浜口雄幸

「男子の本懐」で金解禁・軍縮を断行したライオン宰相

浜口雄幸は昭和初期の政治家である。1870年に高知県に生まれる。その後、東京帝国大学法科を卒業し、大蔵省入りする。逓信次官、大蔵次官を歴任した後に政界入りする。

 浜口の一番の業績は、首相として蔵相・井上準之助とともに行った金解禁であろう。金解禁とは、為替体制を金本位制にするということである。当時は、第1次世界大戦の影響で、日本は金本位制を放棄していた。
しかし、世界各国が金本位制に復帰する中、日本はその流れに取り残されていた。日本も金本位制に復帰したいのだが、その準備がなかなか整わない。また、金本位制に復帰すれば、当時低落していた日本通貨は、法定相場と大きな差があり、輸出業者に大打撃が出たり、為替投機がはびこったりする恐れがある。さらに、当時日本は入超(輸入の方が輸出より多い)続きで、金本位制に復帰すれば、金の流出は必至と見られていた。つまり、更なる不景気が日本を襲うこととなるわけである。

しかし、金解禁に多大な犠牲が伴うのは前述の通りである。貿易業者のみでなく、しばらく続くことになる不景気に寄って国内経済全体が大打撃を受けることになる。

 しかし、浜口首相、そして井上蔵相は断固として金解禁を行った。その結果、米国の大不況の影響も重なり、日本経済も大不況に陥った。政府も、産業の整理を進め、不況に対応したが、失業者は増加、経済もどん底に陥った。浜口・井上両大臣は、各省の抵抗を受けながら、歳出の削減を推し進めた。その中には軍事費も含まれていた。折から、ロンドン軍縮会議によって「統帥権干犯」との批判を受けていたため、特に抵抗が大きかった。

 浜口が首相になったのが1929年。そして、ロンドン軍縮会議・金解禁が1930年。

 そして、金解禁の翌年、浜口は東京駅にて狙撃される。犯人は右翼の人間だった。浜口は一命をとりとめるが、その翌年に他界。享年61歳。
また、同年犬養内閣により、金解禁政策は撤回され、紙幣と金との兌換が禁止された。

 浜口雄幸は、数多い政治家の中で特に清廉な政治家として知られる。そのことを示すエピソードを2つ述べる。

 浜口が大蔵省にいた時代、浜口は塩に関する仕事をしていた。専売局の長官である。この仕事、いろいろな人に文句を言われ、苦しい仕事なのだが、誠意を第一にいろいろな人間と交渉の毎日。大経済人であり、初代満鉄総裁、内務大臣や東京市長を歴任した後藤新平がスカウトしても、「仕事の途中で逃げるわけにはいかない」と、拒否。住友総裁がスカウトしても、やはり拒否。その仕事が一段落着いたときに、ようやく後藤のスカウトを受け、逓信次官、後に大蔵次官へと移っていく。

 大蔵次官を退き、政界入りし、首相になり、そして、狙撃。一命をとりとめた浜口は、医師の勧告も振り切り、国会入りする。曰く、「議会で約束したことは国民との約束であり、宰相たるものがそれを裏切れば、国民は誰を信頼すればよいのか。」と。この態度には、政敵であった犬養毅もその立場を超えていたわりの言葉をかけたという。その犬養も、後に浜口と同じ運命をたどることになるのだが。
ちなみに、ジャーナリストで、後に首相となる石橋湛山は、この様子を批判している(戦後首相になった石橋は、病気によって職務を遂行できなくなったときすぐに首相を辞任した。)。

 浜口は清廉の士であり、その存在が国民の希望となっていた。だからこそ、国民は不景気をもたらす金解禁についていったといえる。リーダーたるもの、この浜口の態度を見習うべきであろう。

ついでに疑問。民主主義下では、当然国民の支持を多く得た方が政治家として勢力を得るわけだが、一般に国民は自分たちに害のない政策を実行する政治家を選ぶだろう。そうなると、どうしても痛みを我慢して難題を解決する、という政治家はなかなか勢力を得にくいのではないだろうか。そうなるといつまでも問題の先送り・・・。そしていつの間にか国が破綻。

かつて、アメリカのJ.Fケネディ大統領は、「国が何をしてくれるかではなく、国に何ができるかを考えるべきだ」と叫んだ。オバマ米大統領は、「我々に今求められているのは新しい責任の時代だ」と国民に対して市民としての責務の履行と協力を呼びかけた。
このように、ばら色の話だけでなく、現実を直視し、その上で国民の支持を得られるような人こそが、真に政治家・リーダーとしての資格を備えているということができるだろう。

浜口雄幸は、金解禁の理論的妥当性はともかく、そのような足枷をものともせず難題解決にあたったわけだが、現代にそういう政治家は果たしてどれほどいるのだろうか。

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