コフィ・アナン元国連事務総長を悼む

コフィ・アナン元国連事務総長死去

カリスマ事務総長・アナン氏の足跡

2018年8月18日に、コフィ・アナン元国連事務総長が亡くなったという報道がありました。

 

国際政治や彼の経歴について詳しいわけではありませんが、国連の生え抜き職員で、PKO(平和維持活動)の指揮をとったり、湾岸戦争時には900人の国連スタッフの脱出及び人質解放の交渉にあたったり、米国のイラク攻撃に反対したり、あるいは国連改革について積極的に動いたり、と国連主導の平和維持に貢献された偉大な方だと思います。

なお、その活動が評価され、2001年には国連と連名でノーベル平和賞も受賞しています。

 

国際政治だけでなくミクロな視点での社会的課題の解決に取り組む

しかし、個人的には国際政治における活躍だけでなく、もう少しミクロな分野におけるリーダーシップこそ、アナン氏の先見性や人類における貢献なのではないかとも思います

アナン氏の貢献された分野は幅広く、少し調べただけでもいろいろ出てくるのですが、私が特に印象に残っているのは、2000年の国連ミレニアム・サミットでミレニアム開発目標(MDGs: Millennium Development Goals)の設定に貢献したことや国連グローバルコンパクト(UN Global Compact)責任投資原則(PRI: Principle of Responsible Investment)を立ち上げ、公共部門だけでなく民間セクターも巻き込んで社会的課題を改善する仕組みを築き上げたことです。

アナン氏は1997年に国連事務総長に就任してすぐに国連改革案を提示しましたが、その中で民間セクターの役割を重視し、民間セクターを国連の重要なパートナーと位置付けて社会的課題に取り組んでいくことを主張しています(下記文書のP22 No.59及び60参照)。

 

貧困や環境問題といった社会的課題に取り組むのは公共部門の役割であるというのが伝統的な考え方でしたが、アナン氏はそれを否定し、存在感を増しつつあるNPOや企業部門との連携によって効率的に社会的課題を解決できると唱えています。

日本でも1995年の阪神大震災を契機としてボランティアに対する注目が高まり、1998年には特定非営利活動促進法(いわゆるNPO法)が制定されていますが、その時期にはすでにアナン氏は世界規模で民間セクターと協働することについてのビジョンを持っていたことになります。

今では欧米各国はもとより、日本においても多くの分野でNPO/NGOが社会的課題の克服に取り組んでおり、アナン氏の先見性が証明されているとも言えそうです。

 

アナン元国連事務総長が遺したフレームワーク

前述のようにアナン元事務総長は民間セクターの役割を重視していたため、民間セクターを巻き込んだフレームワークを築き上げました。

それらは設立されてからそれなりに時間が経っているにも関わらず、依然として行動指針としての有効性を失っていないばかりか、近年さらにその影響力が強まっています。

それは民間の非営利セクターだけでなく、営利セクター、すなわち一般企業に対しても影響力を持ちつつあります。
金融業界もその例外ではなく、改めてアナン氏の影響力を感じています。

彼が残したフレームワークの中で、特に印象に残っているものをご紹介したいと思います。

ミレニアム開発目標(MDGs)

彼が国連事務総長に就任したのは1997年。
節目の2000年まであとわずかです。

その節目を迎える中、世界には依然として貧困や病気、機会の不均衡に苦しむ人たちがいました。
そこで、国連ではそのような社会的課題に取り組み、人類全体の生活水準を向上させるため、大規模な国際会議を行うことになりました。

それがミレニアム・サミットで2000年9月に国連本部において開催されました。
各国の首脳のみならず多くの分野の人が集まったようで、少なくとも当時においては史上最大の人数が集まった国際会議だったようです。

ミレニアム・サミットでは多くの分野において議論がなされた結果、最終的に8つの分野で開発目標(MDGs)が設定されました。
この目標は、世界最大の会議で合意されたことにも意義がありますが、5年ごとに定量的にレビューがなされることとされたことが大きな特徴だと思います。

 

アナン氏はミレニアム・サミットに先立ち、国際社会が超面する課題と21世紀に国連が果たすべき役割を示したレポートを提示し、国際社会の意見集約に勤めるなど、サミットにおいて果たした役割も大きく、彼自身自分のキャリアのハイライトとしてミレニアム・サミットを挙げているほどです。

 

そして現在は2015年に設定されたMDGsの後継である持続可能な開発目標(SDGs: Sustainable Development Goals)が走っています。

SDGsは行政のみならず一般企業でも取り組みに力を入れている会社が多く、例えば証券業界の業界団体である日本証券業協会もSDGsに力を入れていて、投資分野における社会的課題への貢献が期待されるところです。

 

このようにSDGsやそれを企業において具体化するCSR(企業の社会的責任)が普及するしているのを見ると、アナン氏の取り組みの先見性に感銘を覚えます。

 

国連グローバル・コンパクト(UNGC)

民間セクターとの連携に意欲を示すアナン事務総長はビジネスセクターが担うことのできる役割についてもビジョンを示しました。

1999年、ビジネス界のリーダーが集まる世界経済フォーラム(ダボス会議)にてそのリーダーたちに、ビジネス界が国連と協働して社会的課題に取り組むことの意義を提唱し、2000年には国連本部にて「国連グローバル・コンパクト」と称して、そのイニシアティブに同意する企業と国連が協働して社会的課題に取り組む活動が始まりました。

国連グローバル・コンパクトは「人権」「労働」「環境」「腐敗防止」に関する10の原則について同意した企業が署名するもので、現在13,000を超える団体がその趣旨に賛同して署名しています。

 

日本においても近年企業の社会的責任(CSR)が注目されていることを考えると、これもまたアナン氏の見通しの確かさを示していると言えそうです。

自分も学生の頃、企業の社会的責任に関心があったのですが、当時注目されつつあった企業の社会的責任の背景に国連グローバル・コンパクトがあったのだとしたら、アナン氏の取り組みが自分の生き方、考え方にも多少影響していたのかもしれません。

 

責任投資原則(PRI)

責任投資原則(PRI)とはその名の通り、運用会社や資産管理会社(年金基金を含む)が、その運用にあたって社会的な配慮を行うというもので、その趣旨に賛同する運用会社や年金基金が署名して、各々その運用プロセスにおいて社会的な要素を組入れていくことが求められます。

 

国連グローバル・コンパクトでは企業に対して社会的課題に向き合うよう要請しましたが、PRIは機関投資家に対して社会的な要素を考慮することで、社会的課題に向き合う起業に対して資金調達の面から支援するとともに、間接的に個人投資家のお金が社会的課題を無視した企業に投資されるのを防ぐという面があります。

このPRI設立を主導したのもアナン元国連事務総長です。
2005年に機関投資家に対してPRIの趣旨に賛同するよう呼びかけ、2006年に正式に発足します。

下記のグラフは2006年4月~2018年4月(年次)のPRIに賛同する運用会社・機関投資家の数(右側)と資産の額(左側、US$ trillion)ですが、2006年に小さく始まったPRIの取り組みが2018年には大きく成長しているのがわかります。

(出所:PRIウェブサイト https://www.unpri.org/about-the-pri

 

私が資産運用業界に関心を持った10年ほど前には、日本の運用会社でPRI署名している会社は数社でした。
しかし、ESG投資(環境・社会・ガバナンスといった社会的要素に配慮する運用)が注目される現在は60社を超える運用会社・機関投資家がPRIに署名しています。

このようにアナン氏の「民間セクターが社会的課題の克服に参画する」というビジョンは、資産運用業界においても実を結んでいます。

 

行政・民間・金融の三位一体で社会的課題と戦う

このように、アナン氏の基本的なビジョンとして、国連を中心とする行政機関・国際機関が企業やNPO/NGOと連携して社会的課題に取り組み、それを金融が資金面でサポートするということがあったと思います。

そして、それは前述のように、時間が経つとともに社会的に認知され、実行されています。

我が国においても多くの若いNPOのリーダーが活躍していますし、金融面でも企業やNPOをサポートするような動きがみられるようになっています。

もちろん、それはそれぞれの企業やNPO、金融部門の方々の努力のたまものであるわけですが、その大きな流れを作り上げた人が国連にいた、ということは興味深いと思います。

アナン氏の尽力によって、多くの社会的課題の分野で改善がみられるものの、まだまだ社会的課題の根絶には至っていません(だからこそSDGsが新たに策定されたと言えます)。

そして、貧困や社会的人権の問題は発展途上国だけでなく、先進国である日本でも他人事ではない状態です。
実際、貧困や差別・いじめなどに関する報道は後を絶ちません。

アナン氏のフレームワークを用いるならば、国内においても多くの社会的課題に行政・民間・金融の三位一体で取り組むことが有益だと考えられます。

金融業界の一員として、あるいは一人の民間人として自分が何をなすべきなのか、ということについてまだ答えは出せていませんが、アナン氏のビジョンを頭の片隅に置きつつ、自分の周りにも社会的課題があることを意識していきたいと思います。

そして、いつかは何らかの形でアナン氏の三位一体の一員となって小なりといえども社会的課題の克服に貢献できたらと思います。

 

どうぞ、安らかに。

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連絡ミスがもたらす惨事

些細な連絡ミスが大きな被害をもたらす

社会人が組織の一員として、あるいは取引先と仕事をするには、きちんとコミュニケーションをして疎漏ない意思疎通を図ることが重要です。

実際、社会人にとって「報・連・相」は基本的な所作ですし(本来は「報・連・相」がきちんとできるように上司が環境を作るべきという趣旨らしいですが)、就職活動などで採用する側はたいてい「コミュニケーション力を重視する」といいます。

「コミュニケーション力」がどのような能力であるかはさておき、事実関係や自分の考えを、適時かつ正確に、伝えるべき相手に伝えることはその能力に含まれると思います。

しかし、日常業務でも日常生活でも、あるいはスポーツでも往々にして連絡ミス、連絡漏れというのは目にします。
伝えるべき情報・相手が漏れていた、伝わっていると思っていたのに伝わっていなかった、間違った情報を伝えていた、後で伝えるつもりだった。こんな話はよくあります。
実のところ、自分もそのようなポカをやってしまい、苦い思いをしたことは何度もあります。
その都度、大目玉をくらい、今度は気をつけよう、と何度も反省してきました(汗)

幸か不幸か、自分の場合は大目玉で済んだのですが、連絡ミスが取り返しのつかない事態につながってしまうこともあります。
ビジネスやプライベートでもそうですし、歴史上の出来事でも連絡ミスが歴史を変えたというケースがあります。

ということで、自戒を込めつつそんな歴史上の事件を見てみようと思います。

 

後北条氏滅亡の原因は「連絡ミス」!?

豊臣秀吉の小田原征伐を回避できなかった北条氏

戦国時代、関東に覇を唱えた北条氏ですが、急速に勢力を拡大する中央政権を無視することはできず、織田信長が武田氏を圧迫する頃には織田政権に従属する意思を示していました。

本能寺の変で信長が横死した後に織田政権に反旗を翻すものの、豊臣政権が覇権を確実なものにすると北条氏に対しても臣従を求めるようになります。

当時の当主・北条氏直及び前当主・氏政も臣従を決意し、その旨を豊臣秀吉に伝えています。一般には豊臣政権の強大さがわからなかった愚将と言われる氏政ですが、織田政権に従属したのをみても分かる通り、決して中央政権を軽視していたわけではなく、彼我の差についてはよく理解していました。

戦国大名同士のやりとりですので手続き面は複雑であるにせよ、本来であればここで北条家が豊臣家に臣従して豊臣秀吉の天下統一完成、となるはずでした。

秀吉が北条家をどのように見ていたのかについては諸説ありますが、北条家はその時点で徳川家に匹敵する勢力を有していたため、おそらく徳川・上杉・毛利などと並び、豊臣政権で重きをなしたのではないかと想像します。

しかし、残念なことに豊臣政権と北条氏の間で意思疎通がうまくいかなかったため、北条家は秀吉の怒りを買い、小田原征伐により滅亡することになりました。

 

小田原征伐の背景

北条家が豊臣政権に従属する前提の一つとして、北条家が自家のものとして主張し、攻略を進めていた真田家が治める沼田領の引き渡しがありました。
もともと信長死後の天正壬午の乱終結時に、徳川家との交渉で北条領となる予定の地ではありましたが、徳川傘下の真田家が引き渡しに応じず、北条家も自力で攻略できなかったいきさつがあります。
※信長死後、織田家の信濃・甲斐・上野を巡って徳川家と北条家が争った事件

最終的には豊臣政権の裁定で3分の2は北条領、残りを真田領とすることで合意がなされ、そのうえで北条家の最高権力者である北条氏政が上洛するということになりました。

しかしながら、なぜか北条家は真田領を攻撃してしまい、豊臣政権との合意を破ってしまいます。
さらに氏政の上洛が遅れている(と認識された)ことが秀吉の怒りを買い、この2つの要因で秀吉は北条家の征伐を決意します。

そもそも北条家が豊臣政権との合意を破棄したこと自体が問題ですが、それとは別に、2つの「連絡ミス」が北条家にとっての致命傷になります。

 

北条氏を危機にさらした「連絡ミス」(1)

北条氏の犯した連絡ミスの一つは、真田領を攻撃したことについて、特に豊臣政権について連絡していなかったことです。

北条氏は真田領を攻撃したことが豊臣政権に対する敵対行為であるという認識がなかったのか、戦国時代の感覚で実力行使で奪った領土は自分のものだという認識だったのか、あるいは単なる小競り合い程度の些細な事件という程度に思っていたのかわかりませんが、北条氏からこの事件について豊臣家への連絡はありませんでした。

物事を適切に連絡するための前提として、事実関係及びその事実が持つ意味を正確に把握する必要があります。
その認識が不適切であれば、間違った情報を伝達したり、必要な連絡がなされなかったりして、その後の対応に大きな影響を及ぼします。

この場合、北条氏は真田領攻撃が豊臣政権に対して報告しなければならない事実ではないという誤った認識をしてしまったことにより、豊臣家に報告や謝罪を行うこともなく、小田原征伐の口実を与えてしまうという致命的な連絡ミスを惹起することになりました。

連絡(報告)が必要であるという認識を欠いて、連絡をすべきところをしていない、ということも連絡ミスですので、連絡の仕方云々以前に、連絡をするか否かの判断自体が適切な連絡の第一歩であることを教えてくれます。

 

北条氏を危機にさらした「連絡ミス」(2)

2つ目の連絡ミスは北条家と豊臣政権の間で北条氏政が上洛する時期が正確に共有されていなかったことです。

沼田領の裁定が終わったことにより、氏政は1589年(天正17年)12月に上洛する予定でした。そのために領国全体に費用負担を求めることまでしています。

しかし、11月に沼田領裁定の御礼に上洛した北条家の使者は秀吉に激怒されています。
一つはそもそも真田領を攻撃したことに対するものですが、もう一つは氏政の上洛が遅いということでした。

そもそも氏政の上洛は12月に予定されているので11月の段階で遅いと言われる筋合いはありません。北条側の使者も困惑したことでしょう。
一方、秀吉の方は11月に上洛すると認識していたようです。
しかし、誰もその認識の齟齬を埋めてくれませんでした。
逆に12月では秀吉が待てないということを北条氏に伝えてくれる人もいませんでした(本来であれば北条家と豊臣政権の橋渡しをしている取次役の役人や大名としてその役割を担っている徳川家康が伝えるべきであったと思います)。

そして北条家は上洛が遅い=約束違反という罪過を突き付けられることとなり、北条家滅亡へとつながってしまいます。

ちなみに北条家との取次役であった役人は職務怠慢ということで秀吉に責められています。そもそも小田原征伐をすること自体が豊臣政権にとっても望ましいことではなかったので、この連絡ミスは豊臣側にとっても痛かった、ということかもしれません。

 

ありがち(?)な連絡ミスで滅亡した北条氏

北条氏が滅亡する要因となった連絡ミスを2つみましたが、どちらも現在のビジネスでも生じうるミスだという感じがします。

1つ目の連絡ミスでいうと、何かトラブルがあったときに、そのトラブルの本質が何かを理解できないため、あるいは隠ぺいするために影響のある顧客・取引先、あるいは当局などに連絡すべきところ連絡をしていなかった、という感じでしょうか。

2つ目のミスは、顧客や取引先との商談やプロジェクトでスケジュール調整をしようとするときに、お互いの認識に齟齬があって話が微妙にすれ違っているのに、誰もそれを調整することなく話を進めていたら、いざ納品やサービスのローンチをしようとしたら当事者の誰かの担当が遅れていることが発覚し、大損害を被る、という感じになるのでしょう。

連絡というのは作業としては大きなものではありませんが、ビジネスであれ外交であれ、他者と何かを進めるためには非常に重要なものであることはいうまでもありません。

それゆえに連絡の重要性は社会人なら誰しも教わることだと思いますが、それが戦国最大級の戦国大名の滅亡につながるほどのインパクトを生じさせうるということを肝に銘じ、業務上の連絡については慎重かつ丁寧に行わなくては、と改めて感じさせられました。

 

真珠湾攻撃は「連絡ミス」で奇襲の汚名を被った

太平洋戦争に至る日米交渉

戦前、日本による中国大陸や東南アジアへの進出や日独伊三国同盟の締結などに対抗するため、米国による重要資源の輸出停止により日本の国民経済にも影響が出るなど、日米間の緊張は日を追うごとに増していきました。

当時、日本は原燃料の多くを米国に依存していたこともあり、米国との緊張緩和は国家存続のための重要課題でした。
一方、米国との交渉が成立しなかった場合、実力行使をして状況の打開を図るほかはありませんでした。

そのため、日本政府は交渉成立を第一優先としながらも、日本にとって許容可能な条件で交渉がまとまらない場合は米国との戦争も辞さない構えでした。

1941年に入り、日米は激しい交渉を続けますが、交渉期限としていた11月までに交渉はまとまらず、12月1日、日本は米国と戦争することを決断します(米国から最後に提示されたのがハル・ノートです)。

そして12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争の火ぶたが切って落とされます。

この真珠湾攻撃は一般に奇襲であったと言われ、米国人は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を合言葉に日本への敵意を燃やしたとされています。

真珠湾攻撃が奇襲とされる理由は、日本が宣戦布告を行う前に攻撃を開始したためとされています。
実際、在米日本大使の野村吉三郎がルーズベルト大統領に宣戦布告の書面を手交したのは真珠湾攻撃の1時間後でした。

しかし、日本は真珠湾攻撃の前に宣戦布告の手続きを完了させ、法的には奇襲の形をとる予定ではありませんでした(戦略・戦術的には奇襲だと思いますが)。
にもかかわらず、結果的に奇襲となってしまい、米国民の士気を高揚させる結果を招くことになりました。

 

なぜ宣戦布告は遅れたのか

宣戦布告は当時の外交上の重要事項であり、外務省も滞りなく手続きができるように準備を進めていました。

そして宣戦布告前日、宣戦布告文案が東京の外務省からワシントンの日本大使館に電報で届けられます。
それは大使館で英文の宣戦布告文書に仕立てられたうえで、真珠湾攻撃の前に米国側に手交される予定でした。

しかしながら、作業の途中で大使館員総出で異動になる外交官の送別会を行い、翌朝作業を再開しても間に合わなかった、と言われています。

この電報は極秘扱いされており、ことの重大性は十分に認識されていたにもかかわらず、何らかの重要な注意事項が漏れていたという「連絡ミス」があったといえます。

本当に至急かつ正確に取り扱う必要があるものだと情報伝達がされていて、送別会にも優先すべきことだという認識が共有されていれば、奇襲の汚名は避けられたかもしれません。

ちなみに外務省から在米大使館に送られた電報は国立公文書館で公開されています。

 

 

太平洋戦争の宣戦布告遅れにみる教訓

この事例から、連絡ミスに関してどのような教訓が得られるでしょうか。

連絡ミス以前に大使館職員の職務怠慢ということは言えるかもしれませんが、それでもなおそれを防ぐような連絡の仕方はあったのかもしれません。

もちろん極秘情報であるため連絡方法には厳しい制限がありますし、受け手も外交官で外交に関する手続きやその重要性については十分に知悉しているわけですから、もはや連絡の問題ではないのかもしれません(電報の現物を見てもかなり具体的な情報・指示が書かれていましたし)。

それでもなお、例えば作業の見込み時間やスケジュール感について確認しておく、遅延した場合のリスクについて共有する、ということはできたのかもしれません。

歴史の当事者でも外交官でもない私には上記のケースにおける情報伝達の是非について評価することはできませんが、自分が重要な指示を行う際には、極力正確な内容が伝わり、期待した通りの成果を出してもらえるような工夫(目的の共有、指示の具体化など)をしようと思いました。

実際自分の業務でも他部署に対して指示・依頼を出すことはあるので、決して他人ごとではなさそうです。

 

歴史に見る「連絡ミス」の要因

歴史上大きなインパクトをもたらした連絡ミスの事例を二つ見ましたが、たった二つの事例でも学ぶべきところは少なくないように思います。

上記の事例の教訓としては、
・物事の全体像を正しく理解し、誰にどのように伝えるかを正しく把握する
・関係者間で認識の不一致があれば、すぐに認識の統一を図る
・指示を伝える場合は、目的を共有したり具体的な指示にしたりする

古今東西を問わず、誰かと一緒に物事を進めていく以上、連絡は必須のものであり、また相手は自分とは違う人間であるがゆえにどうしても連絡ミスは生じます。
連絡ミスのパターンも千差万別で、書いていけばそれだけでも本になりそうです。

だからこそ、連絡をいかに正確に、円滑に行うかが共同作業や商談、外交などの成否に大きく影響してくるのだと思います。
それが重大な情報伝達や指示だけでなく、ちょっとした違和感や事務的なことであっても、その正しい連絡を疎かにすると痛い目に合うというのは、これらの歴史的な事件を見るまでもなく明らかです。

時として連絡は面倒ですし、忙しいと疎かになったりすることもありますが、やはり連絡は社会人としての所作の基礎ということで、手を抜かないように肝に銘じたいと思います。
例えば少しでも情報共有に違和感があったら確認し、スケジュールはこまめに共有(リマインドなど)する、といったことは今一度自分の中で習慣づけたいものです。

 

歴史上の連絡ミス(おまけ)

連絡ミス?で違う城を破却

江戸時代前期、松江藩主の堀尾忠晴は幕府から亀山城の天守の破却を命じられます。

忠晴は命令通り亀山城の天守を破却。
これにてお役御免、となるはずでしたが、「なんで亀山城の天守破却してるの!?」と言われることに。

実は、幕府は(丹波)亀山城の天守を破却するように命じたのですが、忠晴は(伊勢)亀山城の天守を破却してしまったのでした。

幕府が亀山城とだけ指示したのかわかりませんが、やっぱり指示は誤解を招かないように伝えなければいけませんね。
そしてその際には、自分の指示に思い込みなどがないかも確認する必要がありそうです。

 

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地方移住・遠距離通勤とQOL

日々の生活の質が人生の充実度を左右する

自分の人生を充実したものにしたい、というのは誰しも思うことでしょう。

「人生の充実」の定義は人によって異なるため、例えば歴史に残るような偉業を達成しなければ充実した人生とは言えない、という人もいるでしょうが、多くの人にとっては、日々の生活が充実していることが人生の充実につながっていくのだと思います。

その日々の生活の充実度合いを言い換えると、生活の質:Quality of Life(QOL)となります。

QOLは、自由な時間がどのくらいあるか、健康状態、人間関係、仕事のストレスや通勤時に疲労度などによって左右されます。
そして、QOLを構成する各要素を改善することでQOLが向上し、日々の生活が充実して幸せになっていく、という好循環が生まれます。

したがって、QOLを構成する要素を把握して、改善していけば日々の生活が充実し、幸せになれるということです。
言葉にしてみると当然のことではありますが、日々の生活を淡々とこなしているとQOLの改善を考えることはあまりありません。
しかも、具体的に検討してみると改善ができそうなこと、難しいことがあります。

自分も東京で淡々と過ごしていた頃は特に自分の生活に疑問を抱くこともなく、日々の生活を当然のものとして受け入れていたように思います。

 

東京での生活に疑問を抱き、地方移住を決断通勤

東京での生活に対する不満と疑問

日々自分の生活を当然に受け入れるといっても、やはり不満はありました。
一番嫌だったのは朝の満員電車。

都市圏に通勤する人であれば誰しも満員電車の苦痛を味わったことがあると思います。
私もいくつかの街から東京に勤務していましたが、特に東急や小田急といった人気路線で通勤していたときは文字通りギュウギュウ詰めで、出勤するだけで疲労が溜まっていました。

雨の日には、限界だと思っていた乗車率がさらに高くなり、体が浮くのではないかと思うことも度々ありました(意外にも浮かないのですが)。
満員電車では疲労がたまるだけでなく、何ら作業をすることもできないので、時間がもったいないと思うこともありました。

私生活でも、東京で住んでいた街では、ゴルフの練習は高いし、ジムは遠いし、自然はあまりないし、と、便利さを享受しつつも、余暇の過ごし方をもっと充実させたいと感じていました。

世間的にもQOLという言葉が注目されていたこともあり、そのような生活の中で自分のQOLはどのようにすれば改善できるのか、ということを考えるようになりました。

 

小田原への移住を実行しQOL改善に成功

そして、ちょうど住んでいた部屋の更新時期が来たこともあり、自分のQOLを高めるには東京に住み続けるべきか、他の場所に引っ越すべきかということを考えた結果、東京を離れ、かねてより憧れていた小田原市に転居することになりました。

小田原を選んだのは、好きだった戦国大名・北条氏の本拠地であった小田原城の城下町だったこと(重要!)に加え、新幹線停車駅であること、湘南海岸はもとより、箱根・熱海にも近く風光明媚であること、繁華街や商業施設がコンパクトにまとまっていることなどがあります。
また、ゴルフ場が近隣に多くあること、漁港があることなどもポイントでした。

東京から小田原に移住した結果、QOLはかなり向上したと思います。
大好きな小田原城をいつでも見られるということ自体がかなり幸せ(笑)なのですが、ジムやゴルフの練習も気軽かつ安価にでき、何より新幹線通勤によって満員電車から解放されたことが大きいです。
朝もそれほど早い時間に起きる必要はないですし、帰りの新幹線も快適なので、通勤についてはほぼストレスフリーです。

また、割と自然が好きなので、海の音を気軽に聴きに行ったり、山を眺めたり、少し走って富士山を観たりすることもできるのもありがたいです。

 

地方移住でQOLが上がった経験をプレゼンで共有

自分自身が地方移住でQOLを改善できたことに加え、以前より地方の活性化に貢献したいと思っていたところ、母校が所属する同窓会で会員向けにプレゼンをする機会があったので、自分の経験を踏まえ地方移住・遠距離通勤でQOLを改善することについてお話してきました。

せっかくなら少しでも多くの方と共有したいと思いますので、プレゼンで使用した資料を掲載することにします(プライバシーに係る部分については削除しています)。

QOLについて

都会での生活とQOL

 

都会を離れることでQOLを向上させるという選択肢

 

小田原での生活を踏まえたケーススタディ

 

地方移住を考える際の注意点など

 

地方移住にはQOLを大きく改善する可能性がある

以上、地方移住や遠距離通勤によってQOLを改善することについて考えてみました。

プレゼンでも言及した通り、QOLを改善するためにはお金をかけるのが一番近道ですが、予算に制約がある中でQOLを改善するのは容易ではありません。

その点、地方移住は予算の制約をクリアしやすい上、都会での日々の生活を一変させるインパクトがあり、(良くも悪くも)QOLに大きな影響を与える可能性があります。

東京から地方に転居するにはそれなりの決意が必要になりますが、魅力ある地方都市での生活はその決意に値するだけの充実感を与えてくれると思います。

この記事をきっかけに地方移住に関心を持っていただければ幸いです。

今後も小田原生活に関する記事を書いたり、それ以外にも小田原在住東京勤務というライフスタイルに関する情報発信をしていきたいものです(何かないかな…)。

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「外資にお金が流れる」のは悪いことか

「外資にお金が流れるのは悪い」論

統合型リゾート(IR)整備推進法案、いわゆるカジノ法案の議論が佳境に差し掛かっています。

カジノの是非についてはいろんな意見があるので、その誘致に際しては十分に議論していただきたいと思いますが、個人的に気になるのは、主に野党有力議員が唱える「カジノは外資が運営するので、その利益が外国に流れるために国益を損なう」という外資悪玉論ともいえる意見です。

 

 

しかし、自分が属する資産運用業界では外資系運用会社が活躍し、業界の発展に貢献していますし、それ以外の分野でも外国資本・外国会社に利益をあげる機会を提供しつつ、我が国は恩恵を受けてきました。

そのような利益には目を向けず、単に外国に利益が流れるからといって外国資本・外国会社を敵視すること自体が国益を損なうものだと思います。

折角の機会ですので、改めて外資はどのような存在であるのかについて考えてみたいと思います。

 

日本は外資の利益と共存して発展してきた

歴史的に見て、島国である日本は、必然的に他国から最新の技術や考え方を取り入れ、それを上手にアレンジして成長につなげていくという発展の経路をたどることになりました。

古くは中国から、中世・近世には欧州諸国から、そして近代に入ってからは欧米諸国から、時には外国の資本を通じて、外国に対して利益を提供しながら発展してきました。

日本が以下に外国の技術や資本を活用して成長したか、いくつか歴史上の事例を見てみたいと思います。

渡来人

古代日本は文化や技術など多くの分野で中国に依存していたといっても過言ではないと思いますが、その橋渡しをする存在をうまく取り込むことで日本の成長につなげていきました。

その最たるものが、中国や朝鮮半島からやってきた渡来人です。

渡来人は日本に居住したため、現代の外資とは位置付けが少し異なりますが、外国人に報酬や領地を与えて海外の技術や文化を受け入れたという点では外資と似ています。

渡来人氏族としては秦氏(はたうじ)や東漢氏(やまとのあやうじ)が知られ、彼らは土木建築や機織の技術を日本にもたらすと共に、日本での地位を築いていきました。

その後、秦氏や東漢氏は日本に根を下ろし、有力氏族として繁栄しました。

例えば戦国時代に四国を統一した長宗我部氏は秦氏の末裔と言われています。
そういえば、以前ヤクルトスワローズで秦真司という外野手が活躍していましたが、もしかしたら彼も秦氏に縁があるのかもしれません。

このように渡来系の氏族は日本から大いに報われていますが、彼らから得たものはかけがえのないほど大きいものです。

彼らが日本で繁栄したからと言って、外国人に国富が流出したので許せない、などという人はいないでしょう。

それは、彼らが単に日本に根を下ろしたから、というだけではなく、日本にもたらしたものが大きかったからではないでしょうか。

したがって、外国人や外国資本に利益を提供することが国益に適うか否かは、あくまで日本が得たものと比べて評価されるべきでしょう。

 

鉄砲

戦国時代、ポルトガルから鉄砲がもたらされ、合戦のあり方が大きく変わったことはよく知られています(鉄砲伝来の経緯については異説もありますが)。

日本各地で合戦があったことから鉄砲は日本国内で広く普及し、戦国時代の日本は世界の中でも最大の火力を有していたとも言われています。

ただし、鉄砲が普及したのは、単に需要があったというだけではありません。

もう一つ重要な要素として、国内で生産できることにより生産コストが下がったことも挙げられると思います。

鉄砲は海外からもたらされたものであるため海外から高い価格で購入していました。
しかし、それでは大量の鉄砲を揃えることもできないし、海外に資金が流出してしまいます。

そこで、鉄砲が最初にもたらされた種子島の領主・種子島時尭は国産化を図り、見事に成功します。

その結果、鉄砲が普及し、長篠の戦いに代表されるように合戦でも大いに活躍することになりました。

鉄砲のために多額の資金を海外に支払ったことについて、種子島時尭の先見の明を評価することはあっても、国益を損なったという人はいないと思います。

 

お雇い技師

更に時代は下って明治時代。

産業や制度など多くの分野で欧米列強に追いつく必要があった日本は、官民問わず多額の報酬を支払って欧米諸国の技術者や官僚を雇い、産業育成や近代法制度の確立を図ります。

有名な人物としては、「少年よ大志を抱け」で知られる札幌農学校(現在の北海道大学)のクラーク博士、日本の近代法制度の整備に貢献したボアソナード博士、鹿鳴館などの設計に携わった建築家のコンドルなどがいます。

お雇い外国人は、高い人だと有力政治家レベルの報酬をもらっていたようで、平均水準もかなり高かったと言われています。
今より貧富・身分の差が大きかった時代のことであり、一般庶民とは隔絶した水準の報酬であったと思われます。

しかし、彼らのもたらした技術や制度、教育のおかげで日本は大きく成長し、列強の一角を占めることに成功しました。

彼らに払った多額の報酬の大部分はおそらく彼らの母国に移されたと思いますが、それは決して日本の国益を損なうものではなかったでしょう。

 

新幹線

太平洋戦争後、その国力が一気に低下した日本は復興のために国際社会の援助を受けます。

もちろん米国からの援助(ガリオア資金・エロア資金)も大きかったのですが、二国間の支援だけでなく国際機関からの援助を受けるようになったということも時代の変化として注目すべきことだと思います。

そのうち有名な事案としては東海道新幹線の建設に係る国際復興開発銀行(世界銀行)の融資があります(融資自体は世界銀行から国鉄に対して行われています)。

 

 

なんと実際の融資契約も見ることができました。

 

 

世界銀行から受けた融資はプロジェクト費用の1割弱ですが、それでも巨額の融資であり、(当時の国内における貸出金利よりは低いですが)多額の利息が発生し(利率は年利5.75%)、国際機関とはいえ海外に流出します。

しかし、現在新幹線は我が国の交通システムの中核を担い、世界銀行に支払った利息を遥かに超える利益を生み出しています。

また前掲の世界銀行の記事によると、日本はこの融資契約を通じてプロジェクト管理のノウハウを得ることもできたことが指摘されています。

当然ですが、これもまた利益が海外に流れて国益を損なうなどという人はいないでしょう。

海外に利益を提供することについては、あくまで日本が得られる利益と比較して、海外に提供する利益を上回るものを得られるのであれば、外国資本を活用するのは何ら国益に反するものではないといえます。

 

外資によって産業は発展する

現在日本の主要産業となっているものでも、以前は外資が寡占状態にあったものもあります。

それらの産業は勃興期には外資系企業・外国産製品が独占的な地位を占めていましたが、その中で国内企業が技術やノウハウを得て主要産業に成長させています。

現在では国内企業が有力な地位を占めているとはいえ、その礎を作った外国資本の意義は評価されるべきでしょう。

以下にそのような産業の例を挙げてみます。

自動車産業

今や日本が世界に誇る最大の産業ともいえる自動車産業。

特にトヨタグループは世界トップクラスの生産・販売台数を誇るなど、日本のものづくりのシンボルにもなっています。

トヨタに限らず、多くの自動車メーカーが国内外で積極的にビジネスを展開していますし、裾野産業まで含めると日本経済にかなり大きな影響力を持っていると思われます。

このように大活躍の自動車産業ですが、日本で乗用車の国産化が本格的になったのは戦後のことでした(戦争中は軍用のトラック生産がメインでした)。

したがって、国産乗用車が登場するまでは乗用車は輸入に頼っていたことになりますが、もし当時の日本が「自動車を輸入すると外資ばかりが儲けることになるからけしからん」などと言って自動車の輸入を禁止していたら日本において国産車の生産が始まったのはもっと遅くなり、現在に至るまで欧米の自動車メーカーと競うだけの力を持てなかったかもしれません。

そもそも外国企業の利益になることを嫌うのであれば外国企業とビジネスを行うことすら不可能になってしまいますが、今やそのようなことは非現実的です。

公的機関が敢えて国内企業ではなく外国企業の製品やサービスを購入する必要はないかもしれませんが、ことビジネスにおいては自分たちに利益があるのであれば、外資系・外国製品であっても何ら気にすることはないはずです。

 

第三分野の保険

保険といえば生命保険や損害保険という言葉がすぐに出てくると思いますが、そのような保険に加え、最近では医療保険・がん保険などの新しい分野も注目されています。

このような保険は、第一分野の保険(生命保険)・第二分野の保険(損害保険)に対し第三分野と言われますが、実は当初は国内の保険会社が取り扱うことは禁止されていて、2001年に自由化されるまでは外資系の保険会社しか取り扱うことができませんでした。

この背景には米国との政策的な合意があったとされていますが、自由化までは外資系保険会社しか取り扱うことができなかったため、外資系のシェアが高く、今でもアフラックなどの外資系が強い分野です。

では、当時の日本は「外資系しか販売できないのであれば外国に利益が流れるばかりだから日本では第三分野保険は認めない」という姿勢を取るべきだったでしょうか。

おそらくそれは誤りでしょう。

多くのニーズがあったということは、そのような保険商品が登場することで恩恵を受ける消費者が多く存在したことを意味します。

もちろん現在のように国内保険会社にも市場が開放されている方が望ましいとは思いますが、それでも外国に流れた利益以上に国内の消費者が受けた恩恵のほうが大きいでしょう。

ビジネスを行う者が誰であれ、消費行動が行われるということは、その商品やサービスで価値を得ている消費者がいる、ビジネスが行われていること自体が価値をもたらしているということは忘れてはならないと思います。

 

外資は国民生活にも利益をもたらす

外資系企業であっても、日本においては基本的には日本の法律に従ってビジネスを行うため、最終的な利益の分配を除けば国内企業と同じような恩恵を日本経済にもたらします。

雇用の拡大

企業が経済活動をすることによる最大の恩恵は雇用の拡大ではないでしょうか。

そしてそれは外資系企業も同じです。

だからこそ少なくない国や地域が対外直接投資(FDI)の誘致を行って雇用の拡大を図ろうとしています。

仮に利益がが海外に移されようとも、雇用という形で受入国は恩恵を受けることができます。

 

外資ならではの技術・サービスの提供

外資が日本でビジネスを行う動機としては、日本にはない商品やサービスを日本に持ち込んで営業するということが主だと思います。

また、外資系企業は国内企業と別の環境で成長しているため、企業文化や戦略も日本の企業とは異なることも少なくないでしょう。

つまり、外資を受け入れるということは日本には従来なかった商品やサービス、さらには企業文化や経営戦略など新しいものに接する機会を得るということでもあると思います。

実際、私が所属する資産運用業界において、外資系運用会社は日系運用会社がなかなか提供できない海外市場への投資商品や運用戦略を持ち込むことによって日本の投資家にそのような投資商品・運用戦略にアクセスする機会を提供しています。

もし日本で外資系運用会社の存在が認められなかったら(実際認められなかった時期もありますが)、日本の投資家の選択肢はかなり狭くなっていたことでしょう。

金融に限らず、我々の日常生活には外国製品が少なからずありますが、海外にお金が流れるからといってそれらを排除してしまうと、我々の生活はずいぶん色あせたものになるのではないでしょうか。

 

納税

外資系企業が現地にもたらす経済的な恵みとしては納税も重要です。

(租税回避の方法はあるかもしれませんが、)外資系企業も国内企業同様に納税の義務があるため、利益が出たら、まず納税を行う必要があります。

さらに外資系企業から所得を得ている従業員も納税を行うため、外資系企業といっても、直接的・間接的に納税を行うことで現地社会に貢献することになります。

 

 

良いビジネスは誰がしても良く、悪いものは悪い

カジノ法案の論点の一つとして、「分配の公益性」というものがあるようです。

日本で賭博事業が認められる要件として、賭博事業で得た利益が公益性のある対象に分配されていれば問題ないですが、そうでなければ賭博事業は認められないということです。

 

 

その論点を論じるにあたって、「海外のカジノ事業者にはオーナー企業もあり、賭博事業の利益が海外の金持ちに流れるのだからカジノは認められない」という意見があります。

しかし、その論点の本質は利益の分配が公共部門に行くのか、私企業や個人に行くのか、ということであり、国内か海外かが問題ではないはずです。
仮に日本人のカジノオーナーにわたるのであれば、やはり問題とされるべきでしょう。
ただし、日本の公共部門ないしNPO・NGOにわたるのか、外国の公共部門や国際機関にわたるのか、で問題になることはあり得ると思います。

これに限らず、基本的には国内企業も外資系企業も同じ国内法の下で活動するのであり、そのビジネスの是非について異なる基準で判断すべきではないと思います。

もちろん安全保障等の観点から外資系企業にのみ独自の規制を課すべき場合もありえますが、それも外資排除の隠れ蓑にならないよう、最低限になされるべきです。

 

大事なのは外資の排除ではなく活用

このように我が国は外国資本・海外人材の協力を得て発展してきましたし、多くの分野でグローバル化が進む中、その傾向は強まることはあっても、低下することはないでしょう。

また、逆に多くの日本人や日本の起業も海外に進出し、活躍しています。

そのような中、外資だから、外国人だからといって、合理的な理由なく排除してしまうのは、我々にとってもマイナスになるように思います。

カジノにしても、経営ノウハウが豊富な外資系企業を誘致することにより、そのノウハウを蓄積することで日系企業がカジノを経営することも可能になると思います。
(カジノ自体が認められないのであれば、それは日系・外資問わず禁じられるべき)

海外に利益が流れるくらいならせめて日本人・国内企業に、というのは感情としては理解できますが、長い目で見るとやはり外資を受け入れて実を取る方が「日本らしい」ように思いますが、いかがでしょうか。

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貸借対照表の右側と左側

財務諸表から仕事の意義を考える

自分の業界や業務の役割について考えていたら、以前ある人と、会社の財務状況を把握するための財務諸表を使って仕事の意味や性格について議論したことを思い出しました。

財務諸表というのは会社の財務状況を表すものですが、財務状況は個々の役職員の業務の成果を反映したものであり、したがって各人の業務は何らかの形で財務諸表に反映されているといえます。

ざっくり言えば、営業であれば損益計算書の収入の部分や貸借対照表の利益剰余金に反映されますし、商品の製造や研究開発の仕事であれば貸借対照表の資産の部に、財務の仕事は負債の部や純資産の部に反映されます。

もちろん、自分の担当するコンプライアンスのように、財務諸表上は費用にしか反映されないような業務もあるのですが…(そのためコストセンターとよく呼ばれ、哀しい思いをしています)

このように見ていくと、自分の仕事が会社に対してどのように貢献するものなのかを考えるヒントになるように思います。

 

なお、最初に告白しておくと、私は財務諸表がとても苦手で、大学時代は何度も簿記の授業を履修しましたが、一度も単位を取ることができませんでした(涙)

資格試験でも一度財務の科目が不合格になるなど、未だに苦手意識が拭えません…

そのため、この記事に書いてあることは、会計の専門家どころか会計が苦手な人間の、あくまでざっくりとした理解に基づく、ざっくりとした雑感であることをご承知おきください。

 

貸借対照表の仕組み

財務諸表のうち、資産の状況を把握するために重要なものとして貸借対照表(バランスシート)が挙げられます。

貸借対照表は下記の要領で作成され、左側(借方)には資産、右側(貸方)には負債と資本が記載され、左右の合計額は必ず一致します。

出所:中小企業庁ウェブサイト http://www.chusho.meti.go.jp/zaimu/kaikei/kaikei31/04.htm

 

貸借対照表の右側(貸方)

貸方は負債の部と純資産の部に分かれているように、基本的には会社がどのように資金調達をしたかを示します(引当金などの項目もあるため、資金調達だけではないですが)。

銀行借入や社債の発行といった債務によるもの(他人資本)、新株発行やこれまでの利益の蓄積(自己資本)などいろんな資金の調達の仕方がありますが、それらは全て貸方に反映されます。

 

貸借対照表の左側(借方)

一方、借方は調達した資金をどのように使用したかを示しています。

資産の部は流動資産と固定資産に分類され、流動資産には現預金や有価証券などの現金に近いものや商品や仕掛品、原材料などがあり、固定資産には土地や工場、ビルなどの不動産、業務用の機械などが挙げられます。

 

つまり、右側で調達した資金を左側に示した形で使用している、というのが貸借対照表の基本的なメッセージと言えます。

 

右側の仕事、左側の仕事

会社が資金調達を行い、その資金を活用してビジネスを行う以上、担当者レベルでも業界レベルでも左右それぞれの役割を担う存在がいます。

それぞれ具体的にどのような仕事や業界が当てはまるのか考えてみました。

右側のために働く人

  

前述の通り、貸借対照表の右側は基本的に資金調達を反映します。

したがって、会社の中では資金調達を担当する財務部門の仕事や、投資家とのコミュニケーションを担当するIR(投資家対応)部門の人などが直接的に右側のために働いている人といえそうです。

業界単位で見ていくと、会社にお金を融通する銀行業、株式や社債の発行・募集をサポートする証券業や投資銀行業、一般投資家からお金を預かって株式や社債に投資することで投資家と会社の橋渡しをする資産運用業などが該当すると思います。ざっくり言えば金融業界ですね。

 

左側のために働く人

 

貸借対照表の左側は調達した資金の使われ方、言い換えればそれぞれの会社のビジネスの実情を示しているため、ほとんどの業務が左側に反映されるといえます。特に会社の花形業務は資産の部に反映されやすいのではないでしょうか。

例えば車のメーカーであれば、車の開発や生産、企画や宣伝、営業などが主要な工程だと思いますが、これらは左側に影響する業務です。
そしてその会社はこれらの項目の内容(数字ではなく、その項目の実態)を表の顔として世間に見せています。

業界としては右側を担当する金融機関においても、会社の中では左側のために働いている人がほとんどです。

マクロ的に見れば、金融機関が企業の資金調達を担当していて、それ以外の業界は基本的にはそのお金を使ってビジネスを行い、価値を生み出すという左側の役割を果たしていることになります。

 

地味な右側、目立つ左側?

業界や業務を貸借対照表の右側、左側に分類して考えてみると、業界としての右側、つまり金融機関は全産業の中でも目立つ存在である一方、会社の中で右側を担う業務は比較的地味であるという印象があります。

地味な右側?

資金の調達や予算の割り振りなど金回りを掌握するため、重要かつ強力な存在であると思いますが、会社のビジネスに直接関与して価値を生んでいるわけではないことや縁の下の力持ち的な存在になりがちなことから、どうしても目立ちくくなるような気がします。
IRは資金調達の分野に属すると思いますが、この業務は広報的な側面が強いので特殊ですね。

また、資金調達や会計はある程度ルートやルールが決まっているというのもあります。

資金調達といえば、基本的には金融機関からの借り入れか株式・社債の発行など伝統的なルートが主で、それ以外の資金調達の方法を検討することはさほど多くないように思われます(資産の証券化やハイブリッド証券などの資金調達方法もありますが、大多数の会社が実施しているわけではないと思います)。

予算の割り振りにしても、新規の資金調達にしても、財務部門が独断で決めるというより、その会社のビジネスの実態や戦略に沿って現場のニーズも汲みながら行われることが多いのではないでしょうか(事業会社で働いたことがないので詳しくはわかりませんが)。

したがって、独自色やクリエイティビティを発揮しにくいともいえそうです。
資金調達の具体的な手法や条件などは会社ごとに異なるでしょうが、それは会社の独自色を出している、というより資金調達環境が会社によって異なるためといった方が正しいでしょう。

経済全体の中で右側を担う金融機関自体は一企業体として左側的な側面を発揮して新しい資金調達手法や金融商品を提供していますし、投資銀行のフロントオフィスやファンドマネージャーなどは花形と言われ実際に華々しい業務をしていると思いますが、経済全体の中での役割としてはやはり裏方だと言えます。
例えばM&Aは社会的にも組織的にもインパクトが大きい出来事ですが、実際にM&Aをした価値を生むのは、M&A自体ではなくその後の事業活動であるはずです。

そして、その金融機関の中でも各種の施策で世の中に新たな価値を生み出しているのはやはり左側の人たちです。

 

目立つ左側?

一方、左側に反映される業務については、性格は様々なので一概にはいえませんが、その会社の根幹となるビジネスを担っているという観点では右側の業務よりも幅広く、かつ会社ごとの独自色やクリエイティビティが発揮しやすいと思います。

全ての会社は自分たちの商品やサービスを世の中に提供し、経済的・社会的価値を生み出すことで収益を得ているわけですが、その価値の形はすべて左側に集約されていると言ってもいいと思います(価値の結果として得られる収益・利益は右側の利益剰余金に反映されますが)。

言い換えると、それぞれの会社のビジネスという表の顔はすべて左側で表現されているともいえるのではないでしょうか。

 

価値の生産を行いたいなら左側の仕事をすべき?

その会社ならではのビジネスで価値を生み出したいなら左側に立つべき?

元々このような話をしていた時は、上記のような観点から、自分がビジネスを推進して、自分の思うような形で、クリエイティビティなどを発揮して社会に価値を生み出したいのであれば、右側より左側の仕事をするべきだ、という結論に至りました。

昨今CFOの存在が注目を集めているように、資金調達や財務政策は会社にとって非常に重要な役割ではありますが、それ自体がビジネスで社会に対して新しい価値を生み出しているわけではありません。
だから、自分のしたことで社会に影響を及ぼしたいのであれば、左側の仕事、例えば営業やサービスの開発、あるいは右も左も両方担うような経営企画的な業務を行うのが面白いのではないか、と。

今でも、右側と左側に対するイメージは変わりません。

 

右側のビジネスを左に

しかし、業界的には右側の資産運用業界に属する人間としては、右側をもっと左側っぽくできないか、ということを考えます。

特に個人的に関心を持っているのが、これまでつながることができなかった資金の需要と供給をつなぐこと。
これまでの資金調達において、上場企業は株式・社債発行+銀行借入、中小企業は銀行借入メイン。政府や地方自治体は国債や地方債で借り入れるという形がほぼできあがっています。

したがって、一般の投資家が未上場企業に対して投資を行うことは難しいですし、NPOなどについては銀行借入もかなり高いハードルと聞いたことがあります(今は変わってきているかもしれませんが)。
政府・自治体に対しては国債・地方債、あるいはふるさと納税などで資金の援助をすることはできますが、特定の目的に使ってほしいと限定することは、寄付のスキームであるふるさと納税でないと難しいと思います。

そのような資金の融通が難しく、かつ資金の融通によって生み出される価値が認識しやすいような形の資金の融通は、事業体はもちろん、投資家にとっても経済的価値に加え、経済的価値以上の付加価値、社会的価値を生むことができるように感じています。
本来経済的価値しか生まない投資活動から社会的価値を創造できるのであれば、それは左側としての性格を持つのではないでしょうか。

個人的には、「いい会社」にのみ投資し、実際に投資家と投資先のコミュニケーションまでさせてくれる鎌倉投信や、社会的には重要だけどなかなかお金や専門家がいきわたらない公共分野にお金と専門家を配分させる仕組みであるSocial Impact Bondなどが、まさに左側化した右側産業の例だと思っています。
ベンチャーキャピタルなどもこのような性格を持っているかもしれません。

 

右側の仕事を左に

業務単位でも、右側の仕事、つまり本来的には会社の独自性の薄い仕事の中で、会社の独自性を打ち出すことができるかもしれません。

IRなどは元々そのような傾向が強いのですが、それ以外でも例えば環境にやさしい企業向けの環境格付融資を取り入れるなど資金調達によるブランド化を考える、環境会計・CSR会計に取り組む、といった施策は素人ながらに頭に浮かびます。

実際、社会にやさしい会社にしか融資をしないというオランダのトリオドス銀行の場合、融資を受けられたということ自体が融資先の会社のブランドになるらしいです。
これは右側産業としての金融機関にとっても示唆するものが大きいでしょう。

会社によって内容が大きく変わらないという点ではコンプライアンスの仕事も右側に属しますが、そのコンプライアンスに会社らしさを出すにはどうしたらいいか。
課される法令は業界共通ですが、その遵守の仕方は会社ごとに異なるので、何か面白いことができるかもしれません。
難題ですが、深く考えていきたいテーマです。

いずれにせよ、右側の仕事においても工夫次第で左側の要素を持たせられるし、クリエイティビティを発揮することも可能だということはいえそうです。

 

大事なことは左右両方の視点を持つこと

貸借対照表の左右という観点から仕事や業界の性格について考えてきましたが、当然それぞれの業務に優劣があるわけではありません。
左右が連携して機能することで会社は回るので、どちらも疎かにできません。
※記事の趣旨も、右側の業務や仕事がつまらない、ということではありません。

ただ、業務やビジネスごとに性格がある中で、よりユニークな仕事にできたり、より価値を生み出せるのであればその方が楽しいですし、会社にとっても社会にとっても価値があると思います。

また、左側の人も右側の人、あるいはその先にある資金の提供者のことを考えながら仕事をすると、よりお金が集まってビジネスがしやすくなる、あるいはそこまでいかなくてもより会社の資本効率性・財務の健全性が高まっていくのではないかと思います。

自分の仕事も業界も右側ですが、常に左側の発想を忘れずに業務や日々の勉強に取り組んでいきたいと思います。

 

※この記事は私見に基づくもので、記事中言及した業務もコンプライアンス以外は経験したわけではなく、あくまで想像で記載しています。実態と異なることもあるかもしれませんが、考察を進めるための説明として受け止めていただければと思います。

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「三十六計逃げるに如かず」のために「辞め方を学ぶ」

三十六計逃げるに如かず

自分がキャリア形成、あるいは日々の生活で強く意識している言葉の一つに「三十六計逃げるに如かず」というものがあります。

これは中国の南北朝時代に南朝・宋の名将・檀道済が著した兵法書「三十六計」の最後に、「戦いで勝てないのが明らかであれば、全力で逃げるべき」と主張されていることに由来します。
※東晋の武将・劉裕が東晋から禅譲を受けてできた王朝

この言葉は非常に人口に膾炙していますが、その本意は「とにかく逃げるのが最善」という意味ではなく、「戦いにおいて優勢なら優勢なりの、劣勢なら劣勢なりの戦い方をして、それも無理な状況であれば再起不能になる前に逃げて再起を図るようにするべき」ということです(三十六計には様々な状況での戦い方が含まれていて、逃げて再起を図る、というのは最後の計です)。

何事も限界があり、それを超えてしまうと元に戻らなくなることがあります。
仕事や人間関係で頑張りすぎると精神面が壊れてしまうかもしれませんし、運動を頑張りすぎると肉体的に限界を超えて取り返しのつかないけがをするかもしれません。
投資や消費活動についても、自分のキャパシティを超えた場合は過重債務、さらには破産といった経済的破綻につながるおそれがあります。

限界・キャパシティは人によって異なるでしょうが、それを超えたときには元に戻らないというのは多くの人に共通すると思います(時々「元に戻れない」状況を克服して復活している人を見かけますが、ほとんどの人には真似できないでしょう)。

だからこそ、自分は限界が来る前にやめるという「引き際」を意識して、環境を変えて再起を期すということを心がけてきました。
人間関係にせよ、職場にせよ、あまりに我慢できないと関係を絶って我慢の限界を超えないようにしてきましたが、これまでのところはそれが自分の幸福につながっていると思います。

我慢して状況が改善するなら我慢や努力をすべきだけど、その前に自分の我慢の限界が来る(=「勝てない」)のであれば逃げる。三十六計逃げるに如かず、の教えそのものです。

自分はそれほど我慢強くない人間なので、我慢し続けていたら、今頃精神的な不調や人間関係の破綻(過度な人間不信や人間嫌い)を訴えていたかもしれません。

仕事にせよ、人間関係にせよ、自分なりにやっていける環境はどこかにあるので、無理な環境で頑張りすぎる必要はないと心から思います。
※努力や我慢自体は大事ですが、それ自体に価値があるというより、それが報われる状況でこそ意味があると思います。

特に過酷な業務環境や人間関係の中で我慢しすぎて限界を超えてしまった悲劇を見聞きするにつけ、彼らはどうして逃げなかった(逃げられなかった)のだろうと、本当に残念に感じますし、できるなら「無理をしなくても大丈夫」、「逃げても大丈夫」と声をかけてあげたかったです。

 

「逃げるは恥だが役に立つ」とはいうけれど

そういう価値観からすると、以前人気だった「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマのタイトルは言い得て妙です。

一般的に、我慢することや逃げないことというのは高く評価されるため、逃げることは残念ながら恥とされてしまいます。

しかし、実際に役に立つのは無理に我慢することより逃げることです。

昨今の「働き方改革」も、無理な環境で頑張ってしまった方の悲劇がきっかけとなったわけで、その出来事の社会的意義は大きいですが、逃げられるのであれば逃げ出したほうが、きっと本人もご家族も幸せだったと思います。

ふと思ったのですが、ロールプレイングゲームをプレイしていて、「逃げる」経験をしたことがない人はいないでしょう(逃げられない設定のゲームでない限り)。

では、ゲームの世界ではなぜ躊躇なく逃げるのか。
端的にいうと、逃げたところで社会的・精神的なペナルティがほとんどなく、むしろ無理に戦うほうがペナルティが大きい(セーブしたところからやり直しなど)ため、逃げる方が合理的と容易に判断できるからでしょう。
もはや「逃げるは恥でもないし役に立つ」ですね。

そう考えると、人間の本質として「逃げる」ことを嫌うわけではないはずです。
むしろ、動物の本能としては何かあれば逃げるほうが自然です。逃げることによって自分の安全が確保されるわけですから。

では、我々はなぜ時として逃げずに無理に我慢してしまい、その結果不幸になってしまうのでしょうか。

 

辞めるという選択肢のためには「練習」が必要?

何かを辞めることを躊躇してしまうのは、責任感ということに加え、辞めることによる周囲の目や辞めた後どうなるかがわからないという不安があるから、というのは理解できますが、転校や転職、離婚などが珍しくない社会もあります。

つまり、「逃げる」「辞める」ことに対する感じ方は人や社会によって異なるように思われます。

では、何が「逃げる」「辞める」ことを後押しするのか。
この点についてずっと疑問に思っていましたが、Twitterで興味深いコメントを発見しました。

 

辞めることを経験する」、「辞めることを練習する」という視点は新鮮でした。

確かに、辞めることを小さいときから経験していくことによって、レールを外れること、何かを辞めることに対する漠然とした不安感をなくし、ある程度冷静に辞めることの是非を考えることができるようになりそうです。

また注目すべきは「辞めることによる結果を受け入れること」も練習の対象であること。

何かを辞めることが自分の選択である以上、当然その結果を受け入れることも必要です。
辞めることを検討するのは大事ですが、ただ逃げればいいというものではなく、その結果は自分で負わなければいけないということも踏まえて考えるということも大事なポイントですね。

社会人になると、「会社を辞めたい」と思いながら中々辞められないという人をよく見聞きします。

彼らのほとんどが転職経験がなく、転職に踏み切れない理由は「次の会社に行っても状況が改善するかわからない」からというのが多いです。また、転職、あるいは起業という選択肢がレールから外れるからという、「あるべき状況から外れる」ということに対する心理的な抵抗もありそうです。

我々の多くが、学生時代には自分の都合で転校することはないですし、一度入った大学を辞めて別の大学や学部に再入学することもあまり多くはありません。
部活も入部したら辛くてもずっとその部で頑張るという人が多いと思います。
改めて、学生時代は気が付かないうちに「レールに沿って生きている」と感じます。

もし我々がもっと気軽に転校やオルタナティブ教育という選択肢を簡単に選べたり、部活を気軽に変更できるような環境で育っていれば、「辞めること」「レールを外れること」を選びやすくなるかもしれません。
また、その結果についても考えさせられるでしょうし、それゆえに自分の選択肢について真剣かつ冷静に考える能力も身につくのではないかと思います。

とはいえ、若い頃なら今から「辞める練習」もできるでしょうが、社会人になったらどのようにそのような練習をよいか悩みそうです。

自分自身転職を繰り返してきましたが、最初に転職を行ったきっかけは同僚が転職したことであり、それがなければ転職という選択肢を検討するためにもっと時間がかかったことでしょう。

もし、自分が最初の転職をする前の自分にアドバイスをするなら、次のように伝えます。

1. 自分の限界を把握しよう

自分の置かれている環境が自分の限界を超えるのであれば、いずれは破綻するので、精神的、能力的な限界を見極めて、どうしても限界を超えるのであれば転職したほうが自分のためになります。

その判断を行うためにも、まずは自分の限界を把握する必要があります。

 

2.「辞める」という選択肢の結果を冷静に考えよう

仮に会社を辞めるとして、その結果自分にどのような影響が出るのかを冷静に考えてみると、漠然とした不安感がなくなり、不確定要素はあるものの、メリット・デメリットを合理的に比較できるようになります。

メリットとしては、例えば次のようなものが挙げられます。

・業務や人間関係のストレスやプレッシャーから一旦開放される
・社内における自分の評価がクリアされる(特に評価が芳しくない場合)
・溜まっていた有給を使うことで心身がリフレッシュされる
・次の職場における業務内容や条件をある程度確定できる(転職時はある程度事前に提示される)

他方、デメリットとしては次のようなものが考えられます。

・次の職場における環境が現在より悪くなる可能性がある。
・履歴書上、一つの会社で頑張れないという評価がなされる可能性がある(特に転職を繰り返した場合に影響が大きい)。
・親類その他の人たちから根性なし、あるいはエリートの肩書がなくなった人間、と評価される可能性がある。
・現在の職場の人間から裏切り者と後ろ指を指される可能性がある。
・転職先が決まっていない場合に辞めてしまうと経済的に不安が残る。

このようにメリットとデメリットを書き出してどちらが自分のためになるかを考えると、「辞める」という選択もしやすくなるのではないでしょうか。

特に辞める場合のデメリットとしては、「将来の不確実性」と「他者との関係」が主な要素になりそうです。

ただ、将来の不確実性は「転職先の条件や環境の確認をできるだけ詳しく行う」、「普段から貯金やスキルアップに努める」といった対応である程度軽減できます。
→「孟嘗君に学ぶキャリア形成」もご参照ください。

「他者との関係」についても、付き合う「他者」は自分がある程度選ぶことができます。
肩書がなくなった程度で関係が変わるような人間であれば積極的に付き合う必要はないですし、転職回数が多いことばかりをあげつらう会社とご縁がなくても、他にも会社はあります(それなりに合理的な理由付けは必要ですが)。

同様のことは学校その他いろんな状況で当てはまると思います(タワーマンションとか?)。

「辞める経験」はせずとも、「辞めるイメトレ」を繰り返すことで辞めることへのハードルが下がれば、それだけで精神的に余裕が出ますし、実際に行動にも移しやすくなると思います。

心身が「どうしても辞めたい」という悲鳴を上げたときは多分限界なので、そういうときに躊躇なく辞める、逃げるという選択ができるようになりたいものですし、そのような考え方が許容される社会(や家族)であってほしいと思います。

 

流されるな、流れろ!

逃げることの大事さを考えていると、以前に読んだ「荘子」の本を思い出しました。
「「流されるな、流れろ!」ありのまま生きるための「荘子」の言葉」参照

荘子の教えは自ら流れに任せるというものでしたが、頑張りすぎないという点は共通しています。

物事の本質を掴み、それを歪めるものに惑わされない。そういう考え方は、無理なときには辞める、逃げるということにもつながるような気がします。

 

檀道済の最期

こうやって記事を書いてみて、改めて逃げるべき時には逃げる、ということの大事さを考えさせれられます。
「逃げても大丈夫」ということを教えてくれた名将・檀道済には感謝したいところです。

その逃げ上手だった檀道済が人生逃げ切れたのか、という点は少々気になるところです。

その生涯を戦いに費やした檀道済には負け戦もありましたが、見事な引き際を見せ、大敗することはありませんでした。

しかし、戦功を立てるにつれ驕りが目立つようになり、時の君主・文帝に疎まれるようになり、最後は誅殺されてしまいました。
その死の間際、「自分を殺すことは万里の長城を崩すようなものだ」、と言い放ったそうですが、やはり主君に謀殺され、最後に「当家滅亡!」と言い残した太田道灌と似たような最期でした(道灌の言葉の真意には諸説ありますが)。

彼ほどの才覚があってなお、人生の逃げ切りに失敗してしまうということを肝に銘じ、常に謙虚に、前向きに生きていかなければいけないな、と別の教訓もいただきました。

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