戦国大名の「外交」

戦国時代で最も注目を浴びるものといえば合戦がありますが、それと同じかそれ以上に時代の流れに大きな影響をもたらしたものに外交があります。

戦国時代で有名な同盟といえば、織田家と徳川家の清州同盟や武田家・北条家・今川家の甲相駿三国同盟、足利義昭・武田信玄・本願寺顕如・朝倉義景・浅井長政らの信長包囲網などが挙げられます。
これらの同盟は外交によって成し遂げられたものですが、この外交の成果が時代の流れに大きな影響をもたらしたことは言うまでもないでしょう。

先に挙げたものは戦国大名同士の外交によるものですが、各地には国衆と呼ばれる小勢力もたくさんおり、それらを取り込むことも戦国大名にとって重要なことで、そのためにも国衆との外交は重要でした。

では、戦国時代における大名や国衆の外交はどのようになされていたのか。
それを丁寧に解説してくれているのが丸山和洋先生の『戦国大名の「外交」』です。
(ちなみに、「」の中に「」がつく書名を書くときは書名の「」を『』にするべきなのか、と悩みましたが、一般的なルールによると書名は『』で書くようですので、悩む必要はなかったようです)

本書によると、戦国時代の外交において最も重要な要素の一つは「作法(外交儀礼)」とのこと。
外交儀礼に様々なルールがあるのは現代も同様ですが、官僚機構や文書システムが現代ほど発展していない500年前の時代から厳格な儀礼が確立していることは驚きでした。

戦国時代の外交というと、大名がどこかの大名と同盟すると決めたら、相手に使者を送って了解されたらすぐ同盟成立、というイメージを持ってしまいそうですが、実はそれほどシンプルではありません(大筋はその通りだと思いますが)。

戦国大名はどの勢力においても、外部との交渉を担当する「取次」と呼ばれる人物がいました。取次は大名の側近であったり、一門・宿老であったり(またはその両方)するのですが、彼らが外部の取次と接触を持ち、直接戦国大名と外部が接触することはありませんでした。

電子メールや電話がないこの時代、外部とのコミュニケーションは手紙と使者の口上がメインになりますが、手紙を送る際には戦国大名自身が作成する書状だけでは原則として外交書状の要件を満たさず、取次による「副状(添状)」がセットになって初めて正式な書状とみなされます。
というのも、戦国大名個人が作成した書状だけでは、それがその大名家としての返答かどうかの確証がありません。
最高権力者が作成しているのだからそれが最優先のものと言えなくもないでしょうが、必ずしも戦国大名個人の考え通りに家中がまとまっているとは限らないため、側近や有力者の添状により、その書状に書いていることが大名家としての正式な意思表示であることを保証することが求められていたようです。

北条家が登場する直前の関東の争乱である「享徳の乱」のきっかけは、関東公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠の添状がないと書状が出せず、実権が制限されていることに対する不満がきっかけだったとされていますが、戦国時代の外交慣行を見ていると、これが一般的だったのかもしれません(室町幕府にも将軍と大名の意思疎通を補完するための取次制度が存在しています)。

また、書状の書き方についても厳格なルールがありました。
例えば、同盟を締結する際には「起請文」を交わし、神々の前でお互いに約束を守ることを誓うのですが、信仰している神は大名家によって違うので、まずその神々を決めるところから交渉する必要があります。
面白いのは、キリスト教が絡む場合で、一般的には日本の神々が記されるところをキリスト教の神の名を記していたりします(これを受け入れるかは相手次第でもありますが)。
さらに起請文の場合は、紙(料紙)に護符を刷るのですが、どの護符を刷るかもやはり交渉によって決められます。

現代でも同じですが、文章の書き方にもルール(書札礼)があります。
書面の宛先(大名宛か家臣宛か)、相手の呼び方、書止の書き方など、関係性に応じて適切に使い分ける必要があり、大変気を遣うポイントだったようです。
書札礼に適っていなければ受け取りを拒否されることもあるようで、例えば今川氏真は武田信玄に滅ぼされる前から上杉謙信と通交していましたが、領土を失い北条家に身を寄せた後も以前と同じ書札礼で文書を作成していたところ、上杉家から返信が来なくなり戸惑っていたことがあります。
確認してみると、戦国大名でなくなった氏真が戦国大名である謙信と対等の文書を送ってくるのは無礼だ、ということで文書の受け取りが拒否されていたようで、書札礼一つで外交に大きな影響を及ぼすことがよくわかります。
このほか、使う紙や紙の封じ方にもルールがあったようです。

また、取次は相手方によって異なり、例えば、対●●家の取次はA・B、対xx家の取次はC・Dというようになっています(側近+一門・宿老のペアが多いようです)。
そして、取次は相手との交渉をまとめることが重要な役割でもありますので、しばしば相手の利益の代弁をすることもあったようです。
もちろん、その家中にいる以上背任行為をすることは認められませんが、それゆえに板挟みになってしまうことも多かったようです(本書では島津家の島津家久がそのような状況になった事例が紹介されています。家久は優等生的なイメージがありましたが、取次という役目柄の苦労が多かったようです)。

それを象徴しているのが徳川家家臣・石川数正の豊臣家への出奔だと思いますが、このような状況は取次については一般的に想定されることのようです。
非常に興味深かったのは、そういう事情もあり、外交の相手方の大名は、担当の取次に対し進退(身柄の安全)を保証することが多かったようで、それだけでなく、他家の取次に対して知行を提供している事例(取次給)もあることです。
このように取次に便宜を提供することで、外交関係の安定を図るとともに自分たちに有利な外交交渉を期待していたということで、当時の外交を考えるにあたって重要なポイントだと思います。

また、外交を行うにあたって前提となるのが外交ルートです。
外交ルートの必要性は今も昔も変わりませんが、本書では越相同盟の事例が紹介されていて、こちらも興味深かったです。

戦国時代における外交ルートは「手筋」と呼ばれますが、仲介者の名前を付けて「●●手筋」と呼ばれます。
越相同盟の交渉に際しては、上野国衆である由良成繁を仲介とした「由良手筋」と、元上杉家重臣で、小田原北条氏に帰属していた北条(きたじょう)高広を仲介とした「北条手筋」があったようです。
それぞれの手筋には担当の取次がおり、北条家側では由良手筋の担当は北条氏邦、北条手筋の担当は北条氏照でした。なお、氏照は氏邦の兄にあたります。

由良手筋と北条手筋のどちらが先に始まったのかは諸説あるようですが、本書では由良手筋が先であると分析されています。そして、これは北条家隠居で氏照・氏邦の父である北条氏康の指示であったとされています。つまり、北条家としての正式なルートは由良手筋であったようです。
その後、氏照が外交担当者として手を挙げて、独自の判断で上杉家に連絡をとったというのが実態のようです。

このような二重外交があると上杉家も困惑するわけで、その後最終的には由良手筋に統合されて交渉が進み、氏照の顔を立てながらも実質的には氏照は交渉から排除されています(氏照が処罰されていないことも注目に値するでしょう)。
その後、氏照は武田家との交渉を担当したようで、氏康死後に越相同盟が破たんし、甲相同盟が復活した際には外交の主導権を取り戻しています。

こうしてみると、戦国大名の家臣団の自律的な動きや北条家中の実態が垣間見えて、戦国大名家が強固なトップダウン型の組織である、あるいは北条家中が一枚岩であるという一般的なイメージが必ずしも実態を表していないことを示唆してくれます。

このほかにも、将軍による外交や使者の実態、織田政権・豊臣政権といった中央の巨大政権の誕生による外交のあり方の変化など、興味深い示唆が多くあり、読んでいて非常に面白かったです。

戦国時代に限らず、ある時代で活躍する人たちの実態に迫ろうと思うとその時代の文化や慣行を知ることも重要ですので、本書によって戦国時代の外交の実態に触れることができ、大変勉強になりました。

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