山登りのお話

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最近、登山中の遭難の話をよく聞きます。登山は気持ちいいのでしょうが、意外に危険が伴うそうで、十分に注意しなけばいけないようです。
特にこれから紅葉シーズンを迎えるので、皆さんも十分にご注意ください。

ということで、今回は山登りの話です。

●冬のアルプス越え

1582年に織田信長が本能寺で最期を遂げると、織田家は羽柴秀吉と柴田勝家の勢力に分かれました。
柴田勝家の部下であった織田家中の名将・佐々成政は勝家に味方します。勝家の敗北後、成政は一度降伏しますが、秀吉が織田信雄(信長二男)・徳川家康と交戦すると、再び秀吉に敵対します。

しかし、秀吉は織田・徳川とも講和。成政の立場はかなり危険なものに。

なんとしてでも家康に戦ってもらわなければならない。

成政は越中(富山)、家康は浜松。周りはみな敵。しかも季節は冬。

成政は、冬のアルプス越えを決行。非常に困難で危険の伴うコースです。

しかし、成政は準備を周到に行い、その不屈の闘志を以て浜松までたどり着きます。
が、残念ながら時すでに遅し。家康が再び秀吉と戦うことはありませんでした。

その後、成政は秀吉に降伏。一命を救われ、のちに肥後に封じられますが、反乱が勃発し、1588年に責任を取って自害させられることになります。

成政のアルプス越え(さらさら越え)は現在でもルートがはっきりしないなど、ある意味人間離れしたありえない行動とも考えられていますが、このアルプス越えは史実のようです。

また、成政は徹底した秀吉嫌いとして伝わっており、もしかすると人間関係のなせる業だったのかもしれません。

●八甲田山の悲劇

1902(明治35)年、日本が列強への道を歩み始めたころ、その陰で悲惨な事件が起きていました。
新田次郎氏の小説でも知られる八甲田山の雪中行軍事件です。

日本は日清戦争に勝利し、世界の注目を集めていましたが、利権の対立するロシアとの緊張も日に日に強くなる一方。

そのロシアとは厳寒の中戦うことが予想されますが、日清戦争では寒さの中苦戦したことがあり、厳寒地における戦いに強くならなければいけない、ということで雪中行軍の訓練が行われました。

しかし、行軍一日目から遭難。前後もわからない状況になりながらも行軍の続行を決定します。
行軍二日目には行軍の撤回。しかし、このころには補給も休息もままならない状況でした。凍死者も出るし、指揮系統も働きませんでした。そのままなんとか生還の可能性を探りつつ歩き続けますが、最終的にわずかの生還者を除きほとんどが凍死。210人中11人の生還と伝わっています。

この失敗の原因としては、気象を甘く見ていた、準備不足、指揮系統の混乱などが挙げられています。

これは今でも登山で失敗する人に見られるものであり、また、そのほかの事業などでも当てはまることでもあり、現代の私たちも十分に心したいところです。

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