武田勝頼

名将の後を継ぐも時代の波に飲み込まれた悲運の武将

「武田」になり切れなかった武田家当主

武田勝頼は、一般に武田家を滅ぼしてしまった当主として捉えられる。
確かに、勝頼の代で武田家が滅亡したのは事実であり、そのトップとして責任を追及されるのは仕方のないことである。
しかし、それだけで勝頼が愚将と言い切ることはできない。では、勝頼はどんな人物だったのか。

武田勝頼は、1546年に武田晴信(信玄)と諏訪御料人(諏訪頼重の娘)の子として生まれた。信玄の四男に当たる。
諏訪家はもともと信濃(長野県)の名家として知られているが、頼重の代に信玄に滅ぼされた。しかし、信玄は諏訪家やその家臣などを懐柔するため、頼重の娘を側室とし、その子を諏訪家の当主とすることとした。それが勝頼である。つまり、勝頼は当初より武田家の人間というより諏訪家の人間として見られていた。

成長すると正式に諏訪家(実際には庶流の高遠家とも)を継ぎ、高遠城主となる。この高遠城は、後に勝頼にとって大きな意味を持つ城となる。
この時に「勝頼」を名乗っているが、「勝」は父・信玄の幼名「勝千代」からの偏諱で、「頼」は諏訪氏の通字であるといわれている。

初陣でも勝頼は活躍し、信玄を喜ばせる。ただ、勝頼が自ら先頭に立って戦ったため、信玄にたしなめられたという話もある。

1565年には、信玄が今川家・北条家との同盟を破り、今川家を攻撃しようとしたことに対し反対した兄・義信(妻は今川家出身)が幽閉され、その後死去した(自害とも病死とも)。二人の兄は早くに死去したり盲目だったりしたため、勝頼は次期武田家当主候補として急浮上した。
ちなみに1565年には、武田家を恐れる信長が養女を勝頼の正妻にと申し入れ、勝頼と結婚している。二人の間には信勝が生まれたが、間もなく妻は病死し、両家の婚姻関係は消滅する。

その後、北条家との戦いでは、北条氏照の居城・滝山城攻めや撤退時における三増峠の戦いなどで奮戦している。滝山城の戦いの際には、北条氏照と直接戦ったとの逸話もある。二人とも武芸には自信のある武将なので、さもありなんという感じの話ではある。

この頃、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、信玄の眼は西を向く。

北条家との激闘の末、1570年には駿河を奪取。そして、2年後、北条家と同盟を結び(1571年に北条氏康が死去し、後継の氏政が同盟を復活)、信玄は西上作戦をとる。

織田信長と同盟を結ぶ徳川家康と武田軍は、家康の居城・浜松城近くの三方ヶ原で激突。勝頼も部隊を率いて突撃する。結局、この戦いで徳川軍は散々に追い散らされてしまう。

しかし、三方ヶ原の戦いの直後、信玄は急死。「後継は勝頼の信勝であり、勝頼は信勝が成人するまで後見すること。3年間喪を秘すこと」と遺言を遺した。この遺言が勝頼の足かせとなる。
ちなみに遺言の中では勝頼が武田家の旗を使うことも禁じている。信玄は勝頼を後継者に指名はしたものの、やはり諏訪家の人間としてみていたようである。

 

若き武田家当主

信玄の死後、武田軍は甲斐に引き返す。信玄は喪を秘すように命じたが、この不自然な撤退は信玄の死を各地の武将に推測させた。
信長や家康は、これを好機にと調略の手を伸ばしている。
一方、信玄のライバルであった上杉謙信は、これを好機に武田家に攻め入るべきとの進言を「人の不幸に付け込むのは義に反する」として退けている。

勝頼は武田家の正式な当主ではなかったうえ(名目上は期限付きの仮当主だったうえ、3年間は信玄は生きていると扱われている)、諏訪家出身であることや信玄が家督を譲っていなかったため後継者としての経験・名声に乏しかったため、家中をまとめるのに時間がかかったが、しばらくして勝頼も反撃に出る。

1574年には美濃(岐阜県)の明智城を攻略。続いて、信玄も攻略できなかった遠江(静岡県)の高天神城を攻略。勝頼の名声は一気に高まった。ただ、この高天神城の攻略が勝頼を驕らせ、より攻撃的にさせたという指摘もある。また、この城は後の悲劇の舞台でもある。

 

長篠の戦い

高天神城の落城に危機感を覚えた家康は信長に援軍を要請。武田軍と織田・徳川連合軍は三河・長篠で激突。長篠の戦いである。連合軍約38,000、武田軍約15,000。

天下に名高い武田の騎馬隊を恐れた信長は、大量の鉄砲を準備するとともに、陣に馬防柵を築いた。一方、長篠城を囲んでいた武田軍は、一部戦力を残し、連合軍に相対する。

この時期は梅雨の時期に当たり、鉄砲の使用に適していなかった。一方、地面がぬかるんでおり、騎馬隊にとっても有利な状況ではなかった。

一般に、信長の大量の鉄砲と三段撃ちにあっけなく勝敗が決したと認識されている長篠の戦いであるが、事実はそうではない。戦いは8時間の長時間に及んでいるし、武田軍の戦死者は約1,000名で、そのほとんどが追撃の際に被った被害であるとされている。そもそも、鉄砲で狙撃されるとわかっていて何度も突撃を繰り返すなど、絶対的権力を握っていない勝頼には難しい。

なぜ武田軍は圧倒的に兵力で勝る連合軍と戦ったのか。この理由には諸説ある。
勝頼が重臣たちの反対を押し切り強硬策をとった、武田軍全体が騎馬隊の力を信じていた、梅雨時であり、鉄砲は役に立たないと判断した、信長の謀略にかかった、など。

理由はともあれ、武田軍は8時間にわたって勇敢に戦った。
しかしながら、兵力差や酒井忠次の奇襲、武田一門の早期の戦場離脱などによって、多くの名将を失い敗北した。
長篠で失った主な人物には、山県昌景馬場信春内藤昌豊、真田信綱・昌輝(共に真田昌幸の兄)、原昌胤など重要な人物が多く含まれている。

長篠の戦いによって、武田家が失ったものは大きかった。物的な損失はもちろん、武田家を信玄時代から支えた多くの重臣、そして何より武田家無敗伝説の終焉である。

ちなみに、この時点で上杉謙信はまだ健在。武田・上杉両家が連合して戦いに臨んでいたらどうなったか、というのは興味深いものである(なお、信長に京都を追放され、毛利家に庇護されていた足利義昭が武田・上杉・北条を和睦させ、織田家に対抗する構想を立てていて、実現間近であったが、最終的には実現していない)。

 

上杉謙信の死去と御館の乱、北条氏との決別

その上杉謙信は、長篠の戦いの後、織田家に戦いを挑み、柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦いで破るも、1578年に急死する。

上杉謙信は生涯結婚せず、養子を二人取っていた。一人は一族の上杉景勝、もう一人は北条氏康の息子で上杉家に人質を兼ねて養子になった上杉景虎(北条氏政の弟。異説あり)である。
謙信はまだ自分が健康であると思っていたのであろうか、後継については遺言もなく、景勝が一方的に後継を称した。当然景虎は納得できるわけもなく、上杉家を二分しての争いになった。御館の乱である。

武田家と北条家は同盟関係にある上、前年には氏政の妹を正妻として迎えていたため、当初は景虎に味方し、和睦を試みたが失敗に終わる。
上杉家の半分を味方にし、北条・武田の後ろ盾がある状況では、景虎が圧倒的に有利。
そこで、景勝は勝頼を味方につけようと試みる。すなわち、大量の金の贈与、上野領の割譲、武田・上杉両家の縁組である。

武田家は金策に困っていたのは事実であり、この条件は非常に魅力的であった。しかし、北条家を裏切ると、世間の誹りを免れないだけでなく、北条家を敵に回し、織田・徳川・北条の大勢力に包囲されることになる(もちろん、越後を手に入れた北条家が後に武田家と手を切らないという保証はない)。味方は疲弊した上杉家だけ。

勝頼も迷ったであろうが、結局上杉景勝を選ぶことになる。
これを受け、景勝は景虎に猛攻を仕掛ける。北条氏照・氏邦軍も景虎を救おうと懸命であったが、景勝軍の妨害を受け進軍できず、結局景虎は自害して上杉家の内紛は幕を閉じる。

 

北条家との死闘、最大版図の形成

北条家を敵に回した武田家は、北条家と対抗するため、北条家に対抗する佐竹家や里見家など関東の諸勢力と同盟を結び、逆に北条包囲網を作り上げていく(甲佐同盟)。
関東においては優勢に勢力拡大を続け、ついに上野の要衝・沼田城の奪取に成功する。
また、武蔵にも侵攻し、北条家に対して攻勢に回っていた。
御館の乱の過程で越後にも拠点を確保しており、武田家が最大版図を築いたのは実は長篠の戦いの後であるこの頃である。


高天神城落城直前のざっくりとした武田家の版図はこんな感じである(絵心はご容赦)。
北は新潟県糸魚川市・魚沼市(越後)、東は群馬県沼田市(西上野)、西は長野県(信濃)を抑え、南は静岡県掛川市(遠江・高天神城)に至る。

 

織田家との和睦の失敗と高天神城失陥

しかし、各地において戦いを続けていくためには多額の費用が必要で、それは領民や家臣たちに大きな負担となっており、確実に武田家の体力は弱まっていた。
また、勝頼は織田家との和睦を模索していたが甲江和与・甲濃和親)、あくまで武田家を滅ぼすことを考えていた信長は和睦を拒否している。

武田家の体力低下を好機と見た徳川家康は、高天神城の奪回に取り掛かる。
勝頼は援軍を送りたかったがその余力もなく(信長との和睦交渉をしていたため、信長を刺激する援軍の派遣ができなかったとも)、1581年に高天神城は、一部の生還者を除くほぼ全員の戦死という悲惨な結末を迎える。7年前に勝頼に名声をもたらした城は、この時勝頼と武田家の威信を致命的に失墜させた。
これ以降、家臣・国人たちが武田家から離反する動きが顕著になっていく。

この時期、勝頼は織田・徳川軍の侵攻に備えて甲斐国内に城(新府城)を築いた。築城の目的には、従来の豪族の寄合所帯から、武田家への集権という目論見があるという説もある。
しかし、築城によって生じた負担は大きかったし、また、甲斐国内に城を作らないという信玄以来の伝統が覆されたことにより、一層武田家の信用はなくなっていく。

 

甲州征伐と武田家の終焉

1582年2月、満を持して織田・徳川・北条連合軍は武田家に侵攻。
勝頼の義弟・木曽義昌を謀略で降伏させ、信濃国内に乱入。武田家への信用を失っていた家臣団は一気に崩壊。信玄の弟である武田信廉は城を捨て逃亡した。
さらに間の悪いことに、2月14日に浅間山が噴火。浅間山の噴火は不吉であるとされ、武田軍の士気は低下した。

勢いを増した信長の嫡男・信忠率いる織田軍は、勝頼のかつての居城・高遠城に到達。城を守っていた勝頼の弟・仁科盛信(信盛)に降伏勧告を行うも、盛信は拒否。激闘が繰り広げられた末に落城。盛信は自害した。
この戦いが、滅びゆく武田家最後の勇姿であった。

信濃で武田家の勢力が侵されていく中、武田軍からは逃亡者が続出し、軍を維持できないまでになった。しかも、一族の筆頭・穴山信君(梅雪)まで連合軍に寝返り、家臣団の動揺はピークに達する。そのため、勝頼は新府城を捨て逃亡を余儀なくされる。

武田攻めにあたって、信忠が攻勢を続けている中でも、信長は信忠に慎重になるように指示を送り続けていた。
決して信長は武田家を侮っていはいなかったし、どこかで勝頼が反攻にに出ると考えていたが、皮肉にも信長が思っていたより、武田家の瓦解はあっけなかった。

とはいえ、この時点でも勝頼は決して諦めていたわけではなかった。
信頼する従兄弟の武田信豊を北信濃・小諸城に戻し、甲斐に侵攻してきた織田軍を南と北から挟撃しようと考えていた。

勝頼の受け入れを表明したのは、甲斐の名門・小山田信茂と、勝頼の参謀として活躍し続けた真田昌幸。どちらも武将としては一流で、頼りがいのある人物である。
勝頼は、小山田信茂を選んだ。甲斐国内であるということと、武田家との古くからの付き合いということが重視されたものと思われる。

しかし、この選択が仇となった。信茂の判断か否かはともかく、小山田家は勝頼を裏切り、領内に入れなかった。この段階で、武田家の滅亡は決定的になった。
なお、真田昌幸も、他の上野の国人同様に北条家と連絡を取り合っていたともいわれるので、彼を頼っていたら武田家はなお戦うことができたとも言い切れない(ただ、昌幸が勝頼を信長に差し出していたら、逆に信長に成敗されたと思われる)。

勝頼一行は死場所を求め、武田家ゆかりの天目山を目指すが、途中の田野で織田軍と衝突し、勝頼は自害(戦死とも)。享年37。
この戦いで、信長と信玄の孫である信勝も戦死。
天正10年(1582年)、3月11日午前10時頃、信玄死後10年目のことであった。

この頃、破竹の勢いで進撃してきた織田軍は兵糧不足と寒さに苦しんでいたという指摘があり、あと数か月粘ることができていたら、違った展開があったのかもしれない。

勝頼らの首実験を行った信長は、怒りにまかせてその首を蹴ったという話がよく知られている(実際には信長は勝頼のことを高く評価しており、「勝頼は運がなかった」と言ったといわれる)。
また、家康はその首を丁重に扱い、武田家遺臣の心をつかんだと云われる。

 

武田勝頼の評価

勝頼の評価は、主に「甲陽軍艦」に基づき低い評価がなされているが、これは一般に信憑性が低い史料とされており、最近では再評価も進んでいる。
勝頼にとって不運なことは、後継者としての経験と人望を得るための時間が短すぎたこと、領内の金の産出量が減少していたこと、信玄世代の後継の人材が少なかったこと、武田家の中での立場が微妙であったこと、そして何より、信玄が偉大すぎたことである。
そのような状況下で、勝頼はよく織田・徳川の覇権に抗した。多くの制約があり、彼の思い通りにならなかったことも多い中で数々の戦果を上げていることは評価に値するのではないだろうか。

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