三十六計逃げるに如かず
自分がキャリア形成、あるいは日々の生活で強く意識している言葉の一つに「三十六計逃げるに如かず」というものがあります。
これは中国の南北朝時代に南朝・宋※の名将・檀道済が著した兵法書「三十六計」の最後に、「戦いで勝てないのが明らかであれば、全力で逃げるべき」と主張されていることに由来します。
※東晋の武将・劉裕が東晋から禅譲を受けてできた王朝
この言葉は非常に人口に膾炙していますが、その本意は「とにかく逃げるのが最善」という意味ではなく、「戦いにおいて優勢なら優勢なりの、劣勢なら劣勢なりの戦い方をして、それも無理な状況であれば再起不能になる前に逃げて再起を図るようにするべき」ということです(三十六計には様々な状況での戦い方が含まれていて、逃げて再起を図る、というのは最後の計です)。
何事も限界があり、それを超えてしまうと元に戻らなくなることがあります。
仕事や人間関係で頑張りすぎると精神面が壊れてしまうかもしれませんし、運動を頑張りすぎると肉体的に限界を超えて取り返しのつかないけがをするかもしれません。
投資や消費活動についても、自分のキャパシティを超えた場合は過重債務、さらには破産といった経済的破綻につながるおそれがあります。
限界・キャパシティは人によって異なるでしょうが、それを超えたときには元に戻らないというのは多くの人に共通すると思います(時々「元に戻れない」状況を克服して復活している人を見かけますが、ほとんどの人には真似できないでしょう)。
だからこそ、自分は限界が来る前にやめるという「引き際」を意識して、環境を変えて再起を期すということを心がけてきました。
人間関係にせよ、職場にせよ、あまりに我慢できないと関係を絶って我慢の限界を超えないようにしてきましたが、これまでのところはそれが自分の幸福につながっていると思います。
我慢して状況が改善するなら我慢や努力をすべきだけど、その前に自分の我慢の限界が来る(=「勝てない」)のであれば逃げる。三十六計逃げるに如かず、の教えそのものです。
自分はそれほど我慢強くない人間なので、我慢し続けていたら、今頃精神的な不調や人間関係の破綻(過度な人間不信や人間嫌い)を訴えていたかもしれません。
仕事にせよ、人間関係にせよ、自分なりにやっていける環境はどこかにあるので、無理な環境で頑張りすぎる必要はないと心から思います。
※努力や我慢自体は大事ですが、それ自体に価値があるというより、それが報われる状況でこそ意味があると思います。
特に過酷な業務環境や人間関係の中で我慢しすぎて限界を超えてしまった悲劇を見聞きするにつけ、彼らはどうして逃げなかった(逃げられなかった)のだろうと、本当に残念に感じますし、できるなら「無理をしなくても大丈夫」、「逃げても大丈夫」と声をかけてあげたかったです。
「逃げるは恥だが役に立つ」とはいうけれど
そういう価値観からすると、以前人気だった「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマのタイトルは言い得て妙です。
一般的に、我慢することや逃げないことというのは高く評価されるため、逃げることは残念ながら恥とされてしまいます。
しかし、実際に役に立つのは無理に我慢することより逃げることです。
昨今の「働き方改革」も、無理な環境で頑張ってしまった方の悲劇がきっかけとなったわけで、その出来事の社会的意義は大きいですが、逃げられるのであれば逃げ出したほうが、きっと本人もご家族も幸せだったと思います。
ふと思ったのですが、ロールプレイングゲームをプレイしていて、「逃げる」経験をしたことがない人はいないでしょう(逃げられない設定のゲームでない限り)。
では、ゲームの世界ではなぜ躊躇なく逃げるのか。
端的にいうと、逃げたところで社会的・精神的なペナルティがほとんどなく、むしろ無理に戦うほうがペナルティが大きい(セーブしたところからやり直しなど)ため、逃げる方が合理的と容易に判断できるからでしょう。
もはや「逃げるは恥でもないし役に立つ」ですね。
そう考えると、人間の本質として「逃げる」ことを嫌うわけではないはずです。
むしろ、動物の本能としては何かあれば逃げるほうが自然です。逃げることによって自分の安全が確保されるわけですから。
では、我々はなぜ時として逃げずに無理に我慢してしまい、その結果不幸になってしまうのでしょうか。
辞めるという選択肢のためには「練習」が必要?
何かを辞めることを躊躇してしまうのは、責任感ということに加え、辞めることによる周囲の目や辞めた後どうなるかがわからないという不安があるから、というのは理解できますが、転校や転職、離婚などが珍しくない社会もあります。
つまり、「逃げる」「辞める」ことに対する感じ方は人や社会によって異なるように思われます。
では、何が「逃げる」「辞める」ことを後押しするのか。
この点についてずっと疑問に思っていましたが、Twitterで興味深いコメントを発見しました。
多くのひとは「辞める練習」が足りてない。自分の意思で転校したり、部活辞めたりした経験がない。「自分で辞めるとどーなるか」って経験してないから、会社だってそりゃ辞めるの怖いよね。マレーシア人は「学校合わないな」と転校する。それが小さい頃の「辞めて結果を引き受ける練習」になるんだな。
— Kyoko Nomoto@KL (@mahisan8181) 2018年6月2日
「辞めることを経験する」、「辞めることを練習する」という視点は新鮮でした。
確かに、辞めることを小さいときから経験していくことによって、レールを外れること、何かを辞めることに対する漠然とした不安感をなくし、ある程度冷静に辞めることの是非を考えることができるようになりそうです。
また注目すべきは「辞めることによる結果を受け入れること」も練習の対象であること。
何かを辞めることが自分の選択である以上、当然その結果を受け入れることも必要です。
辞めることを検討するのは大事ですが、ただ逃げればいいというものではなく、その結果は自分で負わなければいけないということも踏まえて考えるということも大事なポイントですね。
社会人になると、「会社を辞めたい」と思いながら中々辞められないという人をよく見聞きします。
彼らのほとんどが転職経験がなく、転職に踏み切れない理由は「次の会社に行っても状況が改善するかわからない」からというのが多いです。また、転職、あるいは起業という選択肢がレールから外れるからという、「あるべき状況から外れる」ということに対する心理的な抵抗もありそうです。
我々の多くが、学生時代には自分の都合で転校することはないですし、一度入った大学を辞めて別の大学や学部に再入学することもあまり多くはありません。
部活も入部したら辛くてもずっとその部で頑張るという人が多いと思います。
改めて、学生時代は気が付かないうちに「レールに沿って生きている」と感じます。
もし我々がもっと気軽に転校やオルタナティブ教育という選択肢を簡単に選べたり、部活を気軽に変更できるような環境で育っていれば、「辞めること」「レールを外れること」を選びやすくなるかもしれません。
また、その結果についても考えさせられるでしょうし、それゆえに自分の選択肢について真剣かつ冷静に考える能力も身につくのではないかと思います。
とはいえ、若い頃なら今から「辞める練習」もできるでしょうが、社会人になったらどのようにそのような練習をよいか悩みそうです。
自分自身転職を繰り返してきましたが、最初に転職を行ったきっかけは同僚が転職したことであり、それがなければ転職という選択肢を検討するためにもっと時間がかかったことでしょう。
もし、自分が最初の転職をする前の自分にアドバイスをするなら、次のように伝えます。
1. 自分の限界を把握しよう
自分の置かれている環境が自分の限界を超えるのであれば、いずれは破綻するので、精神的、能力的な限界を見極めて、どうしても限界を超えるのであれば転職したほうが自分のためになります。
その判断を行うためにも、まずは自分の限界を把握する必要があります。
2.「辞める」という選択肢の結果を冷静に考えよう
仮に会社を辞めるとして、その結果自分にどのような影響が出るのかを冷静に考えてみると、漠然とした不安感がなくなり、不確定要素はあるものの、メリット・デメリットを合理的に比較できるようになります。
メリットとしては、例えば次のようなものが挙げられます。
・業務や人間関係のストレスやプレッシャーから一旦開放される
・社内における自分の評価がクリアされる(特に評価が芳しくない場合)
・溜まっていた有給を使うことで心身がリフレッシュされる
・次の職場における業務内容や条件をある程度確定できる(転職時はある程度事前に提示される)
他方、デメリットとしては次のようなものが考えられます。
・次の職場における環境が現在より悪くなる可能性がある。
・履歴書上、一つの会社で頑張れないという評価がなされる可能性がある(特に転職を繰り返した場合に影響が大きい)。
・親類その他の人たちから根性なし、あるいはエリートの肩書がなくなった人間、と評価される可能性がある。
・現在の職場の人間から裏切り者と後ろ指を指される可能性がある。
・転職先が決まっていない場合に辞めてしまうと経済的に不安が残る。
このようにメリットとデメリットを書き出してどちらが自分のためになるかを考えると、「辞める」という選択もしやすくなるのではないでしょうか。
特に辞める場合のデメリットとしては、「将来の不確実性」と「他者との関係」が主な要素になりそうです。
ただ、将来の不確実性は「転職先の条件や環境の確認をできるだけ詳しく行う」、「普段から貯金やスキルアップに努める」といった対応である程度軽減できます。
→「孟嘗君に学ぶキャリア形成」もご参照ください。
「他者との関係」についても、付き合う「他者」は自分がある程度選ぶことができます。
肩書がなくなった程度で関係が変わるような人間であれば積極的に付き合う必要はないですし、転職回数が多いことばかりをあげつらう会社とご縁がなくても、他にも会社はあります(それなりに合理的な理由付けは必要ですが)。
同様のことは学校その他いろんな状況で当てはまると思います(タワーマンションとか?)。
「辞める経験」はせずとも、「辞めるイメトレ」を繰り返すことで辞めることへのハードルが下がれば、それだけで精神的に余裕が出ますし、実際に行動にも移しやすくなると思います。
心身が「どうしても辞めたい」という悲鳴を上げたときは多分限界なので、そういうときに躊躇なく辞める、逃げるという選択ができるようになりたいものですし、そのような考え方が許容される社会(や家族)であってほしいと思います。
流されるな、流れろ!
逃げることの大事さを考えていると、以前に読んだ「荘子」の本を思い出しました。
→「「流されるな、流れろ!」ありのまま生きるための「荘子」の言葉」参照
荘子の教えは自ら流れに任せるというものでしたが、頑張りすぎないという点は共通しています。
物事の本質を掴み、それを歪めるものに惑わされない。そういう考え方は、無理なときには辞める、逃げるということにもつながるような気がします。
檀道済の最期
こうやって記事を書いてみて、改めて逃げるべき時には逃げる、ということの大事さを考えさせれられます。
「逃げても大丈夫」ということを教えてくれた名将・檀道済には感謝したいところです。
その逃げ上手だった檀道済が人生逃げ切れたのか、という点は少々気になるところです。
その生涯を戦いに費やした檀道済には負け戦もありましたが、見事な引き際を見せ、大敗することはありませんでした。
しかし、戦功を立てるにつれ驕りが目立つようになり、時の君主・文帝に疎まれるようになり、最後は誅殺されてしまいました。
その死の間際、「自分を殺すことは万里の長城を崩すようなものだ」、と言い放ったそうですが、やはり主君に謀殺され、最後に「当家滅亡!」と言い残した太田道灌と似たような最期でした(道灌の言葉の真意には諸説ありますが)。
彼ほどの才覚があってなお、人生の逃げ切りに失敗してしまうということを肝に銘じ、常に謙虚に、前向きに生きていかなければいけないな、と別の教訓もいただきました。