寛容

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 日本社会は「失敗が許されない社会」と言われることがよくあります。
 ちょっとした失敗を皆でたたいたり、ビジネスで失敗した人は再生する機会を与えられなかったり。島国国家のためか、異なる価値観を受け入れられないということもよくあるのではないでしょうか。
 しかし、経済的にも心理的にも活力が必要な今こそ、寛容さを大切にし、失敗や多様な価値観・考え方を受け入れるべきだと個人的には思っています。
 ということで、今回のテーマは「寛容」です。
・沈黙公

 オランダという国は、多様な価値観に寛容であると言われています。
 いろんな国と近く、国際的な雰囲気であるというのも一つの要因であると思われますが、国家の源流にその理由を見出すこともできそうです。
 16世紀のはじめ、オランダは神聖ローマ帝国の支配を経て、スペインの支配を受けていました。そして、その頃、オランダには宗教革命の結果、プロテスタントがドイツなどから流入して一大勢力となっていました。
 それを見過ごすことのできないスペインはプロテスタントの弾圧を行います。
 当然ながらオランダ現地の貴族たちはそれに反発。リーダーに推されたのが、オラニエ公ウィレム1世です。
 ウィレム1世は、艱難辛苦の中オランダ独立のために戦い抜き(80年戦争)、最後は暗殺に倒れた悲劇の英雄ですが、彼には「沈黙公」という呼び名があります。
  スペインがプロテスタントを弾圧していたころ、プロテスタントの虐殺を計画したことがあります。
  人づてにそのことを聞いたウィレム1世は顔色も変えませんでした。具体的な命令を受けても。
  しかし、本心は違いました。彼は命令を受けたことを逆手に取り、この計画を破たんさせます。
  (彼自身はカトリックだったとも言われています)
  この結果、多くの人が救われました。
  このエピソードから、彼は「沈黙公」と呼ばれます。
  その後、彼は暗殺されますが、暗殺者は狂信的なカトリックだったそうです。
  そして、彼の最後の言葉は、自信と暗殺者たちに慈悲を祈る内容だったと言われます。
  暗殺者と対比することによって、一層彼の寛容さが浮かび上がるようです。
  こうした彼の人格もあったからか、彼は多くの協力者を集めて独立戦争を進め、同時に今のオランダの寛容さの基礎が形成されたように思えます。
泰山は土壌を譲らず

 中国・戦国時代も終わりの頃、西の秦が始皇帝のもと天下統一事業に王手をかけていました。
 
 しかし、始皇帝は即位してしばらくは実権を握ることができず、また何度か謀反に遭いました。
 そして、その多くが秦の人間でないこと、また秦以外の外国人が出世していることに反感を感じていた秦の人間たちの意見もあって、「逐客令(外国人追放令)」を出します。
 始皇帝のブレーンとして活躍していた李斯もその一人です。
 李斯としては、せっかく苦学して出世しつつあったのに、今更追放されるなど納得がいきません。
 そのため、始皇帝を説得しようとします。
 「泰山(中国の大きい山)は土壌を譲らず、だからこそ大きいのです。大きい河川はどのような小さな支流も受け入れ、だからこそ大きくなるのです。」と。
 その結果、逐客令は撤回され、李斯は再び出世の道を歩みます。
 ・・・そしてその後。

 あるとき、始皇帝は一つの書に出会い、感激します。そして「この著作の著者に会えるなら死んでもいい」とまで言ってのけます。
 しかし、偶然にもその著者が隣国・韓の王族であることを知り、招聘しようとします。
 その名は韓非。そしてその書物こそ、法家の集大成ともいえる「韓非子」です。
 大国秦の王なら、韓非を呼ぶことなど朝飯前。韓非は秦王のブレーンとなります。
 しかし、それを妬んだ李斯は彼を讒言し、韓非は自殺に追い込まれます。同門であるにもかかわらず。
 この時、李斯が外国人(韓非)を受け入れていたことをどう思ったのでしょうか。
 最終的に、李斯は秦帝国の宰相にまで上り詰めますが、始皇帝の死後、政争に敗れ刑死します。
 そして、秦の滅亡、漢楚の戦いを経て、政権はやはり寛容さで知られた劉邦に引き継がれることになります。
 

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