井上成美

良識と合理的思考をひたすらに貫いた「最後の海軍大将」

井上成美(しげよし)は、終戦直前に海軍大将に昇進し、「最後の海軍大将」という言い方をよくされる。
しかし、井上が「最後の海軍大将」として、日本海軍のある種の象徴となるのは、単に時期的に最後だったからなのではなく、古き良き海軍の伝統・良識を具現化し、時代の流れに抗したためであると思われる。
彼はその合理的思考とリベラリズム、そして清廉さ・責任感の強さで知られている。 そしてこれらは今もなお求められる美徳である。
「最後の海軍大将」は、どのように生き、日本や海軍に何をもたらしたのか。

井上成美は、1889年(明治22年)に、江戸幕府直参の武家の子として生まれた。12男1女の11男である。
父は計数に通じた有能な人間であり新政府でも能吏として活躍したが、薩長閥がはびこる新政府では出世の見込みがないと判断し、帰農することとなった。帰農の道も棘の道で貧しかったようで、農作業も手伝っていた。
父は厳しかった。厳格な生活態度や姿勢をたたきこまれた。これが井上の人間形成に大きな影響があったことは容易に想像がつく。
母は大名の家であったが、温和で音楽に優れていた。井上がギターやピアノをたしなむようになったのも母の影響かもしれない。

井上を含め兄弟は学業に優れていたが、家計が貧しいために井上は海軍兵学校に進むことを選んだ。貧しいながら優秀な人間の選択肢としては一般的なものである。
井上は首席で合格。16倍の難関であった。

海軍兵学校に合格した井上は江田島(広島県)へ。この「江田島」は井上の生涯においてキーワードとなっていく。
兵学校では、全国から秀才が集まりしのぎを削った。成績が今後のキャリアを左右するからである。井上はこの中でもトップクラスを維持した。
ただ、井上は成績ばかりを競ったり、出世のことばかり考えるのをよしとしなかった。
後年、兵学校の校長になったとき、「出世主義ではいけない」と歴代大将の額を下ろさせたこともあった(これには秘められた意図もあった)。

卒業後、結婚したのち、第一次世界大戦の後始末のため欧州赴任となる。
井上はこの赴任中に、ドイツ語をマスターする。語学に強い彼ならではではあるが、「夢でドイツ語を話せたら一人前」と言われ、その通りになったというエピソードもある。
また、ここで得たドイツ人観が後年のドイツ不信につながる。

戦後開催されたワシントン会議では、日米英の艦艇保有比率が3:5:5に決定。海軍内部では「あくまで7割」と主張する者も多かったが、全権加藤友三郎の判断でワシントン軍縮条約を締結。後年井上はこの時の心境を「悔しいが、英米との比率は低く、外交で対応するのが上策」と語っている。また、見方を変えれば、英米を縛るものでもあり、また日本の財政も救った条約である。

帰国後少佐に昇進するも、すぐにイタリアに赴任。音楽や芸術を楽しむが、イタリア人の考え方には否定的であったようで、ドイツ同様、後年のイタリア不信につながる。
イタリアから帰国後、海軍兵学校教官に。初めての教育経験である。

1929年、イギリスの呼びかけで軍縮を進めようということになり、ロンドンで会議が行われた。日本海軍軍令部は対米7割を要求するも、海軍省は7割弱で妥結。いわゆる条約派と呼ばれる山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長の働きがあったことはもちろん、このとき財部海軍大臣がロンドンにいたため、浜口雄幸首相が海軍大臣を代理していたこともロンドン軍縮条約締結につながった。
しかし、これには軍令部が統帥権を侵すものと反発し、浜口首相暗殺、さらに軍部の政治への進出につながることになる。

1932年5月、5・15事件が発生。これを機に、井上は陸軍の暴走を注視することになる。
同年、軍務局第一課長に。これはエリートコースだったようだが、就任直後夫人が逝去。井上はこの後、長く独身を貫くことになる。

第一課長になるや否や、軍令部の海軍省からの独立という問題が生じる。陸軍は作戦指揮を担当する参謀本部と陸軍省が独立の関係であったが、海軍軍令部は予算などについて基本的に海軍省との協議が求められた。それを分離させ、作戦指揮を担当する軍令部が戦力や編成について決定したいということである。

このとき井上とやり合ったのが南雲忠一。南雲は勢い込んで「賛成しないなら殺す」と脅した。井上は「殺されるのが怖くてこの仕事ができるか、遺書も書いてある」とやり返したのはよく知られている。
結局は軍令部に押し切られてしまうのだが、井上は最後まで抵抗。軍令部のトップであった伏見宮をして「彼には良いポストを与えるべし」と言わしめた。

1936年2月。陸軍の若手将校により2・26事件が勃発。井上はこの事態を予期し、海軍が速やかに動けるようにしていた。その上で、すぐに首謀者を「反乱者」とみなし、鎮圧に動いた。

その後、陸軍が日独伊三国同盟の締結を画策すると、ドイツ・イタリアが頼みにできないこと、三国同盟によって英米を敵に回しては勝てないことを冷静に判断し、海軍省軍務局長として、海相・米内光政、次官・山本五十六とともに阻止に動き、一度は破談に追い込む。
(井上は、ヒトラーの「我が闘争」を原語で読み、日本人に対して差別的な考えがあることを把握していたという。この内容は日本語版では削除されていた)

その後、中将に昇進し海上勤務。1939年に、第二次近衛内閣により、日独伊三国同盟が締結される。1940年に、海軍航空本部長に就任。航空戦力を重視していた彼は「新軍備計画論」を練り上げる。

1941年、日米開戦。この直前、井上は戦争反対を押し通せなかった及川古志郎海相を難詰している。勝てないと分かっていて開戦することに絶対反対であった。
開戦については、山本五十六が近衛文麿首相から戦争の見通しについて聞かれ、「1年は戦って見せるが、その後は保証できない」と答えたことについても「絶対にできないと言わなければだめだった」と、結果的に近衛に期待感を抱かせてしまったことを批判している。
また、開戦に際して祝意を述べた参謀に「バカヤロー!」と怒鳴りつけたとも言われる。

開戦後、南洋にて指揮をとるが、その戦いぶりは拙劣で、戦争下手との評価をとってしまった。ただし、この評価には異論もあり、井上も素直には受け入れていないようだ。

その後、江田島の海軍兵学校長に就任。英語が敵性言語として忌避される中、「国際人たる海軍将校が英語もできないのでは役に立たない」と、あくまで英語教育を行った。ちなみに彼自身だけでなく、主要な将校には外国語に堪能な者が多かった。
井上はこのポストが気に入っていたようで、最後までやっていたいと思っていた。

しかし、時代はそれを許さない。終戦に向けて動くべく、米内海相は渋る井上を無理やり次官に起用。最後は意見の相違からか(井上は米内以上に終戦工作を急ぐべきと考えていた)、大将に昇進のうえ、次官から外れることになる(次官は原則として大将のポストではないため)。

このとき井上が遺したのが「負けいくさ 大将だけは やはり出来」。

1945年、終戦。
戦後はその責任を感じ、横須賀に逼塞する。当初は本当に人との交流がなかったようだが、次第に交流ができ、英語塾を開いたりした。英語塾では英語しか話してはいけなかったそうである。また、テキストは手作りであったという。
しかし、彼の教育の本文は考え方の育成にあった。教え子たちは一様に「英語より生き方を教わった」と語っているとか。
海軍兵学校の様子も含め、教育者としての方が向いていたという声は多い。

彼を慕う教え子たちからは度々援助の申し出があったが、ほとんどを拒否し、貧しい生活を送り、公的な場所に出ることもなかった。

彼は戦後、戦争のことについてほとんど語ることがなかったが、東条内閣の海相の嶋田繁太郎が海上自衛隊の練習艦の壮行会で乾杯の音頭をとったことを聞くと「恥知らずにもほどがある。人前に出せる顔か」と激怒したという。

晩年に再婚。慎ましいながらも人並みの幸せをようやく手に入れられたといえるかもしれない。

昭和50年没。享年86。自宅に広がる海を見ての大往生だったという。

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