北条氏政


父祖の後を継ぎ、最大版図を築きながらも時代の波に飲まれた関東の覇者

北条氏政は1538(または1539)年、小田原北条氏三代目・北条氏康の次男として生まれた。
兄に新九郎(氏親)がいたが早世したため、嫡男となる。

彼は一般に、北条氏を滅亡させた当主として知られている。
そのためか、彼にまつわるエピソードも批判的なものが多い。

よく知られたものに、「汁かけ飯」の話がある。
ある日氏政が、氏康や家臣たちと食事をしていた。
当時はご飯に汁をかけて食べていたようであるが、氏政が何度か汁をかけて食べていると、氏康が突然「これで北条家もおしまいだ」と言い出した。
誰もその意味が分からないので、氏康にその真意を問う。
氏康曰く、「毎日汁をかけているのだから適量がわかるはずであるのに、氏政は一度ではなく何度も汁をかけている。このようなことでは人の心など測り知ることはできず、北条家を発展させることなどできない」と。

また、収穫された麦を見た氏政は、これで麦飯を作るように命じた。
それを聞いた武田信玄は、「収穫された麦が麦飯になるには相応の工程があって、すぐに食べられるものではない。そんなことも知らない氏政は世間知らずだ」と笑った、という話もある。

このように散々な言われような氏政であるが、一方で北条家の最大版図を築き上げたという実績もある。

では、実際のところ、彼はどのような人物だったのだろうか。

前述のとおり、彼は氏康の次男であり、当初は嫡男ではなかったが、1552年に兄・新九郎が夭折したことにより後継ぎとなる。

初陣の時期は正確にはわかっていないが、一説には1555年とも推測されている(黒田基樹・浅倉直美編「北条氏康の子供たち」P40)。

1558年には領国支配の文書が見られ、1559年には、当時関東を襲った飢饉に対する責任をとって氏康が形式的に隠居したことに伴い、家督を継ぐ。
形式的とはいえ、わずか20歳少々で北条家の当主となったことになる。

新当主・氏政の最初の仕事は徳政令であった。
氏康が隠居したのは飢饉による領国の疲弊であったため、領民の負担を軽減することが喫緊の課題であったことによる。

しかし、氏政の治世は安定しない。
氏政が家督を継ぐ少し前、北条家は関東管領・上杉憲政を越後に追っていたが、彼を擁立した長尾景虎(上杉謙信)が関東に侵攻してきた。
1561年には上杉軍をはじめとした関東諸将の軍約11万の兵に本拠地・小田原城を包囲されるという危機も迎える。

このように関東が戦場になるため、復興は容易にいかず、氏政は再度の徳政令を出すなど、領民の引き留めに手を尽くしていた。

一方、関東においては同盟を組んでいる武田家と連携して上杉方と対抗し、徐々に勢力を広げていく。

1564年には、房総地域に勢力を拡大しつつあった里見家と第二次国府台の戦いで激突。
緒戦は敗れるも、勝利に油断する里見軍に奇襲をかけて勝利する。
この時、氏政は先陣を切って勝利に貢献したともいわれている。
国府台の戦い以前から氏政は各地を転戦しており、戦術眼や武将としての経験はかなりのものであったと思われる。

これ以降、氏康が軍事的に表に出ることは少なくなり、氏政が北条軍の総大将としての役割を担うようになっていった。
内政面でも氏康がサブに回り、氏政が当主としての役割を積極的に担うようになったようである。
関東における北条家の基盤が安定するにつれ、彼の内政における取組は実を結び、領国の状態も改善していった。

なお、1567年には再度里見家と三船台で戦うが(三船台の戦い)、この時は敗れ、里見家の勢力拡大を許してしまい、東方への勢力拡大が停滞してしまう。

事態はさらに悪化する。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死したことを受け、甲相駿三国同盟を結んでいた武田信玄が1568年、今川家に侵攻。
ここに三国同盟は破綻することになった。
なお、三国同盟の一環として、氏政は信玄の娘である黄梅院を娶っていたが、彼女とも離縁を迫られる。
彼女とは非常に仲が良かったようで、彼女の死後、信玄に分骨を依頼している。

北条家は今川家を支援するべく武田家と戦争状態に入る。
そのため、北条家は上杉家と同盟を行うことになる(越相一和)。
この同盟交渉は氏康主導で進められたようで、氏政は積極的でなかったとの指摘がある。
また、同盟交渉は氏政の弟、氏邦が担当者に任じられていたが、独断で氏邦の兄(氏政の弟)・氏照も交渉を始めてしまったことにより、氏康・氏邦と氏照の間に摩擦が生じたようである。
同盟に当たっては、当初氏政の子が養子(人質としての意味合いもある)として上杉家に差し出されることになっていたが、黄梅院に続く家族との離別を嫌ったのか、氏政は実施を差し出すことを拒否。
結局弟の三郎が上杉家に入り、上杉景虎となる。

結局、北条家は今川家を救えなかった。
さらに武田家は北条家にも牙をむく。
1569年には、6月に伊豆方面で交戦した後、8月には上野から北条領に侵攻。
氏邦の鉢形城、氏照の滝山城を攻撃した後、10月には小田原城を包囲。
小田原城は落とされなかったが、武田軍が撤退する際に追撃したところ、三増峠の戦いでは手痛い敗戦を喫することになった。

その後も駿河方面で激しく争うが、1571年に氏康が病死したことに伴い、越相同盟を解消し、武田家との甲相同盟を締結する。
このような場合、人質に出している弟・景虎の身が危険になるところだが、謙信は変わらず景虎を養子として遇している(これがのちの悲劇につながるのだが)。

越相同盟の破棄により、再度上杉家や反北条勢力との関東での戦いが激しくなる。
氏政は積極的に出陣しているようで、徐々に勢力を拡大していった。
1577年には宿敵であった里見家と有利な条件で和睦することに成功する(房相一和)。
三船台の戦いから10年後のことであった。

1573年には武田信玄が陣没。武田勝頼が跡を継ぐが、同盟は継続している。
その後、武田家においては急速な勢力拡大と長篠の戦いにおける挫折を経験しているが、その間においても同盟関係は維持されており、むしろ氏政の妹が勝頼に嫁ぐことで同盟関係が強化されていた。

武田家との関係が悪化するのは1578年。
同年、上杉謙信が病死し、その後継を巡って、二人の養子、景勝と景虎が対立する「御館の乱」が発生するが、弟を支援したい氏政は当時佐竹氏と対陣中であったこともあり、勝頼に景虎の支援を要請した。
要請にこたえて越後に出陣した勝頼であったが、景勝と景虎の和睦をあっせんした後、和睦が破綻すると景勝側についてしまった。
その結果、景虎は敗死し、北条家は武田家と敵対していた織田家と手を結ぶことになる。

再び関東で武田家と争うことになったが、長篠の戦いで有力重臣を多く失ったとはいえ、武田家は強く、上野や武蔵でも必ずしも優勢に戦いを進められたわけではなかった。
むしろ武田・上杉・佐竹といった包囲網ができ、国人の中にも武田家に付くものは少なからずいて、氏政の危機感も相当強かったようである。

このような情勢を踏まえ、1580年には織田信長に臣従する旨を伝え、信長の娘を嫡男・氏直に娶らせるよう願った。
その願いを叶えるための一環としてであろうと思われるが、この年家督を氏直に譲っている。

そして1582年、織田軍は武田家領国に侵攻。
破竹の勢いで駒を進める織田軍であるが、信長は北条家には極力情報を伝えないようにしていたようで、北条軍は迅速に動けなかった。
もちろん氏政は積極的に情報収集をしていたが、武田家があっけなく瓦解することが信じられなかったというのも適切な動きを妨げた。
結局、武田家滅亡に当たって、北条家はほとんど何もできなかった。

武田家滅亡後、上野には関東管領を称して、織田家重臣・滝川一益が入る。
北条家としては、織田家に従う際に関東八州は安堵されたと理解していたようだが、実際にはそれは否定された形になったようである。
とはいえ、信長在世中は北条家が織田家と敵対することはなく、良好な関係を維持するよう腐心していた。

しかし、同年6月2日、本能寺の変で信長はこの世を去る。
信長に対してはおとなしく従属していたが、信長がいなくなれば怖いものはないと見たのか、関東における織田家勢力の排除を図る。
氏直に55,000の兵を預け、上野に侵攻。6月19日には神流川の戦いで滝川一益を破り敗走させる。
滝川一益は関東支配を諦め、本国の伊勢に帰還する。

この勢いで、北条軍は旧武田領国であった甲斐・信濃へ兵を進める。
一方、それを黙ってみていなかったのが徳川家康であった。

徳川家康は織田家から「甲斐・信濃は放っておくと敵国(北条家)のものになるのでお任せする」という言質をとって甲斐・信濃に侵入。
この点において、北条家と徳川家の立場は違っていた。
そして、この点も後の北条家の運命を左右する伏線であった可能性がある。

甲斐・信濃に侵入した徳川・北条両軍は小競り合いを繰り返すが、途中で真田家が北条から徳川に寝返ったことなどもあり、次第に徳川家が優勢となっていく。
最終的には、甲斐・信濃は徳川、上野は北条領し、家康の娘を氏直に輿入れさせることで和睦し、天正壬午の乱と呼ばれる旧武田領国を巡る戦乱は幕を閉じた。
なお、上野には真田領沼田があったが、徳川の命令によっても真田は譲らず、北条も実力行使で真田家を排除することができず、これが後に北条家の運命を大きく動かすことになった。

徳川という西の脅威を除いた氏政は、本格的に関東経略に乗り出し、勢力の拡大を続け、最終的には関東広域に約250万石という大版図を形成するに至る

しかし、西国では羽柴(豊臣)政権という巨大勢力が形成されつつあった。
一時は小牧・長久手の戦いで秀吉に勝利した徳川家康も豊臣政権には抗しきれず、臣従。
その際、家康は氏政と対面し、秀吉と和睦することの了承を得たとされる。

戦争をコントロールし、自分の意思に基づかない戦争を認めない(惣無事)という姿勢をとった秀吉は、上杉家と北条家の和睦を促すなど、関東における惣無事体制の確立を進めようとする。
その過程の中で、北条家の臣従も求められることになった。
豊臣政権と北条家の間には緊張状態が続き、北条家においては軍備の拡張が進められていたが、一方で氏政の弟・氏規を窓口とした外交交渉も続けられていた。
氏政は以前信長に従属したことでもわかるように、彼我の勢力の差がわからないような愚かな人間ではなかった。

交渉において重要なポイントとなったのが、真田領沼田である。
北条家からすれば、沼田は徳川家から譲渡されたもので、当然自分のもの。
真田家からすれば、沼田は自力で獲得したもので、当然自分のもの。
両者の立場は相いれないが、この問題が解決しない限り、戦争をなくすことはできなかった。

最終的には秀吉が裁定し、3分の2を北条に、3分の1を真田に、という北条家に有利な結果が出た。
秀吉としては、とにかく北条家との交渉を終え、平和裏に天下統一を進めたかったのかもしれない。
ともあれ、両者その裁定を受け入れ、平和裏に北条家は豊臣家に心中し、天下は平和になる…はずであった。

しかし、平和は訪れない。
秀吉としては早く氏政を上洛させて臣従を既成事実化したかったが、氏政はすぐに上洛できなかった。上洛費用の調達に手間取っていたようである。直前までは軍備拡張をしていたこともあり、領国の負担は相当大きなものになっていたことが背景にあると思われる。
しかも、その間北条家は秀吉と連絡をとっていなかったようで、秀吉の怒りは大きかった。
(秀吉が北条家を信用しなかった一因として、本能寺の変直後、北条家が織田家に反旗を翻したということがあるという指摘もある)

そんな中、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が真田領・名胡桃城を攻撃し、占領。
これによって豊臣家と北条家の関係は決裂し、小田原征伐を迎える。
(ただし、この時点においても氏政が至急上洛するなどの対応ができていれば征伐は防げたという見方もあるが、一方、抑留・国替えの危険があるため氏政の上洛はすぐに実現できるものではなかったともいわれている)

そして1590年3月、小田原征伐。
20万を超える豊臣軍に対し、北条軍は各地の拠点に籠城し、豊臣軍の疲弊を待つ作戦に出た。
氏政が若いころ、上杉謙信との戦いで用いた戦略でもある。

しかし、すでに時代が違った。
ほぼ全国を手中に収めた秀吉にとって補給が切れる心配はほとんどない。
また、秀吉を背後から脅かす者もいない。
それどころか、石垣山城を築城し、周囲を睥睨している。

北条家が誇る数多の堅城は、豊臣勢の前に瞬く間に落とされた。
その中で敢闘目覚ましかったのは、氏規の守る韮山城、氏邦の守る鉢形城、成田長親の忍城などがある。
しかし、彼らの善戦も大勢を変えるには至らなかった。

7月5日、氏直が投降。
その後、家臣・城兵が投降し、開城。
小田原城は落城した。

7月11日、氏政・氏照は切腹。
氏政の介錯は、弟・氏規であった。
他に重臣の松田憲秀・大道寺政繁も切腹している。

小田原城落城により、戦国大名としての北条家は滅亡した。
その後、氏直が1万石の大名に復帰、氏直の死後は氏規とその子孫が北条家を継ぐことになる。

こうして北条家は滅亡してしまったのだが、北条氏政は愚かな人物だったのだろうか。

彼の人生の大半は危機の連続で、その都度それを乗り越え、北条家を発展させてきた。
武田・上杉・織田・徳川…このような勢力と時に争い、時に伍し、組織を維持・発展させることは容易なことではなかったはずである。
また、度重なる戦争に、領民の不満も決して小さくはなかったであろうし、飢饉や戦乱を彼らと一緒に乗り越えることもまた簡単ではなかっただろう。

北条家はあまり一族の中での争いがないことで知られるが、氏政の時代にもそれは当てはまる。
氏照、氏邦、氏規といった能力のある兄弟がいながら、彼らに下剋上をさせず、使いこなすことができたということも彼の能力や人物を物語っている。

豊臣政権との外交が失敗に終わったのは痛恨の極みではあるが、それを差し引いても、北条氏政という人物の魅力はなくなるものではないし、彼が残した足跡は非常に大きく、戦国時代を力強く生き抜いた一人の英雄であるといっても過言ではないのではないだろうか。

       

 

 

 

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