些細な連絡ミスが大きな被害をもたらす
社会人が組織の一員として、あるいは取引先と仕事をするには、きちんとコミュニケーションをして疎漏ない意思疎通を図ることが重要です。
実際、社会人にとって「報・連・相」は基本的な所作ですし(本来は「報・連・相」がきちんとできるように上司が環境を作るべきという趣旨らしいですが)、就職活動などで採用する側はたいてい「コミュニケーション力を重視する」といいます。
「コミュニケーション力」がどのような能力であるかはさておき、事実関係や自分の考えを、適時かつ正確に、伝えるべき相手に伝えることはその能力に含まれると思います。
しかし、日常業務でも日常生活でも、あるいはスポーツでも往々にして連絡ミス、連絡漏れというのは目にします。
伝えるべき情報・相手が漏れていた、伝わっていると思っていたのに伝わっていなかった、間違った情報を伝えていた、後で伝えるつもりだった。こんな話はよくあります。
実のところ、自分もそのようなポカをやってしまい、苦い思いをしたことは何度もあります。
その都度、大目玉をくらい、今度は気をつけよう、と何度も反省してきました(汗)
幸か不幸か、自分の場合は大目玉で済んだのですが、連絡ミスが取り返しのつかない事態につながってしまうこともあります。
ビジネスやプライベートでもそうですし、歴史上の出来事でも連絡ミスが歴史を変えたというケースがあります。
ということで、自戒を込めつつそんな歴史上の事件を見てみようと思います。
後北条氏滅亡の原因は「連絡ミス」!?
豊臣秀吉の小田原征伐を回避できなかった北条氏
戦国時代、関東に覇を唱えた北条氏ですが、急速に勢力を拡大する中央政権を無視することはできず、織田信長が武田氏を圧迫する頃には織田政権に従属する意思を示していました。
本能寺の変で信長が横死した後に織田政権に反旗を翻すものの、豊臣政権が覇権を確実なものにすると北条氏に対しても臣従を求めるようになります。
当時の当主・北条氏直及び前当主・氏政も臣従を決意し、その旨を豊臣秀吉に伝えています。一般には豊臣政権の強大さがわからなかった愚将と言われる氏政ですが、織田政権に従属したのをみても分かる通り、決して中央政権を軽視していたわけではなく、彼我の差についてはよく理解していました。
戦国大名同士のやりとりですので手続き面は複雑であるにせよ、本来であればここで北条家が豊臣家に臣従して豊臣秀吉の天下統一完成、となるはずでした。
秀吉が北条家をどのように見ていたのかについては諸説ありますが、北条家はその時点で徳川家に匹敵する勢力を有していたため、おそらく徳川・上杉・毛利などと並び、豊臣政権で重きをなしたのではないかと想像します。
しかし、残念なことに豊臣政権と北条氏の間で意思疎通がうまくいかなかったため、北条家は秀吉の怒りを買い、小田原征伐により滅亡することになりました。
小田原征伐の背景
北条家が豊臣政権に従属する前提の一つとして、北条家が自家のものとして主張し、攻略を進めていた真田家が治める沼田領の引き渡しがありました。
もともと信長死後の天正壬午の乱※終結時に、徳川家との交渉で北条領となる予定の地ではありましたが、徳川傘下の真田家が引き渡しに応じず、北条家も自力で攻略できなかったいきさつがあります。
※信長死後、織田家の信濃・甲斐・上野を巡って徳川家と北条家が争った事件
最終的には豊臣政権の裁定で3分の2は北条領、残りを真田領とすることで合意がなされ、そのうえで北条家の最高権力者である北条氏政が上洛するということになりました。
しかしながら、なぜか北条家は真田領を攻撃してしまい、豊臣政権との合意を破ってしまいます。
さらに氏政の上洛が遅れている(と認識された)ことが秀吉の怒りを買い、この2つの要因で秀吉は北条家の征伐を決意します。
そもそも北条家が豊臣政権との合意を破棄したこと自体が問題ですが、それとは別に、2つの「連絡ミス」が北条家にとっての致命傷になります。
北条氏を危機にさらした「連絡ミス」(1)
北条氏の犯した連絡ミスの一つは、真田領を攻撃したことについて、特に豊臣政権について連絡していなかったことです。
北条氏は真田領を攻撃したことが豊臣政権に対する敵対行為であるという認識がなかったのか、戦国時代の感覚で実力行使で奪った領土は自分のものだという認識だったのか、あるいは単なる小競り合い程度の些細な事件という程度に思っていたのかわかりませんが、北条氏からこの事件について豊臣家への連絡はありませんでした。
物事を適切に連絡するための前提として、事実関係及びその事実が持つ意味を正確に把握する必要があります。
その認識が不適切であれば、間違った情報を伝達したり、必要な連絡がなされなかったりして、その後の対応に大きな影響を及ぼします。
この場合、北条氏は真田領攻撃が豊臣政権に対して報告しなければならない事実ではないという誤った認識をしてしまったことにより、豊臣家に報告や謝罪を行うこともなく、小田原征伐の口実を与えてしまうという致命的な連絡ミスを惹起することになりました。
連絡(報告)が必要であるという認識を欠いて、連絡をすべきところをしていない、ということも連絡ミスですので、連絡の仕方云々以前に、連絡をするか否かの判断自体が適切な連絡の第一歩であることを教えてくれます。
北条氏を危機にさらした「連絡ミス」(2)
2つ目の連絡ミスは北条家と豊臣政権の間で北条氏政が上洛する時期が正確に共有されていなかったことです。
沼田領の裁定が終わったことにより、氏政は1589年(天正17年)12月に上洛する予定でした。そのために領国全体に費用負担を求めることまでしています。
しかし、11月に沼田領裁定の御礼に上洛した北条家の使者は秀吉に激怒されています。
一つはそもそも真田領を攻撃したことに対するものですが、もう一つは氏政の上洛が遅いということでした。
そもそも氏政の上洛は12月に予定されているので11月の段階で遅いと言われる筋合いはありません。北条側の使者も困惑したことでしょう。
一方、秀吉の方は11月に上洛すると認識していたようです。
しかし、誰もその認識の齟齬を埋めてくれませんでした。
逆に12月では秀吉が待てないということを北条氏に伝えてくれる人もいませんでした(本来であれば北条家と豊臣政権の橋渡しをしている取次役の役人や大名としてその役割を担っている徳川家康が伝えるべきであったと思います)。
そして北条家は上洛が遅い=約束違反という罪過を突き付けられることとなり、北条家滅亡へとつながってしまいます。
ちなみに北条家との取次役であった役人は職務怠慢ということで秀吉に責められています。そもそも小田原征伐をすること自体が豊臣政権にとっても望ましいことではなかったので、この連絡ミスは豊臣側にとっても痛かった、ということかもしれません。
ありがち(?)な連絡ミスで滅亡した北条氏
北条氏が滅亡する要因となった連絡ミスを2つみましたが、どちらも現在のビジネスでも生じうるミスだという感じがします。
1つ目の連絡ミスでいうと、何かトラブルがあったときに、そのトラブルの本質が何かを理解できないため、あるいは隠ぺいするために影響のある顧客・取引先、あるいは当局などに連絡すべきところ連絡をしていなかった、という感じでしょうか。
2つ目のミスは、顧客や取引先との商談やプロジェクトでスケジュール調整をしようとするときに、お互いの認識に齟齬があって話が微妙にすれ違っているのに、誰もそれを調整することなく話を進めていたら、いざ納品やサービスのローンチをしようとしたら当事者の誰かの担当が遅れていることが発覚し、大損害を被る、という感じになるのでしょう。
連絡というのは作業としては大きなものではありませんが、ビジネスであれ外交であれ、他者と何かを進めるためには非常に重要なものであることはいうまでもありません。
それゆえに連絡の重要性は社会人なら誰しも教わることだと思いますが、それが戦国最大級の戦国大名の滅亡につながるほどのインパクトを生じさせうるということを肝に銘じ、業務上の連絡については慎重かつ丁寧に行わなくては、と改めて感じさせられました。
真珠湾攻撃は「連絡ミス」で奇襲の汚名を被った
太平洋戦争に至る日米交渉
戦前、日本による中国大陸や東南アジアへの進出や日独伊三国同盟の締結などに対抗するため、米国による重要資源の輸出停止により日本の国民経済にも影響が出るなど、日米間の緊張は日を追うごとに増していきました。
当時、日本は原燃料の多くを米国に依存していたこともあり、米国との緊張緩和は国家存続のための重要課題でした。
一方、米国との交渉が成立しなかった場合、実力行使をして状況の打開を図るほかはありませんでした。
そのため、日本政府は交渉成立を第一優先としながらも、日本にとって許容可能な条件で交渉がまとまらない場合は米国との戦争も辞さない構えでした。
1941年に入り、日米は激しい交渉を続けますが、交渉期限としていた11月までに交渉はまとまらず、12月1日、日本は米国と戦争することを決断します(米国から最後に提示されたのがハル・ノートです)。
そして12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争の火ぶたが切って落とされます。
この真珠湾攻撃は一般に奇襲であったと言われ、米国人は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を合言葉に日本への敵意を燃やしたとされています。
真珠湾攻撃が奇襲とされる理由は、日本が宣戦布告を行う前に攻撃を開始したためとされています。
実際、在米日本大使の野村吉三郎がルーズベルト大統領に宣戦布告の書面を手交したのは真珠湾攻撃の1時間後でした。
しかし、日本は真珠湾攻撃の前に宣戦布告の手続きを完了させ、法的には奇襲の形をとる予定ではありませんでした(戦略・戦術的には奇襲だと思いますが)。
にもかかわらず、結果的に奇襲となってしまい、米国民の士気を高揚させる結果を招くことになりました。
なぜ宣戦布告は遅れたのか
宣戦布告は当時の外交上の重要事項であり、外務省も滞りなく手続きができるように準備を進めていました。
そして宣戦布告前日、宣戦布告文案が東京の外務省からワシントンの日本大使館に電報で届けられます。
それは大使館で英文の宣戦布告文書に仕立てられたうえで、真珠湾攻撃の前に米国側に手交される予定でした。
しかしながら、作業の途中で大使館員総出で異動になる外交官の送別会を行い、翌朝作業を再開しても間に合わなかった、と言われています。
この電報は極秘扱いされており、ことの重大性は十分に認識されていたにもかかわらず、何らかの重要な注意事項が漏れていたという「連絡ミス」があったといえます。
本当に至急かつ正確に取り扱う必要があるものだと情報伝達がされていて、送別会にも優先すべきことだという認識が共有されていれば、奇襲の汚名は避けられたかもしれません。
ちなみに外務省から在米大使館に送られた電報は国立公文書館で公開されています。
太平洋戦争の宣戦布告遅れにみる教訓
この事例から、連絡ミスに関してどのような教訓が得られるでしょうか。
連絡ミス以前に大使館職員の職務怠慢ということは言えるかもしれませんが、それでもなおそれを防ぐような連絡の仕方はあったのかもしれません。
もちろん極秘情報であるため連絡方法には厳しい制限がありますし、受け手も外交官で外交に関する手続きやその重要性については十分に知悉しているわけですから、もはや連絡の問題ではないのかもしれません(電報の現物を見てもかなり具体的な情報・指示が書かれていましたし)。
それでもなお、例えば作業の見込み時間やスケジュール感について確認しておく、遅延した場合のリスクについて共有する、ということはできたのかもしれません。
歴史の当事者でも外交官でもない私には上記のケースにおける情報伝達の是非について評価することはできませんが、自分が重要な指示を行う際には、極力正確な内容が伝わり、期待した通りの成果を出してもらえるような工夫(目的の共有、指示の具体化など)をしようと思いました。
実際自分の業務でも他部署に対して指示・依頼を出すことはあるので、決して他人ごとではなさそうです。
歴史に見る「連絡ミス」の要因
歴史上大きなインパクトをもたらした連絡ミスの事例を二つ見ましたが、たった二つの事例でも学ぶべきところは少なくないように思います。
上記の事例の教訓としては、
・物事の全体像を正しく理解し、誰にどのように伝えるかを正しく把握する
・関係者間で認識の不一致があれば、すぐに認識の統一を図る
・指示を伝える場合は、目的を共有したり具体的な指示にしたりする
古今東西を問わず、誰かと一緒に物事を進めていく以上、連絡は必須のものであり、また相手は自分とは違う人間であるがゆえにどうしても連絡ミスは生じます。
連絡ミスのパターンも千差万別で、書いていけばそれだけでも本になりそうです。
だからこそ、連絡をいかに正確に、円滑に行うかが共同作業や商談、外交などの成否に大きく影響してくるのだと思います。
それが重大な情報伝達や指示だけでなく、ちょっとした違和感や事務的なことであっても、その正しい連絡を疎かにすると痛い目に合うというのは、これらの歴史的な事件を見るまでもなく明らかです。
時として連絡は面倒ですし、忙しいと疎かになったりすることもありますが、やはり連絡は社会人としての所作の基礎ということで、手を抜かないように肝に銘じたいと思います。
例えば少しでも情報共有に違和感があったら確認し、スケジュールはこまめに共有(リマインドなど)する、といったことは今一度自分の中で習慣づけたいものです。
歴史上の連絡ミス(おまけ)
連絡ミス?で違う城を破却
江戸時代前期、松江藩主の堀尾忠晴は幕府から亀山城の天守の破却を命じられます。
忠晴は命令通り亀山城の天守を破却。
これにてお役御免、となるはずでしたが、「なんで亀山城の天守破却してるの!?」と言われることに。
実は、幕府は(丹波)亀山城の天守を破却するように命じたのですが、忠晴は(伊勢)亀山城の天守を破却してしまったのでした。
幕府が亀山城とだけ指示したのかわかりませんが、やっぱり指示は誤解を招かないように伝えなければいけませんね。
そしてその際には、自分の指示に思い込みなどがないかも確認する必要がありそうです。