物語 オランダの歴史

日本より小さな国土と人口でありながら、農業や商工業、国際政治に芸術と多くの分野で世界に大きなプレゼンスを持っている国、オランダ。
その国際競争力(IMD国際競争力ランキング2017年版では世界5位)に加え、自由と寛容というポリシーを持ったオランダは我々日本の人間にとっても学ぶところが多く、魅力的です。

それゆえに自分もその地でその雰囲気に触れ、彼らの競争力の一端でもいいので感じたいと思い、オランダに留学したのですが、歴史好きとしては不覚にも、オランダの歴史についてはあまり詳しく知りませんでした。

そんな折、中公新書の「観応の擾乱」(亀田俊和著)を探していたら、隣にオランダの歴史の新書も発売されていたのでまとめ買いしました。
タイトルは、「物語 オランダの歴史」。

オランダの歴史の始まりはローマ帝国の時代に遡りますが、本書はオランダの建国、すなわちハプスブルグ家からの独立から始まります。

時は16世紀半ば、日本では戦国時代にあたる頃、西欧に君臨していた神聖ローマ帝国はフランスやオスマン・トルコとの戦いに忙殺されており、支配下にある貴族や市民には大きな負担がのしかかっていました。
さらに、その頃ドイツで勃興したプロテスタントが多くオランダに流入していましたが、ハプスブルグ家(カール5世・フェリペ2世)はプロテスタントを異端視し、迫害していました。

そのような軋轢もあり、度重なる圧力と交渉の末、当時「低地諸州(ネーデルランデン)」と呼ばれていたオランダは立ち上がります。1568年のことでした。
そのリーダーとなったのが、オランダの有力貴族・オラニエ公ウィレム1世。後にオランダ建国の父と呼ばれる人物です。

圧倒的な戦力差に苦戦し、またその中でウィレム1世が暗殺されるという悲劇もありましたが、その子マウリッツの下、1609年にスペインと12年の休戦条約を締結し、これをもってオランダの独立が成りました。
ちなみに、この時代においては他の西欧各国は君主制を採っていましたが、オランダでは王政を廃止し、州議会が政治をリードする共和制となりました。
この点においてもオランダという国は個性的だったと言えます。

17世紀にはスペインとの再戦や3度の英蘭戦争もありますが、それを乗り越え、オランダは黄金時代を迎えます。
この時期には農工業、風力の活用、自然科学や芸術など幅広い分野で発展を遂げています。
個人的には戦争の影響で染料の確保が難しくなったことで画風にも影響が出たというのが印象的でした。

また、オランダも他の西欧諸国同様、大航海時代を経て海外進出を行います。
東インド会社を設立し、インドネシアや台湾、ブラジル、日本、北米に進出。
特に長崎の出島が有名ですが、それ以外にも世界各国で活動しています。
例えば、アメリカのニューヨークは元はオランダの支配下にあり、その時はニューアムステルダムという名前でした。

その後、ナポレオン帝政期におけるナポレオンの弟、ルイ・ボナパルトの支配(ルイ自身は寛容な姿勢でした)や1838年のベルギーの分離・独立、さらには第二次世界大戦時のドイツによる占領などの困難もありましたが、その困難を乗り越えて現在のオランダが築き上げられました。

様々な切り口からオランダの歴史を概観しているので学ぶところが多かったのですが、特に印象に残ったのは次の点です。

1. オランダは一枚岩ではなく宗教対立もあった
オランダは宗教にも寛容で、多様な宗教が調和しているというイメージがありましたが、実はプロテスタントのカルヴァン派とカトリックで長い間対立がありました。
建国初期のころはカトリックは迫害を受けていましたし、現在でもカトリックとカルヴァン派というルーツは政治やメディアなどの分野で重要な要素になっています。
もちろん、現在はオランダはキリスト教だけでなくイスラム教などのほかの宗教に対しても寛容な姿勢を打ち出していますが、日本のような宗教に対する関心が強くない国のある種の「無頓着」と、信仰心の強い国の「寛容」の違いを考えさせられました。

2. 国内滞在のユダヤ人の犠牲者の割合が最も大きかったのがオランダ
第二次世界大戦時には世界各国でユダヤ人が犠牲になっていますが、各国に滞在していたユダヤ人の中で犠牲になった人の割合が最も高かったのはオランダだったそうです。
本書によると、オランダ内のユダヤ人で生き延びたのは約27%で、4人に1人しか生き延びられなかったのに対し、ベルギーは60%、フランスで75%のユダヤ人が生き延びており、オランダ内のユダヤ人の犠牲者の多さが際立っています。

ドイツの占領機関の行政能力の高さやオランダ人の交渉姿勢などがその要因として挙げられていますが、アンネ・フランクを匿ってきた国がこの結果というのは意外でした。

3. 鉄砲の三段打ちは織田信長の専売特許ではない
鉄砲の三段打ちといえば織田信長の長篠の戦いが有名ですが、オラニエ公ウィレム1世の甥で、マウリッツとともに軍事革命の担い手となったヴィルヘルム・ルイードヴィヒ・フォン・ナッサウがマウリッツ宛の手紙で同様の戦法を披露しています。
これは1594年のことで長篠の戦いの20年後になりますが、長篠の戦いの三段打ち自体が疑問視されていますので、もしかしたら三段打ちを初めて考案したのは彼だったのかもしれません。

ちなみに鉄砲といえば、1584年にウィレム1世は鉄砲で暗殺され、これが世界史上初の国のリーダーの暗殺事件だそうです。
日本では1566年に戦国大名の三村家親が宇喜多直家に鉄砲で暗殺され、これが鉄砲による初めての暗殺とも言われますが、国のリーダーとなるとウィレム1世となるということのようです。

4. エラスムスは現在も人気
オランダで最も有名な思想家として挙げられるのはおそらく15世紀に活躍したデシデリウス・エラスムスだと思われますが、彼は現在もオランダ人の中では重要な存在のようで、オランダ人の偉人ベストテンには現在でもランクインする存在です。

存在感でいうと日本における福沢諭吉のような感じだと思いますが、福沢諭吉でさえ、日本の偉大な人物ベストテンに安定して入ることができるかというと疑問だと思います。
戦国武将、幕末の偉人、天皇、芸術家、科学者、スポーツ選手、経済人など甲乙つけがたい候補がたくさんある中でベストテンに安定して入るというのは難しいことで、思想家がそれに入るというのは相当強い影響力を持っていることを意味しています。

エラスムスは宗教・宗派間の調和・協調を重視した人物で、彼がオランダで人気というのは、「寛容」の国、オランダの面目躍如でしょう。

ちなみに東京の八重洲の由来となったのが、リーフデ号に乗って日本に来たオランダ人ヤン・ヨーステンであることは有名ですが、そのリーフデ号は元々エラスムス号という名前で、エラスムスの像が取り付けられていたそうです。

自分が留学していた大学もエラスムスの名を冠していたので、彼の名前を見ると少し嬉しくなったりします。

 

偉大な小国・オランダの歴史はここには書ききれませんが、本書では政治・経済・芸術・宗教といった観点からオランダがどのような歴史をたどってきたのかがコンパクトにまとめられています。

今思えばオランダに行く前に歴史をもっと勉強しておくべきだったのですが、今もなお我々がオランダに学ぶべきことは少なくないと思いますので、ぜひ多くの方にオランダへの関心のとっかかりとしてその歴史に触れてもらえると、一人の歴史好き・オランダ好きとして嬉しいものです。

 

 

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重版未定2

弱小出版社の苦労と編集者の奮闘をコミカルに描いたコミック「重版未定」について先日ご紹介しましたが、続編が出ていたので読んでみました。

前回は会社の業績のために日々奮闘するという流れの中で日常的な編集者や出版社の業務について描かれていましたが、今回は編集者の主人公が自分の仕事のやりがいについて考えた結果、最高の一冊を創るという流れの中で出版業の日常が描かれています。

前回は弱小出版社の現実が前面に出されていたため、出版業界の慣行や出版社の経営に関する話も多かったのですが、今回は一冊の本を出すプロセスがメインになっています。

書籍の価値は当然その内容によるところが大きいのですが、それだけではありません。
装丁、つまり書籍の見栄えもまた重要です。

今回の主人公は、前回のように書籍を出版するというプロセスをこなすだけでなく、できる限り凝った書籍を創ろうとします。

そしてその過程で、著者とのやり取りや装丁を左右するデザインや紙(表紙、本体、綴り方など)の選択、そして予算との兼ね合いなどがテーマとして重要なポイントになっています。

編集者の仕事といえば、内容のチェックやスケジュール管理がメインだと思っていましたが、装丁にまで絡んでいるということが意外でした。
もちろん、装丁も書籍と一体のものなので編集者が管理するというのは考えてみれば当然なのですが、改めて書籍を創るということの大変さと深みを感じました。

装丁も管理するということは、レイアウトや紙の質なども決めるということですが、そのためにデザイナーや印刷会社とも折衝を行います。
それぞれ一家言ありますし、相手にも相手の都合がありますから、編集者の希望を通すのも大変です(デザインも使用する紙もコストに大きな影響を及ぼします)。
ストーリーの中ではデザイナーが職人らしく編集者の希望やドラフトを一切無視して自分のベストの案を出してきますが、それに対する編集者たちの反応がやはり職人らしくて見どころです。
デザイナーは自分の案を提示しただけで何も語らないのですが、言外にある想いをきちんと理解する編集者たち。
職人と職人のやり取りはかくあるべし、なんて思ってしまいました。
お互い渋いです。

編集者の常なのか(?)、書籍づくりの最後に最大のピンチが訪れます。
もうダメなのか…と思ったときに奇跡はおきます。
というか、編集者が奇跡を起こします。

もちろん、このような奇跡もストーリの展開上生じているだけではなく、現実の出版業界においても時々あることのようで、我々が普段読んでいる書籍も実は多くの奇跡の結果かもしれないと思うと、編集者の方々の努力に頭が下がります。
素晴らしい本は当然著者が素晴らしいのだと思いますが、それだけではなく編集者もまた素晴らしいのだと思わせられます。

前回に続き、今回も著者の出版業への愛情がたっぷり詰まっています。
特に今回は書籍を創るプロセスに焦点が当てられているため、より書籍を創るこだわりについて触れることができました。

そして前回もですが、編集長や主人公の編集者、営業に予算管理、さらに作家やデザイナーがそれぞれ自分の仕事に誇りとポリシーを持っているということにも、社会人として感動を覚えました。

自分の所属する資産運用業界も同じくそれぞれの職種がプロフェッショナルとして行動するところも似ていますし、また粗製乱造はしたくないという主人公の想いも、やはりファンドの濫立が問題視されているわが業界の問題意識と重なるところがあって、その点でも考えさせられるところ大でした。

 

実は自分の夢の一つは書籍を出すことなので、このような素晴らしい編集者に導かれて、世の中に少しでも意義のある本を出してみたいと思いました。

とりあえず、世の出版業に貢献するためにも本を買わねば。。。

 

※なお、「重版未定」は見事重版になったようです。おめでとうございます。

 

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南朝の真実 忠臣という幻想

もはやベストセラーの域に達したともいえる呉座勇一氏の「応仁の乱」をミーハーな気持ちで読んだら想像以上に面白く室町前期~中期に関心が引き立てられました。

その流れで(?)、やはり注目を集めている亀田俊和氏の「観応の擾乱」を読んだらやはり面白く、室町幕府の黎明期でもある南北朝時代にも関心がわきました。

室町初期というと、建武の新政が始まり、崩れていく太平記の時代が比較的人気だと思います。
特に足利尊氏を中心とする北朝と、南朝の楠木正成や新田義貞、北畠顕家、そして後醍醐天皇の激戦は日本史の中でも人気のある時代ではないでしょうか。

特に戦前は皇国史観で南朝が絶賛され、中でも楠木正成は忠臣中の忠臣として扱われていましたし、今でも南朝の武将たちは無能な公家に振り回された悲劇の忠臣というイメージが強いと思われます。

また、建武の新政自体が公家に手厚く、武家に冷たい政治で、そのために武家が足利氏を中心にまとまったという理解が一般的ではないでしょうか。

一方、北朝は観応の擾乱に代表されるようにゴタゴタ続きで、尊氏も直義も一度は南朝と手を組むなど、南朝にも南北朝を勝ち抜くチャンスはあったようにも思えます。

では、なぜ南朝は勝てなかったのか、南朝の実態はどのようなものだったのか、ということが気になります。

そこで、「観応の擾乱」に関連して、同じく亀田氏の著書「南朝の真実」を読んでみることにしました。

特に印象に残ったのは次の点です。

1. 南朝も一枚岩ではなく、政権が派生していた
後醍醐天皇を擁する忠臣の集まりというと、みんなが後醍醐天皇万歳!後醍醐天皇のために命を懸けて頑張る!というモチベーションがあったようにも思えますが、実態はそんなことはありませんでした。

南朝の中でも後醍醐天皇の姿勢に懐疑的な人は多く、中でも北畠顕家は建武の新政を真っ向から否定する書面を後醍醐天皇に送っています。
また、これまで知りませんでしたが、同じく南朝に尽くし、「神皇正統記」で知られる顕家の父・親房もやはり後醍醐天皇の姿勢に批判的だったようです。

とはいえ、後醍醐天皇の政策に批判的な人物がいたこと自体はそれほど驚くことではないのですが、それ以上に興味深かったのは、南朝の中でも独立志向のある勢力が発生していたことでした。

もともと後醍醐天皇の系統自体が大覚寺統の中でも傍流であったにもかかわらず、後醍醐天皇がゴリ押しで自らの子孫に皇位を継がせようとしたことから、大覚寺統(※)の中での分裂がありました。

※当時は皇統が持明院統大覚寺統に分かれており、本来はそれぞれの皇統が交互に皇位に就く(両統迭立)ことになっていましたが、大覚寺統の後醍醐天皇はそれを自らの子孫に独占させることを望み、それも鎌倉幕府倒幕の要因の一つとなります。
室町幕府も当初は両統迭立の方針を維持するつもりだったようです。

さらに後醍醐天皇は親王を各地に派遣してその地で勢力を拡大させる方針を採っていたことから、その親王たちが自立を目指す動きがあったことが指摘されています。
例えば新田義貞が擁した恒良親王は、北陸に向かう直前に皇位継承の儀式をしたこともあって天皇として綸旨を発給していたことが判明しており、南朝の中でも分裂の危機をはらんでいたことがうかがわれます。
また、九州において北朝を圧倒していた征西将軍宮懐良親王(征西将軍府)においてもそのような兆候があったようです。

室町幕府では鎌倉公方をはじめとする地方政権のコントロールに苦心したことが知られていますが、それと同じことが南朝にも当てはまったようです。

2. 建武の新政は先駆的な政策もあり、評価すべき
大失敗と言われている建武の新政ですが、実は政策としては優れたものも多く、室町幕府に受け継がれたものも少なくないようです。

「観応の擾乱」でも著者が指摘しているように、室町幕府では土地を与える場合に将軍の下文に執事が執行状を添えて強制執行力を持たせていますが、鎌倉幕府では執行状により強制執行力を与えるシステムはなかったようで、幕府の権威と本人の実力でその土地を実効支配する必要があったようです。
つまり、実力(武力)を持っていない人にとってありがたい仕組みになっています。

そしてこのシステムは建武の新政によって確立した制度で、土地の授与(恩賞宛行)といった幕府の根幹にかかわる制度についても建武の新政によるところが大きいというのは、政策の優劣を判断する大きな材料にになると思われます。

著者も指摘していますが、建武の新政の崩壊は、政策が悪かったのではなく、それをきちんと運営するだけのノウハウやリソースがなかったことにより原因があった可能性もありそうです。
なお、著者は「建武の新政に不満を唱えていた人物は公家が多く、むしろ武士に手厚かった」というコメントもしています。恩賞宛行の件数も室町期より多かったようです。
一方で、恩賞宛行の実施のスピードが遅かったために武家の不満を抑えきれなかったのが失敗の原因と指摘されています。
この欠点を踏まえ、室町幕府では手続きを簡素化し、スピーディに恩賞宛行を実施できるように制度の改善が行われています。

3. 建武の新政(=後醍醐天皇)の後継者は南朝ではなく室町幕府
後醍醐天皇と袂を分かつことになった足利尊氏ですが、実は非常に後醍醐天皇のことを慕っており、当初は合戦に出ることに消極的で、後日後醍醐天皇が没した時にはその菩提を弔うために天龍寺を建てているほどです。

そして、上記の通り、室町幕府は建武の新政によって導入された制度を積極的に政権運営に活かしています。
むしろ南朝の方がそのような制度運営を続けておらず、政策的には後醍醐天皇の後継者は室町幕府であったという捉え方もできそうです。

本書は南朝の内部分裂を主なテーマにしていますが、南朝は北朝・室町幕府とセットでこそ語られるものなので、北朝・室町幕府との関係についても多くの説明がありますが、北朝・室町幕府がどのように南朝や建武の新政を見ていたか、という視点も非常に面白いです。

上記のように、室町幕府が積極的に建武の新政の成果を取り入れていたり、南朝が衰退する中で南北朝の和睦が機運が高まると、却って南朝が強気に出たために和睦が破綻したり(その結果、南朝を支えていた楠木正儀(正成の子)が北朝に寝返ります)、と南朝と北朝の関係性における注目すべきポイントは枚挙にいとまがありません。

 

本書は南朝の実態や南朝と北朝の関係において新しい視点を提供してくれて大変勉強になりましたが、中でも
建武の新政は現実的かつ先駆的な政策であったし、武家にも手厚かった
南朝の内部は、政権構想も北朝に対する姿勢も、擁立する君主もバラバラであった
政権・組織が下り坂になるときは共通した傾向がある(南朝と現代の野党にも似た傾向がある)
というのが特に印象に残りました。

また、最後に南朝の姿から読み取れる教訓について所見が述べられていますが、「観応の擾乱」同様、歴史から教訓を抽出するという姿勢は、個人的には非常に共感するものがあります。
時代背景や社会環境は異なるとはいえ、やはり同じ人間が織りなす社会なので、そこには何らかの教訓があると思いますし、それゆえに歴史というものは学ぶべきなのだと思っています。

学術としての歴史学は史実を明らかにすること自体に使命と価値があるのだと思いますが、歴史好きとしては何らかの教訓を見出したいので、そういう考え方を否定せず、むしろ後押ししてくれる歴史学者の存在はとてもありがたいです。

 

ちなみに著者の亀田氏はこの8月から台湾大学にて教鞭をとられるそうです。
どのような授業をされるのかはわかりませんが、台湾の地でも日本の英雄たちの織り成すドラマとその教訓を存分に学生に伝えていただきたいものです。

 

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Fintech企業への提案

せっかく博士課程という(単位をとらなくてもよい)自由な立場で大学院に行くのだから、自分の関心のある授業に出席しようと思って取ったFintechの授業も最終回。

最終回の授業は、あるFintech企業に新規事業を提案するというもの。
受講生がそれぞれ自分の提案を事前に考え、それを発表する形式でした。

単位をとらなくてもいいので課題をこなす必要はなかったのですが、自分の成績表に×がつくのは気持ちがよくないし、せっかくの機会なら自分の考えについてフィードバックをもらってみたいと思い、考えてみることにしました。

色んな案を考えては潰し、考えては潰しの繰り返しで、ようやく一つの案にたどり着きました。
MBA時代は新規事業について考える機会が多かったのですが、日常のコンプライアンスの業務だとどうしても創造性がなくなるので、いい頭の体操になりました。
改めて新規事業の企画というのは創造性が必要で、自分には向かないことを実感しました(一応経営戦略専攻だったのですが…)。

提案を行う相手であるFintech企業はクラウド会計サービスを展開する会社だったのですが、提案した業務は「クラウド会計サービスと接続されるクラウドファンディングのプラットフォームの運営」でした。

経理はどの会社でも必要な一方でそれ自体は利益を生まないし、ある程度の知識も必要なため、経理担当者を雇用するのは中小企業にとっては負担となる一方、クラウド会計サービスだと日々の取引を入力するだけで会計帳簿ができるため、中小企業の多くがそのサービスを使用しているということでした。

そのような中小企業のもう一つの悩みは資金調達。
中小企業は直接金融市場にアクセスすることが難しいため、資金調達は銀行や信用金庫などの金融機関に依存しがちですが、それゆえに金融機関の意向や都合に左右されてしまうことも少なくありません。
そこで、中小企業の資金調達の選択肢を増やし、同時に金融機関への依存度も低下させる方法としてクラウドファンディングのサービスを提供することを考えました。

具体的には、クラウドファンディングを希望する場合には、経理システムに入力しているデータから自動的に必要な開示情報が作成されて、同社が審査したうえで条件に合致すれば運営するプラットフォームに掲載される、といったものです。

イメージはこんな感じです。

この仕組みのユーザーと企業側の想定される(と私が考える)メリットは下記の通り。

【ユーザーのメリット】
1. 経理システムや文書作成システムと連携させるため、少ない事務負荷で資金調達を行うことができる。
2. 経理システムの数値を使うため、資金調達に係る情報開示の正確性が高い(計数の操作が難しいため信頼性が高い)。
3. ユーザーは資金調達の選択肢を得られることになり、銀行への依存度が低下する。
4. 株式型や融資型、購入型など柔軟な資金調達が可能になる。

【サービスプロバイダー側のメリット】
1. 資金調達のフェーズまでフォローすることができるため、他の会計支援システムとの差別化につなげることができる。
2. 自社でプラットフォームを運営することにより、プラットフォームの仕様を他のサービスとの連携がしやすいように設計できる。
3. 資金調達のプラットフォームと一貫してサービスを提供することでユーザーの維持につなげることができる。
4. プラットフォームの運営によりユーザーや投資家からフィーを徴収することで新たな収益源を生み出すことができる

一方、クラウドファンディングのプラットフォーム運営には課題もあります。
自分では下記の課題が思い浮かびました。

1. ライセンス(業登録)
クラウドファンディングを運営するためには業登録が必要です。
もっとも、金融商品取引法ではクラウドファンディング業者用に第一種・第二種電子募集取扱業という業態が設定されていて、一般的な金融商品取引業者に比べるとハードルが低くなっています。

その代わり発行額にも制限がある(1発行体の年間発行額1億円まで、各投資対象への投資家当たりの投資額は50万円まで)のですが、中小企業の資金調達の支援という役割においては十分かと思います。

2. 発行者の審査
プラットフォームにどんな会社もアクセスできるようだと、あまりに玉石混合すぎて、投資家にとっても魅力が少なくなります。
そのため東証をはじめとする証券取引所では上場基準を設け、それをクリアした企業にのみ上場を認めています。

それはクラウドファンディングでも同じで、一定の基準を満たした企業のみプラットフォームにアクセスできるようにするのが望ましいと思いますが、そのための審査基準や審査プロセスを整備する必要があります。

この辺りはシステム内に発行体の経理・財務情報や取引情報が存在するので、そのような情報を使って自動的に審査ができる仕組みができれば省コストかつスピーディな審査ができそうな気がします。

3. 投資家へのアクセス
資金調達のプラットフォームを作っても、投資家が多く集まらなければ魅力のある資金調達の場とはなりません。

そのためには、発行体自体が魅力を発信していかなければいけないし、信頼性や発行体数など市場としての魅力も高める必要があります。

現在同社は強固な顧客基盤を持ち、経理システムと接続させれば計数の信頼性も高くなるため、顧客である発行体の情報発信を支援するなどして市場の魅力を高めていくことが重要になるかと思います。

 

以上が私の提案でした。
残念ながら時間の関係で自分の提案は授業中に取り上げられることはなかったのですが、他の方の発表を聞いていると似たアイデアを持っている方が何人かいたので、その方に対するフィードバックが参考になりました。

中でも、その事業によってネガティブな影響を受ける人のことも考える必要があるということが勉強になりました。
裏を返せば、そのような人たちともポジティブな関係になるような仕組みを構築していけばよいということにもなると思います。

一方、前述の自分の着眼点についてはあまり筋が悪いというものでもなさそうで、先生がポイントとしてコメントしていたものもありました。

あまりにピントが外れたことばかり考えていたら恥ずかしいですが、最低限のレベルには至っていたようです。

 

投資信託会社のコンプライアンスを担当していると、各部署の実務運行にも目を向けることが多くなるため、法令のことだけでなく、どうすれば実務がうまく回るのか、効率的・安全に業務を遂行できるのかということを考える癖がつくようです(少なくとも私はそのようです)。

そのような思考回路もあってか、法令上のハードルをクリアすることと同時に、新しいサービスが会社やユーザーにとって便利か、安全かということも考えるようになっていました。

そう考えると、案外コンプライアンスの人間も起業に向かない、というわけでもないのかもしれず、そういう点に思いが至ったのもこの授業の収穫かもしれません。
(この記事を書いていて気づいたのですが)

それはともかく、やはり新規事業を考えるというのは(考えるだけなら)楽しいし、いつかは自分もそのようなチャンスをつかんでみたいと思ったりしました。

 

これで一学期も終わり。
そろそろ本腰を入れて自分の研究課題とも向き合いたいところです。
そんな時期に限って面白い歴史関係の本がたくさん出てきて、ついそちらに手が伸びてしまうのですが・・・(汗)

 

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観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い

戦乱続きの室町時代

室町幕府の権威を失墜させた動乱としては応仁の乱がよく知られていますが、室町幕府は南北朝の争いの最中に成立した政権ということもあり、そのほとんどの期間において戦乱が生じていました。
そのため、なかなか安定した治世とならず、その初期においては南朝に何度か京都を奪回されていますし、中期には鎌倉公方との抗争や将軍暗殺、さらに後期には応仁の乱を経て戦国時代に入るという、戦乱続きの時代と言えます。

そんな室町幕府の黎明期には南朝との戦いに忙殺される中で、幕府自体が真っ二つに分かれてしまう事件がありました。
観応の擾乱(じょうらん)と言われる事件で、将軍足利尊氏と政権運営を担当していた弟・直義(ただよし)が争った内乱です。

鎌倉幕府打倒のために立ち上がってから、尊氏と直義は仲の良い兄弟として二人三脚で歩んできたイメージがあるのですが、なぜその二人が争うことになってしまったのか不思議に思っていました。

 

気鋭の歴史学者が解き明かす観応の擾乱

そんな疑問に答えてくれる好著が出版されました。
亀田俊和著「観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い」。
先日の呉座勇一著「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」と同じく中公新書です。

ちなみに帯には「骨肉の争いが生んだものは―」と書かれていて、読む前から人間ドラマの予感がします。

では、この二人の兄弟の骨肉の争いはどのようなものだったのか。

観応の擾乱 前半戦

江戸時代の将軍(特に初期)のイメージでは、将軍は最高権力者で、何でも決めることができる、という感じがしますが、室町幕府の黎明期において実務上の最高権力者は将軍の尊氏ではなく、弟の直義でした(直義邸の場所から、その地位を「三条殿」といいます)。
もともと後醍醐天皇との決裂を主導したのも直義で(直義は後醍醐天皇の子の護良親王も殺害しています)、そのような経緯から尊氏は政権運営にほとんど介入せず、直義が幕府の運営を行っていました。

また、観応の擾乱は保守派の直義と革新派の高師直(足利家執事)という対立軸が中心になりますが、もともと二人は対立する存在ではなく、師直は足利家のナンバー2である直義にも執事として仕えつつ、役割分担をしていたようです。
直義と師直は犬猿の仲というイメージもありますが、史料を読むと、元々対立していたわけではないようです。

といっても、やはり権力争いはあるもので、讒言によって直義が師直を実力で排除しようとしたことにより直義と師直の争いが表面化したというのが観応の擾乱の発端でした。
つまり、観応の擾乱はもともと尊氏は第三者で、直義と師直の争いということになります。

直義は師直を執事から解任し、所領も没収し無力化してしまいます。
執事の権限がいくら強くても主家には逆らえない…

…というほど南北朝の武士は甘くはありません。
師直は自分に賛同する勢力を終結し、大軍を率いて直義に迫ります。
抗し得ないと考えた直義は将軍・尊氏邸に逃げ込みますが、師直はそのまま尊氏もろとも将軍邸を包囲します。

将軍邸を包囲して自分たちの政治的主張を通す行為は「御所巻」と呼ばれ、室町時代特有のものですが、最初の事例がこの尊氏邸包囲だそうです。

自分たちが包囲されている以上、将軍とはいえ師直の要求を受け入れざるを得ません。
この結果、直義は「三条殿」を引退し、尊氏の子・義詮(後の第二代将軍)を三条殿にするとともに、讒言した者たちを流罪にすることになります。もちろん師直は執事に復帰します。

これで師直の勝ちが決定し、室町幕府は安泰…とはなりません。
直義もまた南北朝時代の武士、ただでは倒れません。

引退後出家して、一時はわびしい生活に甘んじていた直義ですが、尊氏が九州で勢力拡大に励む足利直冬を討伐するために出陣した隙に京都を脱出し、尊氏・師直に対して反旗を翻します。

ちなみにこの直冬も観応の擾乱のキーパーソンの一人です。
彼は尊氏の子なのですが、庶子であったため、認知もされないまま出家させられます。
結局直義が養子として引き取るのですが、その後も長らく尊氏は親子として対面することはありませんでした。
20歳を超えた初陣のときに初めて親子として認知され、華々しく活躍するのですが、それでも尊氏や義詮には冷たくされていて、彼の心中を思うとやりきれないものもあったでしょう。

その後直義の献策により西国に配置されますが、中央政権に従わなかったため、実の父と戦うこととなるという、悲しい結末を迎えます。
もちろん、直冬も南北朝の武士。おとなしく討伐を受けるわけはありません。

直義・直冬方にも多くの有力武将が味方し、日本全国が争乱の舞台になります。
ちなみに直義はこの時南朝に降伏する形をとり、南朝勢力をも味方につけています。

その結果、直義方が優勢になるのですが、意外なことに直義は自らが企画した戦いでありながら本人は消極的でほとんど何もしていなかったそうです。

それでも直義方優勢のまま尊氏と直義は和睦。
実質的には直義の勝利です。
この時、高師直や兄弟の師泰をはじめとする高氏一族の多くが殺害されています。
高氏一族の殺害は、三条殿後継に貢献したことに感謝している義詮と直義の間に決定的な亀裂を生みます。

 

観応の擾乱 後半戦、そして終結へ

その後紆余曲折を経て、和睦はわずか5か月で破綻。
しかし、元々兄・尊氏と争うことに積極的でなかった直義は、直前に実子を失っていたことにより、さらに無気力になっていました。

一方、もともとは政務から手を引いていた尊氏は、政務・戦闘の最前線に積極的に出ていくことになります。
観応の擾乱の後の尊氏の奮闘も含め、この過程で尊氏は征夷大将軍らしくなってきたことを著者は示唆していますが、この点で直義と逆のベクトルであるのが興味深いです(直義は昔からずっと最前線で戦ってきた武将です)。

和睦に際して兄への遠慮もあったのか直義は自分に味方した武士に十分に報いることができなかった直義は以前ほど強い勢力にはなりませんでした。

そのような状況下で尊氏は直義との講和を試みますが、結局講和はならず、近畿から関東に戦いの舞台を移して二人は戦い続けます。
そして、最後の最後まで尊氏は弟との講和を探り続ける中、直義は降伏。
その後も直冬や南朝勢力との戦いは続きますが、観応の擾乱のは一応の終結を迎えます。

その後、高師直の命日と同日に直義は死去。
毒殺という説が一般的ですが、著者は病死であると推測しています。
著者も指摘する通り、失意の人間がすぐに亡くなるというのはよくあることですし、最後まで直義との講和を探った尊氏がわざわざ暗殺するとは考えにくいです(徹頭徹尾、直義と戦うつもりだった義詮には暗殺の動機はあるかもしれません)。

本書は室町幕府の制度や裁判のあり方、社会背景なども踏まえて観応の擾乱を俯瞰するもので、上記のような人間ドラマだけを取り出して描いているものではありません。
それゆえに、よりその内容が説得力を持つのですが、一方で人間ドラマとしても読みやすい構成になっていて、その点においても好著だと思います。

 

死闘の中での肉親ゆえの葛藤

観応の擾乱においては高師直という媒体を介して、尊氏と直義、義詮と直冬が兄弟で死闘を繰り広げています。
その中でも尊氏と直義が最後まで和睦を試み、直冬も尊氏に反旗を翻しながら、仲が悪いとはいえ父親には本気になって戦えないという、肉親の情から逃れることができなかったということを知ることができたことが、自分にとっては最大の収穫でした。

このほか、正平一統に対する室町幕府の対応や尊氏と義詮の分業体制、室町幕府の裁判・意思決定の変遷など興味深いポイントがたくさんあり、読みごたえは十分すぎるほどでした。

史料に忠実に史実を描き出すとともに、無味乾燥な描写ではなく、適度に推測や著者の印象も交えながら人間ドラマも描き出し、その中から現代人に対する教訓にも言及する本書からは、著者の歴史(人物)に対する姿勢や愛情がよく伝わってきて、歴史好きの方には広くお勧めしたい一冊です。

尊氏と直義、あちらの世界では仲の良い兄弟に戻っていてほしいものです。

 

 

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北条氏政

父祖の後を継ぎ、最大版図を築きながら時代の波に飲まれた関東の覇者

氏政の評価

北条氏政は1538(または1539)年、小田原北条氏三代目・北条氏康の次男として生まれた。
兄に新九郎(氏親)がいたが早世したため、嫡男となる。

彼は一般に、北条氏を滅亡させた当主として知られている。
そのためか、彼にまつわるエピソードも批判的なものが多い。

よく知られたものに、「汁かけ飯」の話がある。
ある日氏政が、氏康や家臣たちと食事をしていた。
当時はご飯に汁をかけて食べていたようであるが、氏政が何度か汁をかけて食べていると、氏康が突然「これで北条家もおしまいだ」と言い出した。
誰もその意味が分からないので、氏康にその真意を問う。
氏康曰く、「毎日汁をかけているのだから適量がわかるはずであるのに、氏政は一度ではなく何度も汁をかけている。このようなことでは人の心など測り知ることはできず、北条家を発展させることなどできない」と。

また、収穫された麦を見た氏政は、これで麦飯を作るように命じた。
それを聞いた武田信玄は、「収穫された麦が麦飯になるには相応の工程があって、すぐに食べられるものではない。そんなことも知らない氏政は世間知らずだ」と笑った、という話もある。

このように散々な言われような氏政であるが、一方で北条家の最大版図を築き上げたという実績もある。

では、実際のところ、彼はどのような人物だったのだろうか。

後北条氏4代目として生まれる

前述のとおり、彼は氏康の次男であり、当初は嫡男ではなかったが、1552年に兄・新九郎が夭折したことにより後継ぎとなる。

初陣の時期は正確にはわかっていないが、一説には1555年とも推測されている(黒田基樹・浅倉直美編「北条氏康の子供たち」P40)。

1558年には領国支配の文書が見られ、1559年には、当時関東を襲った飢饉に対する責任をとって氏康が形式的に隠居したことに伴い、家督を継ぐ。
形式的とはいえ、わずか20歳少々で北条家の当主となったことになる。

新当主・氏政の最初の仕事は徳政令であった。
氏康が隠居したのは飢饉による領国の疲弊であったため、領民の負担を軽減することが喫緊の課題であったことによる。

関東の覇権争い

しかし、氏政の治世は安定しない。
氏政が家督を継ぐ少し前、北条家は関東管領・上杉憲政を越後に追っていたが、彼を擁立した長尾景虎(上杉謙信)が関東に侵攻してきた。
1561年には上杉軍をはじめとした関東諸将の軍約11万の兵に本拠地・小田原城を包囲されるという危機も迎える。

このように関東が戦場になるため、復興は容易にいかず、氏政は再度の徳政令を出すなど、領民の引き留めに手を尽くしていた。

一方、関東においては同盟を組んでいる武田家と連携して上杉方と対抗し、徐々に勢力を広げていく。

1564年には、房総地域に勢力を拡大しつつあった里見家と第二次国府台の戦いで激突。
緒戦は敗れるも、勝利に油断する里見軍に奇襲をかけて勝利する。
この時、氏政は先陣を切って勝利に貢献したともいわれている。
国府台の戦い以前から氏政は各地を転戦しており、戦術眼や武将としての経験はかなりのものであったと思われる。

これ以降、氏康が軍事的に表に出ることは少なくなり、氏政が北条軍の総大将としての役割を担うようになっていった。
内政面でも氏康がサブに回り、氏政が当主としての役割を積極的に担うようになったようである。
関東における北条家の基盤が安定するにつれ、彼の内政における取組は実を結び、領国の状態も改善していった。

なお、1567年には再度里見家と三船台で戦うが(三船台の戦い)、この時は敗れ、里見家の勢力拡大を許してしまい、東方への勢力拡大が停滞してしまう。

事態はさらに悪化する。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死したことを受け、甲相駿三国同盟を結んでいた武田信玄が1568年、今川家に侵攻。
ここに三国同盟は破綻することになった。
なお、三国同盟の一環として、氏政は信玄の娘である黄梅院を娶っていたが、彼女とも離縁を迫られる。
彼女とは非常に仲が良かったようで、彼女の死後、信玄に分骨を依頼している。

北条家は今川家を支援するべく武田家と戦争状態に入る。
そのため、北条家は上杉家と同盟を行うことになる(越相一和)。
この同盟交渉は氏康主導で進められたようで、氏政は積極的でなかったとの指摘がある。
また、同盟交渉は氏政の弟、氏邦が担当者に任じられていたが、独断で氏邦の兄(氏政の弟)・氏照も交渉を始めてしまったことにより、氏康・氏邦と氏照の間に摩擦が生じたようである。
同盟に当たっては、当初氏政の子が養子(人質としての意味合いもある)として上杉家に差し出されることになっていたが、黄梅院に続く家族との離別を嫌ったのか、氏政は実施を差し出すことを拒否。
結局弟の三郎が上杉家に入り、上杉景虎となる。

結局、北条家は今川家を救えなかった。
さらに武田家は北条家にも牙をむく。
1569年には、6月に伊豆方面で交戦した後、8月には上野から北条領に侵攻。
氏邦の鉢形城、氏照の滝山城を攻撃した後、10月には小田原城を包囲。
小田原城は落とされなかったが、武田軍が撤退する際に追撃したところ、三増峠の戦いでは手痛い敗戦を喫することになった。

後北条氏の最高権力者としての采配

その後も駿河方面で激しく争うが、1571年に氏康が病死したことに伴い、越相同盟を解消し、武田家との甲相同盟を締結する。
このような場合、人質に出している弟・景虎の身が危険になるところだが、謙信は変わらず景虎を養子として遇している(これがのちの悲劇につながるのだが)。

越相同盟の破棄により、再度上杉家や反北条勢力との関東での戦いが激しくなる。
氏政は積極的に出陣しているようで、徐々に勢力を拡大していった。
1577年には宿敵であった里見家と有利な条件で和睦することに成功する(房相一和)。
三船台の戦いから10年後のことであった。

1573年には武田信玄が陣没。武田勝頼が跡を継ぐが、同盟は継続している。
その後、武田家においては急速な勢力拡大と長篠の戦いにおける挫折を経験しているが、その間においても同盟関係は維持されており、むしろ氏政の妹が勝頼に嫁ぐことで同盟関係が強化されていた。

武田家との関係が悪化するのは1578年。
同年、上杉謙信が病死し、その後継を巡って、二人の養子、景勝と景虎が対立する「御館の乱」が発生するが、弟を支援したい氏政は当時佐竹氏と対陣中であったこともあり、勝頼に景虎の支援を要請した。
要請にこたえて越後に出陣した勝頼であったが、景勝と景虎の和睦をあっせんした後、和睦が破綻すると景勝側についてしまった。
その結果、景虎は敗死し、北条家は武田家と敵対していた織田家と手を結ぶことになる。

再び関東で武田家と争うことになったが、長篠の戦いで有力重臣を多く失ったとはいえ、武田家は強く、上野や武蔵でも必ずしも優勢に戦いを進められたわけではなかった。
むしろ武田・上杉・佐竹といった包囲網ができ、国人の中にも武田家に付くものは少なからずいて、氏政の危機感も相当強かったようである。

中央政権とのかかわり:織田政権~豊臣政権

このような情勢を踏まえ、1580年には織田信長に臣従する旨を伝え、信長の娘を嫡男・氏直に娶らせるよう願った。
その願いを叶えるための一環としてであろうと思われるが、この年家督を氏直に譲っている。

そして1582年、織田軍は武田家領国に侵攻。
破竹の勢いで駒を進める織田軍であるが、信長は北条家には極力情報を伝えないようにしていたようで、北条軍は迅速に動けなかった。
もちろん氏政は積極的に情報収集をしていたが、武田家があっけなく瓦解することが信じられなかったというのも適切な動きを妨げた。
結局、武田家滅亡に当たって、北条家はほとんど何もできなかった。

武田家滅亡後、上野には関東管領を称して、織田家重臣・滝川一益が入る。
北条家としては、織田家に従う際に関東八州は安堵されたと理解していたようだが、実際にはそれは否定された形になったようである。
とはいえ、信長在世中は北条家が織田家と敵対することはなく、良好な関係を維持するよう腐心していた。

しかし、同年6月2日、本能寺の変で信長はこの世を去る。
信長に対してはおとなしく従属していたが、信長がいなくなれば怖いものはないと見たのか、関東における織田家勢力の排除を図る。
氏直に55,000の兵を預け、上野に侵攻。6月19日には神流川の戦いで滝川一益を破り敗走させる。
滝川一益は関東支配を諦め、本国の伊勢に帰還する。

この勢いで、北条軍は旧武田領国であった甲斐・信濃へ兵を進める。
一方、それを黙ってみていなかったのが徳川家康であった。

徳川家康は織田家から「甲斐・信濃は放っておくと敵国(北条家)のものになるのでお任せする」という言質をとって甲斐・信濃に侵入。
この点において、北条家と徳川家の立場は違っていた。
そして、この点も後の北条家の運命を左右する伏線であった可能性がある。

甲斐・信濃に侵入した徳川・北条両軍は小競り合いを繰り返すが、途中で真田家が北条から徳川に寝返ったことなどもあり、次第に徳川家が優勢となっていく。
最終的には、甲斐・信濃は徳川、上野は北条領し、家康の娘を氏直に輿入れさせることで和睦し、天正壬午の乱と呼ばれる旧武田領国を巡る戦乱は幕を閉じた。
なお、上野には真田領沼田があったが、徳川の命令によっても真田は譲らず、北条も実力行使で真田家を排除することができず、これが後に北条家の運命を大きく動かすことになった。

徳川という西の脅威を除いた氏政は、本格的に関東経略に乗り出し、勢力の拡大を続け、最終的には関東広域に約250万石という大版図を形成するに至る

しかし、西国では羽柴(豊臣)政権という巨大勢力が形成されつつあった。
一時は小牧・長久手の戦いで秀吉に勝利した徳川家康も豊臣政権には抗しきれず、臣従。
その際、家康は氏政と対面し、秀吉と和睦することの了承を得たとされる。

豊臣政権との緊張、対決

戦争をコントロールし、自分の意思に基づかない戦争を認めない(惣無事)という姿勢をとった秀吉は、上杉家と北条家の和睦を促すなど、関東における惣無事体制の確立を進めようとする。
その過程の中で、北条家の臣従も求められることになった。
豊臣政権と北条家の間には緊張状態が続き、北条家においては軍備の拡張が進められていたが、一方で氏政の弟・氏規を窓口とした外交交渉も続けられていた。
氏政は以前信長に従属したことでもわかるように、彼我の勢力の差がわからないような愚かな人間ではなかった。

交渉において重要なポイントとなったのが、真田領沼田である。
北条家からすれば、沼田は徳川家から譲渡されたもので、当然自分のもの。
真田家からすれば、沼田は自力で獲得したもので、当然自分のもの。
両者の立場は相いれないが、この問題が解決しない限り、戦争をなくすことはできなかった。

最終的には秀吉が裁定し、3分の2を北条に、3分の1を真田に、という北条家に有利な結果が出た。
秀吉としては、とにかく北条家との交渉を終え、平和裏に天下統一を進めたかったのかもしれない。
ともあれ、両者その裁定を受け入れ、平和裏に北条家は豊臣家に心中し、天下は平和になる…はずであった。

しかし、平和は訪れない。
秀吉としては早く氏政を上洛させて臣従を既成事実化したかったが、氏政はすぐに上洛できなかった。上洛費用の調達に手間取っていたようである。直前までは軍備拡張をしていたこともあり、領国の負担は相当大きなものになっていたことが背景にあると思われる。
しかも、その間北条家は秀吉と連絡をとっていなかったようで、秀吉の怒りは大きかった。
(秀吉が北条家を信用しなかった一因として、本能寺の変直後、北条家が織田家に反旗を翻したということがあるという指摘もある)

そんな中、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が真田領・名胡桃城を攻撃し、占領。
これによって豊臣家と北条家の関係は決裂し、小田原征伐を迎える。
(ただし、この時点においても氏政が至急上洛するなどの対応ができていれば征伐は防げたという見方もあるが、一方、抑留・国替えの危険があるため氏政の上洛はすぐに実現できるものではなかったともいわれている)

そして1590年3月、小田原征伐。
20万を超える豊臣軍に対し、北条軍は各地の拠点に籠城し、豊臣軍の疲弊を待つ作戦に出た。
氏政が若いころ、上杉謙信との戦いで用いた戦略でもある。

しかし、すでに時代が違った。
ほぼ全国を手中に収めた秀吉にとって補給が切れる心配はほとんどない。
また、秀吉を背後から脅かす者もいない。
それどころか、石垣山城を築城し、周囲を睥睨している。

北条家が誇る数多の堅城は、豊臣勢の前に瞬く間に落とされた。
その中で敢闘目覚ましかったのは、氏規の守る韮山城、氏邦の守る鉢形城、成田長親の忍城などがある。
しかし、彼らの善戦も大勢を変えるには至らなかった。

7月5日、氏直が投降。
その後、家臣・城兵が投降し、開城。
小田原城は落城した。

7月11日、氏政・氏照は切腹。
氏政の介錯は、弟・氏規であった。
他に重臣の松田憲秀・大道寺政繁も切腹している。

小田原城落城により、戦国大名としての北条家は滅亡した。
その後、氏直が1万石の大名に復帰、氏直の死後は氏規とその子孫が北条家を継ぐことになる。

北条氏政は愚将だったのか

こうして北条家は滅亡してしまったのだが、北条氏政は愚かな人物だったのだろうか。

彼の人生の大半は危機の連続で、その都度それを乗り越え、北条家を発展させてきた。
武田・上杉・織田・徳川…このような勢力と時に争い、時に伍し、組織を維持・発展させることは容易なことではなかったはずである。
また、度重なる戦争に、領民の不満も決して小さくはなかったであろうし、飢饉や戦乱を彼らと一緒に乗り越えることもまた簡単ではなかっただろう。

北条家はあまり一族の中での争いがないことで知られるが、氏政の時代にもそれは当てはまる。
氏照、氏邦、氏規といった能力のある兄弟がいながら、彼らに下剋上をさせず、使いこなすことができたということも彼の能力や人物を物語っている。

豊臣政権との外交が失敗に終わったのは痛恨の極みではあるが、それを差し引いても、北条氏政という人物の魅力はなくなるものではないし、彼が残した足跡は非常に大きく、戦国時代を力強く生き抜いた一人の英雄であるといっても過言ではないのではないだろうか。

北条氏政の墓(早雲寺)

北条氏政・氏照の墓(小田原市)

 

       

 

 

 

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