伊達政宗

奥州から天下を睨んだ独眼竜

伊達政宗は、奥州(東北地方)の名族・伊達家の当主・伊達輝宗の長男として1567年に生まれた。戦国時代の名将といわれる人物の中では、最も遅い部類に入ると思われる。織田信長とは33、豊臣秀吉とは30、徳川家康とは25、武田信玄とは46、上杉謙信とは37、北条氏康とは52、毛利元就に至っては68歳も違っていた。信玄や氏康、元就らは、政宗が10にもならないうちに亡くなる。

1567年は、信長が天下人への道を踏み固め、信玄や足利義昭が、それを阻もうとする時期。一方、奥州では、豪族たちが一進一退の抗争を繰り返し、大勢力がなかなか生まれなかった。輝宗も、そのような中、周囲の豪族たちと抗争の毎日を過ごしていた。

政宗の母は、出羽(山形県)の最上氏から嫁いできた、義姫。美貌を誇る一方で、非常に激しい気性の持ち主だった。その血を引いて、政宗もかなり激しい気性の持ち主だった。

生まれた当初、輝宗も義姫も、政宗を可愛がっていた。しかし、その愛を、政宗から奪う悲劇が起きた。疱瘡という病気にかかってしまい、片目が見えなくなってしまったのだ。疱瘡という病気はよくわからないが、眼が飛び出したとか、そうでないとか。とにかく、失明し、醜くなってしまった政宗を、義姫は嫌った。この時点で、母の愛を失ったわけである。しかも、もともと人前に出るのが苦手であった上、このことで、さらに人前に出るのを避けるようになった。政宗、5歳のことである。

母の愛を幼くして失ったことは、織田信長に似ているが、父の愛を一身に受け続けた、というところも信長と似ている。輝宗は、政宗のことを可愛がり続けた。期待もしていた。そこで、元服(成人式)の時には、これまでの幼名「梵天丸」に代えて、正式に「政宗」という名をつけたのである。政宗というのは、伊達家の中興の祖の名前で、由緒のあるものだった。それだけに、政宗がいかに期待されていたかが伺える。

政宗も父の期待に応えようと、自分を変える努力をした。自分の劣等感を消すため、醜く飛び出た眼球を除去したのだ。政宗は側近の片倉小十郎景綱に自分の目玉を取り除くように命じ、景綱もそれを断行したのだった。こうして、政宗の劣等感は一応取り除かれた。

こうした間にも、輝宗は転戦につぐ転戦だった。父以来の宿敵・相馬氏や、妻の兄の最上義光などと戦い続けた。最上義光は、義姫の兄だが、父・義守と敵対しており、輝宗は義守に肩入れしているため、義光と戦い続けていた。しかし、この義光、今でも山形城跡に銅像が建つほどの名将で、輝宗も苦戦した。政宗には叔父にあたるわけだが、政宗も散々苦労させられる。

そのような中、政宗は初陣を迎える。側近の片倉景綱や伊達成実などを連れて、堂々たる初陣だった。それ以後、輝宗と転戦し、活躍した。

しかしながら、母の義姫はそんな政宗を認めず、弟の竺丸を後継者にしようとする。そのため、家臣も分裂しかける。そこで、輝宗は、政宗に家督を譲り、内乱を未然に防いだ。輝宗の祖父・父、最上親子の戦いを見ていたうえ、自分自身、父親と仲が悪かったので、政宗とそのようなことになりたくなくて家督を譲ったとも、政宗の若さに賭けた、ともとれる。もちろん、輝宗自身41歳、と若かったのだが。

政宗が家督を継ぐと、政宗のいる米沢城(山形県)に、南奥州の雄・芦名氏の家臣・大内定綱という人物が、伊達傘下に加わることを願い出てきた。政宗はそれを許可したが、芦名氏に圧力をかけられた定綱はそれを撤回。激怒した政宗は定綱を攻撃。定綱の居城・小浜城の老若男女・家畜などを皆殺しにしている。「撫で切り」と言われる。

これに恐れをなしたのが、小浜城の南の畠山義継。彼は政宗に和議を申し出るが、政宗は「ほんのわずかだけ領有を認める」と過酷な答えを返す。義継は「もう少し認めてほしい」と返すが、政宗は「イヤなら潰す」とはねつけた。そこで、義継は隠居していた輝宗を頼った。輝宗のために援軍を出したことがあり、貸しがあったからである。

輝宗も頼られては断れない。とりあえず、政宗に取り次ぐだけはしようとした。しかし政宗は不在。鷹狩をしていた。そこで、輝宗は義継をもてなす。で、和気藹々の中での別れになる、とその瞬間、事件は起った。

なんと、義継が輝宗を拉致してしまったのだ。あっ!と思った側近たちだが、手を出すこともできず、輝宗は、そのまま畠山領付近まで連れて行かれた。

政宗も急を聞き、駆けつける。そのころには、畠山領の境まで来ていた。このまま畠山領まで連れて行かれれば、政宗の今後の戦略に支障をきたす。そこで輝宗は、「私にかまわず撃て!禍根を残すな!」と叫んだ。さすがは戦国武将であった。政宗はもちろん悩んだ。自分を一番理解し、可愛がってくれた父。しかし、父の望みは、政宗が奥州における覇権を確保すること。政宗はついに決断し、義継たちに鉄砲を撃ちかけた。義継は、仕方なく輝宗を殺害し、自分も自殺した。

父を失った政宗の悲しみと怒りはとてつもないものだった。切り刻んだ義継の遺体をつなぎ合わせて磔にかけたのだった。その上で、弔い合戦として、畠山領に攻め込んだ。

輝宗の後見なしに戦闘を行うのは、実はこれが初めてのことだった。それだけに、父のありがたさが一層身にこたえ、政宗に重圧がかかる。一方、畠山方も、義継の弔い合戦と意気が上がり、必死に伊達軍と戦い、善戦した。伊達成実にも迫る戦いぶりだった。

そのような中、さらに政宗に不利な情報が入ってきた。なんと、南奥州の雄・芦名家と常陸の佐竹家が連合して攻めて来たのだ。しかも、佐竹家を率いるのは、関東を席巻した北条氏康・氏政らと互角に戦ってきた、鬼義重こと佐竹義重。伊達軍8000に対し、連合軍は30000。圧倒的に政宗が不利だった。

政宗は必死に戦った。要地・人取橋の攻防を繰り返した。しかし、伊達軍は次第に押されていく。ついに政宗も追い詰められた。そこに60余騎の部隊が敵陣に飛び込んでいった。老将・鬼庭良直だった。齢73。必死に戦い、善戦したが、結局、討ち取られてしまう。しかし、良直のおかげで政宗は無事に引き上げることができた。これを人取橋の戦いという。政宗の戦いの中でも、特に有名な合戦である。

両軍とも、また戦うかと思われたが、連合軍内部の不和のため、連合軍は撤退。政宗は救われた。この戦いで、政宗の武名は奥州に知れ渡ることになる。

その後、畠山領を攻略。さらに、芦名・佐竹連合軍4000と、600の兵で戦う。郡山の戦いだ。この戦いでは一歩も譲らず、「独眼竜」と畏怖されるようになった。

ちなみに「独眼竜」といえば、伊達政宗、と日本人は言うが、実は、もともとは、中国・唐代の武将・李克用という名将の異名だった。李克用は、片目が異常に小さかったことからこの名前がついたのだが。曹操の部下の夏侯惇なども挙げられるだろう。彼は、戦場で流れ矢を眼に当ててしまい、以来片目になってしまった。李克用は別として、政宗も夏侯惇も片目が不自由であったことにすごいコンプレックスを感じていたそうだ。政宗は「死後、肖像画などには両目を書いてくれ」と言っているし、夏侯惇は鏡を見るたびに鏡を壊していたらしい。彼らにとってみれば「独眼竜」などという異名はありがた迷惑だったかもしれない。

そんなこんなで、ついに芦名氏との決戦を迎える。摺上原の戦いである。摺上原には、伊達軍20000と芦名軍16000が集結した。

合戦の当初は、芦名軍が押す。芦名軍にとって追い風で戦いやすかったのだ。しかも、先陣は、猪苗代盛胤。芦名対策として政宗が寝返らせた猪苗代盛国の息子だ。彼は父の裏切りに憤り、恥をすすごうと勇戦を誓っていた。そして、この盛胤が善戦した。しかし、風向きが変わると、戦況は一変。伊達軍が押しまくる。さらに、芦名軍に離反者が現れ、芦名軍は崩れた。もちろん、芦名にも忠義の武将はいて、最後まで踏ん張った者もいたが、多勢に無勢だった。

芦名家当主・義広は、そのまま本拠・黒川城から佐竹家に亡命(もともと義広は佐竹家からの養子だったので、実家に戻ったわけである。これまでの佐竹との連合も、彼が佐竹家出身だったからこそである)。政宗は黒川城に入城し、芦名領を接収。こうして、政宗は南奥州を制覇した。

しかし、順風満帆の政宗の陰に、危機は着々と近づいていたのだった・・・。

南奥州を制覇した伊達政宗だが、その前に大きな壁が立ちはだかる。関東・奥州を除き、日本全国をその勢力下においていた豊臣秀吉だ。

日本統一を目の前にした秀吉は、全国に、勝手に戦争をしないように、という命令を出していた。「関東・奥惣無事令」と呼ばれる私戦禁止令である。これは、政宗が芦名氏を攻撃する前に出されていた。しかし、政宗にとって奥州統一、中央への進出は積年の夢であり、農民出身の関白には従えないという思いもあり、無視して芦名氏を滅ぼした。

政宗には、関東の北条氏政と連合を組んで秀吉に対抗しようとしていた、という説もある。しかし、秀吉が小田原を攻撃する際に動員した兵力は20万。しかも、最新鋭の装備を有し、圧倒的な戦力を擁していた。伊達成実は、もはや戦うしかない、と主張したが、もう一人の参謀・片倉景綱は秀吉のもとに行くことを主張。ここに至り、政宗は秀吉に臣従することを決意する。そのために、秀吉のもとに行こうと決めた。

しかし、ここで、事件が起こる。母、義姫が政宗を毒殺しようとしたのだ。幸い、政宗は一命をとりとめたが、参陣はさらに遅れることになる。なお、この毒殺未遂の背景に弟・小次郎の擁立があったということで、弟を殺害している。このあたりも、織田信長に似ていると言える。義姫の兄、最上義光の謀略であったとも言われる。
ただし、この事件の背景については諸説あり、不明な点も多い。

結局、小田原にいる秀吉のところに着いたのは、小田原攻めも終わりの頃。政宗にとっては何をされても不思議ではない状況だった。実際、秀吉も政宗を亡きものにしようとしていた。政宗は幽閉された。

しかし、ここからが政宗の本領発揮だ。まず、死装束を着て髷を切り、死ぬ覚悟ができていることをアピールした。さらに、秀吉の茶道の師匠である千利休に、茶道を教わりたいと申し出た。幽閉され、殺されるかもしれないのに、茶道を学ぼうとするとは風流な男だ、と秀吉は感心し、政宗を許した。但し、会津など、旧芦名領は没収されたが。

政宗の代わりに会津に入ったのは、政宗のライバルとも言える名将・蒲生氏郷。氏郷は、信長の娘を娶るなど、信長に直々に眼をかけられていたほどの逸材だった。氏郷は、奥州の最高責任者として君臨することになり、政宗は心の中で強く反発していた。そのことが表れるのが、葛西・大崎一揆だ。葛西・大崎というのは奥州の名族で、小田原に参陣しなかったために所領を没収された家。そこに、新たに俄大名が入ってきて乱暴狼藉を行ったので、旧臣や領民が反発し、一揆が起きたのだ。

この一揆に際して、当然氏郷は政宗に協力を呼びかける。しかし、政宗は、表面では協力する風を装い、一方で、一揆を支援していた。これは、はっきりとした証拠はないらしいが、ほぼ確実ということだ。さらに、氏郷を招き、毒殺しようとしたとも言われている。

政宗の一揆の煽動は、家臣の裏切りによって氏郷に通報される。氏郷はこれを秀吉に通報、秀吉は政宗を召還した。

ここでまた、政宗は大芝居をうつ。自分自身が死装束を着ていただけでなく、大きな金箔張りの磔柱を持っていったのだ。こうして、上方の人々に「奥州に政宗あり」と知らしめただけでなく、秀吉の出鼻をくじくことにもなった。

そして、秀吉に、証拠の書簡を突きつけられると、これは自分の花押(サイン)ではない、と返す。嘘をつくな、と迫る秀吉に、政宗は「自分はいつも小さな穴をつけて書簡を出している」と弁明する。秀吉が、これまで政宗から受け取った書簡を確認すると、確かに穴が開いている。こうして、政宗は危機を乗り越えた。しかし、旧領の一部を取り上げられ、一揆後の領地を与えられる。自分のまいた種は自分で刈り取れ、ということだろう。

この事件について家康は、次のように評している。家康の重臣、井伊直政が「政宗の関与は明らかなのにだまされるとは秀吉もバカですな」と言ったのに対し、家康は「秀吉はわかっていたが、政宗の機転と深謀遠慮に免じたのだ。政宗はまさに大将の器だ」と返している。このように、政宗は多くの人物から高い評価を受けていた。これは、同時に信用のできない人物ということでもあるのだが。

この直後、1592年に朝鮮の役が勃発し、政宗も500(1500とも)の兵を出すように要求される。しかし、秀吉の信頼を回復しなければならなかった政宗は、3000の兵を出した。しかも、この時は派手な格好で道沿いの人々がはやし立てたという。

その一例として、重臣の原田宗時(後年伊達騒動の主役となる原田甲斐宗輔の祖先)の装備が残っている。彼は、丈余の太刀を背負い、駿馬にまたがり、それを金鎖で結んだ、ということだ。

ちなみに、翌年の93年に、政宗のライバルの一人、蒲生氏郷は亡くなっている。わずか39歳。この後、会津には上杉謙信の後継者・上杉景勝が入っている。

朝鮮で活躍した政宗は、その後帰国し、秀吉の養子で、後継者と見られていた秀次と交際を深める。しかし、これがまた、政宗に危機をもたらした。

秀吉には子がなく養子の秀次が後継者と見られていて、秀次自身もそのつもりだった。しかし、幸か不幸か、秀吉に子が生まれる。秀頼だ。秀吉は、当初は、後継者に変更はないとしながらも、次第に秀頼に跡を継がせたくなった。秀次は秀次で、自分の将来に不安を感じ、行動が乱れてきた。秀吉はこれを口実に、秀次に謀反の容疑を着せ、自害させたのだった。

さらに、秀次の周囲にも疑惑が降りかかる。最上義光の娘は秀次の側室だったのだが、殺害された。当然、政宗にも疑惑の目は向けられる。そこで、政宗は機先を制して上京。詰問してきた使者に「太閤ほどの人物でさえ見誤ったのに、片目の自分が間違えるのは当然だ」と言い返す。これには秀吉も返す言葉がなく、疑惑を解かざるを得なかった。ちなみに、太閤とは、前関白の意味である。

さて、これから数年後、秀吉は死去。豊臣政権は秀吉が信長の跡を継ぎ、わずか10年ほどで確立した政権であり、秀吉自身、農民出身のため、征夷大将軍になれず、武家の棟梁という立場を確立できず、一代での出世だったので、譜代の家臣もいないため、秀吉の死後、急速に崩壊への道をたどっていくことになる。

豊臣政権の重鎮として、五大老五奉行と呼ばれる大名がいた。五大老は、実力最高、関東250万石の徳川家康、秀吉の親友で、大河ドラマの主役にもなった前田利家、秀吉の養子の宇喜多秀家、上杉謙信の後継者で会津120万石を治める上杉景勝、そして、中国の雄・毛利輝元。五奉行は秀吉の親類の浅野長政、僧侶出身の前田玄以、事務官僚の長束正家増田長盛、そして、石田三成。他に、大きな実力を誇った大名に、南九州77万石の島津義久義弘、南肥後の小西行長、北肥後の加藤清正、出羽57万石の最上義光、そして、奥州52万石の伊達政宗などがいた。

これらの人物は、豊臣政権を守るために、あるいは天下を取るために、そして、自分の身を守るために、様々な策謀をめぐらす。家康は、豊臣政権を崩壊させるために、秀吉が遺言で勝手な大名の縁組を禁じていたにもかかわらず、縁組を色々行った。政宗もこの時徳川家と婚姻関係を結んだ。伊達家からは政宗の長女、五郎八姫(いろは)、徳川家からは家康の六男・忠輝が出された。

このように、家康サイドの人間が豊臣政権崩壊を画策する一方で、豊臣政権を守るために動いた大名ももちろんいた。その代表が、前田利家石田三成だ。彼らは、家康たちを詰問したが、のらりくらりとかわされるだけ。そうしているうちに、豊臣政権を守る側の中心であった前田利家が亡くなった。彼は、豊臣擁護側と徳川側の仲介をしていた。彼が亡くなったことで、一気に両者の対立が深まった。

そして、1600年。両者の対立は関が原の戦いで決着を迎えた。中央での戦いは、短期決戦で徳川軍の勝利で終わった。一方で、奥州も関が原の戦いの中で大きな戦いの場となった。会津の上杉景勝は当初家康の攻撃目標となっていたが、家康は三成と決戦するため引き返し、上杉軍は、出羽にその兵力を向けた。謙信以来の強兵に、さすがの最上軍も苦戦し、政宗に救援を要請した。最上家は敵とはいえ、母の実家であり、母自身山形にいた。そのため、政宗は悩んだ。参謀の片倉景綱は、「あえて山形を見捨て、両軍が疲労困憊したときに、一気に攻めるのがいいでしょう」と進言した。しかし、血のつながりは濃く、信頼する景綱の言葉だったが、政宗は山形に救援の軍を向けた。上杉軍もよく戦ったが、結局中央で西軍が敗れたということで撤退した。

伊達家が徳川家に協力する条件に、家康はいわゆる「100万石のお墨付き」というものを政宗に与えていた。勝利したら50万石を加増して100万石にする、というものだ。しかし、戦後、政宗に与えられたのは2万石にすぎなかった。家康の怒りをかってしまったためだ。というのも、東軍の南部家(北奥州)の当主・南部利直が最軍の救援に出陣している間に、一揆を起こさせたのだ。家康にばれないように首謀者は殺害したが、秀吉にばれたように、家康にもばれた。こうして、家康は政宗に50万石を与えることを辞める口実を得たのだった。

政宗が家康から約束されていた「100万石のお墨付き」の文書

その後、政宗は家康に対しては従順になった。1615年の大坂夏の陣では、後藤又兵衛真田信繁(幸村)とも戦っている。そして、その翌年、家康は亡くなった。

しかし、政宗には「天下は力があるものが獲る」という考えがあり、力のある家康が天下を獲るのは認めるが、その後継者の秀忠が簡単に継ぐのは認められなかった。そこで、婿の忠輝と組んで天下をひっくり返そうとした。政宗は「忠輝を皇帝に、自分は関白になって天下を治めよう」と考えていたそうだ。そのために、支倉常長を欧州・ヒスパニアに派遣したとも言われる(慶長遣欧使節)。しかし、家康の死の直後、秀忠は忠輝を改易し、政宗たちの野望を砕いた。忠輝と五郎八姫は離婚した。

この後は、政宗は領国経営に力をいれ、その方針が代々引き継がれていった結果、伊達家の領国は、表向きは62万石だが、実質は200万石にもなったそうだ。

政宗の長男は秀宗といった。名前からも分かるとおり、秀吉に近い人間だった。正室(愛姫)の子でもないということで、家康に宇和島10万石を与えられ、宇和島藩の藩祖となる。そして、仙台藩は嫡子の忠宗が継いだ。政宗の死後も、お互いに繁栄していった。なお、幕末の名君、伊達宗城は宇和島藩主である。

政宗のエピソードは数多く残っている。

例えば、朝鮮の役のとき、九州・名護屋に在陣していたとき、前田利家と徳川家康が井戸の水を巡って反目していた。前田家に借財があった政宗は利家に協力する旨伝えた。しかし、利家は政宗を信用していなかったので、政宗の陣を調べさせたところ、伊達軍の銃口は前田の方に向いていたという。それを聞いた利家は「政宗は油断のならない男だ」と吐き捨てたと言う。また、秀吉に臣従する時斡旋してくれた浅野長政が、もともと政宗のものだった金山を管理することになったときは、一揆を起こさせ、長政に義絶されたりしている。

その一方で、目をかけた家臣には誠実さを旨とするよう心がけさせたり、絶対に暗殺はしない、というポリシーをもったり、ダンディズムを感じさせるところもある。

また、大名同士の歌会で、景品に瓢箪を提供し、いざ瓢箪を渡す段になると、名馬を進呈し「瓢箪から駒」と笑わせる、などといったユーモア精神も持っていた。

現在、仙台は100万都市に成長し、東北地方の中心地として、今もなお、発展を続けている。仙台城跡には、大学や伊達家関連博物館がある。また、仙台駅には政宗像が立ち(現在は撤去済)、待ち合わせの場所になったり、仙台市のマスコットに政宗が採用されるなど、政宗は今でも仙台では敬われている。

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