観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い

戦乱続きの室町時代

室町幕府の権威を失墜させた動乱としては応仁の乱がよく知られていますが、室町幕府は南北朝の争いの最中に成立した政権ということもあり、そのほとんどの期間において戦乱が生じていました。
そのため、なかなか安定した治世とならず、その初期においては南朝に何度か京都を奪回されていますし、中期には鎌倉公方との抗争や将軍暗殺、さらに後期には応仁の乱を経て戦国時代に入るという、戦乱続きの時代と言えます。

そんな室町幕府の黎明期には南朝との戦いに忙殺される中で、幕府自体が真っ二つに分かれてしまう事件がありました。
観応の擾乱(じょうらん)と言われる事件で、将軍足利尊氏と政権運営を担当していた弟・直義(ただよし)が争った内乱です。

鎌倉幕府打倒のために立ち上がってから、尊氏と直義は仲の良い兄弟として二人三脚で歩んできたイメージがあるのですが、なぜその二人が争うことになってしまったのか不思議に思っていました。

 

気鋭の歴史学者が解き明かす観応の擾乱

そんな疑問に答えてくれる好著が出版されました。
亀田俊和著「観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い」。
先日の呉座勇一著「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」と同じく中公新書です。

ちなみに帯には「骨肉の争いが生んだものは―」と書かれていて、読む前から人間ドラマの予感がします。

では、この二人の兄弟の骨肉の争いはどのようなものだったのか。

観応の擾乱 前半戦

江戸時代の将軍(特に初期)のイメージでは、将軍は最高権力者で、何でも決めることができる、という感じがしますが、室町幕府の黎明期において実務上の最高権力者は将軍の尊氏ではなく、弟の直義でした(直義邸の場所から、その地位を「三条殿」といいます)。
もともと後醍醐天皇との決裂を主導したのも直義で(直義は後醍醐天皇の子の護良親王も殺害しています)、そのような経緯から尊氏は政権運営にほとんど介入せず、直義が幕府の運営を行っていました。

また、観応の擾乱は保守派の直義と革新派の高師直(足利家執事)という対立軸が中心になりますが、もともと二人は対立する存在ではなく、師直は足利家のナンバー2である直義にも執事として仕えつつ、役割分担をしていたようです。
直義と師直は犬猿の仲というイメージもありますが、史料を読むと、元々対立していたわけではないようです。

といっても、やはり権力争いはあるもので、讒言によって直義が師直を実力で排除しようとしたことにより直義と師直の争いが表面化したというのが観応の擾乱の発端でした。
つまり、観応の擾乱はもともと尊氏は第三者で、直義と師直の争いということになります。

直義は師直を執事から解任し、所領も没収し無力化してしまいます。
執事の権限がいくら強くても主家には逆らえない…

…というほど南北朝の武士は甘くはありません。
師直は自分に賛同する勢力を終結し、大軍を率いて直義に迫ります。
抗し得ないと考えた直義は将軍・尊氏邸に逃げ込みますが、師直はそのまま尊氏もろとも将軍邸を包囲します。

将軍邸を包囲して自分たちの政治的主張を通す行為は「御所巻」と呼ばれ、室町時代特有のものですが、最初の事例がこの尊氏邸包囲だそうです。

自分たちが包囲されている以上、将軍とはいえ師直の要求を受け入れざるを得ません。
この結果、直義は「三条殿」を引退し、尊氏の子・義詮(後の第二代将軍)を三条殿にするとともに、讒言した者たちを流罪にすることになります。もちろん師直は執事に復帰します。

これで師直の勝ちが決定し、室町幕府は安泰…とはなりません。
直義もまた南北朝時代の武士、ただでは倒れません。

引退後出家して、一時はわびしい生活に甘んじていた直義ですが、尊氏が九州で勢力拡大に励む足利直冬を討伐するために出陣した隙に京都を脱出し、尊氏・師直に対して反旗を翻します。

ちなみにこの直冬も観応の擾乱のキーパーソンの一人です。
彼は尊氏の子なのですが、庶子であったため、認知もされないまま出家させられます。
結局直義が養子として引き取るのですが、その後も長らく尊氏は親子として対面することはありませんでした。
20歳を超えた初陣のときに初めて親子として認知され、華々しく活躍するのですが、それでも尊氏や義詮には冷たくされていて、彼の心中を思うとやりきれないものもあったでしょう。

その後直義の献策により西国に配置されますが、中央政権に従わなかったため、実の父と戦うこととなるという、悲しい結末を迎えます。
もちろん、直冬も南北朝の武士。おとなしく討伐を受けるわけはありません。

直義・直冬方にも多くの有力武将が味方し、日本全国が争乱の舞台になります。
ちなみに直義はこの時南朝に降伏する形をとり、南朝勢力をも味方につけています。

その結果、直義方が優勢になるのですが、意外なことに直義は自らが企画した戦いでありながら本人は消極的でほとんど何もしていなかったそうです。

それでも直義方優勢のまま尊氏と直義は和睦。
実質的には直義の勝利です。
この時、高師直や兄弟の師泰をはじめとする高氏一族の多くが殺害されています。
高氏一族の殺害は、三条殿後継に貢献したことに感謝している義詮と直義の間に決定的な亀裂を生みます。

 

観応の擾乱 後半戦、そして終結へ

その後紆余曲折を経て、和睦はわずか5か月で破綻。
しかし、元々兄・尊氏と争うことに積極的でなかった直義は、直前に実子を失っていたことにより、さらに無気力になっていました。

一方、もともとは政務から手を引いていた尊氏は、政務・戦闘の最前線に積極的に出ていくことになります。
観応の擾乱の後の尊氏の奮闘も含め、この過程で尊氏は征夷大将軍らしくなってきたことを著者は示唆していますが、この点で直義と逆のベクトルであるのが興味深いです(直義は昔からずっと最前線で戦ってきた武将です)。

和睦に際して兄への遠慮もあったのか直義は自分に味方した武士に十分に報いることができなかった直義は以前ほど強い勢力にはなりませんでした。

そのような状況下で尊氏は直義との講和を試みますが、結局講和はならず、近畿から関東に戦いの舞台を移して二人は戦い続けます。
そして、最後の最後まで尊氏は弟との講和を探り続ける中、直義は降伏。
その後も直冬や南朝勢力との戦いは続きますが、観応の擾乱のは一応の終結を迎えます。

その後、高師直の命日と同日に直義は死去。
毒殺という説が一般的ですが、著者は病死であると推測しています。
著者も指摘する通り、失意の人間がすぐに亡くなるというのはよくあることですし、最後まで直義との講和を探った尊氏がわざわざ暗殺するとは考えにくいです(徹頭徹尾、直義と戦うつもりだった義詮には暗殺の動機はあるかもしれません)。

本書は室町幕府の制度や裁判のあり方、社会背景なども踏まえて観応の擾乱を俯瞰するもので、上記のような人間ドラマだけを取り出して描いているものではありません。
それゆえに、よりその内容が説得力を持つのですが、一方で人間ドラマとしても読みやすい構成になっていて、その点においても好著だと思います。

 

死闘の中での肉親ゆえの葛藤

観応の擾乱においては高師直という媒体を介して、尊氏と直義、義詮と直冬が兄弟で死闘を繰り広げています。
その中でも尊氏と直義が最後まで和睦を試み、直冬も尊氏に反旗を翻しながら、仲が悪いとはいえ父親には本気になって戦えないという、肉親の情から逃れることができなかったということを知ることができたことが、自分にとっては最大の収穫でした。

このほか、正平一統に対する室町幕府の対応や尊氏と義詮の分業体制、室町幕府の裁判・意思決定の変遷など興味深いポイントがたくさんあり、読みごたえは十分すぎるほどでした。

史料に忠実に史実を描き出すとともに、無味乾燥な描写ではなく、適度に推測や著者の印象も交えながら人間ドラマも描き出し、その中から現代人に対する教訓にも言及する本書からは、著者の歴史(人物)に対する姿勢や愛情がよく伝わってきて、歴史好きの方には広くお勧めしたい一冊です。

尊氏と直義、あちらの世界では仲の良い兄弟に戻っていてほしいものです。

 

 

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北条氏政

父祖の後を継ぎ、最大版図を築きながら時代の波に飲まれた関東の覇者

氏政の評価

北条氏政は1538(または1539)年、小田原北条氏三代目・北条氏康の次男として生まれた。
兄に新九郎(氏親)がいたが早世したため、嫡男となる。

彼は一般に、北条氏を滅亡させた当主として知られている。
そのためか、彼にまつわるエピソードも批判的なものが多い。

よく知られたものに、「汁かけ飯」の話がある。
ある日氏政が、氏康や家臣たちと食事をしていた。
当時はご飯に汁をかけて食べていたようであるが、氏政が何度か汁をかけて食べていると、氏康が突然「これで北条家もおしまいだ」と言い出した。
誰もその意味が分からないので、氏康にその真意を問う。
氏康曰く、「毎日汁をかけているのだから適量がわかるはずであるのに、氏政は一度ではなく何度も汁をかけている。このようなことでは人の心など測り知ることはできず、北条家を発展させることなどできない」と。

また、収穫された麦を見た氏政は、これで麦飯を作るように命じた。
それを聞いた武田信玄は、「収穫された麦が麦飯になるには相応の工程があって、すぐに食べられるものではない。そんなことも知らない氏政は世間知らずだ」と笑った、という話もある。

このように散々な言われような氏政であるが、一方で北条家の最大版図を築き上げたという実績もある。

では、実際のところ、彼はどのような人物だったのだろうか。

後北条氏4代目として生まれる

前述のとおり、彼は氏康の次男であり、当初は嫡男ではなかったが、1552年に兄・新九郎が夭折したことにより後継ぎとなる。

初陣の時期は正確にはわかっていないが、一説には1555年とも推測されている(黒田基樹・浅倉直美編「北条氏康の子供たち」P40)。

1558年には領国支配の文書が見られ、1559年には、当時関東を襲った飢饉に対する責任をとって氏康が形式的に隠居したことに伴い、家督を継ぐ。
形式的とはいえ、わずか20歳少々で北条家の当主となったことになる。

新当主・氏政の最初の仕事は徳政令であった。
氏康が隠居したのは飢饉による領国の疲弊であったため、領民の負担を軽減することが喫緊の課題であったことによる。

関東の覇権争い

しかし、氏政の治世は安定しない。
氏政が家督を継ぐ少し前、北条家は関東管領・上杉憲政を越後に追っていたが、彼を擁立した長尾景虎(上杉謙信)が関東に侵攻してきた。
1561年には上杉軍をはじめとした関東諸将の軍約11万の兵に本拠地・小田原城を包囲されるという危機も迎える。

このように関東が戦場になるため、復興は容易にいかず、氏政は再度の徳政令を出すなど、領民の引き留めに手を尽くしていた。

一方、関東においては同盟を組んでいる武田家と連携して上杉方と対抗し、徐々に勢力を広げていく。

1564年には、房総地域に勢力を拡大しつつあった里見家と第二次国府台の戦いで激突。
緒戦は敗れるも、勝利に油断する里見軍に奇襲をかけて勝利する。
この時、氏政は先陣を切って勝利に貢献したともいわれている。
国府台の戦い以前から氏政は各地を転戦しており、戦術眼や武将としての経験はかなりのものであったと思われる。

これ以降、氏康が軍事的に表に出ることは少なくなり、氏政が北条軍の総大将としての役割を担うようになっていった。
内政面でも氏康がサブに回り、氏政が当主としての役割を積極的に担うようになったようである。
関東における北条家の基盤が安定するにつれ、彼の内政における取組は実を結び、領国の状態も改善していった。

なお、1567年には再度里見家と三船台で戦うが(三船台の戦い)、この時は敗れ、里見家の勢力拡大を許してしまい、東方への勢力拡大が停滞してしまう。

事態はさらに悪化する。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死したことを受け、甲相駿三国同盟を結んでいた武田信玄が1568年、今川家に侵攻。
ここに三国同盟は破綻することになった。
なお、三国同盟の一環として、氏政は信玄の娘である黄梅院を娶っていたが、彼女とも離縁を迫られる。
彼女とは非常に仲が良かったようで、彼女の死後、信玄に分骨を依頼している。

北条家は今川家を支援するべく武田家と戦争状態に入る。
そのため、北条家は上杉家と同盟を行うことになる(越相一和)。
この同盟交渉は氏康主導で進められたようで、氏政は積極的でなかったとの指摘がある。
また、同盟交渉は氏政の弟、氏邦が担当者に任じられていたが、独断で氏邦の兄(氏政の弟)・氏照も交渉を始めてしまったことにより、氏康・氏邦と氏照の間に摩擦が生じたようである。
同盟に当たっては、当初氏政の子が養子(人質としての意味合いもある)として上杉家に差し出されることになっていたが、黄梅院に続く家族との離別を嫌ったのか、氏政は実施を差し出すことを拒否。
結局弟の三郎が上杉家に入り、上杉景虎となる。

結局、北条家は今川家を救えなかった。
さらに武田家は北条家にも牙をむく。
1569年には、6月に伊豆方面で交戦した後、8月には上野から北条領に侵攻。
氏邦の鉢形城、氏照の滝山城を攻撃した後、10月には小田原城を包囲。
小田原城は落とされなかったが、武田軍が撤退する際に追撃したところ、三増峠の戦いでは手痛い敗戦を喫することになった。

後北条氏の最高権力者としての采配

その後も駿河方面で激しく争うが、1571年に氏康が病死したことに伴い、越相同盟を解消し、武田家との甲相同盟を締結する。
このような場合、人質に出している弟・景虎の身が危険になるところだが、謙信は変わらず景虎を養子として遇している(これがのちの悲劇につながるのだが)。

越相同盟の破棄により、再度上杉家や反北条勢力との関東での戦いが激しくなる。
氏政は積極的に出陣しているようで、徐々に勢力を拡大していった。
1577年には宿敵であった里見家と有利な条件で和睦することに成功する(房相一和)。
三船台の戦いから10年後のことであった。

1573年には武田信玄が陣没。武田勝頼が跡を継ぐが、同盟は継続している。
その後、武田家においては急速な勢力拡大と長篠の戦いにおける挫折を経験しているが、その間においても同盟関係は維持されており、むしろ氏政の妹が勝頼に嫁ぐことで同盟関係が強化されていた。

武田家との関係が悪化するのは1578年。
同年、上杉謙信が病死し、その後継を巡って、二人の養子、景勝と景虎が対立する「御館の乱」が発生するが、弟を支援したい氏政は当時佐竹氏と対陣中であったこともあり、勝頼に景虎の支援を要請した。
要請にこたえて越後に出陣した勝頼であったが、景勝と景虎の和睦をあっせんした後、和睦が破綻すると景勝側についてしまった。
その結果、景虎は敗死し、北条家は武田家と敵対していた織田家と手を結ぶことになる。

再び関東で武田家と争うことになったが、長篠の戦いで有力重臣を多く失ったとはいえ、武田家は強く、上野や武蔵でも必ずしも優勢に戦いを進められたわけではなかった。
むしろ武田・上杉・佐竹といった包囲網ができ、国人の中にも武田家に付くものは少なからずいて、氏政の危機感も相当強かったようである。

中央政権とのかかわり:織田政権~豊臣政権

このような情勢を踏まえ、1580年には織田信長に臣従する旨を伝え、信長の娘を嫡男・氏直に娶らせるよう願った。
その願いを叶えるための一環としてであろうと思われるが、この年家督を氏直に譲っている。

そして1582年、織田軍は武田家領国に侵攻。
破竹の勢いで駒を進める織田軍であるが、信長は北条家には極力情報を伝えないようにしていたようで、北条軍は迅速に動けなかった。
もちろん氏政は積極的に情報収集をしていたが、武田家があっけなく瓦解することが信じられなかったというのも適切な動きを妨げた。
結局、武田家滅亡に当たって、北条家はほとんど何もできなかった。

武田家滅亡後、上野には関東管領を称して、織田家重臣・滝川一益が入る。
北条家としては、織田家に従う際に関東八州は安堵されたと理解していたようだが、実際にはそれは否定された形になったようである。
とはいえ、信長在世中は北条家が織田家と敵対することはなく、良好な関係を維持するよう腐心していた。

しかし、同年6月2日、本能寺の変で信長はこの世を去る。
信長に対してはおとなしく従属していたが、信長がいなくなれば怖いものはないと見たのか、関東における織田家勢力の排除を図る。
氏直に55,000の兵を預け、上野に侵攻。6月19日には神流川の戦いで滝川一益を破り敗走させる。
滝川一益は関東支配を諦め、本国の伊勢に帰還する。

この勢いで、北条軍は旧武田領国であった甲斐・信濃へ兵を進める。
一方、それを黙ってみていなかったのが徳川家康であった。

徳川家康は織田家から「甲斐・信濃は放っておくと敵国(北条家)のものになるのでお任せする」という言質をとって甲斐・信濃に侵入。
この点において、北条家と徳川家の立場は違っていた。
そして、この点も後の北条家の運命を左右する伏線であった可能性がある。

甲斐・信濃に侵入した徳川・北条両軍は小競り合いを繰り返すが、途中で真田家が北条から徳川に寝返ったことなどもあり、次第に徳川家が優勢となっていく。
最終的には、甲斐・信濃は徳川、上野は北条領し、家康の娘を氏直に輿入れさせることで和睦し、天正壬午の乱と呼ばれる旧武田領国を巡る戦乱は幕を閉じた。
なお、上野には真田領沼田があったが、徳川の命令によっても真田は譲らず、北条も実力行使で真田家を排除することができず、これが後に北条家の運命を大きく動かすことになった。

徳川という西の脅威を除いた氏政は、本格的に関東経略に乗り出し、勢力の拡大を続け、最終的には関東広域に約250万石という大版図を形成するに至る

しかし、西国では羽柴(豊臣)政権という巨大勢力が形成されつつあった。
一時は小牧・長久手の戦いで秀吉に勝利した徳川家康も豊臣政権には抗しきれず、臣従。
その際、家康は氏政と対面し、秀吉と和睦することの了承を得たとされる。

豊臣政権との緊張、対決

戦争をコントロールし、自分の意思に基づかない戦争を認めない(惣無事)という姿勢をとった秀吉は、上杉家と北条家の和睦を促すなど、関東における惣無事体制の確立を進めようとする。
その過程の中で、北条家の臣従も求められることになった。
豊臣政権と北条家の間には緊張状態が続き、北条家においては軍備の拡張が進められていたが、一方で氏政の弟・氏規を窓口とした外交交渉も続けられていた。
氏政は以前信長に従属したことでもわかるように、彼我の勢力の差がわからないような愚かな人間ではなかった。

交渉において重要なポイントとなったのが、真田領沼田である。
北条家からすれば、沼田は徳川家から譲渡されたもので、当然自分のもの。
真田家からすれば、沼田は自力で獲得したもので、当然自分のもの。
両者の立場は相いれないが、この問題が解決しない限り、戦争をなくすことはできなかった。

最終的には秀吉が裁定し、3分の2を北条に、3分の1を真田に、という北条家に有利な結果が出た。
秀吉としては、とにかく北条家との交渉を終え、平和裏に天下統一を進めたかったのかもしれない。
ともあれ、両者その裁定を受け入れ、平和裏に北条家は豊臣家に心中し、天下は平和になる…はずであった。

しかし、平和は訪れない。
秀吉としては早く氏政を上洛させて臣従を既成事実化したかったが、氏政はすぐに上洛できなかった。上洛費用の調達に手間取っていたようである。直前までは軍備拡張をしていたこともあり、領国の負担は相当大きなものになっていたことが背景にあると思われる。
しかも、その間北条家は秀吉と連絡をとっていなかったようで、秀吉の怒りは大きかった。
(秀吉が北条家を信用しなかった一因として、本能寺の変直後、北条家が織田家に反旗を翻したということがあるという指摘もある)

そんな中、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が真田領・名胡桃城を攻撃し、占領。
これによって豊臣家と北条家の関係は決裂し、小田原征伐を迎える。
(ただし、この時点においても氏政が至急上洛するなどの対応ができていれば征伐は防げたという見方もあるが、一方、抑留・国替えの危険があるため氏政の上洛はすぐに実現できるものではなかったともいわれている)

そして1590年3月、小田原征伐。
20万を超える豊臣軍に対し、北条軍は各地の拠点に籠城し、豊臣軍の疲弊を待つ作戦に出た。
氏政が若いころ、上杉謙信との戦いで用いた戦略でもある。

しかし、すでに時代が違った。
ほぼ全国を手中に収めた秀吉にとって補給が切れる心配はほとんどない。
また、秀吉を背後から脅かす者もいない。
それどころか、石垣山城を築城し、周囲を睥睨している。

北条家が誇る数多の堅城は、豊臣勢の前に瞬く間に落とされた。
その中で敢闘目覚ましかったのは、氏規の守る韮山城、氏邦の守る鉢形城、成田長親の忍城などがある。
しかし、彼らの善戦も大勢を変えるには至らなかった。

7月5日、氏直が投降。
その後、家臣・城兵が投降し、開城。
小田原城は落城した。

7月11日、氏政・氏照は切腹。
氏政の介錯は、弟・氏規であった。
他に重臣の松田憲秀・大道寺政繁も切腹している。

小田原城落城により、戦国大名としての北条家は滅亡した。
その後、氏直が1万石の大名に復帰、氏直の死後は氏規とその子孫が北条家を継ぐことになる。

北条氏政は愚将だったのか

こうして北条家は滅亡してしまったのだが、北条氏政は愚かな人物だったのだろうか。

彼の人生の大半は危機の連続で、その都度それを乗り越え、北条家を発展させてきた。
武田・上杉・織田・徳川…このような勢力と時に争い、時に伍し、組織を維持・発展させることは容易なことではなかったはずである。
また、度重なる戦争に、領民の不満も決して小さくはなかったであろうし、飢饉や戦乱を彼らと一緒に乗り越えることもまた簡単ではなかっただろう。

北条家はあまり一族の中での争いがないことで知られるが、氏政の時代にもそれは当てはまる。
氏照、氏邦、氏規といった能力のある兄弟がいながら、彼らに下剋上をさせず、使いこなすことができたということも彼の能力や人物を物語っている。

豊臣政権との外交が失敗に終わったのは痛恨の極みではあるが、それを差し引いても、北条氏政という人物の魅力はなくなるものではないし、彼が残した足跡は非常に大きく、戦国時代を力強く生き抜いた一人の英雄であるといっても過言ではないのではないだろうか。

北条氏政の墓(早雲寺)

北条氏政・氏照の墓(小田原市)

 

       

 

 

 

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愛される金融

自分が運用業界に入って以来、ずっと目指してきたのは、「お客さまに愛される、選ばれる投資サービスを提供する」ということでした。
特に関心を持っていたのは資金の出口、つまり投資家のお金がどういう風に使われているのか、どのように経済的・社会的価値を生み出すのか、ということでした。

そのような観点から、SRI(社会的責任投資)には学生の時から関心を持っていましたし、最近でもPRI(国連責任投資原則)やスチュワードシップコードには関心を持っています。

また、運用会社以上に資金提供力及び企業への影響力の大きい銀行の存在にも関心を持っており、留学先にオランダを選んだのも、ESG投資に強い、ロッテルダムに本社を置く運用会社・ROBECOのほか、ユトレヒトに本拠を置くトリオドス銀行の存在に関心を持っていたからでした。

トリオドス銀行は預金によって集めた資金の使用においてESGを考慮しているのはよく知られているのですが、そのようなポリシーはトリオドス銀行だけでなく、他にもそのような社会的価値を重視した資金提供ポリシーを持っている銀行があります。

そのうちの一つが英国のCharity Bankで、この銀行も社会的な価値を重視した融資方針で知られており、自分自身話を聞いてみたいと常々思っていました(まだ叶っていませんが)。
(あとは英国マンチェスターのCooperative Bankなども有名です)

日常業務に埋没しているとはいえ、金融サービスを通じて社会的価値の創造につなげるというポリシーは辛うじて(汗)保っているので、時折関連団体のニュースを読んでいるのですが、たまたまCharity Bankのストーリーがジーンと来ましたので紹介したいと思います。

 

このストーリーはCharity Bankのユーザーのお話。

犬好きの人が野良犬を保護するための施設を創設するために融資を受けようと思った時にCharity Bankに話を持っていったら、社会的意義の理解が早く、早期に融資が成立したという話です。
また、Charity Bankのスタッフは助言や激励をしてくれて、一般的な銀行では生じえない人としてのつながりを作ることができたとのこと。

そして、「また融資が必要になったら、必ずCharity Bankに行く」とまで言わしめています。

金融は文字通りお金を融通するビジネスですが、モノと違って形がありません。
敢えて言うなら、資金を融通する「条件」だけが形といえます。

金融各社は各業態で日々商品開発という名の新たな「条件」開発にいそしんでいますが、そう簡単に新しい商品はできませんし、「条件」にすぎないので、新しいものもすぐに模倣されてしまいます。

そのような金融業界において、条件とは別の価値を顧客に提供し、顧客を維持し続けているCharity Bankその他のソーシャルファイナンス企業は素晴らしい存在だと思いますし、我々金融業界が目指すべきものを示唆しているようにも思います。

また最近では、「一般的な銀行」も社会的な価値を生み出すことで自分たちの価値を高めるよう動き始めています。

例えばオランダのABNアムロ銀行は、今後たばこ企業への融資を行わないことを決定し、さらにオランダの銀行業界に働きかけていくとのことです。

 

また、パリ協定が影響し、エネルギー業界への融資額が急減しているようです。
世界大手37銀行の2016年時点のエネルギー業界への融資額は2015年から22%も減少しています。

もっとも、化石燃料が地球温暖化をもたらすものとして抑制されるのは仕方ない一方、我々自身が化石燃料によって得られるエネルギーによって便利な生活ができているのも事実であることを忘れてはいけないと思いますが。

 

ともあれ、世の中にはこのような社会的価値の創造によって顧客に愛され、安定した顧客基盤を築こうという動きがあります。

その中で、自分は日本の金融業界が社会的価値を生み出すために、そしてその結果お客様に愛されるようになるために何ができるのか、ということを考えることを怠らないようにしたいと思います。

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志は志を呼ぶ

書籍の力というのは、マンガなども含めてすごいもので、読書が好きな方なら、人生を変えた、あるいは自分に大きな影響を与えた本があるのではないかと思います。

自分にとってもそのような本がいくつかあるのですが、その一つが財務省職員の池田洋一郎氏が米国ハーバード大学の公共政策大学院(ケネディスクール)への留学経験をつづった「世界を変えてみたくなる留学 ハーバードケネディスクールからのメッセージ」でした(「世界を変えてみたくなる留学」の書評)。

私がこの本を読んだのは出版間もない2009年。
留学してみたい、投資信託で世界を変えたい、などと漠然と思っていた頃ですが、この本を読んで、留学して世界のいろんな人と触れ合うことの刺激や、実際に社会的課題に触れることの大切さを知り、留学に対する思いを強くしたのを今でも覚えています。

もっとも、最近は投資信託やFintechで世の中に貢献できないか、ということは時折考えはしますが、一方日常業務に埋没しがちで、丸くなってしまったものだと思うことも少なくありません。

そんな折、たまたま知人が池田氏を招いてセミナーを開催するという連絡がありました。
その名を見た瞬間、彼の著書を読んだときの興奮が思い出されました。

これは行くしかない!と思ったのですが、間の悪いことにセミナーの時間は大学院の授業があり、残念…と思っていたら、そのあとの懇親会だけでも参加できるということでした。
これぞ神の与えてくださった巡り合わせ。行くしかありません。

セミナー・懇親会には平日の夜にも関わらず、多くの人が参加されていました。
着席の懇親会だったので直接お話しできた方は数人でしたが、半数以上が法務・コンプライアンス関係者だったのは驚きでした。
特に最初に話した二人が弁護士と企業法務の方で、このような職種は絶対数は多くないので、すごい確率だったと思います。
自分と同じような職種の方が、熱い思いを持って生きているというのは励みになりますね。

また、以前にお会いした大学の先輩にも偶然お会いしました。
留学後就職活動していた時にもお会いしたのですが、大企業の要職にあり、ご多忙の中わざわざ時間を作って業界のことをご説明いただいたのですが、何も頼るもののない無職の身には、その厚意が非常にありがたく感じたのを今も覚えています。
今は当時以上の要職にあるとのことでしたが、このように人のことを気にかけることができるからこそ出世するんだろうな、と感じました。

池田氏のお話も直接伺うことができました。
やっぱり熱いです。
英語の学習、運動が我々の体調やパフォーマンスに及ぼす影響、途上国の方に対する接し方、など、わずかな時間でしたが参考になるところ大でした。
格差論についても話があったのですが、「格差は現実としてあるのは否定できないが、格差論は所得という一面を切り取って、多面的な人の価値を捨象している」というのはなるほどと思いました。
また、グローバルカンパニー勤務の方の悩みにもさらっとアイデアを出していて、多くの体験を積まれた方はすごいと感じました。

類は友を呼ぶといいますが、集まっていた方々を見ると、志がある人には志を持った人が集まってくるということを改めて感じました。

自分はまだ何も成し遂げてないですが、志だけは失わないようにしたいものです。
(お決まりのフレーズになってきて、少々焦りを感じる今日この頃…)

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Fintechと法律

世の中にはいろんな業態の金融業がありますが、共通して言えるのは、「規制が厳しい」こと。
大きな規模のお金を動かしているため、経済に対するインパクトが大きいことから、健全な業務運営、財務体質を確保するために厳しい規制が課せられているといえます。

主なところでいえば、銀行には銀行法があり、証券には金融商品取引法、保険には保険業法があります。
私が所属する資産運用会社も、やはり金融商品取引法や投資信託法といた業規制に服しています。

しかし、Fintechの登場により、これまでの業規制では対応しきれない金融のあり方が生じています。
一方で、Fintechといえど、金融サービスを提供する以上、適切な業規制に服することが健全であると考えられます。

では、Fintechはどのような業規制に服するのか、服すべきなのか、同時にFintechビジネスを展開しようとする際にはどの規制に留意すべきなのか。
金融が規制業態である以上、このような観点は必要不可欠です。
特に私はコンプライアンスを生業としており、Fintechにも関心があるので、この点については一度整理しておきたいと考えていました。

そんな折、ちょうど学校で「Fintechと法律」について授業があったので出席しました。
しかも講師はFintechに詳しい弁護士の方。ワクワクします。

以下、学んだことを少しだけご紹介。

考え方にもよるのでしょうが、Fintechの影響を受けFintech対応された法令は3つ。
銀行法、資金決済法、そして金融商品取引法。

銀行法では、銀行は関連業務を除き、他社の株式を5%超保有することは認められていません。
資金力を誇る銀行が他社株を制限なく保有することができると、その支配力が過度に大きくなるためであると考えられます。
しかし、Fintech関連の会社であれば、例外として株式保有の制限が適用されません。
したがって、Fintech関連の会社には制限なく出資することができ、Fintechビジネスの発展にまい進することができます。
ちなみに保険業法では保険会社はやはり一部例外を除き、10%を超える他社の議決権を保有することはできない規定がありますが(第107条第1項)、この規定とFintechについては触れられませんでした。
今後保険業法はどのように変わっていくのかということにも注目したいところです。

資金決済法においては経済的価値の交換や決済のあり方が定められていますが、この中で「仮想通貨」の定義がなされました。
ブロックチェーン等Fintechで生まれた新たな価値の流通の体系が、法令にも組み込まれたと言えそうです。
もっとも、資金決済法の中では整理されたとはいえ、金商法や貸金業の中での整理はまた別だと思いますので、複雑な法体系の中にブロックチェーン等が組み込まれていくのはまだ先のことになるのでしょう。

金融商品取引法では、クラウドファンディングに対応して業規制が改正されています。
原則として、株式や債券の募集は第一種金融商品取引業者、組合持分などの募集は第二種金融商品取引業者が行うことができますが、それぞれ資本規制などが厳しく定められています。

しかし、クラウドファンディングで株式や組合持分などを募集して資金調達する場合、規模が大きくないため、第一種・第二種金融商品取引業者としての業規制をクリアするのが難しいという課題がありました。

そのため、クラウドファンディング業者限定で、第一種少額電子募集取扱業第二種少額電子募集取扱業というカテゴリーを新たに設定し、クラウドファンディングを行うことに限定して、業規制のハードルを低くし、クラウドファンディン業界の振興と規制の網をかけることを両立させています。

このように、いくつかの法令ではFintechに対応して法改正がなされています。
ただ、Fintechのビジネスも概ね既存の金融の延長線上にあることから、抑えておくべき法令も基本的には自分の行いたい業態に即したものであり、Fintechだから特別に押させておく必要がある法令というのは多くはなさそうな印象でした。

しかしながら、Fintechが今後どのような形で金融業を変えていくかは未知数であり、その形に即して法令を抑えられるように、コンプライアンス担当者としても、ビジネスの本質を理解する能力はこれまで以上に重要になってくるようにも思いました。

Fintechに関する法令を概観する機会はこれまであまりなかったので、貴重な授業でした。

ちなみに授業終了後、本校の卒業生で、オランダ留学時代に同じ大学で学んでいた方と遭遇しました。
卒業後も顔を出されていたようで、世間の狭さを再確認しました(笑)。

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流されるな、流れろ! ありのまま生きるための「荘子」の言葉

先日弱小出版社の日常を描いた「重版未定」を読んでいたら、コマの中に「流されるな、流れろ!」という標語が貼ってあり、気になったので調べてみました。

すると、なんと同じ著者がそのままのタイトル、「流されるな、流れろ! ありのまま生きるための「荘子」の言葉」という本を出していたので、こちらも読んでみました。
ちなみに、「重版未定」はコミックでしたが、こちらは半分イラスト、半分文章です。

荘子は中国の戦国時代の思想家で、「無為自然」を説きました。
俗世間を離れて生きる、というのではないですが、積極的に何かを行う、というよりは「あるがままに生きる」「なすがままに任せる」ことを重視しました。

本書ではそのような荘子の教えについて、著者なりの解釈を加え、重版未定のキャラクターに語らせています。

例えば…
A「毎日目まぐるしく変化していくなあ。ついていけないや……。ふうふう。」
B「いいよいいよ、のんびりしようよ。」(P116)
Aが俗人(読者)、Bが荘子の思考です。

荘子は、普通の人は心を疲弊させながら働くのに対し、聖人は愚鈍そのものであらゆるものに交じりながら染まることはなく、純粋なままである、と説きます。
解釈の仕方は人それぞれですが、毎日の変化を追いかけることに必死になるあまり、それに振り回されるのは心を疲弊させるだけ、と読めるかもしません。

他には、
A「もういいや。年収とか気にするの、疲れたし、飽きた。」
B「そうだ、捨てちゃえ。そんな価値観。」(P68)

これはそのままですね。
人の価値観・社会の価値観は相対的なもので、絶対的なものではありません。
お金はたくさんあった方がいいとは言うものの、お金の価値自体が相対的なものです。
お金に限らず、人や社会の価値観は相対的なもので、また移り変わります。
だから、そんなものに振り回されるのはやめた方が精神的な安寧につながりそうです。

さらに、頑張らないといけないと焦っている人にお勧めしたいのが、
A「ハア……がんばらなきゃって思うんだけど、どうしてもがんばれない……。」
B「いいよ、がんばらないで。がんばると心が折れるよ。」(P20)

このひらがなの使い方がうまいと思うのですが、それはさておき。
荘子曰く、「果実は熟せばむしられもがれ、大きな枝は折られ、小さな枝は間引かれる。これはその能力のせいでかえって苦しんでいるのと同じである」と。
優秀さをアピールしたり、頑張って成果を出せば楽になるのではなく、却って自分に負担を強いてしまうということです。

同様の趣旨のことは、他の話でも出てきます。
A「また「使えないヤツ!」って、こっぴどく怒られたよ……。この会社、つらいことばっかだなあ。・・・(以下略)」
B「よかったじゃん、無能で。のんびりできるよ。」(P64)

職場の中で優秀な人に業務が集中し、その人が疲弊してしまうということはよくあることですが、無能であれば無理を押し付けられないので、過剰に心をすり減らすことはありません。

頑張ることは大事かもしれませんが、それが自分の幸せにつながるとは限りません。
焦ると心が辛くなるし、仕事が増えると心身の健康がそがれます。
自分を守るためには、時には優秀でないこと、頑張らないことを大事にすることも必要なのかもしれません。
現状に悶々としたり、劣等感に苦しむことも少なくない自分にとっては、目から鱗が落ちる思いでした。
自分の職場にこのように考えている人がいると困ってしまいますが(笑)

このように、荘子は自分を取り巻く環境に対し積極的に働きかけるのではなく、現実を受け入れ、ありのままに生きる、なすがままに任せることの重要性を説いています。

もちろん、このような考えの人ばかりだと、社会は発展しませんし、我々は科学技術の恩恵を享受することはなかったでしょう。
我々の便益は間違いなく、「なすがままに任せる」ことを拒んだ人によって築かれています。

ただ、頑張ること、成果を出すこと、目まぐるしい変化についていくことを求められる社会で自分を守るためには、このような荘子の考え方も有益だと思います。
自分の心身を守ってこそ頑張れますし、頑張っても自分が壊れてしまっては報われません。
だからこそ、流されるのではなく、自ら流れることが大事なのではないでしょうか。
まさに、「流されるな、流れろ!」です。

世の中にはいろんなことでストレスをため、追いつめられている人がたくさんいます。
仕事や家庭のストレスで自殺してしまう人も少なくありません。

そのような人たちに無責任なことは言えませんが、少しでも多くの人が荘子のような考え方を取り入れ、自分の心の逃げ道を作り、気持ちを楽にすることができたら生きやすい社会になるのではないかと思います。

そして自分も、自分の器の大きさを見誤らず、自分を追い込みすぎないように生きたいものです。

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