民俗学(1)

民俗学とは

法学の博士論文の提出も終えてひと段落、ということでようやく奈良大学通信教育部の勉強に取り掛かることができるようになりました。
通信教育ですので、どの科目から始めなければいけないということもなく、自分が始めたいと思った科目からテキストを読んで学習していくことになります(もちろん複数科目の同時並行も可)。
なじみのない科目も多く、多少なりとも土地勘がある科目から始めるか、逆に全く知らない科目から手を付けるか悩みどころですが、最初に選んだのは民俗学でした。

民俗学とは、ざっくりいうと人類の歴史における生活習慣を調査し、その変遷を明らかにしていくもので、通常の歴史学が文献・史料や遺物・遺跡を元に研究するのに対し、今も存命中の(村などの)居住者に直接話を聞いたり現地の調査をするというフィールドワークに重きが置かれる点にその特徴があると思います。
また、必ずしも歴史の教科書には現れない庶民の生活が鮮やかに描き出される点や、現在も残っている身近な風習がどのような歴史をたどって今に至るのか、ということに思いをいたすことができるのも民俗学の魅力だと思います。
一般的な歴史学だと歴史を動かした出来事や社会制度に焦点を当てることが多いと思いますが、それらは必ずしも今の我々の生活と連続性があるものでなく(テーマや見方にもよりますが)、一生活者としての自分を歴史の中に位置づけるということをより感じるのは民俗学だと思います。あくまで私見ですが。

民俗学を最初に選んだ理由は、なじみのない科目から手を付けた方が後が楽になるという考えと(食事でも好きなものは残しておくタイプ(笑))、庶民の生活というのはどのように研究し、捉えることができるのかということに親の実家(祖父母の家)が農家であった人間として興味があったというところです。

 

民俗学のカリキュラム

奈良大学通信教育部のカリキュラムは一部のスクーリング科目を除くと指定のテキストを読んでレポートを提出し、合格の評価が得られると単位認定試験を受けて単位を取得するという流れになります(随時質問は可能)。
もちろんレポートの出来が悪いと再提出になりますし、単位認定試験も合格点に達しなければ不合格です。

民俗学の指定テキストは「新版 民俗調査ハンドブック(上野和男ほか編)」。
書名のとおり民俗学において研究の主要な方法であるフィールドワークの方法について詳細な説明がなされています。

 

民俗学は主にムラにおける庶民の生活習慣を研究対象としていますが、一言で生活習慣といってもその構成要素はたくさんあります。
家族やムラにおける人間関係、住居、衣類、村落の構成、信仰、食文化、伝統芸能、人生儀礼など数え上げるとキリがなさそうです。

そして、それぞれのテーマに応じて調査の方法も異なってきます。
村落の居住者に話を聞くという点はどのテーマでも共通するようですが、ムラにおける人間関係について調査するのであればその点を突っ込んでインタビューする必要がありますし、信仰や伝統芸能を調査するのであれば、関連するモノ(信仰の対象となる物体や祭祀に使う道具など)やイベントを注意深く見ておかなければなりません。
もちろんセンシティブなテーマであれば聞き方にも細心の注意を払わなければいけませんし、祭りなどのイベントは開催する時期やロジスティクスが決まっていますので、そのあたりに配慮することも必要です。

このテキストはハンドブック、いわゆるマニュアル的な内容で民俗学の大家である柳田国男や折口信夫の研究内容など民俗学の研究成果について体系だった説明があるわけではありません。したがって、私自身まだ彼らの研究内容について全く知らないのでこれから勉強していく必要があります。

しかし、民俗学を学ぶ上で最初に知るべきは民俗学がどのようなものを研究対象として、それを具体的にどのように調査していくかということだと思います。
そのようなベースがあれば民俗学の研究成果を学んでいく中でより村落における生活習慣の実態やどのように調査がなされたのか・していくべきかということが腹落ちするのではないでしょうか。
そう考えると、いきなり柳田国男の研究成果を学ぶより民族の研究対象と方法論を学ばせるというテキスト選定はよかったと思います。実際、記載内容が具体的なので読んでいて自分で調査を行うイメージが描きやすかったです(もっとも自分のような内向的なタイプには向かない学問かもしれませんが…汗)。

 

レポート提出

テキストを読んだらレポートを書くことになります。レポートのテーマは科目ごとに指定されていて、民俗学の場合は民俗学の研究分野を一つ選んで自分が考えたことを述べるというものでした。

テキストに書いてあることだけではなく自分の考えもまとめることになるため、必然的に自分がどのように関心を持ったかを考えることになります。
レポートを書いていて改めて思ったのは、現在の生活習慣・風習は現代技術・科学に支配されているようでいて、案外過去の伝統の名残が残っているということでした。

科学技術が高度に発達した中にいて、さらにそれなりに教育を受けている人が多い時代にあって、我々は科学的・合理的に生活を組み立て行動すると考えがちだと思います。
自分自身、科学的でないことは信じない、という意識はあります。
一方で、科学的には全く合理的ではない無意味な行動をとることもあったりします。
神社仏閣にお参りをするといった信仰的なものもそうですが、抜けた乳歯を投げたりへその緒をとっておくといった風習も自分を含め多くの人が経験していると思います。
将門塚や穴守稲荷の鳥居の祟りというのも馬鹿にはできませんしね。

もちろん自宅に神棚があったり地域のお祭りが昔から続いているという例も民俗学の研究対象である民俗風習であり、その意味で民俗学は現在を研究対象としているともいえそうです(だからこそ存命の人にインタビューをするわけですし)。

そのような気付きをレポートに書いて提出したところ(もちろん上記の内容はレポートのごく一部です)、無事に合格という評価をいただき、単位認定試験の受験資格を得ることができました。

単位認定試験の試験問題は事前に公開されている問題群の中から当日指定されるのですが、その中にはこれまでの民俗学の研究成果を問うものもあり、柳田国男や折口信夫といった大家の研究については多少なりとも学習する必要がありそうで、そのうち図書館に行って書籍を読んでみようと思います。

ともあれまず一つレポートをクリアすることができて一安心です。
まだまだ科目は多いし単位認定試験もあるのですが、土地勘がなくても頑張ればクリアできるという自信をもってこれからの課題も乗り越えていきたいところです。

カテゴリー: 奈良大学通信教育部 | コメントする

奈良大学通信教育部履修登録

歴史学徒への道、最初の一歩(履修登録)

かねてよりライフワークにしたいと思っていた歴史を体系的に学ぶために今年度から奈良大学通信教育部にて歴史関連の科目を学ぶことにしたわけですが、一般的な大学と同様にどの科目を履修するかを決めて登録することから始めます。

私は三年次編入ということで大学(学部)時代に履修した科目の単位を認められたため、専門科目のみを履修すればよいことになりました(大学又は短大卒の場合などは三年次編入が可能です)。
専門科目は必修科目と選択科目に分かれるのですが、専門科目だけでも結構な単位数が求められるため、履修する科目も多くなりました。
しかも幸か不幸か必要単位数に比べると専門科目の選択肢は必ずしも多いとは言えないので、自分があまり関心を持ってこなかった分野も履修することになりました。
まあ選択肢が多くあると自分の好きな分野ばかり履修して知識の幅があまり広がらなかった可能性もありますので、それはそれでいいような気がします。

履修する科目を決めると、それを書類に記載して大学に郵送して登録が完了します。
3週間ほどすると履修する科目のテキストが送られてきて、各科目のテキストをベースに学習を進めます。

今回履修した科目のテキストはこちら。

タイトルを見るだけでも幅広い分野にわたる学習が求められることがわかります。
歴史好き、というと戦国時代・幕末といった特定の時代、あるいはその時代に活躍した人物が好きだったり城郭や神社仏閣といった建物が好きだったりと比較的特定の内容に焦点を当てた関心であることが多いように思います。
自分もそんな感じなのですが、それらは歴史の一つの要素に過ぎないのであり体系的に歴史を理解しようとするのであれば、偉人たちが動かした歴史だけでなく、庶民の風俗や文化、世界の動きとの関連なども知っておく必要があると思います。

そんなことを言うのは簡単ですが、実際には今まで読んだことのない分野のテキスト群(軍?)に圧倒されています(汗)
正直言って古代史とか民俗学とか本読んだこと一度もないです。仏像もお寺に行って見学することはあっても詳しいことを知ろうとしたことはなかったですね。
そのため、履修したはいいけど本当にテキストを読んで理解して単位をとれるのか不安もあります。大学の通信教育って卒業率が高くないという話も耳にしますしね。。。

そうは言っても始めてしまった以上、やっぱりやめます―、なんということはできないわけで、とにかくやるしかありません。
通信教育のいいところは自分の好きなタイミングで学習できるところで、時間がかかるならそれもOKなわけです。趣味でやっているので誰かに怒られるわけでもないですしね。
学費の問題はあるのでいつまでも、とはいかないのですが。

なかなか厳しそうではありますが、これらの点を結びつけることができたら面白そうだという希望をモチベーションにとりあえずテキストを読んでみようと思います。
古文書とか今までは専門家しか読めないものだと思っていましたが、少しでも読めるようになったら博物館巡りがかなり楽しめそうですよね。

 

学習の流れ

大学の通信教育というとオンラインで授業を行うというイメージがありましたが、奈良大学通信教育部の場合、スクーリング科目を除くと授業があるのではなくテキストを読んで自習するというのが基本のようです。
もちろん教員に質問をすることは可能で、完全な独学とは異なります。Z会とかに近いイメージでしょうか(昔少しだけZ会やってたのを思い出しました。長続きしませんでしたが)。

自分でテキストを読んである程度理解ができたら、あらかじめ定められているテーマでレポートを作成します。そのレポートを提出すると担当教員が添削をしてくださるそうです。結構丁寧な添削がなされるようで、真っ赤なレポートが返ってきたらどうしようかと学習する前からビクビクしてます(笑)

レポートが一定以上の評価を得ると各教科の試験を受ける資格が与えられます。試験は奈良大学のほか全国各地の大都市にある会場で受験できます。神奈川県は小田原市…ではなく横浜が受験会場です。
そのため、試験を受けるためには横浜まで行くことになりそうです(´Д`;)

まだ履修のシステムを把握しきれていないのですが、とりあえず少しずつ学習を進める中で把握していこうと思います。多くの人が履修しているのでそこまで難しいことはないはずですし、そこは大丈夫でしょう。

学習の状況についても随時ご紹介していきたいと思いますので、是非読んでやってください!

カテゴリー: 奈良大学通信教育部 | コメントする

博士学位請求論文提出!

退学後の博士論文(学位請求論文)提出について

昨年9月に大学院を単位取得退学して半年。
指導教官などからコメントをいただきながら論文の修正を続け、先日ようやく博士学位請求論文を提出してきました。
在学中の2度の論文提出に続く3度目の提出。3度目の正直ということで今度こそ博士号に手が届いてほしいものです。

ちなみに我が国の制度上博士号の取得ルートは2つあります。
一つは大学院の博士(後期)課程に在籍して論文提出・合格する課程博士、もう一つは大学に在学せず博士論文を大学に提出し、審査に合格することで付与される論文博士です。
論文博士の方が難易度が高いと聞きますが、この制度は世界的に見て独特なもののようで、今後は大学院で博士号にふさわしい教育を行ったうえで博士号を授ける課程博士に収斂されるとの見通しがよく聞かれます。
自分の場合、在学中の論文提出は課程博士扱いでしたが、退学後の論文提出は形式上論文博士として扱われているようでした。
提出書類に「論文博士」と記載されているだけでなく、在学中は自分の意志だけで論文の提出ができましたが、論文博士の場合は指導教官の承諾が必要になります。これは指導教官のお墨付きという点では提出者・審査側双方にメリットがありますが、その分提出のハードルは上がります。
ただし、本来論文博士の審査プロセスでは厳しい審査基準が適用されますが、単位取得退学の場合は博士課程のカリキュラムを経ていますので審査基準としては幾分ハードルの低い課程博士のものが適用されるようです。
ただし、自分の大学を含め多くの大学では単位取得退学後一定期間が経つと審査基準も論文博士として扱われるようです。したがって博士後期課程を単位取得退学した人が博士号を狙うのであればその期間中に合格しないと一気にハードルが上がることになります。

私が今回退学後半年で論文を提出したのも、論文のテーマが旬の間に合格したい、早くケリをつけてしまいたいということもさることながら、早く合格しないと実質的に博士号の取得が不可能になってしまうという事情があったためです。

 

3度目の論文提出

上記のように早く博士号を取得したいと思っていたため、9月に単位取得退学してからすぐに博士論文の修正にとりかかりました。

前回の博士論文審査の際に問題視されていた点については知っていましたので、その点を重点的に修正し、その上で指導教官のコメントをいただき、修正し、再度コメント、修正…という感じでした。

前回の博士論文提出時も結構頑張って修正していたのですが、改めて修正を行っていくとどんどん論文として洗練されていくのがわかります。
内容自体が大きく変わっていなくても、無駄な記述を省いたり形式的な点を修正していくだけで、より論文らしくなっていきます。
前回提出したものと比べるとずいぶんスマートな感じがします。

今回は提出の要件ということもあり、過去2回と異なり詳細に指導教官の確認を受けることになりました(これまでも指導教官にコメントはお願いしましたが、それを踏まえた修正の確認まではお願いしていませんでした)。
そのおかげでこれまで以上に自信をもって提出することができたと思います。
自分でもやり切った感じがしますし、また指導教官のお墨付きというのは心強いものです。

これで残る壁は口頭試問だけ。口頭試問は複数人と対峙するうえ緊張するので決して楽しい時間ではないですが、時間は決まっているのでその間だけは全集中で時間を忘れるくらい頑張ろうと思います。

合格したらどんなお祝いをしようか、自分にどんなご褒美をあげようかと今から楽しみですが、足元だけはすくわれないようにしたいといけないですね(笑)
というか、博士号の挑戦が終わってもすぐに奈良大学の方の歴史の勉強に追われそうです。。。

カテゴリー: 法学博士課程体験記 | コメントする

新しい挑戦始めます ー歴史学徒になるためにー

体系的な理解をしなければ本当の理解にならない

昨年末に記事を投稿してから早3か月以上。気が付いたら新年度になっていました。
以前アメブロでブログを書いていた時はもう少し投稿できたのですが、WordPressにしてからは、ネタがないのか、気力がないのか、はたまた自由度が高くてかえってブログから遠ざかってしまったのか、投稿の頻度がかなり下がってしまいました。
一応サーバーとかドメインとか、情報発信のためということでコストをかけているので以前より記事の質も量もあげていかないといけないのですが…

という反省はさておき、ここ数年来感じていることに、「いくら点として物事を知っていても体系的に理解をしなければ本当の理解にはならない」ということがあります。
私はもう10年以上投資運用業界でコンプライアンスの仕事に携わっていますので、関連する法令、例えば金融商品取引法(金商法)や投資信託法(投信法)についてはある程度の理解はあると思っていました。
実際、自分の仕事をこなすための知識はそれなりにあると思います。

しかし、数年前に博士(後期)課程に入り投資信託に関連する法令について研究を始めてみると、いかに自分の知識が点に過ぎず、体系的な理解をしていなかったかということを感じます。
投資運用業のコンプライアンスの業務で使用する知識が関連法令の一部に過ぎないということもそうですが、それらの法令がどのような背景で制定されたのか、海外ではどのように考えられているのかということは考えたこともなかったため、どのようなルールがあるのかは知っていても、なぜ現在のルールが課されているのか、ということは理解していませんでした。

博士課程でそのようなことを体系的に研究していくと、現在のルールがどのような背景でできているのかがわかりますし、海外の同様のルールと比較することで日本のルールの課題や今後の動向を考えることもできるようになったと思います。
その博士論文は現在も執筆中で、近日中には提出する予定です。
昨年末も同じこと書いていましたが、今度こそ。。。

同じことは自分の趣味である歴史についても言えます。
歴史が好きなので関心のある書籍は折に触れ読むようにはしていますが、体系的に読むのではなく気が向いたものを読んではまた別のものを読む、といった具合ですので点としては知識が多少身についているのかもしれませんが、体系的には理解していないので点と点が結びつくことはありません。
結果として、何となく最近の研究が進んでいて昔言われていたこととは違うことがあるというのはわかりますが、具体的にどう違うのか、その結果日本の歴史の捉え方はどのように変わってくるのかということは今一つわかっていません。

しかも高校時代に世界史を履修していないこともあって、世界史の知識は壊滅的で日本のある時代に世界ではどのようになっていたのかということはまったくわかりません。
海外の主要な出来事についてたまたま学んだとしても(例えばオランダの独立戦争)、それが日本では何時代のことで日本や近隣諸国にどのような影響を及ぼしたのかというとイメージもできなかったりします。

趣味ですので好きなように楽しんでいればいいのですが、せっかくなら体系的に理解した方がより自分の世界も広まるのではないかとは常々思うところです。

 

いくつになっても学ぶのは楽しい

常々思うといえば、どのようなことでも新しいことを知るというのは楽しいものだというのもよく思います。
小さいころから電車が好きだったので、今年になって憧れの鉄道模型を始めたのですが、これがまた奥が深い。いつかはジオラマを作ってみたいと思っているのですが、ジオラマの構成だけでなく、その素材やレールの選び方などなど学ばなければいけないことがたくさんあります。そのような深い世界があったのかと、そういうことを学んだりyoutubeで鉄道模型の動画を見たりするだけでも面白いものです。

我が家の鉄道模型。今は小田原城だけですが、いずれはいいジオラマにしたいです。

もちろん鉄道模型だけでなく、ゴルフも法学も歴史も同じです。
学業にせよ仕事にせよ趣味にせよ、新しいことを知るとそれだけ自分の世界が広がったような感じがします。
新しい世界は無限にあるので、新しいことにチャレンジする気概さえあればいくつになっても学ぶ楽しみというのは味わえるのではないかと思います。

いくつかの趣味の中でも歴史は長い間好きでしたし、できればライフワークにもしたいと思っているものですので、歴史については特に学ぶ気持ちを大切にしようと思います。

ちなみに一番好きな電車の一つは貨物列車の電気機関車です。幼少時から大好きでした。

 

大学で体系的に勉強して新たな道を

歴史はライフワークにすべく大切に育てたい趣味ですが、素人が基礎的知識もなく無造作に本を読んでいても体系的に理解をすることは難しいように思います。
特に独学の場合自分の関心のあることしか触れないので、知識に偏りが生じてしまいます。例えば古文書とか読んでみたいと思っても読む技術は独学で身につけるのは難しそうですし、歴史上重要でも自分の関心の薄い分野(例えば文学など)はどうしても遠ざかってしまいます。

そのため、歴史について基礎的な知識を体系的に学ぶ必要があると感じ、今年から奈良大学通信教育部(文化財歴史学科)に入学をして学ぶことにしました(法学博士課程は単位取得退学しているため入学することができました)。
3年次編入ということで専門科目を2年間学ぶと学士号を取得できるので効率的に学ぶことができそうです。もっとも結構ハードそうなのでそれ以上かかってしまう可能性もありますが。
具体的に研究したいテーマはまだ未定ですが、多くの人が史跡に関心を持つきっかけ作りができるような学びを得たいと考えています。

法学分野の博士論文の挑戦もまだ続いているため当面は二正面作戦となりますが、うまく乗り越えて自分だけのユニークな道を切り開いていきたいと思います。
また、法学博士課程同様、奈良大学での挑戦についても随時ブログでご紹介していく予定です(いいネタになりそうです(笑))。

ということでこれからも応援よろしくお願いいたします!

カテゴリー: 大学院, 奈良大学通信教育部 | コメントする

負けを認めるのは難しい、でも挑戦は大事

負けを認めるのは難しい…

今年は積極的にブログを更新するぞ!と意気込んでいましたが、なかなか更新できずに日を重ねてしまいました…
単にブログのネタが思いつかなかったというのもありますが、ブログを書く気分になれなかったというのもあります。

というのも、実は昨年末に初めて博士学位申請論文を提出してから2度審査を受けましたが、2回とも博士号には至らず結果的に単位取得退学という選択をしたのですが、それを公表するのが恥ずかしかったというのが実のところです。
論文自体はまだ修正中で、近日中には再度挑戦する予定ですが、とにもかくにも負けるのは恥ずかしいし、認めるのは悔しくて不快で、本当に嫌なものですね。

ちなみにこの記事を書こうと思ったのは、元プロ野球選手の新庄選手が48歳にしてプロ復帰にチャレンジして、いろんなことを言われても最後までやり通し、また(サバサバと?)結果を受け入れられていたことに感銘を受けたことによるものです。
彼の日ハムでのキャラクターが好きだったので、一連の挑戦はすごく応援していてオファーなしという結果は一ファンとしても残念でしたが、一番悔しいはずのご本人がすっぱりと気持ちを切り替えているのがすごいと思いました。
すごいよSHINJO!

 

挑戦には価値がある

…と悔くて恥ずかしい思いをすると、何で要らぬ苦労をしてこんな気持ちにならなければいけないんだろうと思ってしまいます。
こんな挑戦なんて無駄ではなかったのか、と。

博士課程を単位取得退学という結果で終わらせることについては人によって評価が異なると思います。
学位をとれなかったら無駄(最終学歴としての評価も微妙?)という人もいれば、学習したことは無駄ではないという人もいるでしょう。
個人的には学習したことは無駄ではないと思いつつも、やはり基本的には学位をとってこそ(あるいは学位への確かな道筋としてこそ)の博士課程だと思いますので、博士号を取らないままだと自分の博士課程を有意義なものだったとは結論付けられないと思います。

とはいえ、挑戦する姿勢は無駄なのかというとそうではないと思います。それが失敗に終わったとしても。

何事にも挑戦しないという人生を過ごすのはさほど難しくないと思います。
しかし、挑戦しない、言い換えると結果がわかっている選択肢ばかりを選ぶことはつまらないとも思います。
また挑戦をしないということは今の自分より高いレベルのものを目指さないということなので、自分の能力にストレッチがきかないということになり刺激も成長もありません。
だから、挑戦というのは人生を楽しむために必要なものだし、同時に挑戦から得られる結果はどのようなものでも最大限自分にとって価値のあるものにすることを心掛けるようにすべきだと思います。

挑戦の結果成功するのがベストではありますが、仮に失敗したとしてもそこから得られるものが大きければ、それは失敗・無価値とは言えないと思います。
それが学習であってもブログのネタであっても、ただでは転ばないという姿勢を持っていれば失敗のダメージは収穫で相殺されるのではないでしょうか。
とはいえ自分にとっての博士課程の価値は博士号取得という一点に尽きると思いますので、失敗という結果は受容せず何としても取りたいと思いますが。

また失敗することによって自分の現在地を知ることもできます。
成功するために自分に足りないものを知れば、成功への距離は格段に近づきます。
また実現が不可能だということを知れば、いつまでもリソースを投下し続ける、無為に夢を見続けるということも避けられるかもしれません。
あるいは夢への近道が見つかるなどのこともあるでしょう。
どのようなことでも試しにやってみるというのは机上の空論を超える学びがあると思います。

 

挑戦は正義

挑戦は失敗を伴うもので、失敗したら恥ずかしいし悔しいし、時には人からバカにされたりして、それなりに怖いものではあります。

でも、小さいことでも挑戦することこそ日々の生活に目標と刺激をもたらし、人生を楽しくさせるものだと思います。
また、我々の豊かな生活は多くの人の挑戦の結果によるものです。決して成功が最初から保証された行動の結果ではないはずです。

日本で起業が広がらないのが挑戦を受容しない社会であるから、という言説が正しいかはさておき、社会における挑戦の量が増えていけば、同時に挑戦の結果の失敗に対する受容性も向上され、きっとより多くの素晴らしい何かが増えていくのだと思います。

だからこそ、自分も小さな挑戦を重ねる姿勢を忘れず、また人の挑戦を後押しできるような人間でいたいと思います。
そういえば先日観た鬼滅の刃劇場版でも挑戦の悔しさを言ってました(ボソッ)。

年末の駆け込み記事になりましたが、2021年も楽しい挑戦ができますように!

カテゴリー: その他 | コメントする

社会人大学院で学ぶ意義

大人になっても勉強し続けることは大切

しばらく法学博士課程の記事が滞っていましたが、決して研究をさぼっていたわけではなく(汗)、昨日博士論文(学位請求論文)を脱稿しました。

実は博士論文を出すのは昨年の12月に続けて二度目です。
前回は提出の上、口頭試問も経験したのですが、残念ながら博士号取得とはならず、今回はリベンジマッチということになります。

今回は、前回のフィードバックを踏まえ必要な修正を行ったので、きっと大丈夫だと信じてます。間延びするとモチベーションも持たないので、そろそろ決めたいのが本音です。

それはさておき、博士論文を書く過程では勉強になることがたくさんありました。
例えば、実は資産運用会社のコンプライアンスの仕事で判例や海外の動向に関する資料を読むことはあまりありません。それでも論文を書く上では判例や海外事例は欠かせないので勉強するのですが、それは業務においても自分の視野を大きく広げた気がします。
同じ仕事をするにも、視野が広いほうが深い考察ができると思うので、判例や海外事例を頭に入れるという作業自体がいい経験になりました。

このように大学院での勉強が自分の仕事にもつながっているのを実感すると、大人になっても勉強し続けることは大切だということを強く感じます。
そもそも、今自分が外資系運用会社で働くことができているのも、社会人になってから英会話の勉強をしたり海外留学をしたからなので、社会人になってからの勉強が自分の人生に大きな影響を与えていると思います。

 

大学院で学ぶ意義についてプレゼンしました

社会人になってMBAと法学博士課程という二つの大学院で学んできましたが、得るとことが大きかったと思う一方、もっと多くの人にその価値を認識される必要があるという課題も感じました。

社会人になっても勉強する人は決して少なくないですが、社会人大学院というのは宣伝をよく見かける割にはまだマイナーな選択肢のように思います。
もしかすると、社会人大学院を経験した人から経験談を聞くことがないから選択肢になりにくいのかもしれません。

そこで、とある場所にて社会人大学院で学ぶ意義についてプレゼンをしてきました。
メリット・デメリットについても自分なりに整理してみたので、ご参考になればと思い紹介させていただきます。

社会人になっても学ぶ意義

社会人大学院と資格の比較

社会人の自己研鑽と言えば資格の取得がメインですが、大学院と資格について比較してみました。
自分の持っている資格は証券アナリストくらいなので、精緻な比較にはなっていないかもしれませんが。

  

社会人大学院で得られるもの

社会人大学院を通じて得られるものについて考えてみました。

それなりのお金と時間を費やすので、この点は非常に重要ですね。
(というか、それ以外に重要なことはないですよね)

リスクの軽減

社会人大学院のようにお金や時間を費やす選択肢にはリスクが伴うので、どうしても躊躇してしまいます。

そのような場合、リスク管理・リスクの軽減は自分の背中を押す有効な手段になります。

ここでは、社会人大学院を選択するうえで最大のリスクともいえるコストとキャリアの不確実性について、リスクをどのように捉えるべきか考えてみました。

 

社会人大学院との相性

自分が経験していることもあり、基本的には社会人大学院は価値のある選択肢だと思いますが、それでも合う・合わないというのは人によって異なると思います。
もちろん、それ自体に良し悪しはなく、相性の問題です。

ともあれ、向かない人がお金と時間をかけて大学院で学んでも求めるものが得られないのであれば、それは効率の良い投資とは言えません。

そこで、どういう人が社会人大学院を検討すべき(すべきでない)のか考えてみました。

最後に簡単なQ&Aです。ご参考まで。

 

やっぱり学ぶことは楽しい

今回は社会人大学院について書きましたが、大学院に限らず学ぶことは楽しいし素晴らしいことだと思います。

単純に知らないことを知るということもありますが、新しい知識が既にある知識や経験と結びつくことで新しいひらめきが生まれると、その瞬間何とも言えない感動を覚えます。

博士論文を書いているときもたまたまTwitterで見かけた情報や、研究とは直接関係のない歴史の本に書いてあった内容が研究内容と結びついて論文に反映されることも何度もありました。

このような喜びは、どのような形であれ学ぶことを続けていれば感じられるものだと思いますので、これからも多くの方と学ぶ喜びについて共有できたらうれしいです。

そういえば、学ぶことができる環境があること自体が幸せだという記事を書いたことがありますが、学びを続ける中で改めてそのありがたさをかみしめています。

 

 

カテゴリー: MBA, MBA・ソーシャルファイナンス留学記, 大学院, 法学博士課程体験記 | コメントする