今日、巨人が中日との直接対決を制し、三連覇を決めたようです。
一年目に入団した坂本選手は優勝しか知らないそうで、結構プレッシャーなようです。
彼の成長の著しさには他球団ファンでも感嘆するしかないでしょう。
我らが楽天は今日は勝利し、2位ソフトバンクとのゲーム差を1に。
2位がいよいよ射程圏に入ってきました。
1位日ハムとのゲーム差は4.5。贅沢かもしれませんが、優勝の可能性もなきにしもあらず。
ここまで来たら最高の結果を期待したいものです。
今日、巨人が中日との直接対決を制し、三連覇を決めたようです。
一年目に入団した坂本選手は優勝しか知らないそうで、結構プレッシャーなようです。
彼の成長の著しさには他球団ファンでも感嘆するしかないでしょう。
我らが楽天は今日は勝利し、2位ソフトバンクとのゲーム差を1に。
2位がいよいよ射程圏に入ってきました。
1位日ハムとのゲーム差は4.5。贅沢かもしれませんが、優勝の可能性もなきにしもあらず。
ここまで来たら最高の結果を期待したいものです。
今日は空の日だったらしく、成田空港では、ジェット機を綱で引くイベントがあったそうです。
全国から公募で選ばれた約300人の親子が160トンのジェット機を引いたところ、なんとゆっくり動いたそうです。
一人約500キロ?
車輪があったとはいえ、人間の力ってすごいと驚きました。
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最近、登山中の遭難の話をよく聞きます。登山は気持ちいいのでしょうが、意外に危険が伴うそうで、十分に注意しなけばいけないようです。
特にこれから紅葉シーズンを迎えるので、皆さんも十分にご注意ください。
ということで、今回は山登りの話です。
●冬のアルプス越え
1582年に織田信長が本能寺で最期を遂げると、織田家は羽柴秀吉と柴田勝家の勢力に分かれました。
柴田勝家の部下であった織田家中の名将・佐々成政は勝家に味方します。勝家の敗北後、成政は一度降伏しますが、秀吉が織田信雄(信長二男)・徳川家康と交戦すると、再び秀吉に敵対します。
しかし、秀吉は織田・徳川とも講和。成政の立場はかなり危険なものに。
なんとしてでも家康に戦ってもらわなければならない。
成政は越中(富山)、家康は浜松。周りはみな敵。しかも季節は冬。
成政は、冬のアルプス越えを決行。非常に困難で危険の伴うコースです。
しかし、成政は準備を周到に行い、その不屈の闘志を以て浜松までたどり着きます。
が、残念ながら時すでに遅し。家康が再び秀吉と戦うことはありませんでした。
その後、成政は秀吉に降伏。一命を救われ、のちに肥後に封じられますが、反乱が勃発し、1588年に責任を取って自害させられることになります。
成政のアルプス越え(さらさら越え)は現在でもルートがはっきりしないなど、ある意味人間離れしたありえない行動とも考えられていますが、このアルプス越えは史実のようです。
また、成政は徹底した秀吉嫌いとして伝わっており、もしかすると人間関係のなせる業だったのかもしれません。
●八甲田山の悲劇
1902(明治35)年、日本が列強への道を歩み始めたころ、その陰で悲惨な事件が起きていました。
新田次郎氏の小説でも知られる八甲田山の雪中行軍事件です。
日本は日清戦争に勝利し、世界の注目を集めていましたが、利権の対立するロシアとの緊張も日に日に強くなる一方。
そのロシアとは厳寒の中戦うことが予想されますが、日清戦争では寒さの中苦戦したことがあり、厳寒地における戦いに強くならなければいけない、ということで雪中行軍の訓練が行われました。
しかし、行軍一日目から遭難。前後もわからない状況になりながらも行軍の続行を決定します。
行軍二日目には行軍の撤回。しかし、このころには補給も休息もままならない状況でした。凍死者も出るし、指揮系統も働きませんでした。そのままなんとか生還の可能性を探りつつ歩き続けますが、最終的にわずかの生還者を除きほとんどが凍死。210人中11人の生還と伝わっています。
この失敗の原因としては、気象を甘く見ていた、準備不足、指揮系統の混乱などが挙げられています。
これは今でも登山で失敗する人に見られるものであり、また、そのほかの事業などでも当てはまることでもあり、現代の私たちも十分に心したいところです。
自民党の総裁選が告示され、西村・河野・谷垣の三氏が立候補されたということですが、特に地方では盛り上がりが欠けているとの報道もあります。
もともと、野党になったということで立候補が期待されたいた人も難色を示す中、三氏にはよく起たれたと敬意を表したいところですが、敗北を喫したときにガタガタといくのは、何か武田勝頼の代で滅亡した甲斐武田家を想起させるものがあります。
信玄の時代は言うに及ばず、勝頼時代も当初はイケイケドンドンでやってきていたのですが、長篠の戦いで敗北を喫した後から家中のまとまりが悪くなり、最後には次々と勝頼を見放し、武田家は非情な最期を遂げることになります。
一方の民主党は、前回の衆院選で敗北を喫しながらも、今回再生を遂げました。
「かかれ柴田に退き佐久間、(木綿藤吉、米五郎左)」という言葉があります。
織田信長の家臣で、攻め戦に強かった柴田勝家と、撤退戦に手腕を発揮した佐久間信盛を比較した言葉です。
(後半はオールマイティな羽柴秀吉と組織になくてはならない丹羽長秀を指しています)
佐久間信盛は今でこそ他の三人に比べ知名度がない武将ですが、当時の人は敗戦処理の難しさをよく知っていたからこのような言葉ができたのでしょう。
織田軍団も多くの敗戦を喫しており、信盛のような殿軍をよく務めた武将のおかげで致命傷を負わずに勢力を拡大できた面は大きいと思います。
不幸にして佐久間信盛は晩年信長に追放され悲劇の生涯を閉じましたが、自民党の方々にはこの敗戦処理の価値を十分に認識してほしいものです。