諸葛孔明 

清廉さとその智謀で小国蜀を最後まで盛り立てた忠義の大宰相

 諸葛孔明と一般に言われるが、彼は、姓を諸葛、名は亮、字(あざな。二つ目の名前みたいなもの)を孔明といい、名の亮を略して諸葛孔明という。後述する彼のライバル司馬仲達も同様。劉備玄徳は、劉・備・玄徳。

諸葛孔明はその幼年期を戦乱の中に過ごした。肉親を戦乱で失うなど、戦乱の被害を幼年期から受けていたため、特に戦乱に対する嫌悪感が強かった。

青年期になると、荊州(中国中部)で学問を学ぶ。学友には徐庶をはじめ、優秀な人材が多くいた。その中で切磋琢磨しながら自分を鍛えていった。今も昔も、良い友人に恵まれ鍛え合うことは成長する上で重要なようだ。そのうち、徐庶は曹操に仕官したが、孔明は仕官しなかった。

荊州は比較的平和で治安がよく、学者もよく集まってくる地域だったが、その荊州にも戦乱の波が押し寄せる。200年、官渡の戦いで北方の雄・袁紹を破り、中国北部の覇権を掌中にした曹操が、中国統一を果たすため、荊州に侵入し始めたのだった。さらに、その時期、長い間荊州の牧(知事)であった劉表という人物が亡くなり、後継者を巡り内紛が起きていた。

その前に、荊州に、仁君として知られる劉備玄徳が曹操に敗れ、劉表を頼って来ていた。劉備も野心を持った人物であり、配下に関羽張飛など有能な人物を抱えていた。その劉備が孔明の噂を聞き、孔明を訪れた。

孔明にしてみれば、戦乱の時期に身を託すのであれば、器量のある人物でなければいけないし、第一、器量のある人物のもとでなければ働きたくない。そこで彼は劉備をテストする。劉備が訪れると、わざと居留守を使ったのだった(実際にいなかったと言う説もあるが)。1回、2回・・・。劉備は地位のある人であった(劉表の居候ではあったが、皇帝の親類という身分だった)ので、一浪人を訪れること自体おかしいことなのだが、それを2回も繰り返す。そして3回目、劉備の態度に感心した孔明はようやく姿を現し劉備と語り合う。めまぐるしく動く時勢の中でどのように活路を開けばよいのか。そのことに悩む劉備に孔明は、魏・呉・蜀による三国鼎立を提唱しする。その構想に感銘を受けた劉備は、孔明に仕官を要請し、劉備の誠実さや人徳、漢朝復興にかける志に感動した孔明はそれを承諾した。

この時のもう一つのエピソード。孔明が配下になると、劉備は孔明につきっきり。こうした劉備の態度に、彼の義兄弟で、苦しい時もずっと一緒だった関羽・張飛が嫉妬する。彼らは劉備に文句を言うが、この時劉備が言ったのが「水魚の交わり」。魚が水を得たように大切だということだ。

こうして劉備配下となった孔明だが、すぐに危機が訪れる。劉表の後継者争いに巻き込まれてしまうのだった。しかも、北から曹操が迫っている。結局、劉備たちは逃亡することになった。

荊州の内紛もあって簡単に荊州を占領した曹操は、次の狙いを呉(中国南東部)の孫権に定める。曹操は圧倒的な兵力を背景に、孫権に降伏を迫る。孫権も一方の雄であり、そのようなことは受け入れない。しかし、曹操に対抗するには戦力が充分ではない。そこで、弱小勢力の劉備軍が重要になってきた。劉備にとっても漢朝簒奪をたくらむ曹操は不倶戴天の敵であり、曹操に降伏ということは考えられない。そこで、劉備と孫権は同盟しようとするが、そこで孔明が活躍する。曹操と対決するか悩む孫権を見事説得し、弱小勢力の劉備軍と大勢力の孫権をほぼ対等に同盟させたのだった。

207年、劉備・孫権連合軍は曹操軍と赤壁で対決する。小説の「三国志演義」では孔明が風を操ったり、呉の軍師と知恵比べしたりして活躍しているが、実際には劉備軍はほとんど動かず、呉軍の活躍+疫病で曹操軍が撤退したようだ。これが赤壁の戦いの実情らしい。

ともあれ、ひとまず苦難を乗り越えた劉備は荊州を確保。自前の領土を得て、さらに西方の益州(四川省)を狙う。今もそうだが、四川省のあたりは険しい山が多く、守りやすく、攻め込みにくいところである。益州は政治は堕落していたが、張任雷銅など良将も少なくなく、劉備軍も苦戦した。しかし、最後は益州の都・成都を陥落させ、益州も手に入れる。ここで曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の三国鼎立が成った。孔明の構想の第一段階が達成されたのだ。

蜀を手に入れた劉備たちはさっそく益州の統治にかかる。このとき中心になったのが孔明だ。この時の孔明の様子を表したエピソードを紹介しよう。

劉備が入った頃の益州は荒れていたので、どのように統治するのか議論が行われた。益州出身の参謀・法正は「劉邦に倣って法律を甘くするべき」と主張した。それに対して孔明は「劉邦の時は前の秦政権が厳しかったから法を甘くしてよかったが、今回は前政権が堕落していたので、むしろ法を厳しくして公紀を引き締めなければいけない」と主張した。結局孔明の意見が通るのだが、法を重視する孔明の姿が浮かび上がる。

その後、蜀は益州の北の玄関である漢中を確保し、一層強大になっていく。しかし蜀の行くところ、順風満帆というわけではなかった。蜀と呉の関係が次第に悪化していったのだ。もともと、荊州は、一時的に劉備側が呉から借りていて、益州を確保したら呉に返すべきものであったのだが、蜀はその約束を反故にしかけていた。これは、結局荊州の半分を返すことで合意した。
が、さらに関係を悪化させたのは、荊州を任されていた関羽が孫権からの縁組の申し出を断ったことだ。しかも、孫権のことを「犬」と言っている。孔明は関羽に「呉との関係を悪化させないように」と言ってあったのだが結局、呉との関係は悪化するばかりだった。さらに、呉は蜀の勢力拡大を危険視していたので、もはや絶望的となった。

結果、荊州から北上して魏を討とうとしていた関羽の背後を呉軍が攻撃し、関羽軍を崩壊させ、関羽を殺害、荊州も奪還する。蜀は関羽という筆頭重臣と荊州という二つの大きな財産を同時に失うことになった。さらに、そのことに怒った劉備が呉に攻撃を仕掛けようとする。孔明は必死に諌めたが、こればかりは劉備も聞かず、大軍をもって呉に攻め入ったが、呉の名将・陸遜に大敗北(夷陵の戦い)。劉備はショックで憤死してしまう。

劉備は亡くなる時に孔明に蜀の運命を託した。「息子の劉禅が蜀の皇帝の器量がなければあなたが代わりになってくれ」と。もちろん、これは孔明を信頼してのことなのだろうが、よくぞ言わしめた、というところだろう。「息子のことを頼む」と哀願しながら、家を潰された豊臣秀吉とは対照的である。

こうして、劉備の後継に劉禅をたて、実質的に孔明が蜀を差配していくことになる。この時期に魏から降伏勧告が行われているが、孔明は一蹴している。

蜀の全権を担うようになった孔明はまず、呉との関係修復を図る。劉備の遺志は魏の討伐(劉備が亡くなる前に魏は漢朝から政権を譲られ、魏王朝を建てた)であり、そのために呉との同盟は必要不可欠だった。

呉との同盟を復活させると、今度は南部の南蛮制圧にかかる。半年かかって南蛮を制圧し、後顧の憂いを取り除き、南蛮からの軍需物資などで国力を増大させると、いよいよ魏との戦いになる。孔明は5回魏に戦いを挑むことになるが、それを第一次~第五次北伐と言う。魏は蜀の北部に位置していたからだ。

ちなみに、この南蛮制圧に関してもエピソードが残っている。南蛮を統治していたのは孟獲という男だった。孟獲は頑強に抵抗するが、孔明はこれを捕らえる。孔明は南蛮を心から信服させなければならないと考えていたので、孟獲を解放する。以後、孔明は孟獲を捕らえ続け、7回目、ついに孟獲は孔明に心服した。こうして、南蛮攻略は成功した。

227年、孔明は「臣亮申す~」で有名な「出師の表」を劉禅に奉り、北伐に向かう。最初のほうは優勢だったのだが、孔明は致命的なミスを犯してしまう。魏との戦いを有利に進めるために押さえておかなけれいけない要地・街亭に愛弟子・馬謖を防衛の大将に起用していたのだ。彼は頭はいいのだが戦歴が乏しく、本来なら趙雲魏延など、他の百戦錬磨の武将を起用すべきだった。さらに、劉備は亡くなる時に「彼は口先だから起用してはいけない」と忠告していた。しかし、孔明は懇願に負けて起用してしまう。
孔明自身戦略を授けたのだが、彼はそれを無視し、街亭を守れず、蜀軍は撤退する。ここで馬ショクの措置が問題になった。人材が乏しい上に孔明の愛弟子なので死刑にはできない、という意見が多かったのだが、孔明自身が信賞必罰の姿勢を明確にするため死刑にした。これが「泣いて馬謖を斬る」の由来である。さらに、孔明は自らの責任を問い、自ら降格した。このあたり、孔明の公平さがよく表れている。

その後も、孔明は北伐を続けるのだが、魏のほうにも名将が起用され、戦果が上がらない。その名将こそ、孔明のライバルと言われる司馬懿仲達だ。「三国志演義」では孔明と仲達の戦いが華々しく描かれ、特に孔明の戦略・戦術が神がかり的になっているが、実際には仲達が長期戦の姿勢をとったため、孔明にも打つ手がなかった。

司馬仲達。
孔明の侵略を徹底的に防いだ孔明最大のライバル。

そうして戦争を繰り広げる中、責任感の強い孔明は些細なことまで自ら監督したため、過労で体を壊してしまう。結局、第五次北伐の最中、234年に孔明は死去した。国主・劉禅は「天は蜀を滅ぼしなさった」と嘆き、民衆もその死を嘆き、思い思いに廟を建てたという。

孔明の魅力はあくまでその政治力と清廉さにあるのだろう。正史「三国志」の著者の陳寿は孔明について「政治力は菅仲(春秋時代の名宰相)・蕭何(漢朝を興した功臣)に並ぶ」としている。また、死後、彼の財産を調べてみると、蜀の宰相だというのに、やせた土地が少しあるだけだった。倒産した企業の首脳陣が莫大な財産を持っているのとは対照的だ。公平さは、先に挙げたエピソードにも表れている通り。出師の表が名文とされているのも、彼の文章を書く能力が優れていたということもあるだろうが、それ以上に彼の北伐にかける思いがにじみ出ていたからではないだろうか。また、正史は孔明が生きている間は劉禅も名君だったと評している。このことからも孔明の人柄がうかがえる。

一方で、陳寿は「戦争は得意ではなかったのではないか」と評価している。北伐で戦果を挙げられなかったのがその根拠なのだが、これについては賛否両論ある。実際孔明の軍は整然としていて、軍令も行きわたっていたというから、決して平凡な能力でなかったことは事実だろう。また、当時魏と蜀の国力の差はとても大きく(もちろん魏のほうが圧倒的に強大)、互角に戦ったというのも、彼が並みの能力でなかったことを示しているだろう。
しかし、魏延の、長安(現在の西安)を急襲するといった戦略を採用できず、ひたすら正攻法を採るしかできなかったのは、文官の孔明の限界だったと言う人もいる。その魏延を使いこなせず、結局自分の死後に謀反人として殺害せざるを得なかったのも、孔明の限界を表していたのかもしれない。

とはいえ、孔明が軍事的なことに不得手であったとしても、彼の魅力を減するものではない。自分の能力を最大限に出し切って、自らの生命も省みず蜀のために生きたのは事実なのだから。

孔明の死後、しばらくの間は賢臣が劉禅を支えるが、彼らも亡くなると、劉禅は堕落していく。さらに、孔明が目をかけた将軍・姜維の度重なる北伐で蜀に厭戦気分が広がると、魏はこれを見逃さず蜀を攻撃し、姜維や孔明の子・諸葛瞻・孫の諸葛尚たちの奮戦はあったものの蜀は敗れ滅びてしまう。孔明の死後30年のことだった。その後、魏は司馬仲達の子孫に簒奪され晋朝ができる。呉も晋に制圧され、結局魏でも呉でも蜀でもない晋によって三国時代は終焉を迎えた。しかし、孔明たち英雄の活躍は2000年近く経とうとしている現在も語り継がれ、彼らの廟に今も多くの人が参拝している。

余談ながら、饅頭を発明したのは孔明だという逸話もある。

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