物語 オランダの歴史

日本より小さな国土と人口でありながら、農業や商工業、国際政治に芸術と多くの分野で世界に大きなプレゼンスを持っている国、オランダ。
その国際競争力(IMD国際競争力ランキング2017年版では世界5位)に加え、自由と寛容というポリシーを持ったオランダは我々日本の人間にとっても学ぶところが多く、魅力的です。

それゆえに自分もその地でその雰囲気に触れ、彼らの競争力の一端でもいいので感じたいと思い、オランダに留学したのですが、歴史好きとしては不覚にも、オランダの歴史についてはあまり詳しく知りませんでした。

そんな折、中公新書の「観応の擾乱」(亀田俊和著)を探していたら、隣にオランダの歴史の新書も発売されていたのでまとめ買いしました。
タイトルは、「物語 オランダの歴史」。

オランダの歴史の始まりはローマ帝国の時代に遡りますが、本書はオランダの建国、すなわちハプスブルグ家からの独立から始まります。

時は16世紀半ば、日本では戦国時代にあたる頃、西欧に君臨していた神聖ローマ帝国はフランスやオスマン・トルコとの戦いに忙殺されており、支配下にある貴族や市民には大きな負担がのしかかっていました。
さらに、その頃ドイツで勃興したプロテスタントが多くオランダに流入していましたが、ハプスブルグ家(カール5世・フェリペ2世)はプロテスタントを異端視し、迫害していました。

そのような軋轢もあり、度重なる圧力と交渉の末、当時「低地諸州(ネーデルランデン)」と呼ばれていたオランダは立ち上がります。1568年のことでした。
そのリーダーとなったのが、オランダの有力貴族・オラニエ公ウィレム1世。後にオランダ建国の父と呼ばれる人物です。

圧倒的な戦力差に苦戦し、またその中でウィレム1世が暗殺されるという悲劇もありましたが、その子マウリッツの下、1609年にスペインと12年の休戦条約を締結し、これをもってオランダの独立が成りました。
ちなみに、この時代においては他の西欧各国は君主制を採っていましたが、オランダでは王政を廃止し、州議会が政治をリードする共和制となりました。
この点においてもオランダという国は個性的だったと言えます。

17世紀にはスペインとの再戦や3度の英蘭戦争もありますが、それを乗り越え、オランダは黄金時代を迎えます。
この時期には農工業、風力の活用、自然科学や芸術など幅広い分野で発展を遂げています。
個人的には戦争の影響で染料の確保が難しくなったことで画風にも影響が出たというのが印象的でした。

また、オランダも他の西欧諸国同様、大航海時代を経て海外進出を行います。
東インド会社を設立し、インドネシアや台湾、ブラジル、日本、北米に進出。
特に長崎の出島が有名ですが、それ以外にも世界各国で活動しています。
例えば、アメリカのニューヨークは元はオランダの支配下にあり、その時はニューアムステルダムという名前でした。

その後、ナポレオン帝政期におけるナポレオンの弟、ルイ・ボナパルトの支配(ルイ自身は寛容な姿勢でした)や1838年のベルギーの分離・独立、さらには第二次世界大戦時のドイツによる占領などの困難もありましたが、その困難を乗り越えて現在のオランダが築き上げられました。

様々な切り口からオランダの歴史を概観しているので学ぶところが多かったのですが、特に印象に残ったのは次の点です。

1. オランダは一枚岩ではなく宗教対立もあった
オランダは宗教にも寛容で、多様な宗教が調和しているというイメージがありましたが、実はプロテスタントのカルヴァン派とカトリックで長い間対立がありました。
建国初期のころはカトリックは迫害を受けていましたし、現在でもカトリックとカルヴァン派というルーツは政治やメディアなどの分野で重要な要素になっています。
もちろん、現在はオランダはキリスト教だけでなくイスラム教などのほかの宗教に対しても寛容な姿勢を打ち出していますが、日本のような宗教に対する関心が強くない国のある種の「無頓着」と、信仰心の強い国の「寛容」の違いを考えさせられました。

2. 国内滞在のユダヤ人の犠牲者の割合が最も大きかったのがオランダ
第二次世界大戦時には世界各国でユダヤ人が犠牲になっていますが、各国に滞在していたユダヤ人の中で犠牲になった人の割合が最も高かったのはオランダだったそうです。
本書によると、オランダ内のユダヤ人で生き延びたのは約27%で、4人に1人しか生き延びられなかったのに対し、ベルギーは60%、フランスで75%のユダヤ人が生き延びており、オランダ内のユダヤ人の犠牲者の多さが際立っています。

ドイツの占領機関の行政能力の高さやオランダ人の交渉姿勢などがその要因として挙げられていますが、アンネ・フランクを匿ってきた国がこの結果というのは意外でした。

3. 鉄砲の三段打ちは織田信長の専売特許ではない
鉄砲の三段打ちといえば織田信長の長篠の戦いが有名ですが、オラニエ公ウィレム1世の甥で、マウリッツとともに軍事革命の担い手となったヴィルヘルム・ルイードヴィヒ・フォン・ナッサウがマウリッツ宛の手紙で同様の戦法を披露しています。
これは1594年のことで長篠の戦いの20年後になりますが、長篠の戦いの三段打ち自体が疑問視されていますので、もしかしたら三段打ちを初めて考案したのは彼だったのかもしれません。

ちなみに鉄砲といえば、1584年にウィレム1世は鉄砲で暗殺され、これが世界史上初の国のリーダーの暗殺事件だそうです。
日本では1566年に戦国大名の三村家親が宇喜多直家に鉄砲で暗殺され、これが鉄砲による初めての暗殺とも言われますが、国のリーダーとなるとウィレム1世となるということのようです。

4. エラスムスは現在も人気
オランダで最も有名な思想家として挙げられるのはおそらく15世紀に活躍したデシデリウス・エラスムスだと思われますが、彼は現在もオランダ人の中では重要な存在のようで、オランダ人の偉人ベストテンには現在でもランクインする存在です。

存在感でいうと日本における福沢諭吉のような感じだと思いますが、福沢諭吉でさえ、日本の偉大な人物ベストテンに安定して入ることができるかというと疑問だと思います。
戦国武将、幕末の偉人、天皇、芸術家、科学者、スポーツ選手、経済人など甲乙つけがたい候補がたくさんある中でベストテンに安定して入るというのは難しいことで、思想家がそれに入るというのは相当強い影響力を持っていることを意味しています。

エラスムスは宗教・宗派間の調和・協調を重視した人物で、彼がオランダで人気というのは、「寛容」の国、オランダの面目躍如でしょう。

ちなみに東京の八重洲の由来となったのが、リーフデ号に乗って日本に来たオランダ人ヤン・ヨーステンであることは有名ですが、そのリーフデ号は元々エラスムス号という名前で、エラスムスの像が取り付けられていたそうです。

自分が留学していた大学もエラスムスの名を冠していたので、彼の名前を見ると少し嬉しくなったりします。

 

偉大な小国・オランダの歴史はここには書ききれませんが、本書では政治・経済・芸術・宗教といった観点からオランダがどのような歴史をたどってきたのかがコンパクトにまとめられています。

今思えばオランダに行く前に歴史をもっと勉強しておくべきだったのですが、今もなお我々がオランダに学ぶべきことは少なくないと思いますので、ぜひ多くの方にオランダへの関心のとっかかりとしてその歴史に触れてもらえると、一人の歴史好き・オランダ好きとして嬉しいものです。

 

 

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