マッチ売りの少女

秋葉原の通り魔事件を考えていくうちに、ふと、「マッチ売りの少女」の話を思い出しました。

ご存知のことと思いますが、あらすじだけ書くと、

大晦日の寒い中、街頭でマッチを売っていた少女ですが、誰も彼女からマッチを買うことがなく、そのうえ馬車に引かれそうになり、靴を失ってしまいます。

マッチが売れないと父親に叱られるため帰宅できないので、ひたすら頑張ります。

少女が寒さと空腹に襲われているころ、周りの家では暖かい暖炉のもとで家族で団欒しながらごちそうを食べています。

寒さをしのごうと、少女はマッチをつけます。マッチをつけると、ごちそうやクリスマスツリー、そして亡くなった大好きなおばあさんが現れます。少女は、その(幻の)おばあさんに抱かれ、幸せのうちに天に召されました。

この童話に初めて触れたのは小学2年生のころでしたが、あの時何度読んでも涙が止まりませんでした。

今考えると、彼女にしてみれば幸せな最期なのだから同情はいらないのかもしれませんが、子どものころはそんなこともわからず、ただその哀しさばかりを感じるのみだったと思います。

こういう純粋さ、優しさ(自分で言うな?)は、誰しもが持っているものだと思います。

これほどの純粋さが自分の中で、社会の中で失われたのはいつだろう?なぜだろう?

そんなことを考えてしまいました。

もっと少女に優しくなれたなら、もっと優しい社会なら・・・

ところで、ホームレスの方が売っている「Big Issue」という雑誌(1冊300円)がありますが、これは見かけたらできるだけ買うようにしています。

売上の半額が売った方に入るのと、雑誌の内容自体が優れているからです。

こういうただ福祉をするのではなく、仕事を通じて自立を支援するという、人の尊厳に配慮した活動には非常に好感を持っています。

かつての200円から値上げされたように苦しいのかもしれないですが、頑張ってほしいです。

(職場が変わってから見かけないのが残念です)

人の尊厳といえば、ポエニ戦役後のローマで失業者が増大したときに、単なる福祉政策でなく、志願兵制度によって失業者を吸収したガイウス・マリウスを塩野七生氏がこの点においても評価していますが、仕事によって自分の存在意義を見出すというのは、古今東西不変のことなのかもしれません。

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