新渡戸稲造

日本の道徳を世界に知らしめた「太平洋の架け橋」

新渡戸稲造は、五千円札の肖像画で知られる。国連事務次長東京・京都帝大教授旧制第一高等学校校長などを歴任。日本初の農学博士でもある。

 新渡戸は1862年に盛岡に武士の子として生まれた。幼い頃、伯父太田時敏の養子になる。後に東京英語学校(現在の東京大学)に、その後、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学する。当時、有名なクラーク博士はいなかったが、その気風は受け継がれ、キリスト教の精神を教えられた。同期に内村鑑三宮部金吾(北大植物学教授、文化勲章受賞)などがいた。

 新渡戸は当初、法律家を目指していたそうだが、聖書を読んで農学を志すようになったようだ。だからこそ、東京からクラーク博士の名残のある農学校に入学したのだろう。

 卒業後、北海道庁に入庁するが、米国のジョンズ・ホプキンス大学に留学、同期に米国第28代大統領となるウィルソンがいた。後に、ドイツのボン大学(農政・農業経済を研究)・ベルリン大学・ハレ大学に移る。この頃兄が死亡し、新渡戸姓に戻る。その地で結婚した後、留学期間を終了し、帰国する。帰国後は農学校教授となるが、公衆のために「私立北鳴学校」・「遠友夜学校」を設立する。
しかし、長男(遠益。出産後8日で早世)を失った悲しみから神経症になったため、休職してカリフォルニアに移住する。その地で著されたのが「武士道」である。

帰国後は復職せず、台湾総督府(当時の総督は児玉源太郎、民政局長は後藤新平)の殖産課長・製糖局長として、製糖の発展に尽力し、製糖産業を軌道に乗せた。
児玉・後藤共に民政に理解があったらしく、新渡戸としても働きやすい環境だったようだ。
新渡戸をスカウトしたのは後藤だが、その際には体調のすぐれない新渡戸の毎日の昼寝についても了解している。

その後、京都帝大植民地政策学の教授として赴任し、さらに、第一高等学校に赴任した。同時に東京帝大農学部教授を兼任していた。一高では、彼を排斥する動きもあったが、よく学生に慕われた。

 彼が結婚した時のエピソードが残っている。彼はアメリカ人の女性と結婚したのだが、当初は親類一同にものすごく反対された。人種のためである。しかし、何度も説得し、ついに許可を得た。彼の粘り強さが通じたのだ。

 「武士道」が著されたときのエピソードもある。ある時、新渡戸はベルギーの法律学者・ラブレーに「欧州の人はキリスト教の考え方に基づいて身を律しますが、宗教教育のない日本人は何を以て道徳とするのですか」と聞かれた。この時新渡戸は応えに窮し、考えた。その時浮かんだのが武士道である。もちろん、武士道以外の道徳もあるのだろうが、武士の子に生まれた新渡戸には武士道が最も身近だったのかもしれない。こうして武士道はアメリカで発行され、大いに売れた。ルーズベルト大統領も武士道を読み、感激し、知人に配りまわったという話も残っている(実際には日本人が本当に武士道精神を持っているのか疑問だったらしいが)。曰く、「忠の部分以外は役に立つ。忠の部分は、君主を国旗と入れ替えて読むとよい」。また、新渡戸はこの時期「農業本論」という本を著し、農業博士の学位を得ている。

 農学本論には、彼が農学を専攻した理由が書かれている。それによると、彼が農学を専攻したのは、一般に言われているように聖書に感化されたからだけではなく、彼が、文系科目は得意であったが、理数系科目が苦手であり、開拓関係の学問の中ではあまり理数系科目を必要としない農学に目をつけたからだということである。苦手科目を避けたともいえるが、適性とは重要なものである。

 一高校長時代の話も多く残っている。当時一高にはバンカラ主義がまかり通っていたが、新渡戸はそのような主義の見直しを提唱する。そして社会性の重要性を説いた。このような新渡戸に、同感する学生と反発する学生に分かれたのである。また、新渡戸は、大逆事件で死刑にされた幸徳秋水を擁護していた徳富蘆花などを講演に招き、様々な意見を学生に聞かせていた。このようにして、狭い視野から学生たちを脱却させようとしていたのである。

 ところで、新渡戸は野球が大嫌いであったらしい。農学校時代は野球を楽しんでいたらしいのだが、いつの頃からか嫌いだして、いつの間にか、野球は害毒である、とまで言うようになっていた。何が彼を変えたのかは不明である。野球の本場・米国で何かあったのだろうか。

 新渡戸は、自分の教え子で宗教色の強い人物を内村鑑三に預けている。その中には矢内原忠雄(経済学者)、南原繁(東京大学総長)、有島武雄などがいた。

 第一次世界大戦が終結し、1920年、かつての大学の同窓生・ウィルソンの提唱によって国際連盟が設立された時、パリ講和会議日本全権団(団長西園寺公望)の推薦で事務次長に就任する。国際連盟の意義を広く理解してもらうために演説を各地で行ったり、ユネスコの前身である「国際知的協力委員会」の設立に尽力したりした。また、日米間の緊張を懸念し、米国の「排日移民法」の撤廃を求めた。また、米国内で100回を越える講演を行い、日米の平和を説いた。しかし、彼の行動は国際的に理解を得られないだけでなく、日本人からも非難を受け、孤立してしまう。そのような状況の中でも努力を続けるが、1933年カナダのビクトリアで死去。享年71歳。その後、日本は泥沼化した戦争に突入していくこととなる。

 新渡戸は若い頃から「太平洋の橋となる」という志を持っていた(彼が英文学を専攻していたのもこの考えに由来する)。「武士道」によって日本の道徳観念を海外に紹介し、国際連盟事務次長として世界平和を希求し、辞任後も日本を戦争から救うため奔走した。残念ながら最後は努力が実らなかったが、その志は現代の人々にも共有されるべきであろう。

新渡戸をモチーフにした旧5000円紙幣。

(日本銀行ホームページより)

カテゴリー: 歴史人物(日本史) パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です