人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか

長時間労働・人手不足という言葉を聞かないくらい、労務問題に注目が集まっている昨今ですが、その一方で世代内・世代間格差や貧困の問題も依然として深刻です。

その理由の一つは労働者、特に特定のカテゴリー(世代・産業・雇用形態など)に属する労働者の賃金が増えていないことであると考えられます。
人手不足なのに、なぜか。

その問題を考えるヒントとして専門家たちの考えをとりまとめたのが、著名な労働経済学者である玄田有史先生編の「人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか」です。
たまたまある方から勧めていただいて、労務問題はホットなトピックでもあったことから読んでみました。

本書は16組の労働経済の専門家の方が、それぞれの視点から「人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか」を考察されています。

著者の方はみなさん労働経済の専門家ですので、経済学の視点・手法から考察をされていますが、着目するポイントはそれぞれ異なっていますので、多様な観点からこの問題を考えることができます。
主なポイントとしては、労働力の需給関係行動経済学制度・規制雇用形態能力開発・生産性年齢・世代が挙げられています。

様々なポイントから論じられていて、どの視点も興味深かったのですが、特に関心を持ったのが、賃金の下方硬直性は上方硬直性を伴うこと福祉・介護産業の賃金構造就職時の雇用環境が相対的に固定化すること、そして機関投資家による影響でした。

賃金の硬直性について
賃金の下方硬直性とは、労働者は賃金が上がることより下がることに敏感で、モチベーションにも大きく影響するため、(名目)賃金は容易に下げられないという賃金の特徴を指します。
それゆえに、経営者は経営状況が芳しくないときでも賃金を下げられず、それを危惧するがゆえに経営状況が良好な状況においても容易に賃金を上げられないという賃金の上方硬直性が発生していると指摘されています。
ただし、賃金の硬直性は固定給に着目して議論がなされていますが、賞与を含めると傾向として大きな増減が認められますので、賃金の硬直性は賞与によって軽減されていると考えてよいと思います(それ自体が賞与の意義でもあると考えています)。

20世紀末から長らくベースアップが見送られてきたのもこのような背景があり、最近ベースアップが復活する傾向にあるのは、経営側としても労務環境の改善や労働者のモチベーション維持のために相当の覚悟をしているのではないかと思います。

福祉・介護産業の賃金構造について
本書においては、労働者の賃金が上昇しにくい背景の一つとして、大きな労働需要を持つ介護・福祉産業の賃金形態が挙げられています。
介護・福祉産業におけるサービス利用者の大半が介護保険の対象者ですが、介護保険制度の下、サービスごとの報酬額が定められており、サービス提供者がサービスの価格を決めることはできません。
さらに利用者が増加すると財政に負担がかかり、さらに介護報酬が引き下げられ、結果として介護・福祉産業に従事する労働者の待遇が低下するという悪循環にあります。
これは規制・制度による賃金の上方硬直性といえます。

さらに、これは他産業の労働者の賃金にも影響する可能性はあります。
本書でも指摘されていますが、労働者と会社が賃金交渉をする際に、労働者のカードとして「他の産業で働けばこれだけもらえる」というものがあり、福祉・介護産業はその候補になりますが(※)、その福祉・介護産業の賃金が抑えられていると、結果として労働者側の交渉力が低下することになります。
これも賃金が上がりにくい背景として考えられるかもしれません。
※実際にリーマンショックの際などは製造業から福祉・介護産業への労働力の流入が見られています。

就職時の雇用状況の相対的な固定化について
賃金統計の分析においては世代や産業、雇用形態(正規・非正規)といった条件ごとに議論がなされますが、本書においては就職氷河期世代の他の世代に対する相対的劣位が長期間固定していることが指摘されています。
そしてその就職氷河期世代が労働人口の大きな割合を占めているため、統計上、全体としての賃金の伸びを抑制しています。

就職氷河期世代の方がその就職開始時において他の世代に対して就労条件が悪かったことは容易に想像できますが、それが長期間固定化されているというのは始めて認識しました。
確かに、雇用環境・経営状況が変わったとしても、特定の年齢層にだけ条件をよくするということは難しいでしょうし、転職しても待遇面は前職の条件を考慮されることが多いですので、長期間(さらには老後の社会保障においても)劣位に置かれることは、その世代の方からすれば理不尽でしょうが、そのようになってしまうものかもしれません。

また、不況の時代においても企業が「従業員の雇用を守った」事例は多くあり、それ自体は美談なのかもしれませんが、それがその時期の若年者(就職氷河期世代)へのツケとなっている側面もあり、このような雇用環境をどのように評価するかは難しいところだと思います。

そのほかに就職氷河期世代が他の世代に対して相対的に劣位に置かれている背景としては、直前のバブル期世代の就労者が多いことによる人事上の不利益社内における人材育成が十分になされなかったことによる生産性の劣後などが指摘されています。

会社の人材育成力の低下については複数の方が考察されていますが、非正規社員の正社員の代替や機関投資家によるプレッシャー(OJTは株主価値への寄与が明示的でないのであまり力を入れてもらえない)がその背景として指摘されており、中堅社員として(といっても部署内では一番若いのですが…)、あるいは機関投資家の従業員として考えさせられるポイントでした。

機関投資家の影響
20世紀末から21世紀初頭に発生した経営環境の大きな変化の一つに、ガバナンスの構造が変化したということが挙げられると思います。
具体的には、メインバンクを中心としたガバナンスから、株主(機関投資家)によるガバナンスへの変容ということが言えます。

本書では大きく取り上げられてはいませんでしたが、先ほどの人材育成をはじめ、いくつかの問題の背景として機関投資家によるガバナンスが挙げられていました。

もちろん、会社の経営には株主以外のステークホルダーとの協調が不可欠で、東京証券取引所の「コーポレートガバナンス・コード」にもそのように書いていますが(基本原則2)、昨今では四半期開示が求められていることからもわかるように、上場企業は中長期的というより短期間のうちに明確な成果・利益を出すことが求められています。

中長期的な関係を前提としたメインバンク制の下では中長期的な人事制度・人材育成も可能であったと思いますが、機関投資家によるガバナンスが強くなると、短期的に明確な成果を出せない施策は行いにくく、人材を内部育成するより必要な人材を外部から採用するという方向に動きやすくなります。
また、最近では外国人株主の株式保有割合も高まっていますが、外国人株主の影響が強い企業は賃金が低いという指摘もなされており、このようなガバナンス・株主構造が賃金構造に及ぼす影響も無視できません。

投資信託委託会社を含む機関投資家は、投資家から預かったお金を、投資家の利益のみを追求して利益を出すのが使命です。それは日本の資産運会社も、外国のヘッジファンドであっても同じことです。
そして、そのためには投資先の企業により多くの利益を出すために働きかけることも必要な場合があります。
その点では、外国人株主が収益の配分を従業員より株主に手厚くするようにプレッシャーをかけることも理解できます。

一方で、ユニバーサルオーナーという考え方もあるように、巨額の資金を運用し、多数の企業に投資する資産運用会社は社会全体の一部を保有しているともいえます。
社会全体(の一部)を保有するのであれば、個々の企業の利益を最大化するより、ESG(環境・社会・ガバナンス)を重視し、社会全体の総和を考慮した投資活動を行うことにより、資産運用会社のポートフォリオのリターンも向上するという考え方も成り立つと思います。

特に資産運用会社の投資資金の出し手の大半は年金基金や投資信託といった、いわば労働者のお金です。
そのように考えると、短期的なリターンのために投資先企業の従業員の賃金を抑えて利益を求めることが、本当に資金の出し手のためになるのか、ということはよく考えなければならないと思います。

このほかにも多くの示唆があり、我が国の雇用問題を考える上で非常に参考になりました。
例えば、非正規労働者市場においては、女性・高齢者の流入により労働力の供給曲線が弾力的になっているため、労働需要が増えても賃金水準があまり増えないという指摘は、言われてみれば当然なのですが、なるほどと思いました。
もちろん、女性・高齢者労働力も無限ではないので、いつかは枯渇し「ルイスの転換点」に達し、そこからは急激に賃金水準が上がると分析されていますが、昨今はAIの導入も進んでおり、非正規労働者の代替が進めば「ルイスの転換点」は存在しなくなるだけでななく、労働供給曲線自体が下方に移動し、より賃金水準が低下するのかもしれません。
よく指摘されることではありますが、AIは我々の暮らしを豊かにしてくれる一方、我々の雇用のあり方にも大きな影響を及ぼすことが容易に想定され、自分たちの雇用・賃金をどのように維持していくのか、というのはこれまで以上に意識する必要がありそうです。

本稿でも経済学の用語が登場しているように、本書では経済学(や統計学)という手法を用いて雇用問題を分析していますが、経済学にそれほど詳しくない方でも十分理解できるように説明されていますので、敷居はそれほど高くはないと思います。

論点が多岐にわたることから、雇用問題に関心のある方のほか、人事制度や人材育成、投資者、人材紹介など様々な業種・職種の方にとって有用であると思います。

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