アセットマネジメント業界の魅力(5)

この記事では、アセットマネジメント業界の魅力を何回かに分けてお伝えします。
1.アセットマネジメント業界とは?
2.アセットマネジメント業界におけるキャリア形成
3.アセットマネジメント会社の待遇や労働環境
4.アセットマネジメント会社のコンプライアンスというキャリア
5.新規参入が相次ぐ資産運用業(本記事)

大きくなる資産運用業の存在感

資産運用業を取り巻く環境

低金利、財政難、年金不安などに伴う自助努力の必要性の拡大、さらにはNISAやFintechなどの展開などによって資産運用の必要性・重要性に注目が集まっており、資産運用業の存在感が高まっています。

しかも、よく知られているように日本では家計の金融資産が約1,800兆円ある中で、株式や債券、投資信託などのリスク性資産への投資は約16%(2018年第1四半期日銀資金循環統計)と、50%程度の米国や30%程度のユーロ圏に比べると割合が低く、今後の投資市場の拡大が期待されています。

 

※もっとも、そんなことを言ってるところに、実は投信残高は増えてなかったという報道があったりもするので、実は思ったほど存在感は高まってないかもしれませんが…(涙)

 

 

 

相次ぐ新規参入

そのような状況から、資産運用業は将来性のある業界として認識されることが多く、国内外から異業種も含め、資産運用業界への参入が相次いでいます。

最近の事例ですと、2017年8月に英国の大手資産運用業者であるLegal & General(2017年末時点で運用資産規模世界11位)が日本で投資運用業者の登録を受けていますし、異業種からの参入として、2018年6月のKDDIの参入(KDDIアセットマネジメント。大和証券グループとの合弁)が記憶に新しいところです。

 

※世界の運用会社ランキング(2017年末現在)

 

もちろん、これらに限らず多くの運用会社が毎月のように日本の資産運用業界に参入し、新しいサービスの提供を試みていることから、業界における切磋琢磨が促進され、一層発展していくのではないかと思われます。

 

 

当局は資産運用業をどのように見ているのか

金融庁が促す新規参入

金融庁を始めとする当局も資産運用業を成長分野と位置づけており、資産運用業発展のために様々な政策を展開しています。

特に外資系運用会社は日系運用会社がなかなか自前では展開できない海外運用に強みを持っており、今後の資産運用業界の発展に寄与することが期待されていることや、東京をアジア・世界における金融センターにするために、積極的な誘致策が実施されています。

例えば金融庁では、日本拠点の開設を行う海外の資産運用業者に対して金融法令の手続き等に関する相談窓口を設置し、迅速に日本拠点の開設が行われるようなサポート(金融業の拠点開設サポートデスク)を提供しています。

ちなみに前述のLegal & General社の事例は当該サポートデスク初の登録完了案件です。

 

 

 

 

また、登録その他日本での事業展開に伴う諸手続きについて海外の資産運用業者にもきちんと理解してもらえるように、英語で解説書を作成・公開するなど、海外の資産運用業者に対してかなりの配慮がなされています。

 

 

 

また、異業種からの参入についても、Fintechについては「Fintechサポートデスク」開設したり、「Fintech実証実験ハブ」を設置して実証実験の容易化を図ったりするなど、Fintechの実用化の促進を目指しています。

 

 

 

 

なお、意味合いは異なりますが、金融庁は投資信託の販売会社に対して、比較可能な共通KPIの数値の公表を促していることから、従来以上に運用会社の運用能力が問われることが想定されます。

そのような観点からも運用能力のある運用会社の我が国の資産運用業への参入が期待されるところです。

 

 

 

東京都が目指す国際金融センター構想

資産運用業による業界の発展を願うのは金融庁だけではありません。

アジアにおける国際金融センターの地位を確たるものにしたい東京都も、資産運用業者の集積を図ることで国際金融センターとしての東京の魅力を高めようとしています。

周知の通り、アジアには東京のほか、香港・シンガポール・上海などの国際都市があり、金融センターのランキングとして知られるGlobal Financial Centres Indexでは、2017年時点で日本は世界5位の国際金融センターとして位置づけられており、アジアでは香港・シンガポールに次ぐ3位になっています。

 

 

新しい金融商品やサービスは金融機関が集まっている場所でローンチされることが多く、実際日本ではなく香港やシンガポールにおいて新しいサービスや運用手法が導入されるということもちらほら耳にします。

そのため、日本において金融業の競争力を高めるためには金融機関にとっての魅力を高めて国内の金融業に参入してもらう必要があり、東京都としても各種の誘致策を展開しているのだと思います。

 

最近の取り組みとしては、新規参入業者によるミドル・バックオフィス業務の委託費用の補助や新規参入運用業者のファンドへの投資に対する補助などがあるようです。


出所:東京都資料

 

 

 

 

さらに我々のニーズに応えてくれる金融業者の育成やESG投資の促進のため、東京金融賞という制度を制定し、魅力ある業者、運用サービスの誘致を目指しているようです。

 

 

 

キャリア形成で意識すべきこと

このように、多くの資産運用業者の新規参入、あるいは新しい分野のサービスの展開が期待される中、キャリア形成においてはどのようなことを意識すればよいのでしょうか。

 

自分自身まだ中堅ですし、人様に対して「どうすべき」などと言える立場ではないですし、今後業界がどのように変化していくのかわかりませんので正解はないかもしれませんが、個人的には下記のポイントは抑えておきたいと思っています。

 

英語

海外からの新規参入業者は外資系運用会社であるため、新規参入業者で働くためには英語が必須です。

特に新規参入時点では役職員の数が少ないため、入社すると分野を問わず責任のあるポジションに就く可能性が高く、海外の上司や同僚と直接コミュニケーションをとる必要があるため、読み書きはもちろん、聴く・話す能力も重要になると思われます。

例えば、運用会社にはコンプライアンス担当者が必ず一人は必要なので、私のような中堅の人間にもコンプライアンス担当者としてのお声がかりがあったりします。
そしてコンプライアンス担当者は一人なので、当然に日本におけるコンプライアンスの責任者となり、海外に対して直接レポートを行うことになります。

したがって、新規参入の促進による大きな責任・裁量のあるポジションでのチャレンジの機会の取得や雇用の安定といったメリットを享受するためには英語力が重要になってきます。

そのため、今後も英語力の維持・向上に努め、新規参入業者からも即戦力として期待される人材になりたいと思います。

 

オペレーションの理解

海外や異業種から資産運用業に参入が相次いだとしても、資産運用業の仕組みやオペレーションに大きな変化はないと思います。

したがって、新規参入業者で活躍するためには、現在資産運用業界で運用されているオペレーションについて理解しておくことが必要だと考えています。

特に新規参入業者の場合は人数が少ないことから、自分がオペレーションを理解していないと担当業務、あるいは会社を適切に運営することができないかもしれません。

逆にオペレーションを理解していれば、自分の担当業務はもちろん、会社全体に対して影響力を持てるかもしれません。

分業が確立している大きな運用会社はともかく、従業員が数人程度の新規参入業者で大きな責任と裁量に挑戦するのであれば、どの分野で働くにしてもオペレーションに関する基本的な知識はあったほうがいいと思います。

自分の場合、昔から投資信託のオペレーションに興味があったので、今でもオペレーションを担当している知人に教えを請うことがよくあります。

特にコンプライアンスの場合、オペレーションと規制は重要な関係にあるため、オペレーションに対する理解は重要だと考えていますし、コンプライアンス担当者としての市場価値を向上させるものだと信じています。

なお資産運用業のオペレーションを軽視する人も見かけますが、そういう人は少なくとも小規模の資産運用会社での勤務、あるいは運用会社の経営者には向かないと思います。

 

新しい技術やトレンドの理解

Fintechの進展や海外における運用手法の発展に伴い、我が国の資産運用業におけるサービスの展開も変容していくことが期待されます。

その影響は新規参入業者のみならず、既存の運用会社にも及ぶことが想定されるため、新しい技術やトレンドについてはある程度理解しておいたほうがよいのかと思います。

例えば、今後ブロックチェーンを活用した運用手法が導入される場合、どのようなポジションであっても、ブロックチェーンがどのようなものかを全く知らないで業務を行うことは難しいでしょう(実際ブロックチェーンを活用した債券の発行の事例はあるようです)。

小さな組織で働くなら、なおさら人に頼らず自分で勉強する必要があると思います。

 

 

こうして書いてみると、なかなかストイック…(汗)

現時点でこうしたことをすべて高いレベルでできているわけではないですが、このような点を意識して仕事をしていけば、きっとどの会社でも求められる人材になれると信じて、日々過ごしていきたいと思います。

あとは、ブログの運営や法学博士号取得及びその後のアカデミックな情報発信によって、自分を業界でもユニークな存在としてブランド化(?)して、より充実した仕事をしたいと思います。

もっとも、今までの人生は高い目標を掲げて70点位で推移するのが常なので、今後どうなることやら…

 

ともあれ、今後も成長が期待される資産運用業界に国内外・業界外(あるいは学生)から多くの優秀な方が集まって、業界が盛り上がっていくといいなと思います。

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油断しちゃだめ…ってわかってはいるけど

隙を見せない大阪桐蔭高校

第100回の節目を迎えた夏の甲子園は大阪桐蔭高校の優勝で幕を閉じました。

今回も多くのドラマがあって毎日のように感動させられましたが、個人的に特に印象に残っているのは、春夏連覇を狙う大阪桐蔭高校がどの試合でも決して油断しなかったということです。

甲子園の試合を見ていてもこまめにタイムを取ったり、終盤で点差がついていても手を緩めないという印象があり、「隙を見せないチーム」と高い評価を得ていますが、地方大会(北大阪)でもすごかったようです。

ライバルの履正社高校に勝利して迎えた決勝戦。

対戦相手の大阪学院大学高校はセンバツの出場経験がある強豪校ですが、夏の甲子園に出場したことはない学校。
もちろん強豪校の多い北大阪地区で決勝まで勝ち上がってきているので強いチームであることは間違いないのですが、近年激しい甲子園のきっぷ争いをしている履正社に比べると与しやすい相手のようにも思えます。

実際、5回を終わって10-0と、前半は大阪桐蔭の大量リードでした。
そして、6回の表に大阪学院大高校が2点をとって10-2とした直後の6回裏、大阪桐蔭は11連打・13点の猛攻。

もちろん、どの選手も最高のパフォーマンスを出したいわけで、手を抜くことなどありえないと思いますが、点差がついても集中力を切らさずに打席に立っていたということがすごいと思います。

投げ抜いた大阪学院大高校の投手陣も立派ですが…。

試合後、大阪桐蔭の西谷監督は「点差がついていても決勝なので楽ではなかった」と話しています。

 

 

実際、高校野球にはセーフティリードはない、と言われるので、点差はいくらあっても安心できませんし、まして決勝なので当然かもしれません。
それでも後半に入って10点以上差がついても気を緩めないという姿勢はただただすごいというしかないと思います。

ライオンはうさぎを取るにも全力を尽くす、などといいます。
しかし、勝負事においてはどんなに自分に有利な状況でも油断してはいけない、というのは理屈ではわかっていても、普通は気が緩みそうなものです。

ちょっと状況が有利になると油断するのは古今東西、人の常。
歴史上にもそんな事例は山のようにあります。

ここでは、大阪桐蔭高校の精神力に敬意を評しつつ、「大阪桐蔭」になりきれなかった人たちの事例をもって他山の石としたいと思います。

 

彭城の戦い

油断した項羽、油断した劉邦を破る

秦の始皇帝が築いた秦王朝が崩壊した後、中国の覇権を争った項羽と劉邦。

僻地に追いやられた劉邦に対し、政権の主導権を握った項羽。
両者の戦力の差は圧倒的かと思われました。

実際、項羽は秦滅亡前後に劉邦と主導権争いをする中で、ずっと劉邦が下手に出ており、しかも僻地に追いやっていたことから、劉邦の存在は眼中にもなかったようです。

しかし、諸侯に対し不公平な扱いをした項羽は各地で反発を受けており、それらを味方につけた劉邦が徐々に勢力を拡大し、項羽が敵対勢力の討伐に向かっているうちに、項羽の本拠地である彭城を陥落させました。

これを聞いた項羽は激怒し、精兵3万を引き連れ、急遽彭城奪還に向かいました。
一方の劉邦は圧倒的な戦力で彭城にいることに安堵し、毎日のように酒宴を開いていました。

これを知った項羽は夜明けとともに劉邦軍を攻撃しました。
項羽軍3万に対し、劉邦軍は56万。
しかし、勇将項羽に率いられた精鋭たちはすさまじい勢いで劉邦軍を駆逐。
劉邦軍は20万ともいわれる被害を出して潰走してしまいます。

この結果、劉邦に味方した諸侯の多くが項羽側に寝返り、劉邦の中国統一への道は遠ざかることになってしまいました。

 

彭城の戦いの教訓を活かした劉邦

しかし、劉邦はこの教訓を後日活かすことになります。

項羽を破り、漢王朝を打ち立てた劉邦ですが、皇帝になってからは猜疑心にとらわれます。

その結果、大きな戦功を挙げた韓信・英布・彭越を粛清。さらに功臣の蕭何まで疑ってしまいます。
また、戦功によって王となっていた重臣たちに代え、自分の子供などの一族を各地の王に封じています。

劉邦の死後、この一族たちが漢王朝に反乱を起こしたこともあり、功臣を理不尽に粛清したことや一族を王にしたことについては劉邦の失策と指摘されることが多いです。
しかし、力を持ちすぎた家臣が政権運営の足かせになることはよくあることであり、理不尽であるにせよ、強い軍事力や能力を持った韓信たちを粛清したことは、政権の安定のためには必要なことであった可能性があります。

 

このように、猜疑心にとらわれたとはいえ、劉邦は政権の安定については決して油断しておらず、彭城の戦いで得た教訓を活かした、といえるのかもしれません。

その結果、何度か王朝崩壊の危機はありましたが、漢王朝(前漢)は200年の長きにわたって維持されることになりました。

 

川越夜戦

北条氏康、絶体絶命の危機

戦国時代中期、伊豆(静岡県東部)で勃興した戦国大名・北条氏は瞬く間に相模(神奈川県)を席巻し、武蔵(東京都・埼玉県)に進出していきました。

関東地方でも多くの戦国大名が勢力争いを繰り広げていましたが、彼らも新興勢力である北条氏に対し、次第に警戒するようになっていきました。

 

そして1546年(天文15年)、北条氏の関東進出の橋頭堡である川越城を、関東のエスタブリッシュメントともいえる上杉家(扇谷上杉家・山内上杉家)や足利家(古河公方家)その他の勢力が包囲します。

守る川越城は3000人、攻める包囲軍は80000人。

さらに攻撃側は駿河・遠江(静岡県中央・西部)の今川家にも手を回し、東西から北条家を締め上げます。

北条家はここに存亡の危機を迎えます。

当時の北条家当主は三代目の氏康。
氏康は川越城の救援に向かうか、川越城を放棄するかの選択を迫られます。

氏康の決断は、川越城救援。
背後を脅かす今川家と領土の割譲を条件に速やかに和睦し、主力部隊を率いて川越城に向かいます。
その数、8000。包囲軍の10分の1です。

 

圧倒的優位にある敵を油断させ、勝機をつかむ

川越に着陣した北条軍ですが、圧倒的な劣勢のまま戦っても勝敗は明らか。
しかし、いつまでも手をこまねいていると川越城は自落する可能性もあります。

そこで氏康がとった作戦は、包囲軍を油断させたところに奇襲をかけるというものです。
もともと圧倒的な優勢を保っている包囲軍は油断しやすい状況であり、そこをつきました。

氏康は包囲軍を率いる足利家・上杉家に対して低姿勢に「川越城を明け渡して降参するから、城兵の命だけは助けてほしい」と訴えます。
自軍の勝ちを確信している包囲軍はそれを無視し、逆に北条軍を攻撃しますが、北条軍は戦わず、退却。

このような状況で、包囲軍は北条軍に戦意が乏しいと思い込んでしまいました。
それを待っていた氏康は8000の兵を4つに分け、1部隊を遊軍として、3部隊で夜襲をかけます。
北条軍の攻撃を全く想定していなかった包囲軍は大混乱。更に城内からも籠城軍が打って出たため、包囲軍は壊滅しました。

 

ここですごいのは、氏康の作戦はもちろんですが、北条軍は劣勢にありながら1部隊を予備軍として備えていたことです。
完全に油断していた包囲軍に対して、氏康はとことん慎重でリスクの最小化を考えていました。

こうして最大の危機を乗り切った北条家は怒涛の勢いで関東制覇に進んでいくことになりました。

 

なお、氏康の父・氏綱が氏康に残した遺訓の一つに「勝って兜の緒を締めよ」があります。
この父の教えこそ、氏康のピンチを救ったと言えるのかもしれません。

 

 

「あと一歩」はこれほどまでに遠いのか…

東北地方の悲願である甲子園の優勝旗。

100回大会では高校No.1との評価もある吉田投手を擁する秋田県の金足農業高校が春夏連覇を狙う大阪桐蔭を破って、今回こそ真紅の優勝旗を東北地方に持って帰ってきてくれるかも、と期待していました(判官びいきでもありますが、東北に住んでいたこともあるので、やっぱりシンパシーは感じます)。

しかし、結果は13-2と、大阪桐蔭の強さを見せつけられました。
もちろん、この試合でも油断する気配などありませんでした。
前述のように、命がけで戦っている武将たちでさえ油断をしてしまうのに、大阪桐蔭の監督や選手たちは本当に油断しない。

しかも、大阪桐蔭は試合中何度か相手選手のケアにも気を配っているシーンがあり、自分のチームだけでなく、試合全体を広い視野で見ているようでした。

昨年の悔しい敗戦を胸に、ずっと優勝だけを追いかけてきた、ということで、努力もプレッシャーも想像を絶するものだと思いますが、ここまで強いのか、と思わされました。

金足農業も素晴らしいチームでしたので、多くの人が今度こそ、と思ったと思いますが、本当に「あと一歩」というのは遠いものだと思いました。
甲子園で優勝するようなチームは本当に精神的にも技術的にも中々隙がないようです。

1年間頑張ってきた大阪桐蔭は素晴らしいし、ここまで勝ち上がってきた金足農業も素晴らしい。
一高校野球ファンとしてはそれしか言う資格はないかもしれませんが、本当に「あと一歩」は遠い…。

ともあれ、大阪桐蔭高校、金足農業高校、そして多くの素晴らしい試合を見せてくれた高校球児たちにお礼を言いたいです。

そして、いつかは真紅の優勝旗が白河の関を越えるのを楽しみにしています。

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コフィ・アナン元国連事務総長を悼む

コフィ・アナン元国連事務総長死去

カリスマ事務総長・アナン氏の足跡

2018年8月18日に、コフィ・アナン元国連事務総長が亡くなったという報道がありました。

 

国際政治や彼の経歴について詳しいわけではありませんが、国連の生え抜き職員で、PKO(平和維持活動)の指揮をとったり、湾岸戦争時には900人の国連スタッフの脱出及び人質解放の交渉にあたったり、米国のイラク攻撃に反対したり、あるいは国連改革について積極的に動いたり、と国連主導の平和維持に貢献された偉大な方だと思います。

なお、その活動が評価され、2001年には国連と連名でノーベル平和賞も受賞しています。

 

国際政治だけでなくミクロな視点での社会的課題の解決に取り組む

しかし、個人的には国際政治における活躍だけでなく、もう少しミクロな分野におけるリーダーシップこそ、アナン氏の先見性や人類における貢献なのではないかとも思います

アナン氏の貢献された分野は幅広く、少し調べただけでもいろいろ出てくるのですが、私が特に印象に残っているのは、2000年の国連ミレニアム・サミットでミレニアム開発目標(MDGs: Millennium Development Goals)の設定に貢献したことや国連グローバルコンパクト(UN Global Compact)責任投資原則(PRI: Principle of Responsible Investment)を立ち上げ、公共部門だけでなく民間セクターも巻き込んで社会的課題を改善する仕組みを築き上げたことです。

アナン氏は1997年に国連事務総長に就任してすぐに国連改革案を提示しましたが、その中で民間セクターの役割を重視し、民間セクターを国連の重要なパートナーと位置付けて社会的課題に取り組んでいくことを主張しています(下記文書のP22 No.59及び60参照)。

 

貧困や環境問題といった社会的課題に取り組むのは公共部門の役割であるというのが伝統的な考え方でしたが、アナン氏はそれを否定し、存在感を増しつつあるNPOや企業部門との連携によって効率的に社会的課題を解決できると唱えています。

日本でも1995年の阪神大震災を契機としてボランティアに対する注目が高まり、1998年には特定非営利活動促進法(いわゆるNPO法)が制定されていますが、その時期にはすでにアナン氏は世界規模で民間セクターと協働することについてのビジョンを持っていたことになります。

今では欧米各国はもとより、日本においても多くの分野でNPO/NGOが社会的課題の克服に取り組んでおり、アナン氏の先見性が証明されているとも言えそうです。

 

アナン元国連事務総長が遺したフレームワーク

前述のようにアナン元事務総長は民間セクターの役割を重視していたため、民間セクターを巻き込んだフレームワークを築き上げました。

それらは設立されてからそれなりに時間が経っているにも関わらず、依然として行動指針としての有効性を失っていないばかりか、近年さらにその影響力が強まっています。

それは民間の非営利セクターだけでなく、営利セクター、すなわち一般企業に対しても影響力を持ちつつあります。
金融業界もその例外ではなく、改めてアナン氏の影響力を感じています。

彼が残したフレームワークの中で、特に印象に残っているものをご紹介したいと思います。

ミレニアム開発目標(MDGs)

彼が国連事務総長に就任したのは1997年。
節目の2000年まであとわずかです。

その節目を迎える中、世界には依然として貧困や病気、機会の不均衡に苦しむ人たちがいました。
そこで、国連ではそのような社会的課題に取り組み、人類全体の生活水準を向上させるため、大規模な国際会議を行うことになりました。

それがミレニアム・サミットで2000年9月に国連本部において開催されました。
各国の首脳のみならず多くの分野の人が集まったようで、少なくとも当時においては史上最大の人数が集まった国際会議だったようです。

ミレニアム・サミットでは多くの分野において議論がなされた結果、最終的に8つの分野で開発目標(MDGs)が設定されました。
この目標は、世界最大の会議で合意されたことにも意義がありますが、5年ごとに定量的にレビューがなされることとされたことが大きな特徴だと思います。

 

アナン氏はミレニアム・サミットに先立ち、国際社会が超面する課題と21世紀に国連が果たすべき役割を示したレポートを提示し、国際社会の意見集約に勤めるなど、サミットにおいて果たした役割も大きく、彼自身自分のキャリアのハイライトとしてミレニアム・サミットを挙げているほどです。

 

そして現在は2015年に設定されたMDGsの後継である持続可能な開発目標(SDGs: Sustainable Development Goals)が走っています。

SDGsは行政のみならず一般企業でも取り組みに力を入れている会社が多く、例えば証券業界の業界団体である日本証券業協会もSDGsに力を入れていて、投資分野における社会的課題への貢献が期待されるところです。

 

このようにSDGsやそれを企業において具体化するCSR(企業の社会的責任)が普及するしているのを見ると、アナン氏の取り組みの先見性に感銘を覚えます。

 

国連グローバル・コンパクト(UNGC)

民間セクターとの連携に意欲を示すアナン事務総長はビジネスセクターが担うことのできる役割についてもビジョンを示しました。

1999年、ビジネス界のリーダーが集まる世界経済フォーラム(ダボス会議)にてそのリーダーたちに、ビジネス界が国連と協働して社会的課題に取り組むことの意義を提唱し、2000年には国連本部にて「国連グローバル・コンパクト」と称して、そのイニシアティブに同意する企業と国連が協働して社会的課題に取り組む活動が始まりました。

国連グローバル・コンパクトは「人権」「労働」「環境」「腐敗防止」に関する10の原則について同意した企業が署名するもので、現在13,000を超える団体がその趣旨に賛同して署名しています。

 

日本においても近年企業の社会的責任(CSR)が注目されていることを考えると、これもまたアナン氏の見通しの確かさを示していると言えそうです。

自分も学生の頃、企業の社会的責任に関心があったのですが、当時注目されつつあった企業の社会的責任の背景に国連グローバル・コンパクトがあったのだとしたら、アナン氏の取り組みが自分の生き方、考え方にも多少影響していたのかもしれません。

 

責任投資原則(PRI)

責任投資原則(PRI)とはその名の通り、運用会社や資産管理会社(年金基金を含む)が、その運用にあたって社会的な配慮を行うというもので、その趣旨に賛同する運用会社や年金基金が署名して、各々その運用プロセスにおいて社会的な要素を組入れていくことが求められます。

 

国連グローバル・コンパクトでは企業に対して社会的課題に向き合うよう要請しましたが、PRIは機関投資家に対して社会的な要素を考慮することで、社会的課題に向き合う起業に対して資金調達の面から支援するとともに、間接的に個人投資家のお金が社会的課題を無視した企業に投資されるのを防ぐという面があります。

このPRI設立を主導したのもアナン元国連事務総長です。
2005年に機関投資家に対してPRIの趣旨に賛同するよう呼びかけ、2006年に正式に発足します。

下記のグラフは2006年4月~2018年4月(年次)のPRIに賛同する運用会社・機関投資家の数(右側)と資産の額(左側、US$ trillion)ですが、2006年に小さく始まったPRIの取り組みが2018年には大きく成長しているのがわかります。

(出所:PRIウェブサイト https://www.unpri.org/about-the-pri

 

私が資産運用業界に関心を持った10年ほど前には、日本の運用会社でPRI署名している会社は数社でした。
しかし、ESG投資(環境・社会・ガバナンスといった社会的要素に配慮する運用)が注目される現在は60社を超える運用会社・機関投資家がPRIに署名しています。

このようにアナン氏の「民間セクターが社会的課題の克服に参画する」というビジョンは、資産運用業界においても実を結んでいます。

 

行政・民間・金融の三位一体で社会的課題と戦う

このように、アナン氏の基本的なビジョンとして、国連を中心とする行政機関・国際機関が企業やNPO/NGOと連携して社会的課題に取り組み、それを金融が資金面でサポートするということがあったと思います。

そして、それは前述のように、時間が経つとともに社会的に認知され、実行されています。

我が国においても多くの若いNPOのリーダーが活躍していますし、金融面でも企業やNPOをサポートするような動きがみられるようになっています。

もちろん、それはそれぞれの企業やNPO、金融部門の方々の努力のたまものであるわけですが、その大きな流れを作り上げた人が国連にいた、ということは興味深いと思います。

アナン氏の尽力によって、多くの社会的課題の分野で改善がみられるものの、まだまだ社会的課題の根絶には至っていません(だからこそSDGsが新たに策定されたと言えます)。

そして、貧困や社会的人権の問題は発展途上国だけでなく、先進国である日本でも他人事ではない状態です。
実際、貧困や差別・いじめなどに関する報道は後を絶ちません。

アナン氏のフレームワークを用いるならば、国内においても多くの社会的課題に行政・民間・金融の三位一体で取り組むことが有益だと考えられます。

金融業界の一員として、あるいは一人の民間人として自分が何をなすべきなのか、ということについてまだ答えは出せていませんが、アナン氏のビジョンを頭の片隅に置きつつ、自分の周りにも社会的課題があることを意識していきたいと思います。

そして、いつかは何らかの形でアナン氏の三位一体の一員となって小なりといえども社会的課題の克服に貢献できたらと思います。

 

どうぞ、安らかに。

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連絡ミスがもたらす惨事

些細な連絡ミスが大きな被害をもたらす

社会人が組織の一員として、あるいは取引先と仕事をするには、きちんとコミュニケーションをして疎漏ない意思疎通を図ることが重要です。

実際、社会人にとって「報・連・相」は基本的な所作ですし(本来は「報・連・相」がきちんとできるように上司が環境を作るべきという趣旨らしいですが)、就職活動などで採用する側はたいてい「コミュニケーション力を重視する」といいます。

「コミュニケーション力」がどのような能力であるかはさておき、事実関係や自分の考えを、適時かつ正確に、伝えるべき相手に伝えることはその能力に含まれると思います。

しかし、日常業務でも日常生活でも、あるいはスポーツでも往々にして連絡ミス、連絡漏れというのは目にします。
伝えるべき情報・相手が漏れていた、伝わっていると思っていたのに伝わっていなかった、間違った情報を伝えていた、後で伝えるつもりだった。こんな話はよくあります。
実のところ、自分もそのようなポカをやってしまい、苦い思いをしたことは何度もあります。
その都度、大目玉をくらい、今度は気をつけよう、と何度も反省してきました(汗)

幸か不幸か、自分の場合は大目玉で済んだのですが、連絡ミスが取り返しのつかない事態につながってしまうこともあります。
ビジネスやプライベートでもそうですし、歴史上の出来事でも連絡ミスが歴史を変えたというケースがあります。

ということで、自戒を込めつつそんな歴史上の事件を見てみようと思います。

 

後北条氏滅亡の原因は「連絡ミス」!?

豊臣秀吉の小田原征伐を回避できなかった北条氏

戦国時代、関東に覇を唱えた北条氏ですが、急速に勢力を拡大する中央政権を無視することはできず、織田信長が武田氏を圧迫する頃には織田政権に従属する意思を示していました。

本能寺の変で信長が横死した後に織田政権に反旗を翻すものの、豊臣政権が覇権を確実なものにすると北条氏に対しても臣従を求めるようになります。

当時の当主・北条氏直及び前当主・氏政も臣従を決意し、その旨を豊臣秀吉に伝えています。一般には豊臣政権の強大さがわからなかった愚将と言われる氏政ですが、織田政権に従属したのをみても分かる通り、決して中央政権を軽視していたわけではなく、彼我の差についてはよく理解していました。

戦国大名同士のやりとりですので手続き面は複雑であるにせよ、本来であればここで北条家が豊臣家に臣従して豊臣秀吉の天下統一完成、となるはずでした。

秀吉が北条家をどのように見ていたのかについては諸説ありますが、北条家はその時点で徳川家に匹敵する勢力を有していたため、おそらく徳川・上杉・毛利などと並び、豊臣政権で重きをなしたのではないかと想像します。

しかし、残念なことに豊臣政権と北条氏の間で意思疎通がうまくいかなかったため、北条家は秀吉の怒りを買い、小田原征伐により滅亡することになりました。

 

小田原征伐の背景

北条家が豊臣政権に従属する前提の一つとして、北条家が自家のものとして主張し、攻略を進めていた真田家が治める沼田領の引き渡しがありました。
もともと信長死後の天正壬午の乱終結時に、徳川家との交渉で北条領となる予定の地ではありましたが、徳川傘下の真田家が引き渡しに応じず、北条家も自力で攻略できなかったいきさつがあります。
※信長死後、織田家の信濃・甲斐・上野を巡って徳川家と北条家が争った事件

最終的には豊臣政権の裁定で3分の2は北条領、残りを真田領とすることで合意がなされ、そのうえで北条家の最高権力者である北条氏政が上洛するということになりました。

しかしながら、なぜか北条家は真田領を攻撃してしまい、豊臣政権との合意を破ってしまいます。
さらに氏政の上洛が遅れている(と認識された)ことが秀吉の怒りを買い、この2つの要因で秀吉は北条家の征伐を決意します。

そもそも北条家が豊臣政権との合意を破棄したこと自体が問題ですが、それとは別に、2つの「連絡ミス」が北条家にとっての致命傷になります。

 

北条氏を危機にさらした「連絡ミス」(1)

北条氏の犯した連絡ミスの一つは、真田領を攻撃したことについて、特に豊臣政権について連絡していなかったことです。

北条氏は真田領を攻撃したことが豊臣政権に対する敵対行為であるという認識がなかったのか、戦国時代の感覚で実力行使で奪った領土は自分のものだという認識だったのか、あるいは単なる小競り合い程度の些細な事件という程度に思っていたのかわかりませんが、北条氏からこの事件について豊臣家への連絡はありませんでした。

物事を適切に連絡するための前提として、事実関係及びその事実が持つ意味を正確に把握する必要があります。
その認識が不適切であれば、間違った情報を伝達したり、必要な連絡がなされなかったりして、その後の対応に大きな影響を及ぼします。

この場合、北条氏は真田領攻撃が豊臣政権に対して報告しなければならない事実ではないという誤った認識をしてしまったことにより、豊臣家に報告や謝罪を行うこともなく、小田原征伐の口実を与えてしまうという致命的な連絡ミスを惹起することになりました。

連絡(報告)が必要であるという認識を欠いて、連絡をすべきところをしていない、ということも連絡ミスですので、連絡の仕方云々以前に、連絡をするか否かの判断自体が適切な連絡の第一歩であることを教えてくれます。

 

北条氏を危機にさらした「連絡ミス」(2)

2つ目の連絡ミスは北条家と豊臣政権の間で北条氏政が上洛する時期が正確に共有されていなかったことです。

沼田領の裁定が終わったことにより、氏政は1589年(天正17年)12月に上洛する予定でした。そのために領国全体に費用負担を求めることまでしています。

しかし、11月に沼田領裁定の御礼に上洛した北条家の使者は秀吉に激怒されています。
一つはそもそも真田領を攻撃したことに対するものですが、もう一つは氏政の上洛が遅いということでした。

そもそも氏政の上洛は12月に予定されているので11月の段階で遅いと言われる筋合いはありません。北条側の使者も困惑したことでしょう。
一方、秀吉の方は11月に上洛すると認識していたようです。
しかし、誰もその認識の齟齬を埋めてくれませんでした。
逆に12月では秀吉が待てないということを北条氏に伝えてくれる人もいませんでした(本来であれば北条家と豊臣政権の橋渡しをしている取次役の役人や大名としてその役割を担っている徳川家康が伝えるべきであったと思います)。

そして北条家は上洛が遅い=約束違反という罪過を突き付けられることとなり、北条家滅亡へとつながってしまいます。

ちなみに北条家との取次役であった役人は職務怠慢ということで秀吉に責められています。そもそも小田原征伐をすること自体が豊臣政権にとっても望ましいことではなかったので、この連絡ミスは豊臣側にとっても痛かった、ということかもしれません。

 

ありがち(?)な連絡ミスで滅亡した北条氏

北条氏が滅亡する要因となった連絡ミスを2つみましたが、どちらも現在のビジネスでも生じうるミスだという感じがします。

1つ目の連絡ミスでいうと、何かトラブルがあったときに、そのトラブルの本質が何かを理解できないため、あるいは隠ぺいするために影響のある顧客・取引先、あるいは当局などに連絡すべきところ連絡をしていなかった、という感じでしょうか。

2つ目のミスは、顧客や取引先との商談やプロジェクトでスケジュール調整をしようとするときに、お互いの認識に齟齬があって話が微妙にすれ違っているのに、誰もそれを調整することなく話を進めていたら、いざ納品やサービスのローンチをしようとしたら当事者の誰かの担当が遅れていることが発覚し、大損害を被る、という感じになるのでしょう。

連絡というのは作業としては大きなものではありませんが、ビジネスであれ外交であれ、他者と何かを進めるためには非常に重要なものであることはいうまでもありません。

それゆえに連絡の重要性は社会人なら誰しも教わることだと思いますが、それが戦国最大級の戦国大名の滅亡につながるほどのインパクトを生じさせうるということを肝に銘じ、業務上の連絡については慎重かつ丁寧に行わなくては、と改めて感じさせられました。

 

真珠湾攻撃は「連絡ミス」で奇襲の汚名を被った

太平洋戦争に至る日米交渉

戦前、日本による中国大陸や東南アジアへの進出や日独伊三国同盟の締結などに対抗するため、米国による重要資源の輸出停止により日本の国民経済にも影響が出るなど、日米間の緊張は日を追うごとに増していきました。

当時、日本は原燃料の多くを米国に依存していたこともあり、米国との緊張緩和は国家存続のための重要課題でした。
一方、米国との交渉が成立しなかった場合、実力行使をして状況の打開を図るほかはありませんでした。

そのため、日本政府は交渉成立を第一優先としながらも、日本にとって許容可能な条件で交渉がまとまらない場合は米国との戦争も辞さない構えでした。

1941年に入り、日米は激しい交渉を続けますが、交渉期限としていた11月までに交渉はまとまらず、12月1日、日本は米国と戦争することを決断します(米国から最後に提示されたのがハル・ノートです)。

そして12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争の火ぶたが切って落とされます。

この真珠湾攻撃は一般に奇襲であったと言われ、米国人は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を合言葉に日本への敵意を燃やしたとされています。

真珠湾攻撃が奇襲とされる理由は、日本が宣戦布告を行う前に攻撃を開始したためとされています。
実際、在米日本大使の野村吉三郎がルーズベルト大統領に宣戦布告の書面を手交したのは真珠湾攻撃の1時間後でした。

しかし、日本は真珠湾攻撃の前に宣戦布告の手続きを完了させ、法的には奇襲の形をとる予定ではありませんでした(戦略・戦術的には奇襲だと思いますが)。
にもかかわらず、結果的に奇襲となってしまい、米国民の士気を高揚させる結果を招くことになりました。

 

なぜ宣戦布告は遅れたのか

宣戦布告は当時の外交上の重要事項であり、外務省も滞りなく手続きができるように準備を進めていました。

そして宣戦布告前日、宣戦布告文案が東京の外務省からワシントンの日本大使館に電報で届けられます。
それは大使館で英文の宣戦布告文書に仕立てられたうえで、真珠湾攻撃の前に米国側に手交される予定でした。

しかしながら、作業の途中で大使館員総出で異動になる外交官の送別会を行い、翌朝作業を再開しても間に合わなかった、と言われています。

この電報は極秘扱いされており、ことの重大性は十分に認識されていたにもかかわらず、何らかの重要な注意事項が漏れていたという「連絡ミス」があったといえます。

本当に至急かつ正確に取り扱う必要があるものだと情報伝達がされていて、送別会にも優先すべきことだという認識が共有されていれば、奇襲の汚名は避けられたかもしれません。

ちなみに外務省から在米大使館に送られた電報は国立公文書館で公開されています。

 

 

太平洋戦争の宣戦布告遅れにみる教訓

この事例から、連絡ミスに関してどのような教訓が得られるでしょうか。

連絡ミス以前に大使館職員の職務怠慢ということは言えるかもしれませんが、それでもなおそれを防ぐような連絡の仕方はあったのかもしれません。

もちろん極秘情報であるため連絡方法には厳しい制限がありますし、受け手も外交官で外交に関する手続きやその重要性については十分に知悉しているわけですから、もはや連絡の問題ではないのかもしれません(電報の現物を見てもかなり具体的な情報・指示が書かれていましたし)。

それでもなお、例えば作業の見込み時間やスケジュール感について確認しておく、遅延した場合のリスクについて共有する、ということはできたのかもしれません。

歴史の当事者でも外交官でもない私には上記のケースにおける情報伝達の是非について評価することはできませんが、自分が重要な指示を行う際には、極力正確な内容が伝わり、期待した通りの成果を出してもらえるような工夫(目的の共有、指示の具体化など)をしようと思いました。

実際自分の業務でも他部署に対して指示・依頼を出すことはあるので、決して他人ごとではなさそうです。

 

歴史に見る「連絡ミス」の要因

歴史上大きなインパクトをもたらした連絡ミスの事例を二つ見ましたが、たった二つの事例でも学ぶべきところは少なくないように思います。

上記の事例の教訓としては、
・物事の全体像を正しく理解し、誰にどのように伝えるかを正しく把握する
・関係者間で認識の不一致があれば、すぐに認識の統一を図る
・指示を伝える場合は、目的を共有したり具体的な指示にしたりする

古今東西を問わず、誰かと一緒に物事を進めていく以上、連絡は必須のものであり、また相手は自分とは違う人間であるがゆえにどうしても連絡ミスは生じます。
連絡ミスのパターンも千差万別で、書いていけばそれだけでも本になりそうです。

だからこそ、連絡をいかに正確に、円滑に行うかが共同作業や商談、外交などの成否に大きく影響してくるのだと思います。
それが重大な情報伝達や指示だけでなく、ちょっとした違和感や事務的なことであっても、その正しい連絡を疎かにすると痛い目に合うというのは、これらの歴史的な事件を見るまでもなく明らかです。

時として連絡は面倒ですし、忙しいと疎かになったりすることもありますが、やはり連絡は社会人としての所作の基礎ということで、手を抜かないように肝に銘じたいと思います。
例えば少しでも情報共有に違和感があったら確認し、スケジュールはこまめに共有(リマインドなど)する、といったことは今一度自分の中で習慣づけたいものです。

 

歴史上の連絡ミス(おまけ)

連絡ミス?で違う城を破却

江戸時代前期、松江藩主の堀尾忠晴は幕府から亀山城の天守の破却を命じられます。

忠晴は命令通り亀山城の天守を破却。
これにてお役御免、となるはずでしたが、「なんで亀山城の天守破却してるの!?」と言われることに。

実は、幕府は(丹波)亀山城の天守を破却するように命じたのですが、忠晴は(伊勢)亀山城の天守を破却してしまったのでした。

幕府が亀山城とだけ指示したのかわかりませんが、やっぱり指示は誤解を招かないように伝えなければいけませんね。
そしてその際には、自分の指示に思い込みなどがないかも確認する必要がありそうです。

 

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地方移住・遠距離通勤とQOL

日々の生活の質が人生の充実度を左右する

自分の人生を充実したものにしたい、というのは誰しも思うことでしょう。

「人生の充実」の定義は人によって異なるため、例えば歴史に残るような偉業を達成しなければ充実した人生とは言えない、という人もいるでしょうが、多くの人にとっては、日々の生活が充実していることが人生の充実につながっていくのだと思います。

その日々の生活の充実度合いを言い換えると、生活の質:Quality of Life(QOL)となります。

QOLは、自由な時間がどのくらいあるか、健康状態、人間関係、仕事のストレスや通勤時に疲労度などによって左右されます。
そして、QOLを構成する各要素を改善することでQOLが向上し、日々の生活が充実して幸せになっていく、という好循環が生まれます。

したがって、QOLを構成する要素を把握して、改善していけば日々の生活が充実し、幸せになれるということです。
言葉にしてみると当然のことではありますが、日々の生活を淡々とこなしているとQOLの改善を考えることはあまりありません。
しかも、具体的に検討してみると改善ができそうなこと、難しいことがあります。

自分も東京で淡々と過ごしていた頃は特に自分の生活に疑問を抱くこともなく、日々の生活を当然のものとして受け入れていたように思います。

 

東京での生活に疑問を抱き、地方移住を決断通勤

東京での生活に対する不満と疑問

日々自分の生活を当然に受け入れるといっても、やはり不満はありました。
一番嫌だったのは朝の満員電車。

都市圏に通勤する人であれば誰しも満員電車の苦痛を味わったことがあると思います。
私もいくつかの街から東京に勤務していましたが、特に東急や小田急といった人気路線で通勤していたときは文字通りギュウギュウ詰めで、出勤するだけで疲労が溜まっていました。

雨の日には、限界だと思っていた乗車率がさらに高くなり、体が浮くのではないかと思うことも度々ありました(意外にも浮かないのですが)。
満員電車では疲労がたまるだけでなく、何ら作業をすることもできないので、時間がもったいないと思うこともありました。

私生活でも、東京で住んでいた街では、ゴルフの練習は高いし、ジムは遠いし、自然はあまりないし、と、便利さを享受しつつも、余暇の過ごし方をもっと充実させたいと感じていました。

世間的にもQOLという言葉が注目されていたこともあり、そのような生活の中で自分のQOLはどのようにすれば改善できるのか、ということを考えるようになりました。

 

小田原への移住を実行しQOL改善に成功

そして、ちょうど住んでいた部屋の更新時期が来たこともあり、自分のQOLを高めるには東京に住み続けるべきか、他の場所に引っ越すべきかということを考えた結果、東京を離れ、かねてより憧れていた小田原市に転居することになりました。

小田原を選んだのは、好きだった戦国大名・北条氏の本拠地であった小田原城の城下町だったこと(重要!)に加え、新幹線停車駅であること、湘南海岸はもとより、箱根・熱海にも近く風光明媚であること、繁華街や商業施設がコンパクトにまとまっていることなどがあります。
また、ゴルフ場が近隣に多くあること、漁港があることなどもポイントでした。

東京から小田原に移住した結果、QOLはかなり向上したと思います。
大好きな小田原城をいつでも見られるということ自体がかなり幸せ(笑)なのですが、ジムやゴルフの練習も気軽かつ安価にでき、何より新幹線通勤によって満員電車から解放されたことが大きいです。
朝もそれほど早い時間に起きる必要はないですし、帰りの新幹線も快適なので、通勤についてはほぼストレスフリーです。

また、割と自然が好きなので、海の音を気軽に聴きに行ったり、山を眺めたり、少し走って富士山を観たりすることもできるのもありがたいです。

 

地方移住でQOLが上がった経験をプレゼンで共有

自分自身が地方移住でQOLを改善できたことに加え、以前より地方の活性化に貢献したいと思っていたところ、母校が所属する同窓会で会員向けにプレゼンをする機会があったので、自分の経験を踏まえ地方移住・遠距離通勤でQOLを改善することについてお話してきました。

せっかくなら少しでも多くの方と共有したいと思いますので、プレゼンで使用した資料を掲載することにします(プライバシーに係る部分については削除しています)。

QOLについて

都会での生活とQOL

 

都会を離れることでQOLを向上させるという選択肢

 

小田原での生活を踏まえたケーススタディ

 

地方移住を考える際の注意点など

 

地方移住にはQOLを大きく改善する可能性がある

以上、地方移住や遠距離通勤によってQOLを改善することについて考えてみました。

プレゼンでも言及した通り、QOLを改善するためにはお金をかけるのが一番近道ですが、予算に制約がある中でQOLを改善するのは容易ではありません。

その点、地方移住は予算の制約をクリアしやすい上、都会での日々の生活を一変させるインパクトがあり、(良くも悪くも)QOLに大きな影響を与える可能性があります。

東京から地方に転居するにはそれなりの決意が必要になりますが、魅力ある地方都市での生活はその決意に値するだけの充実感を与えてくれると思います。

この記事をきっかけに地方移住に関心を持っていただければ幸いです。

今後も小田原生活に関する記事を書いたり、それ以外にも小田原在住東京勤務というライフスタイルに関する情報発信をしていきたいものです(何かないかな…)。

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「外資にお金が流れる」のは悪いことか

「外資にお金が流れるのは悪い」論

統合型リゾート(IR)整備推進法案、いわゆるカジノ法案の議論が佳境に差し掛かっています。

カジノの是非についてはいろんな意見があるので、その誘致に際しては十分に議論していただきたいと思いますが、個人的に気になるのは、主に野党有力議員が唱える「カジノは外資が運営するので、その利益が外国に流れるために国益を損なう」という外資悪玉論ともいえる意見です。

 

 

しかし、自分が属する資産運用業界では外資系運用会社が活躍し、業界の発展に貢献していますし、それ以外の分野でも外国資本・外国会社に利益をあげる機会を提供しつつ、我が国は恩恵を受けてきました。

そのような利益には目を向けず、単に外国に利益が流れるからといって外国資本・外国会社を敵視すること自体が国益を損なうものだと思います。

折角の機会ですので、改めて外資はどのような存在であるのかについて考えてみたいと思います。

 

日本は外資の利益と共存して発展してきた

歴史的に見て、島国である日本は、必然的に他国から最新の技術や考え方を取り入れ、それを上手にアレンジして成長につなげていくという発展の経路をたどることになりました。

古くは中国から、中世・近世には欧州諸国から、そして近代に入ってからは欧米諸国から、時には外国の資本を通じて、外国に対して利益を提供しながら発展してきました。

日本が以下に外国の技術や資本を活用して成長したか、いくつか歴史上の事例を見てみたいと思います。

渡来人

古代日本は文化や技術など多くの分野で中国に依存していたといっても過言ではないと思いますが、その橋渡しをする存在をうまく取り込むことで日本の成長につなげていきました。

その最たるものが、中国や朝鮮半島からやってきた渡来人です。

渡来人は日本に居住したため、現代の外資とは位置付けが少し異なりますが、外国人に報酬や領地を与えて海外の技術や文化を受け入れたという点では外資と似ています。

渡来人氏族としては秦氏(はたうじ)や東漢氏(やまとのあやうじ)が知られ、彼らは土木建築や機織の技術を日本にもたらすと共に、日本での地位を築いていきました。

その後、秦氏や東漢氏は日本に根を下ろし、有力氏族として繁栄しました。

例えば戦国時代に四国を統一した長宗我部氏は秦氏の末裔と言われています。
そういえば、以前ヤクルトスワローズで秦真司という外野手が活躍していましたが、もしかしたら彼も秦氏に縁があるのかもしれません。

このように渡来系の氏族は日本から大いに報われていますが、彼らから得たものはかけがえのないほど大きいものです。

彼らが日本で繁栄したからと言って、外国人に国富が流出したので許せない、などという人はいないでしょう。

それは、彼らが単に日本に根を下ろしたから、というだけではなく、日本にもたらしたものが大きかったからではないでしょうか。

したがって、外国人や外国資本に利益を提供することが国益に適うか否かは、あくまで日本が得たものと比べて評価されるべきでしょう。

 

鉄砲

戦国時代、ポルトガルから鉄砲がもたらされ、合戦のあり方が大きく変わったことはよく知られています(鉄砲伝来の経緯については異説もありますが)。

日本各地で合戦があったことから鉄砲は日本国内で広く普及し、戦国時代の日本は世界の中でも最大の火力を有していたとも言われています。

ただし、鉄砲が普及したのは、単に需要があったというだけではありません。

もう一つ重要な要素として、国内で生産できることにより生産コストが下がったことも挙げられると思います。

鉄砲は海外からもたらされたものであるため海外から高い価格で購入していました。
しかし、それでは大量の鉄砲を揃えることもできないし、海外に資金が流出してしまいます。

そこで、鉄砲が最初にもたらされた種子島の領主・種子島時尭は国産化を図り、見事に成功します。

その結果、鉄砲が普及し、長篠の戦いに代表されるように合戦でも大いに活躍することになりました。

鉄砲のために多額の資金を海外に支払ったことについて、種子島時尭の先見の明を評価することはあっても、国益を損なったという人はいないと思います。

 

お雇い技師

更に時代は下って明治時代。

産業や制度など多くの分野で欧米列強に追いつく必要があった日本は、官民問わず多額の報酬を支払って欧米諸国の技術者や官僚を雇い、産業育成や近代法制度の確立を図ります。

有名な人物としては、「少年よ大志を抱け」で知られる札幌農学校(現在の北海道大学)のクラーク博士、日本の近代法制度の整備に貢献したボアソナード博士、鹿鳴館などの設計に携わった建築家のコンドルなどがいます。

お雇い外国人は、高い人だと有力政治家レベルの報酬をもらっていたようで、平均水準もかなり高かったと言われています。
今より貧富・身分の差が大きかった時代のことであり、一般庶民とは隔絶した水準の報酬であったと思われます。

しかし、彼らのもたらした技術や制度、教育のおかげで日本は大きく成長し、列強の一角を占めることに成功しました。

彼らに払った多額の報酬の大部分はおそらく彼らの母国に移されたと思いますが、それは決して日本の国益を損なうものではなかったでしょう。

 

新幹線

太平洋戦争後、その国力が一気に低下した日本は復興のために国際社会の援助を受けます。

もちろん米国からの援助(ガリオア資金・エロア資金)も大きかったのですが、二国間の支援だけでなく国際機関からの援助を受けるようになったということも時代の変化として注目すべきことだと思います。

そのうち有名な事案としては東海道新幹線の建設に係る国際復興開発銀行(世界銀行)の融資があります(融資自体は世界銀行から国鉄に対して行われています)。

 

 

なんと実際の融資契約も見ることができました。

 

 

世界銀行から受けた融資はプロジェクト費用の1割弱ですが、それでも巨額の融資であり、(当時の国内における貸出金利よりは低いですが)多額の利息が発生し(利率は年利5.75%)、国際機関とはいえ海外に流出します。

しかし、現在新幹線は我が国の交通システムの中核を担い、世界銀行に支払った利息を遥かに超える利益を生み出しています。

また前掲の世界銀行の記事によると、日本はこの融資契約を通じてプロジェクト管理のノウハウを得ることもできたことが指摘されています。

当然ですが、これもまた利益が海外に流れて国益を損なうなどという人はいないでしょう。

海外に利益を提供することについては、あくまで日本が得られる利益と比較して、海外に提供する利益を上回るものを得られるのであれば、外国資本を活用するのは何ら国益に反するものではないといえます。

 

外資によって産業は発展する

現在日本の主要産業となっているものでも、以前は外資が寡占状態にあったものもあります。

それらの産業は勃興期には外資系企業・外国産製品が独占的な地位を占めていましたが、その中で国内企業が技術やノウハウを得て主要産業に成長させています。

現在では国内企業が有力な地位を占めているとはいえ、その礎を作った外国資本の意義は評価されるべきでしょう。

以下にそのような産業の例を挙げてみます。

自動車産業

今や日本が世界に誇る最大の産業ともいえる自動車産業。

特にトヨタグループは世界トップクラスの生産・販売台数を誇るなど、日本のものづくりのシンボルにもなっています。

トヨタに限らず、多くの自動車メーカーが国内外で積極的にビジネスを展開していますし、裾野産業まで含めると日本経済にかなり大きな影響力を持っていると思われます。

このように大活躍の自動車産業ですが、日本で乗用車の国産化が本格的になったのは戦後のことでした(戦争中は軍用のトラック生産がメインでした)。

したがって、国産乗用車が登場するまでは乗用車は輸入に頼っていたことになりますが、もし当時の日本が「自動車を輸入すると外資ばかりが儲けることになるからけしからん」などと言って自動車の輸入を禁止していたら日本において国産車の生産が始まったのはもっと遅くなり、現在に至るまで欧米の自動車メーカーと競うだけの力を持てなかったかもしれません。

そもそも外国企業の利益になることを嫌うのであれば外国企業とビジネスを行うことすら不可能になってしまいますが、今やそのようなことは非現実的です。

公的機関が敢えて国内企業ではなく外国企業の製品やサービスを購入する必要はないかもしれませんが、ことビジネスにおいては自分たちに利益があるのであれば、外資系・外国製品であっても何ら気にすることはないはずです。

 

第三分野の保険

保険といえば生命保険や損害保険という言葉がすぐに出てくると思いますが、そのような保険に加え、最近では医療保険・がん保険などの新しい分野も注目されています。

このような保険は、第一分野の保険(生命保険)・第二分野の保険(損害保険)に対し第三分野と言われますが、実は当初は国内の保険会社が取り扱うことは禁止されていて、2001年に自由化されるまでは外資系の保険会社しか取り扱うことができませんでした。

この背景には米国との政策的な合意があったとされていますが、自由化までは外資系保険会社しか取り扱うことができなかったため、外資系のシェアが高く、今でもアフラックなどの外資系が強い分野です。

では、当時の日本は「外資系しか販売できないのであれば外国に利益が流れるばかりだから日本では第三分野保険は認めない」という姿勢を取るべきだったでしょうか。

おそらくそれは誤りでしょう。

多くのニーズがあったということは、そのような保険商品が登場することで恩恵を受ける消費者が多く存在したことを意味します。

もちろん現在のように国内保険会社にも市場が開放されている方が望ましいとは思いますが、それでも外国に流れた利益以上に国内の消費者が受けた恩恵のほうが大きいでしょう。

ビジネスを行う者が誰であれ、消費行動が行われるということは、その商品やサービスで価値を得ている消費者がいる、ビジネスが行われていること自体が価値をもたらしているということは忘れてはならないと思います。

 

外資は国民生活にも利益をもたらす

外資系企業であっても、日本においては基本的には日本の法律に従ってビジネスを行うため、最終的な利益の分配を除けば国内企業と同じような恩恵を日本経済にもたらします。

雇用の拡大

企業が経済活動をすることによる最大の恩恵は雇用の拡大ではないでしょうか。

そしてそれは外資系企業も同じです。

だからこそ少なくない国や地域が対外直接投資(FDI)の誘致を行って雇用の拡大を図ろうとしています。

仮に利益がが海外に移されようとも、雇用という形で受入国は恩恵を受けることができます。

 

外資ならではの技術・サービスの提供

外資が日本でビジネスを行う動機としては、日本にはない商品やサービスを日本に持ち込んで営業するということが主だと思います。

また、外資系企業は国内企業と別の環境で成長しているため、企業文化や戦略も日本の企業とは異なることも少なくないでしょう。

つまり、外資を受け入れるということは日本には従来なかった商品やサービス、さらには企業文化や経営戦略など新しいものに接する機会を得るということでもあると思います。

実際、私が所属する資産運用業界において、外資系運用会社は日系運用会社がなかなか提供できない海外市場への投資商品や運用戦略を持ち込むことによって日本の投資家にそのような投資商品・運用戦略にアクセスする機会を提供しています。

もし日本で外資系運用会社の存在が認められなかったら(実際認められなかった時期もありますが)、日本の投資家の選択肢はかなり狭くなっていたことでしょう。

金融に限らず、我々の日常生活には外国製品が少なからずありますが、海外にお金が流れるからといってそれらを排除してしまうと、我々の生活はずいぶん色あせたものになるのではないでしょうか。

 

納税

外資系企業が現地にもたらす経済的な恵みとしては納税も重要です。

(租税回避の方法はあるかもしれませんが、)外資系企業も国内企業同様に納税の義務があるため、利益が出たら、まず納税を行う必要があります。

さらに外資系企業から所得を得ている従業員も納税を行うため、外資系企業といっても、直接的・間接的に納税を行うことで現地社会に貢献することになります。

 

 

良いビジネスは誰がしても良く、悪いものは悪い

カジノ法案の論点の一つとして、「分配の公益性」というものがあるようです。

日本で賭博事業が認められる要件として、賭博事業で得た利益が公益性のある対象に分配されていれば問題ないですが、そうでなければ賭博事業は認められないということです。

 

 

その論点を論じるにあたって、「海外のカジノ事業者にはオーナー企業もあり、賭博事業の利益が海外の金持ちに流れるのだからカジノは認められない」という意見があります。

しかし、その論点の本質は利益の分配が公共部門に行くのか、私企業や個人に行くのか、ということであり、国内か海外かが問題ではないはずです。
仮に日本人のカジノオーナーにわたるのであれば、やはり問題とされるべきでしょう。
ただし、日本の公共部門ないしNPO・NGOにわたるのか、外国の公共部門や国際機関にわたるのか、で問題になることはあり得ると思います。

これに限らず、基本的には国内企業も外資系企業も同じ国内法の下で活動するのであり、そのビジネスの是非について異なる基準で判断すべきではないと思います。

もちろん安全保障等の観点から外資系企業にのみ独自の規制を課すべき場合もありえますが、それも外資排除の隠れ蓑にならないよう、最低限になされるべきです。

 

大事なのは外資の排除ではなく活用

このように我が国は外国資本・海外人材の協力を得て発展してきましたし、多くの分野でグローバル化が進む中、その傾向は強まることはあっても、低下することはないでしょう。

また、逆に多くの日本人や日本の起業も海外に進出し、活躍しています。

そのような中、外資だから、外国人だからといって、合理的な理由なく排除してしまうのは、我々にとってもマイナスになるように思います。

カジノにしても、経営ノウハウが豊富な外資系企業を誘致することにより、そのノウハウを蓄積することで日系企業がカジノを経営することも可能になると思います。
(カジノ自体が認められないのであれば、それは日系・外資問わず禁じられるべき)

海外に利益が流れるくらいならせめて日本人・国内企業に、というのは感情としては理解できますが、長い目で見るとやはり外資を受け入れて実を取る方が「日本らしい」ように思いますが、いかがでしょうか。

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