はじめての判例分析

法学を学ぶアプローチというのは何種類かありますが、その一つに判例分析というものがあります。

判例とは裁判における裁判所の判断、特に最高裁判所の判断を指しますが、具体的な事案において、誰と誰が、どのような点で争って、どのような法令が引き合いに出され、各裁判所はどのように判断したのか、ということを分析して、法令解釈やその背景、適用範囲などを考えていくのが判例分析です(非常にざっくりとした説明ですが)。

一般的な会社において一番法律と向き合う仕事といえば、おそらく法務とコンプライアンスでしょう。
私の理解では、そのうち法務は会社の契約を主な業務対象として、会社と取引先の具体的な法律関係について扱う業務であり、場合によっては訴訟関係も含まれるものです。
一方コンプライアンスは会社の各種の業務が法令の要件を満たしているかという観点での業務であり、個々の契約ではなく、業務のプロセスそのものの適法性を確保する業務と言えます。
(とはいえ、法務とコンプライアンスは全くの別物ではなく、法務にもコンプライアンス的な要素があったり、コンプライアンスの立場からも契約内容の確認をしたりすることがあります。実際に法務とコンプライアンスを同一の部署が担っているケースも少なくなありません。)

自分自身はずっと資産運用会社でコンプライアンス業務を担当していたため、業務に関連する法令についてはそれなりに理解していますが、実際の裁判における法令解釈の仕方、原告・被告の争点の出し方や裁判の手続きなどについてはほとんど意識することがありませんでした。

資産運用会社自体は訴訟の当事者になることは少ないので、これまで通りコンプライアンス業務をこなしていくだけなら敢えて判例に触れる必要はないのかもしれませんが、自分の研究を進めるにあたって役に立つ可能性があることに加え、せっかくお金を払って大学院に行くのであれば、これまで知らなかった世界を見てみるのも大事なことだと思って、判例分析を行うことにしました。

担当した事案は「西武鉄道株式会社による有価証券報告書の虚偽表示事件」。
2004(平成16)年10月に、西武鉄道株式会社は有価証券報告書において株主構成を虚偽表示しており、本当は東京証券取引所の上場基準に合致しないことを公表しました。
その結果、上場廃止の見通しとなったことによって株価が急落し、西武鉄道株に投資していた個人投資家・機関投資家は損失を被ったため、西武鉄道などに対し損害賠償を求めたという事件です。

本件は東京地裁から東京高裁を経て最高裁まで争われた事案ですので、各裁判所における議論と判例を確認していきます。
具体的には、各裁判所の判例について、判例タイムズや判例時報といった判例を収録した雑誌で判例の内容を読み込んでいきます。
今回の事案は個人投資家と機関投資家で別の裁判でしたので、3×2=6回分の判例を読み込むことになりました。
もっとも最高裁だけはまとめて判例が出ていたので5回分というのが正しいですが、それにしても結構な量でした。

本件については、争点は下記の通り3つありました。
①有価証券報告書の虚偽表示は不法行為か?
②株主に損害は発生しているのか?
③損害が発生しているのであれば、それはどの程度か?

不法行為については、民法709条に「故意又は過失によって他人の権利または法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と定められています。
つまり、この事案は証券取引法(現在の金融商品取引法)に定められる有価証券報告書の虚偽記載をテーマとしながら、民法上の損害賠償について争っていることになります。

論点を整理するためには、まず原告と被告の主張を見てみるのですが、想像以上にお互いにハードルの高い主張をしていることに驚きました。
どちらの主張も「それは厚かましいんじゃないの?」と。

ただ、それは裁判上のテクニックでもあり、当然それは両者織り込み済みで、それぞれ次の矢を用意しています。
それらを予備的主張と呼び、最初に放った主張は主位的主張と呼ばれます。
ある意味主位的主張が最も厚かましく、予備的主張はそれに比べると妥協が入っているので現実的になっていきます。

原告は当然「有価証券報告書の虚偽記載は不法行為である」、「虚偽表示に伴う株価の下落で損害を被った」とし、損害額については「上場していない株式は無価値なので取得額全額が損害」(主位的主張)と主張します。

対する被告は、「株主構成は重要な事項ではないので不法行為に該当しない」、「株主は自己責任に基づき株式を取得したので損害賠償すべき損害は発生していない」(主位的主張)と主張しています。

ここから先は裁判所の判断に注目が移ります。

①の論点については、有価証券報告書の趣旨は、自己責任で投資をするために、投資家が正しい情報に基づき投資判断を行うことができるようにすることにありますが、正しい投資判断を行うには会計情報のみならず、株主構成や上場の有無も重要な要素であることから、地裁から最高裁にに至るまで不法行為と認定しています。

②についても、不法行為である以上損害賠償すべき損害が発生していると、やはり地裁から最高裁に至るまで一貫した見解となっています。

この事案における最大の争点は③の損失額でした。
今回は虚偽表示の公表に端を発した株価の下落が損失の原因となりましたが、損失額をどのようにとらえるのかは難しい問題です。

分かりやすい考え方としては、取得価額から売却額を引いた額といえます。つまり、投資によって生じた損失がそのまま損害額となるという考え方です。
では、投資による損失はすべて虚偽表示によるものかというと、そうとも言い切れません。
株価を形成する要因は複雑で、株価の下落の原因は虚偽表示によるものではなく、業績が悪化しているから、あるいは業界全体に悪い風が吹いていたからかもしれません。
つまり、虚偽表示による株価の下落がどの程度であったかを特定することが難しいのです。

また、損害額を考える上で重要な考え方に、相当因果関係説というものがあります。
不法行為と損失額の因果関係を考えるにあたって、相当の因果関係が認められれば、その行為が当該損失をもたらしたとみなす考え方です。
我が国における法学上の因果関係の考え方としては相当因果関係説が最も一般的とのことですが、今回の場合、虚偽表示がなければそもそも上場されていないため、個人投資家も機関投資家も西武鉄道額を購入していないと考えられるため、損害額の算定のベースは取得価額であると最高裁は断じています。

個人的には、取得時から虚偽表示公表時までは貸しのない上場銘柄として取引されていたので、損害額の算定のベースは取得額ではなく虚偽表示公表日の終値であると思い、その点については授業中にも議論をさせていただきました(ちなみに最高裁判決の補足意見でもそのように算出すべきとされていたので、頓珍漢な意見でもないと思います)。

ちなみに、損害額については正解がないので、こういう場合は民事訴訟法第248条に基づき、裁判所が損害額を認定することができます。
最後は決めの問題になるので、算定根拠の妥当性を議論し尽くした後は裁判所が決めてしまうということですね。
裁判の手続きを含め、手続法についてはこれまで触れることがなかったので、このような定めがあることも新鮮に感じました。

一回の授業で一つの事案を報告・議論するので不完全燃焼感が少々残りましたが、初めて判例を読み込んで、自分なりにいろんな角度から分析し、その過程で手続法にも触れることができるなど、実りの多い学習機会となりました。

やはり新しいことに触れてみるのは、世界が広がって楽しいものです。

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応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱

有名だから名前は知っているし、何なのかもなんとなく知っている。でも注目もされていないし、詳しくは知らない。
そういうものって、自分の好きな分野や仕事においても結構多いと思います。

その代表格が、戦国時代における「応仁の乱」ではないでしょうか。
私を含め、戦国時代が好きな方は多いと思いますが、その戦国時代の幕開けとなった戦乱である応仁の乱については、あまり熱く語られることもなければ、テレビ番組で取り上げられることも少ないように思います。
自分自身、応仁の乱について意識することはあまりなく、教科書程度の知識しかありませんでした。

そんな折、何がきっかけになったのかわからないのですが、中公新書の「応仁の乱」(呉座勇一著)が爆発的に売れているということで、気になったので読んでみました。

一般的に、応仁の乱は室町幕府八代将軍・足利義政の後継について、息子の義尚派と弟の義視派が争い、それぞれ有力大名の細川勝元山名持豊(宗全)が後ろ盾となって生じた戦乱であると認識されていると思います。
また、守護大名が京都に集結したことや慢性的に戦乱が続いたことにより、それぞれの領地で家臣団が力を持ち、下剋上の契機になったともいわれています。

それ自体は間違ってはいないのですが、本書で解説されている応仁の乱の背景は上記の説明以上に複雑です。
また、大きな役割を担う人物の数もかなり多く、それゆえに人間関係は複雑になるとともに、見どころも多く、応仁の乱の面白さ(?)を初めて知りました。

本書は、奈良にある興福寺経覚尋尊という二人の僧侶の視点から応仁の乱を追っています。
興福寺は藤原氏の氏寺として設立され、平安時代には南都北嶺と称された有力寺院で、実質的には大和国の守護の役割も果たしていたといわれています(大和には守護が設置されていませんでした)。
経覚・尋尊はそれぞれ興福寺のトップである別当を努めた人物で、二人とも詳細な日記を残していることで知られています(経覚の日記については一部焼失していますが)。
また、大和は応仁の乱の中心となった京都にも近く、興福寺もいろんな形で影響を受けています。
このような背景に加え、二人の性格の違い(経覚は好奇心旺盛で当事者のような視線で語るのに対し、尋尊は一歩引いたところから俯瞰している傾向があるようです)もあって、この二人を語り部として選んだのではないかと思います。

本書によると、応仁の乱の火種となったのは、管領家の一つ・畠山家の家督争いです。
なお、室町時代における管領は将軍の補佐役であり、幕府のナンバー2といえる存在で、一時期を除けば細川家・斯波家・畠山家が交代で就任していました。

関東で関東公方・足利持氏が幕府や関東管領・上杉憲実と対立した永享の乱の後に起きた結城合戦の際に、当主である畠山持国が出陣を拒んだことから将軍・足利義教の不興を買って失脚し、弟の持永に家督を譲らされます。
しかし、義教が嘉吉の乱で暗殺されると、持国は武力で家督を取り戻します。
その際、もう一人の弟である持冨は持国を支持していたため、実子がいなかった持国は持冨を養子としていました。

しかし、その後持国には実子が生まれます。後に応仁の乱を引き起こす畠山義就(よしひろ)です。
持冨にとっては残念なことですが、持国の実子なのだから、義就が後継者になるべき…とはいきませんでした。
義就の母は側室であったため嫡子とはされず、一部の家臣団は血筋のよい持冨の子・弥三郎を後継者に望むようになります。
持国は弥三郎擁立を企む家臣団を攻撃しますが、彼らは有力大名である細川勝元・山名宗全を頼ります。
その結果、畠山家対細川・山名家という構図になり、畠山家の勢力は大きく削がれることになりました。
この過程の中で、一時持国は隠居しましたが、事態処理の中で山名宗全が失脚し、持国方は勢いを取り戻し、弥三郎を京都から追い落とすこととなりました。
その後弥三郎は病死し、政長がその跡を継ぎます。

その後、義就は畠山家の家督を継ぐものの失脚し、政長が家督を継ぎ、管領になります。
しかし義就は引き下がらず、政長との係争が長く続くことになります。

一方、将軍家においても畠山家と似たような状況で、将軍・足利義政には実子がおらず、弟の義視を後継としていましたが、その後実子の義尚が誕生します。
では義尚を後継とするか、その前に中継ぎで義視を挟んで義尚を将軍とするか、ということになりそうですが、それは将軍の一存で決められるものではなかったようです。

当時幕府には①伊勢貞親ら将軍側近グループ②細川勝元グループ③山名宗全グループがおり、それぞれ異なった思惑を持っていました。
そして、斯波家の家督争いを契機に細川・山名は共闘して側近グループを潰しますが、将軍の後継について思惑が異なっているので、いずれは対立することが明白でした。

その時義就は伊勢貞親らと共闘するつもりで上洛しようとしていましたが、貞親らが失脚したため、大和近辺での勢力拡大を図りました。

そんな折、細川勝元と対立していた山名宗全は自陣営の増強を図るため、義就を引き入れようとしていました。
細川勝元は義就と対立する畠山政長を支持していましたので、義就は山名方につきました。
そして、義就は義政の許可を得ないまま、宗全の呼びかけに応じて上洛します。

義政は細川・山名には政長・義就を支援させず、当事者間の争いで勝った方を支持するとしており、細川方は将軍の指示に従ったものの、山名方は義就を支援したため、政長は敗走(御霊合戦)。
応仁の乱は文正2年(1467年)の、この戦いから始まったといわれます。つまり、畠山家の家督争いが直接のきっかけになったといえそうです。
細川勝元は武家の棟梁としても雪辱を果たす必要があり、各地で細川方に山名方を攻撃させます。

そして、細川方・山名方は京都に集結。細川方は京都の東側に布陣したため東軍、山名方が西側であったことから西軍と呼ばれます。
京都の西陣織の名前が、西軍が布陣した場所に由来していることは有名です。

東軍は義政を味方につけ、義政は義視を東軍の総大将とします。
しかしながら、その後義視は失脚し、なんと西軍の総大将になります。
西軍は義視を将軍に擬し、幕府と同様の統治機構を整備したようです(西幕府)。

和睦を模索していた義政の試みもうまくいかず、その後細川勝元・山名宗全の両巨頭が死去した後も、義就・政長らは戦いを続けることになり、戦乱は11年の長きにわたることになりました。

ちなみに、肝心の細川・山名は戦争開始数年後には事態を終結させたいと思っており、勝元・宗全は当主の座を降りています。
二人の死後、文明6年(1474年)に細川家・山名家は単独で講和し、西軍の総大将であった山名家が東軍に移ります。

最終的には山名家の後の西軍の主力であった大内政弘が文明9年(1477年に)東軍に降伏(実質的には和睦)して帰国するという形で戦乱は終結しました。

しかし、その後も畠山義就・政長は抗争を続けますし、各地では守護代が守護大名を脅かしていたりして、本書のタイトルの通り、戦国時代の幕開けとなります。

政治的背景や人間関係が複雑すぎて、応仁の乱を正確に把握するのは難しそうですが、足利義政や細川勝元・山名宗全といったしかるべき役割を担っている人物が、きちんとリーダーシップを発揮して和睦交渉を行っていれば、戦乱もこれほど長引かなかったのではなかったか、と思いました。
リーダーシップの欠如による組織・事態の迷走は今でもみられることであり、そういう意味ではいい教訓とも言えるでしょうか。

戦国時代以降、応仁の乱の中心であった足利家・山名家・細川家・畠山家・大内家がいずれも零落していることは、象徴的な後遺症であったといえるかもしれません(熊本の大名の細川家は庶流)。

印象としてはグダグダ、ダラダラな応仁の乱ですが、当事者たちはいずれも必死に生きていたし、戦闘のあり方も変化があって、決して地味な戦乱ではなかったと思います。
総大将格の人間がそれぞれ相手陣営に移っているというのもなかなかドラマチック(?)

応仁の乱の当事者の人生や西幕府の存在、戦闘方法の変化などについてはこれまで知らなかったので、日本史を代表する事件の全体像を俯瞰するとともに、新たな一面を知ることができて、大変勉強になった一冊でした。

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逆境経営-山奥の地酒「獺祭」を世界に届ける逆転発想法-

最近大人気の日本酒・獺祭
キーボードで「だっさい」と打つと、自動で変換されるくらいメジャーです。
(もっとも、レギュラークラスのプロ野球選手なら大体変換されるくらい、最近のアプリケーションは優秀なようですが。)

あまりに話題になっているので、普段は高級なお酒を飲まない私も飲んでみたいと思って酒屋さんに行ったら数量制限があり(一人1本か2本だったと思います)、その人気ぶりを感じた次第です。

そんな獺祭ですが、決して順風満帆な中で生まれたものではなく、むしろ逆境の中で生まれたものであることを、獺祭を製造している酒蔵である旭酒造の桜井社長の著書で知りました。その名も「逆境経営」。

日本酒市場自体が縮小傾向にあるのですが、その中でも地方の中小酒蔵は知名度もなければスケールメリットを追求することも難しく、桜井社長が社長になった頃はまさに逆風でした。
さらに会社自体も雰囲気が弛緩しているうえ、社長就任後しばらくすると、酒造りの中核となる杜氏たちが退職してしまったそうです。
立地の点でも東京などの大都市はおろか、山口県の主要都市である岩国市からも遠く、マーケットへのアクセスも困難で、八方ふさがりの感があります。

本書はタイトルの通り、そんな困難な状況から、獺祭によって成長を遂げた旭酒造の物語です。

今でこそ獺祭は大人気ですので、社長の目論見通り、順風満帆に行ったように見えそうですが、獺祭が成功を収めるまでには数多くの失敗や試練があり、またその背景には社長の強いポリシーがあったようです。

まず、商品について。
獺祭というお酒が非常に素晴らしいものであることは、世の評価や価格などを見ても想像できますが、品質には徹底的にこだわっています。
元々は安価な普通酒を製造していた旭酒造ですが、限られた量しか製造できないというキャパシティから逆算して、高品質なものに集中するという選択をされたようです。

そして、高品質に特化するからには、その品質にはとことんこだわる。
当然のことと言うのは簡単ですが、米、酵母、水、製法など、それぞれの要素について高みを目指し続けるというのは決して容易なことではないと思います。
そして、高みを目指すうえでわき道にそれない。
色んなブームがある中で、自社製品をそれに合うようにカスタマイズするということは珍しくないと思いますが、旭酒造はそういうことをせず、愚直に獺祭そのものの品質の向上に努めています。

また、経営においても素晴らしいポリシーがあります。
読んでいてガツンとやられたのは、「コストパフォーマンス(費用対効果)を考えた瞬間にずば抜けたものはできなくなる」ということでした。
本書によると、「「費用対効果」と言った瞬間に、この程度でいいんだ、という甘さが出る」とのことです。
費用対効果という考え方は、費用に対して効果が一定水準を上回っていればよい、という考え方ですが、その考え方では無意識のうちに「この水準をクリアすればそれでいい」という意識を生んでしまうように思います。
経営・ビジネスの観点からは間違っていないと思いますが、そういう考え方だけでは、本当にずば抜けた商品やサービスは生まれないというのもまた間違っていないと思います。
本当に必要なところには、コストパフォーマンスや採算を度外視して資源を投入することも、強力な武器を手に入れるためには大切だということを改めて考えさせられました。

また興味深かったのは、桜井社長は単に獺祭の売り上げが上がればそれでよい、というのではなく、お客さんにきちんと味わって、適正な量を飲んでほしいと考えていることでした。
確かに、お酒を飲みすぎると、へべれけになってだらしないし、お酒の味わいもわからなくなってきます。そのうえ、場合によっては吐くこともあれば、けんかや飲酒運転などのトラブルのもとにもなりかねません。
お酒の作り手から見てみると、丹精込めて作ったお酒をそのような飲み方で飲んでほしくはないでしょう。
当たり前といえば当たり前なのでしょうが、お酒の作り手としての矜持が垣間見えます。

他にも素晴らしい内容がたくさんあったのですが、あまりネタバレになってしまうとよくないのでこの辺で(笑)

本書は酒造メーカーのお話でしたが、私が属する資産運用業界についても大変参考になると思います。

例えば、商品のラインナップについて。
資産運用業界(投資信託業界)がよく受ける批判として、販売会社の意向に沿って新しい投資信託を次から次へと作って、販売会社が乗り換え販売をする一因となっている、というものがあります。

確かに産業構造が日々移り変わっていく中で注目されるテーマや投資対象も変わっていくので、それに対応した投資信託というのはニーズがあるのかもしれません。
そのような見方をすると、現在の投資信託会社や販売会社(銀行・証券会社など)の方針は間違ったものではないでしょう。

しかし、本当に息の長い、お客さまに愛され続ける投資信託を作りたいのであれば、新しい投資信託を作り続けるのではなく、産業構造や経済環境の変化に対応できる投資信託を作り、投資家に提供するべきであるともいえます。
旭酒造の考え方はこちらになるでしょうし、私自身そうあってほしいと思っています。

このような考え方は、投資信託を直接販売している投資信託会社に顕著に表れていると思います。
例えば、「いい会社(これからの社会にほんとうに必要とされる会社、 皆さまがファンとなって応援したくなるようないい会社)に投資する」ことを掲げている鎌倉投信は国内外の産業構造や経済環境が変わったからと言って、新しい投資信託を作ってはいません。
「いい会社に投資する」というポリシー・お客さまとの約束を厳格に守り、その中で投資信託の運用を続けています。
また、鎌倉投信は投資信託を運用するだけでなく、運用報告会などで投資対象の会社と投資家が接点を持つ機会を提供してくれています。これも鎌倉投信の投資信託の大きな魅力の一つです。

既存の投資信託業界のあり方にも長所があるので頭から否定する気はありませんが、獺祭のような投資信託が増えてくると、自然と投資家の方々も投資信託を愛してくれて、投資信託の残高が増えるという好循環が生まれると期待していますし、コンプライアンス担当者として、そのような投資信託に関わることができるような仕事をしてみたいと常々思います。

一方、コストパフォーマンスを時として度外視する、ということについては、案外資産運用業界は頑張っているのではないかと思うこともあります。
資産運用業界においては、日々新しい投資対象や投資手法・システムの発掘・開発に取り組んでいますが、その中には「とりあえずやってみよう」というものもあるように思います。
そのような積み重ねが、現在の資産運用会社の幅広いラインナップや高度な投資手法につながっていることを考えると、これまでのイノベーションを支えた業界の方々には頭が下がります。
日々仕事をしていると、「これって採算合うのかな?」と思うこともありますが、イノベーションの種なんだと思って、温かく見守っていきたいと思います(内容によりますが…)。

本書によって、獺祭と投資信託には類似点があるように思いましたので、投資信託や仕事のあり方で悩んだ時には、獺祭を片手にじっくり考えたいと思います(笑)。

※本記事は特定の金融商品ないしお酒を推奨するものではありません。

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百万ドルをとり返せ!

先日、ジェフリー・アーチャーの「ケインとアベル」を読んだら引き込まれたので、彼の処女作である「百万ドルをとり返せ!(原題:NOT A PENNY MORE, NOT A PENNY LESS)」を読んでみました。

著者は投資詐欺にあって無一文になり、政治家としての地位も失ってしまいましたが、本書はその経験を基に書かれた作品です。
自分の失敗をそのまま小説にするとは、やはり只者ではありません。

ということで、本作品は投資詐欺がテーマです。

とある株式を騙されて買ってしまった4人の人物。
数学者、スティーブン・ブラッドリー。
医者、ロビン・オークリー。
画商、ジャン=ピエール・ラマン。
貴族、ジェイムズ・ブリグズリー。
彼らはインサイダー情報を信じて大枚をはたいて株を買ってしまったものの、もともと詐欺のための銘柄なので、紙くず同然。4人で合計百万ドルの大損失です。

ほとんどの人間は諦めて泣き寝入りするところですが、彼らはそうではありませんでした。
この詐欺的行為に憤り、損した分をそっくりそのままとり返すために立ち上がります。
百万ドルきっちり、1ペンスも多くもなく、1ペンスも少なくもなく。
原題のNOT A PENNY MORE, NOT A PENNY LESS、はここからきています。

とはいえ、相手は稀代の詐欺師、ハーヴェイ・メトカーフ。ただ立ち上がるだけでは勝ち目はありません。
しかし、幸いなことに、彼らはそれぞれ専門分野がありました。
学術、芸術、医学、そして演劇。
彼らは、それぞれの強みを生かしてハーヴェイから損失分を巻き上げようと画策します。

彼らはどのような策略を仕掛けるのか。
ハーヴェイはそれを見破るのか、はたまた彼らの策にかかってしまうのか。
手に汗握る知能戦にドキドキハラハラしつつ、たくらみの中で醸成される彼らの友情にホロリとすること請け合いです。

ちなみに、この話では株式が詐欺の対象になっていますが、最近はファンドという箱(株式もファンドも、投資家のお金を一つの箱に集めているという意味では同様の仕組みです)で同様の詐欺的行為が行われており、不公正ファイナンスとして問題視されています。

特に証券取引等監視委員会では不公正ファイナンス防止に力を入れており、「悪質なファンド販売業者に関する注意」として注意を呼び掛けています。
ハーヴェイの手口を読みながらこのことを思い出して、人のすることはいつの時代も似ているものだと思わされました。

皆さんも、不公正ファイナンスにはお気を付けください!
(ちょっとコンプライアンス担当者らしいオチにしてみました(笑))

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ケインとアベル

無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら、どの本を持っていくか?」という問いは、その人の嗜好のみならず、哲学・人生観をも如実に映し出すものだと思います。
(過去記事:「無人島に持っていく本」)

この問いの深さが示すように、本との出会いというのは、人との出会いと同じように、自分の生き方や考え方に影響を及ぼす重要なものだと考えてよいのではないでしょうか。

この問いに関して、作家の山本一力さんが、「無人島に持っていくなら迷わず『ケインとアベル』を選ぶ」という記事を先日読みました。

不勉強ながら「ケインとアベル」という本を読んだことがなく、作家にここまで言わせる作品とはどのような本なのか気になって、さっそく読んでみることにしました。

著者はジェフリー・アーチャーという英国の著名作家で、政治家としても活躍していました。
投資に失敗して経済的にも苦労したそうで、その経験を基に「百万ドルをとり返せ!(原題:NOT A PENNY MORE, NOT A PENNY LESS)」という作品を上梓していたり、一人の人間としても興味をそそられる方です。

さて、「ケインとアベル」ですが、タイトルの通り、ケインとアベルという二人の人物の人生を描いた作品です。
この二人は聖書の「カインとアベル」とは異なり、他人ではあるのですが、ボストンとポーランドで同じ日に生まれ、全く違う育ちをしながら、あるきっかけを基に接点を持ち、そこからお互いの恩讐や意地をかけて、運命を複雑に絡み合わせながらつばぜり合いを繰り広げるという物語です。

ケインはボストンの銀行のオーナーの跡取りとして生まれ、英才教育を施され、自分の才覚もあって銀行家として歩んでいきます。ただ、父親を早くに亡くし、母親との再婚相手とはうまくいかないなど、家庭においては辛い思いをしています。

一方のアベルは、ポーランドの貧しい猟師の家で育ち、その後能力を見込まれてその地の領主の跡取りの学友となるも、第一次世界大戦及びポーランド・ソ連戦争のために監禁され、シベリアに連行されながらも命からがら米国まで逃げのびて、ニューヨークでホテルマンとしての人生を歩み始めます。

順調にそれぞれのキャリアを歩んでいたふたりですが、明確に運命が絡み合うのは1929年の世界大恐慌の時です。
世界大恐慌の結果、米国では株価が下落するだけでなく、多くの失業者が生じましたが、その波はホテル業界をも飲み込み、アベルがパートナーとして経営していたホテルグループも、ケインの銀行の支援を得られず(ケインは支援を主張していましたが、銀行内で合意を得られず、彼が支援を断る役回りになります)、アベルのビジネスパートナーは自殺し、アベルも経営破綻を逃れるために必死に支援者を探します。
最終的にはぎりぎり支援者は見つかり、経営破綻は逃れたのですが、アベルは親友でもあるビジネスパートナーを自殺に追い込むことになったケインを恨みに思い、ホテルグループを成長させる一方で、ケインに復讐することを企図し続けます。

そして、彼らの相克は子どもの世代にまで影響を及ぼし、物語にさらなる深みを持たせることになります。

「ケインとアベル」は、ケインとアベルといった魅力あるふたりが様々な苦労を乗り越えていきぬいた物語であり、ふたりの恩讐劇であり、家族や親友との絆の物語であり、そして優れたサスペンスでもあります。
また、「カインとアベル」を思わせるタイトルや、ケインとアベルのそれぞれの視点を切り替えながら物語を進めていく手法なども印象に残りました。

ふたりはどのように育ち、どのように運命の糸を絡ませ合い、そして最後はどのように結末を迎えるのか。
最初から最後までドラマチックで、読んだことのない方には是非お勧めしたい作品です。

ちなみに米国では世界大恐慌を教訓に金融改革が進んでおり、その中の一つに、銀行業(商業銀行)と証券業(投資銀行)を分離させたグラス=スティガール法がありますが、その影響にもチラリと触れられていて、金融業界で働く者として面白かったです。
ちなみに、ケインは関心もキャリアもどちらかというと証券業(投資銀行)寄りで、米国における証券業の存在感の大きさをうかがわせます。

また、本書では遺言信託・家族信託が重要な役割を果たしており、信託という制度が米国においてどのように活用されているのかについても垣間見ることができます。
自分が取り組もうとしている研究の中には米国における信託制度も含まれるので、機会があれば、「ケインとアベル」を引用してみたいと思いました。

そのほか、ケインが当然のように自分のお金を慈善事業に寄付していたり、アベルもケインも国家への貢献を意識していたりするなど、米国人の哲学・信念も興味深いところです。

「ケインとアベル」は上記のとおり、複数のカテゴリーの要素を含んでいる非常に読み応えのある物語で、確かに「無人島にもっていく1冊」として選ばれる価値のある作品だと思います。

自分なら、「ケインとアベル」もいいですが、「レ・ミゼラブル」も持っていきたいと思います。どちらにせよ、何度も読み返せて、何度読んでも心が洗われ、その都度いろんなことを考えさせてくれる作品がいいですね。

これからもたくさんの「無人島にもっていきたい1冊」に出合っていきたいものです。

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投資家の「反乱」が企業を動かす

トランプ米大統領のパリ協定離脱表明に対して米国の内外から懸念が表明されていますが、地球温暖化の重要なプレイヤーである企業部門においても厳しい目が向けられつつあるようです。

その動きが顕著に表れたのが、機関投資家が石油メジャーとして君臨するエクソンモービルに対して、気候変動に対する業績へのインパクトを調査・開示するように要求し、株主総会で多数の賛成を得て可決された、という出来事です。
ワシントン・ポストは「Financial firms lead shareholder rebellion against ExxonMobil climate change policies(金融業界がエクソンモービルの気候変動に対する姿勢に対して、投資家の反乱をリードする)」と題した記事で詳細を伝えています。
(本当はかっこよく埋め込み記事としたかったのですが、うまくいかず…涙)

上記の記事によると、石油メジャーの一角を占めるエクソンモービルに対し、気候変動(気温が2℃変動した場合)が及ぼすエクソンモービルへの影響」について分析・開示を要請する株主提案に対し、資産運用業最大手のブラックロックをはじめとして、ステート・ストリート・グローバル・アドバイザーズやバンガードといった大手の機関投資家が支持したことによって、62.3%の賛成で可決されたようです。

パリ条約の動向にかかわらず、気候変動がエネルギー会社の動向に大きな影響を与えることは論を俟ちません。
そして、気候変動は長期的なテーマであることから、同社への影響も長期にわたることが想定され、長期的な投資家として機関投資家が懸念するのは自然であるように思えます。

もちろん、エネルギー会社をはじめ、多くの会社が気候変動に対し関心を持ち、環境問題に体制のある事業ポートフォリオの構築に努めたり、環境保護に取り組んだりしているのですが、それでも気候変動の影響を逃れることはできませんし、特にその影響が大きいエネルギー会社は真摯に向き合い、投資家に対しても今後のパフォーマンスについて説明が求められると思います。

記事中にもありますが、これまで機関投資家はその議決権行使に際しては会社側に対して反対することはあまり多くなかったように思います。
とはいえ、近年は一般投資家や年金基金のお金を預かっている機関投資家に対して、より企業価値を向上させるような議決権行使、あるいは投資先との対話が求められており、その潮流が実を結んだのがこの議題であったともいえます。

実際、エクソンモービルの少し前にはOccidental PetroleumやPPLといったエネルギー会社でも同様の株主提案が可決されており、他にも50%をわずかに下回り惜しくも否決された、という事例もあるようで、エクソンモービルだけの動きではなく、投資家、特に機関投資家の姿勢が変わってきていることを示唆しています。

ここで重要なのは、大手資産運用会社がこのような分析・開示を求めているのは、単に気候変動を防ぎたいという動機ではなく、それが企業の業績、ひいては機関投資家の運用パフォーマンスに影響するため、投資判断に資するための情報開示を求めている、ということです。
つまり、パフォーマンスを求めて行動する機関投資家が、自然な流れでESG(環境・社会・ガバナンス)投資の方向に動いているといえます。

ESG投資、あるいは社会的責任投資(SRI)というと、「良いことを求めてもパフォーマンスにつながらないのでは機関投資家としての責任を果たしていない」という、善行とパフォーマンスは相反するといった見方をされることもありますが、ESGの各要因が企業業績に影響を与えるようになってくると、機関投資家の投資行動も自然にESGを考慮したものになり、かつ、議決権の積極的な行使を通じて、実際に企業の行動を変えることもできるようになるのではないかと感じました。

そしてこれは、機関投資家の投資サービスの新たな一面を映し出す結果になったとも思います。
例えば資産運用会社が投資信託や自社の運用サービスをアピールするとき、基本的にはパフォーマンスや今後の見込みを中心に行います。
それは、投資家が求めるものがリターンのみであるという考え方によるものだと思います。

しかし、今回明らかになったように、機関投資家はパフォーマンスを出すだけでなく、会社のあり方を変える力も持っています。
そうであるなら、投資先企業の行動を良いものにするように働きかけていく、ということ自体が機関投資家の投資サービスの価値であると思います。

実際我が国においても業界ルールや日本版スチュワードシップコードに基づき、資産運用会社は議決権行使結果を公表していますが、積極的にアピールするには至っていません。

しかし、5月29日に改定された改訂版の日本版スチュワードシップコードにおいて、賛同する資産運用会社は個別議案ごとの議決権行使結果の公表を求められることになりました。
したがって、各機関投資家の議決権行使に対する考え方がより如実に表れますし、差別化のチャンスにもなると思われます。

我が国においても議決権行使結果自体を差別化のツールとして捉え、ESGの観点から積極的に企業に働きかけ、企業価値の向上と社会課題の改善を両立するような資金の循環(インベストメント・チェーン)ができていけば、自然と我が国の資産運用業も発展していくのではないかと期待しています。

ちなみに、記事中では投資家の「反乱(rebellion)」と書いていますが、本来は投資家は会社のオーナーであり、「反乱」というのは筋違いです。
当然記者もそのことはわかっているはずで、あえてこの表現を使ったのは、実際には大企業の経営陣に対して株主のコントロールは限られていて、実態として経営陣の意向に反する株主提案がほとんど通らないという実態があるのでしょうが、これも示唆に富んでいるといえます。
もしかしたら、これが株主と経営者の関係を変えていくきっかけになるのかもしれません。

そのように資産運用業の未来を考える上で、今回のエクソンモービルの事例は、大変示唆のあった出来事でした。

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