武田、上杉、今川と対等に渡り合った小田原北条三代目
北条氏康は1515年、小田原北条氏二代目・北条氏綱の長男(すなわち北条早雲の孫)として小田原城に生まれた。長じては名将と言われる氏康であるが、子供の頃は臆病であると言われていた。
氏康が子供の頃のエピソードがある。
氏康は子供の頃、剣道(爆弾とも)を見るにつけ泣き出していたという。多くのものは臆病者だと軽蔑し、氏康は自殺しようとまでするが、ある家臣は氏康のことを止めて「子供の頃からそのようなことを思うのは大物になる兆しです」と言った。その言葉どおり、氏康は天下に名を成す名将となっていった。
ちなみに、氏康は戦場において、敵に背を見せたことがないといわれ、彼の向こう傷を「氏康傷」と言ったりした。
初陣は16歳の時。北条家の宿敵扇谷上杉朝興と戦い、敗走させた。
1538年には第一次国府台の戦いで小弓公方足利義明・安房(現在の千葉県南部)の大名里見義堯を破る。
1541年に氏綱が死去。氏康が北条家の実質的な当主となる。
ちなみに、「勝って兜の緒を締めよ」とは、このとき氏綱が遺した言葉である。
1546年、氏康は人生最大ともいえる危機に陥る。山内上杉憲政と扇谷上杉朝定、古河公方・足利晴氏の連合軍が8万の兵で武蔵の拠点である河越城を囲んだのである。しかも、駿河の今川義元とも敵対状態にあった。
元来北条氏(伊勢氏)は今川家に従属する立場で、氏綱の時代に独立した後も親密な関係にあったが、今川義元が北条家と敵対関係にあった武田信虎(信玄の父)と同盟を結んだことにより関係が悪化し、駿河東部で紛争状態にあった(河東一乱)。
今川勢と対峙するために駿河に出陣していた氏康は、今川家と和睦するとすぐさま河越城に転進し、連合軍と対峙した。このときの北条軍の兵力は8千。河越城に籠るのは氏綱から娘と姓をもらった北条家随一の勇将・北条綱成であった(兵3千)。
氏康はまず講和を提案するが、勢いに乗り北条軍を侮る連合軍は拒否する。しかし、氏康は何度も交渉を続けていった。交渉は毎度決裂するが、氏康にとって交渉そのものは目的ではなかった。氏康の目的は交渉を続けることで相手を油断させることであったからである。
氏康の狙い通り、連合軍は次第に警戒心を解いていった。間者(有名な風魔一族)の報告により連合軍が油断していることを知った北条軍は夜襲を決行。籠城していた綱成隊も出撃したため連合軍は壊滅し、上杉朝定は戦死、上杉憲政は逃亡した。
夜襲は灯火を使わず、首を取らずということを徹底したため抜群の成果を上げた。これが世に言う日本三大夜戦の一つ、河越の夜戦である。
河越の夜戦以降、北条家は武蔵(現在の東京都)、ひいては関東の覇権を掌握した。1552年には関東管領・上杉憲政を居城・平井城から放逐、関東一円の支配権を確立する。
外交面でも武田晴信(信玄)・今川義元と三国同盟を結び、関東経略に専念できるようにしていた。また、河越の戦いで敵対した古河公方・足利晴氏を廃し、義氏を立てて、関東支配の正統性を示している。
1559年には長男の氏政に家督を譲っている。
これは当時関東を覆った飢饉について、氏康が責任を取るとともに、新しい当主の下で復興を図っていくという姿勢を見せたもので、その後も氏康は実質的な当主として北条家の指揮をとっている。
確実に版図を広げていた北条家だが、新たなライバルが加わることになった。上杉憲政から関東管領と上杉の姓を譲られた長尾景虎こと上杉謙信である。1561年、関東管領として関東に出陣してきた謙信は、関東の反北条勢力を糾合し、11万の大軍を率いて北条家を攻撃した。
上杉軍の勢いを恐れた氏康は小田原城に籠城、謙信の気勢を削ぎ、将兵の指揮が下がるのを待つ作戦を採った。果たして、最初のうちこそ積極的に攻撃したが、決して反撃しない北条軍に対して持久戦を行わざるを得なかった。
しかし、武田軍が海津城を築き北信濃における勢力を強めていたことに加え、上杉軍は遠征軍でもあるため補給が続かず、さらに長期戦による負担に耐え切れない諸将が退陣したため、謙信は兵を引かざるを得なくなった。
なお、この間に謙信は鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀式を行っている。
ちなみに、氏康は籠城した理由をこう述べている。「謙信は血気盛んで、野戦で戦うと厄介だ。しかし、長期戦になり、頭を覚ますと思慮深くなり、撤退するだろう。」結局、氏康の読み通りになった。
この後も上杉軍は毎年のように越境し、北条家の関東制覇を阻むことになる。しかし、氏康は信玄と協力し、謙信を翻弄している。
1564年には第二次国府台の戦いで里見義弘を敗走させ、後顧の憂いをなくしている。
このときは、上杉謙信の来襲が予想され、氏康は早急に決着をつけなければならなかったのだが、前哨戦では里見軍の知略に敗れてしまった。そこで、氏康は油断している里見軍に奇襲をかけ、一気に決着をつけた。
しかし、転機はまた訪れる。1560年に今川義元が桶狭間で織田信長に敗れ、戦死したことで、1566年に武田信玄が三国同盟を破棄し今川家を攻撃したため、北条家は武田家と断交、上杉家と同盟し(越相同盟。この時に息子の三郎を謙信の養子としている。)、北条・上杉・徳川・今川・織田による武田包囲網を形成した。
一説によると、娘(今川氏真の妻である早川殿)が駿府脱出に際して輿もなく、命からがら逃げだすことになったことに対して激怒し、武田家と断交することになったともいわれる。
越相同盟に伴い、北条家は正式に謙信を関東管領と認めることとなり、室町幕府の秩序の中においては、北条家は上杉家の下につくことになった。
また、越相同盟は北条家と対立している勢力にとっては謙信の裏切り行為ともいえ、謙信と同盟して北条家と戦っていた里見家などは武田家と結んで北条家と戦うことになる。
越相同盟などにより武田家を締め上げていった北条家であったが、武田家の巧みな外交と戦争により、包囲網は結局武田家を滅ぼすには至らなかった。北条家と断交した武田家は、牽制の意味も込めて小田原城を包囲、この時も氏康は籠城作戦を採っている。この時、謙信からはほとんど支援を受けられず、後々断交する伏線となっている。
信玄が撤退する際に挟撃しようとしたが、これは信玄に読まれ、逆に奇襲を受け打撃を受けてしまう(三増峠の戦い)。
その後も北条家と武田家は駿河の帰趨を巡って抗争を続けるが、最後は武田家が駿河を攻略する。その後も氏康が死去するまで公式には武田家と和解はしなかった。
しかし、1571年10月3日、氏康が死去。享年57。これを契機に北条家は武田家と同盟。この同盟によって再び北条家は関東攻略に専念し、武田家は上洛に向けて動くことができるようになった。武田家との再度の同盟は氏康の遺言ともいわれる。
北条氏康は武略も優れていたが、内政でも大きな業績を残した。時代を先取りした税制改革(貫高制の確立・税制の簡素化)、検地、軍団制、伝馬制度などがそれに当たる。相次ぐ戦争により領土が疲弊しても一揆が頻発しなかったのは、このような内政の業績によるものと考えられる。
家康も関東に入った時「北条家が民衆に慕われていて治めにくい」とこぼしている。
また、氏康は京から文化人を招いたり、金沢文庫を整備したり、足利学校を支援するなど、文化・学問にも造詣が深く、その分野でも大きな功績を残している。江戸時代に関東が学問の中心になりえた一因は氏康に帰するかもしれない。
ある時、氏康の様子を探ろうと、上杉憲政の家臣が偽って氏康に仕えた。やがて帰還して憲政に「北条家は信賞必罰、氏康の薫陶がいきわたっていて手ごわい相手です」と報告した。
また、憲政を平井城から追い出したとき、その子供が裏切り者により連れてこられた。その時氏康は、この裏切り者を武士の風上にも置けない、と殺害した。氏康は信義を大切にしたからこそ裏切られなかった。
氏康には嫡男の氏政の他、氏照、氏邦、氏規などの子供がいた。それぞれが非凡な能力を持ちながら、大きな対立なく協力したのも氏康の薫陶があったからだと言われている(上杉家を巡る外交などで軋轢を指摘されているが、内紛には至っていない)。
なお、氏政は当主として北条家をまとめ、氏照は戦闘や外交に能力を発揮し、氏邦は内政や戦闘に、氏規は外交にそれぞれ能力を発揮し、北条家を発展させていった。
なお、上杉謙信の養子となった三郎はその後、景虎と名乗り、上杉家中においても重きをなすが、謙信没後、上杉景勝との家督争い(御館の乱)にて敗死する。
なお、長男として氏親(新九郎)がいたが、早世している。
北条氏康の名は、今川義元・武田信玄・上杉謙信・織田信長・徳川家康などの陰に隠れて、あまり知られていない。しかし、その業績・能力は彼らに勝るとも劣らなかったことは確かである。
氏康の死後、北条家は新たに当主となった氏政とその嫡子・氏直が牽引し、関東制覇を進めていき、北条家の最大版図を築き上げる。
しかし、最後は豊臣政権の実力を測りきれず(氏政が上洛予定だったが、結局上洛できなかったとの説も)、1590年に豊臣秀吉に小田原城を包囲され、滅亡した。
〇北条氏康をイメージした「北条氏康スーツ」を作った感想の記事を書きました。