元・山名宗全の両巨頭が死去した後も、義就・政長らは戦いを続けることになり、戦乱は11年の長きにわたることになりました。

ちなみに、肝心の細川・山名は戦争開始数年後には事態を終結させたいと思っており、勝元・宗全は当主の座を降りています。
二人の死後、文明6年(1474年)に細川家・山名家は単独で講和し、西軍の総大将であった山名家が東軍に移ります。

最終的には山名家の後の西軍の主力であった大内政弘が文明9年(1477年に)東軍に降伏(実質的には和睦)して帰国するという形で戦乱は終結しました。

しかし、その後も畠山義就・政長は抗争を続けますし、各地では守護代が守護大名を脅かしていたりして、本書のタイトルの通り、戦国時代の幕開けとなります。

政治的背景や人間関係が複雑すぎて、応仁の乱を正確に把握するのは難しそうですが、足利義政や細川勝元・山名宗全といったしかるべき役割を担っている人物が、きちんとリーダーシップを発揮して和睦交渉を行っていれば、戦乱もこれほど長引かなかったのではなかったか、と思いました。
リーダーシップの欠如による組織・事態の迷走は今でもみられることであり、そういう意味ではいい教訓とも言えるでしょうか。

戦国時代以降、応仁の乱の中心であった足利家・山名家・細川家・畠山家・大内家がいずれも零落していることは、象徴的な後遺症であったといえるかもしれません(熊本の大名の細川家は庶流)。

印象としてはグダグダ、ダラダラな応仁の乱ですが、当事者たちはいずれも必死に生きていたし、戦闘のあり方も変化があって、決して地味な戦乱ではなかったと思います。
総大将格の人間がそれぞれ相手陣営に移っているというのもなかなかドラマチック(?)

応仁の乱の当事者の人生や西幕府の存在、戦闘方法の変化などについてはこれまで知らなかったので、日本史を代表する事件の全体像を俯瞰するとともに、新たな一面を知ることができて、大変勉強になった一冊でした。

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