日本外交と織田信雄

尖閣諸島にて海上保安庁の監視船と衝突した漁船の船長の取り扱いについて、日中の緊張が高まった末、那覇地検の判断にて船長を釈放、一つの区切りをつけた格好ですが、依然として日中の摩擦は続いている模様。

そんな中、菅総理は国連にて、日本の国際貢献等を宣言する一方、日本の安保理常任理事国入りのアピールもしたようです。

一連の話を聞いていて、ふと、小牧・長久手の戦いのときの織田信雄を思い出してしまいました。

織田信雄は織田信長の二男で、本能寺の変で父と兄の信忠が死亡した時点で、織田家のトップを狙える位置にいた人物です。

しかしながら、本人の能力が評価されていないことや明智光秀との戦いでも特段活躍していないことなどから、次代のトップは、信忠の子(信長の孫)の三法師(後の秀信)と弟の信孝に絞られました。

その後、賤ヶ岳の戦いを経て羽柴秀吉の覇権が確立する中、秀吉は信雄と対立し、信雄は徳川家康を巻き込んで戦います。これが世にいう小牧・長久手の戦いです。

ご存じのとおり、戦いは徳川方が優勢に進めながら、秀吉が信雄を懐柔して和睦し、外交で秀吉が有利な立場に持ち込みます。

結局、家康にとっては、秀吉に土をつけた戦上手という評価と秀吉に負けなかったという威信(これが後に役立つことになりますが)を得ることとなったものの、直接的な利益は得られず、骨折り損の感もありました。

その後、秀吉は北条氏を下して天下統一を成し遂げますが、その際に旧徳川領への転封を拒否した信雄は改易されることになります。

この時の、圧力をかけられるとすぐに腰砕けになる様子が日本政府と信雄に共通するように思えます。

その日本が安全保障理事会の常任理事国になったとして、誰が信頼するでしょうか。

安保理に限らず、何かの議題でいろいろな国と共同戦線を張ったとして、圧力を受けたら方針転換をしてしまうような国と誰が本気で協力するでしょうか。

少なくとも徳川家康は草葉の陰で、勘弁してくれよ、と思っているような気がするのは私だけでしょうか。

もちろん船長の釈放は今後の日中関係にも悪影響があると思いますが、同時に国際社会における日本の信頼度に大きなダメージを与える可能性がある、ということを政治家の方々には十分留意してほしいと思います。

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