秋葉原で通り魔事件

本日の正午頃、秋葉原駅近くで通り魔事件が起こったとの報道がありました。

現段階で7人の方が亡くなり、その他多くの方が負傷されたとのこと。

亡くなった方にはご冥福お祈り申し上げます。

今回の事件は、25歳の青年が「人生に疲れた」という動機で起こしたものということです。

事件の背景はこれから解明されることになるので、まだ何とも言えないですが、25歳って、人生に疲れたというほどの年齢ではないような気がします。

無論、様々なつらいことが不可抗力で生じたかもしれません。もしそうであれば、その点には同情できるし、社会の一員として反省すべきことがあるかもしれない。

でも、だからといって自分を見失って他人を傷つけることなど許されるはずがない。

そんなことをみんながしたら、社会なんて成り立たない。

だから、常識的な人は、つらい思いをしても、それを飲み込んだり、うまく処理したりしてできるだけ他人に迷惑をかけないようにしているはず。また、そういう人の周りにいる常識的(良心的)な人は、そういう人をサポートするようにする。状況が違えば役割を変えて同じ関係が成り立って社会が成り立っている。

私はそう社会をとらえています。

もちろん、地域コミュニティの希薄化とか、会社でもIT化などが進んだうえ、個々人でする仕事が増えたり、雇用条件の多様化(総合職・一般職、という従来の分類から、正社員・派遣社員・契約社員etcという風な)などでコミュニケーションを図る機会が少なくなったという意見もありますが、本質は変わらないと思います。

今回の事件について、犯人には厳罰を望みますが、ただそれだけで終わらせるのでなく、何が背景で、このような事件を起こさないために、我々に何ができるのかを考えていくことができれば、と思います。

また、この事件について、野次馬や記者が事件の様子を携帯電話で撮影するのに夢中だったり、野次馬が被害者の逃げ道をふさいでいたという報道がありました。

目の前でひどく傷ついた人がいたり、逃げている人がいるのに、それは他人事に過ぎないことで、イベントの一種だと考えたのでしょうか。目の前の人を助けることもせずに。そしてその写真は何かの記念として扱われるのでしょうか。

記者の場合は報道だから、といえるかもしれない。それでも、自分の職務と目の前の危機に瀕している人を助けるのはどちらが大事?いざとなったら、どうにでも手に入れられるものだと思います。JR西日本の福知山線脱線事故の際に、現場での救助に協力せず会社に向かって非難されたJR西日本職員がいましたが、それと同様のものだと思います(JR西日本職員については、会社に報告するのも重要な仕事だという意見もありますが、どちらが緊急性が高いかといえばやはり現地での救助活動だと思います。報告は携帯電話でもできるわけですし。もちろん、警察によって封鎖された後は別ですが)。

こういう人たちは決して社会の多数派ではないと思いますが、こういう人の痛みが分からない人、わかろうとしない人が増えてきたのであれば、こういう事件が多発するのも仕方ないのか、と哀しくもなってきます。

それにしても、25歳って、・・・同学年か?

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