渋沢栄一

現在に残る多くの事業・団体を設立した、近代日本経済興隆の立役者

 渋沢栄一は、日本で最初の銀行を設立したり、数多くの会社を設立したりして、日本を資本主義の流れに乗せた立役者である。

 渋沢は1840年に生まれた。7歳の時には漢籍を学んでいたと言われる。若い頃は血気に溢れ、「尊皇攘夷」の考え方に共鳴し、外国人が多くいた横浜の焼き討ちを計画した。但し、実行は中止したが。24歳の時に一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)に仕え、後に才能を見込まれ、フランスに遊学する。ここで渋沢は、先進諸国の優れた政治・経済の制度を目の当たりにする。

 1868年に明治維新で帰国した後は、新政府に仕えることになる。新政府では、民部省や大蔵省で活躍。官立富岡製糸場設置の責任者にもなっている。

 1873年に、民間に移り、国立第一銀行を設立。国立銀行条例に基づき、民間人の銀行設立を許可されたことを受けてのことである。このとき作られた国立銀行(「国立銀行」とはいうものの民営である)の生き残りが七十七銀行(東北)などの、名前に数字がついている銀行である。渋沢が設立した国立銀行は第一勧銀として生き残っていたが、先年富士銀行や日本興業銀行と合併し、みずほフィナンシャルグループとして現在に至っている。

 東京会議所・東京商法会議所などを設立し、その会頭になっている。商法会議所は、その後商工会議所と言われるようになっている。全国の商工会議所が経済界に大きな位置を占めているのは周知の通りである。日本商工会議所はその連合体である。

 渋沢が設立した会社は500にも及ぶと言われている。その中でも、今でも有名な会社としては、東京電灯(後の東京電力)、帝国ホテル、札幌麦酒、石川島造船所、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)など、数多い。これだけでも渋沢の民間経済の強化にいかに貢献したかがよくわかるというものである。国立第一銀行も含めて、これらの会社をはずして日本経済は語ることができないだろう。

 さらに、渋沢は民間外交の推進役として積極的に海外を訪問している。盛田昭夫氏を見てもわかるが、民間外交の推進役は経済界の代表的存在であることが多い。このことから、渋沢が当時の経済界の第一人者であったことがわかる。グラント将軍(元大統領。南北戦争で活躍)やタフト大統領(桂-タフト協定で有名)、ハーディング大統領、ルーズベルト大統領などと会見している。もちろんアメリカだけでなく、中国やフランスも訪問している。

 50歳の時には貴族院議員に任命されている(当時衆議院議員は選挙で、貴族院議員は天皇の任命で決定されていた)。これで、渋沢は政・官・財の全てを経験したことになる。

 渋沢は76歳で実業界を引退しているが、民間外交のほうはその後も行っている。単に経済だけのためでなく、排日問題(この問題を解決するためにハーディング大統領と会談)、児童問題(日本国際児童親善会創立)、障害者問題にも取り組んでいた。また、学校を創設(日本女子大学校など)したり、校長を務めるなど、教育にも理解を示しており、教育の普及に熱心であった。経済だけでなく、幅広いものを見ることができた視野の広い人物であったと言える。「徳川慶喜公伝」という旧主・徳川慶喜の伝記も刊行している。

 「道徳経済合一説」を唱え続け、日本の産業育成に貢献してきた渋沢は1931年、91年の生涯を閉じた。現在道徳経済合一説を実行している企業は多いとはいえない。しかしながら、彼の設立してきた企業から、木川田一隆や平岩外四(共に東京電力社長)、土光敏夫(石川島播磨社長・経団連会長)など、彼の志を理解した経営者が輩出されたのは、偶然なのだろうか、それとも彼の薫陶によるものなのだろうか。
なお、彼の、「道徳経済合一説」は、現在、企業の社会的責任(CSR)として復権しようとしている。

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