憧れの仕事@江戸時代

たくさんの人と話したり、様々な場所に行ったりする中で自分の知らないもの、考えもしなかったようなことを見聞きすると非常に楽しくなります。

しかし、そんな風に自由に人と話したり行動したりすることができるようになったのは長い歴史の中でもつい最近のことです。

例えば江戸時代には身分の差があり、藩の外に出ることも自由ではありませんでしたし(許可が必要)、外国に行くことは不可能でした。

決して当たり前のことではないからこそ、憲法でも居住・移転の自由を明記して保障しているのだと思います。

そんな江戸時代に自分がいたらどんな生き方をしてみたいか、と考えることがありますが、大体三つの答えに落ち着きます。

一つ目は将軍となって、自分のやりたい政策をどんどん進める。かつ私生活もかなりやりたい放題(笑)。実際は仕事も大奥も窮屈だったと思いますけどね。

二つ目は商人となって、新しい・面白い商売を広げていく。江戸時代には現在に連なる多くのビジネスが生まれていますが、時代によって多少異なる可能性はあっても、商業に関してはかなり自由だったのではないかと思います。だからこそ、自分のアイデアで勝負していくのは夢がありそうです。

そして三つ目が長崎奉行。江戸時代は鎖国していたため、外国人と接点を持てる人は限られていました。幕府の海外への窓口である長崎のほか、朝鮮との外交を担当していた対馬藩、琉球を間接支配していた薩摩藩、アイヌとの窓口だった松前藩くらいでしょうか。
その中で一番メジャーなのは、やはり中国やオランダとの窓口であった長崎で、その政庁のトップが長崎奉行です。
海外の情報が限られていて、社会的な変動も比較的小さかった江戸時代において、長崎奉行に入ってくる情報は知的好奇心をくすぐるものだったと思いますし、考えただけでワクワクします。

さて、それほど関心を持っている長崎奉行というポジションですが、実は実態をあまり知らなかったりします。長崎奉行の名前やエピソードなどもほとんど浮かびません。
そこで、長崎奉行について書かれた書籍を読んでみることにしました。
タイトルはそのまま、「長崎奉行 ~等身大の官僚群像~(鈴木康子著)」。

上述の通り、長崎奉行は外交窓口であった長崎で現地の行政を取りしきる、いわば外務大臣兼長崎県知事といったイメージのポジションでした。
当然長崎に居住する外国人も管轄しており、海外との接点は日常的にありました。

しかし、海外との地位を相対的に高めたい幕府の思惑もあり、長崎奉行は高い地位とはされず、江戸時代初期は数ある奉行職の中でも下位の方におかれていました。
そして、江戸時代中期、川口摂津守宗恒の時代に長崎貿易の重要性が認識されたことから、中位にまでその地位は上がりました。
19世紀には欧米諸国からの接触が増えてきて、長崎奉行の役割も貿易の管理から長崎の防衛という役割に変わっていったようです。1808年にはフェートン号事件が発生し、当時の長崎奉行・松平康英が自害しています。

江戸時代には125人の人物が長崎奉行に就任したそうですが、その中にはいろんな人物がいて、やはり外交政策や長崎の統治に力を尽くした人も多かったようです。
本書ではそんな人物が紹介されていました。

河野通定(在任1666-72)は、江戸初期の名奉行として紹介されています。
当時は長崎での貿易が自由にできたことから、全国から一旗揚げようと多くの人が集まってきて、長崎の風紀・秩序に乱れが見られたそうです。
そこでその風紀の更正に勤めたのが河野通定でした。
長崎の市民や外国人に対して厳格かつ情に満ちた対応を行い、また低い身分のものであっても孝行を顕彰したりしたことから、長崎は秩序を取り戻し、彼は長崎市民に大いに敬愛されたそうです。

大森時長(在任1732-34)は、長崎で最も人気のある長崎奉行なのだそうです。
彼が着任した直後、西日本は大飢饉に襲われ、長崎も飢餓の危機に直面しました。
そんな折、彼は全国各地から必死に食料をかき集めます。
また、長崎で幕府から禁じられた米の買い占めがあり、商人が捕まったときも罰する代わりに安価に米を放出させるなどの柔軟な対応を取っています。
それだけに留まらず、最終的には幕府に無断で官庫を開放し、市民に食料を提供しました。
その甲斐あって、長崎は一人も餓死者を出さずに飢饉を乗り越えました。

しかしながら、その後彼は無断で官庫を開放したことの責任を問われ、免職の憂き目にあってしまいました。
この辺りの話は、宝永の大飢饉の時にやはり無断で官庫を開放して庶民を救った代わりに切腹となった関東郡代・伊奈忠順と似ています。切腹にならなかっただけよかったとすべきかもしれません。

ちなみに彼が江戸に戻る時、沿道には多くの市民が詰め寄せて別れを惜しんだそうです。
奉行冥利に尽きますね。

松浦信正(1748-52)は徳川吉宗の時代の長崎奉行で、勘定奉行として活躍していたところ、吉宗直々の命で長崎奉行を兼務することになりました。
元々勘定奉行の職務だけでも大変だったので、「自分は漢字も読めない文盲なので、長崎奉行などできません」と辞退するのですが、吉宗から「漢字が分からないならひらがなで仕事すればいいだろ」と強く要請され、やむなく長崎奉行の役目を受けたそうです。

信正は、吉宗の期待に応え、貿易の統制や対オランダに対する日本の立場の強化、勘定奉行所スタッフを取り込んだ長崎奉行所の改革(これは彼が勘定奉行兼務だったためにできたことだと思われます)などを成し遂げます。

そんな彼も吉宗が死去すると後ろ盾を失い、長崎奉行の兼務が解かれた後、勘定奉行も突如解任されてしまいます。
旗本・お奉行様と言っても結局は仕え人の哀しさ、といったところでしょうか。
もっとも、彼が失脚の憂き目に遭ったとしても、彼の業績は依然として輝き続けるのですが。

他にも江戸初期の長崎奉行で、女性スキャンダルで切腹した竹中重義(竹中半兵衛の甥)や長崎奉行の地位を引き上げた川口宗恒などいろんな長崎奉行の人間ドラマが描かれていて、長崎奉行という役職やエリート武士の悲喜こもごもが垣間見られていて面白かったです。

本書は長崎奉行個人に焦点を当てているため、あまり長崎奉行・長崎奉行所という役職・組織の役割・位置づけについては触れられておらず、そういう立場でどのようなものが見えたのかということについては
理解をなかなか深められなかったのですが、今後関連する書籍などを通じて、長崎における行政についても学んでいきたいところです。

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