野口英世

一心不乱に研究に打ち込み、学歴にも金にも頼らず名を上げた明治の秀吉

野口英世は1876年に会津の農民の子に生まれた。生まれた時の名前は清作と言った。当時の農民は江戸時代よりも厳しい生活をしていたとも言われ、野口一家もその例に漏れず貧しい家庭たった。父親は飲んだくれで家庭の生活をほとんど省みず、野口を育てたのは母親のシカだった。

シカはずっと畑で働いていたので、つきっきりで野口の面倒を見ることはできなかった。そのため、悲劇が起きる。ある日、野口がいろりの中に落ちてしまったのだった。シカがすぐに気づいたため命には別状なかったものの、左手が焼け爛れてしまい、左手が不自由になった。このため人からは、ずっと「てんぼう(手が不自由である)」と言われ、からかわれ続けた。しかし、野口はめげることなく勉学に励んた。これは、シカが手が不自由で畑仕事ができない野口に勉学に専念させたからでもある。

シカはずっと畑で働いていたので、つきっきりで野口の面倒を見ることはできなかった。そのため、悲劇が起きる。ある日、野口がいろりの中に落ちてしまったのだった。シカがすぐに気づいたため命には別状なかったものの、左手が焼け爛れてしまい、左手が不自由になった。このため人からは、ずっと「てんぼう(手が不自由である)」と言われ、からかわれ続けた。しかし、野口はめげることなく勉学に励んた。これは、シカが手が不自由で畑仕事ができない野口に勉学に専念させたからでもある。

野口は母の期待によく応え、小学校で素晴らしい成績を収めた。しかし、貧乏な野口家には上級の学校に行くお金がなかった。そんなところに高等小学校(今の中学校)の先生であった小林栄という人が現れる。小林は野口の成績を見て、野口の学費を出して高等小学校に行かせることにする。ここでも野口は期待に応え、片道6キロの道のりも苦にせず、欠席せず学校に通った。

高等小学校でも野口には理解者が現れた。ある時、作文で自分の手のことを書くと、教師や生徒たちが感動(同情)し、お金を出し合って治療をさせてやろう、ということになったのだ。そこで野口は渡部鼎という医者に診てもらうことにした。そして手術の結果、とりあえず左手が動くようになった。

こうして左手の治療を受けた野口は、医学の道を志すようになる。当時は医師になるのに二つの道があった。一つは大学(東京帝国大学、現在の東京大学)の医学部や医学の専門学校を卒業する、もう一つは独学で医学を修め、国家試験に合格する、というものである。今の運転免許の制度に似ているかもしれない。ちなみに、現在は医師免許は大学の医学部を卒業しなければ取得できない。当時と違い医学部のある大学も多いし、奨学金制度も整っているのだが。帝大を出るのはかなりお金がかかり、野口には無理な話だった。そこでもう一つの方法、独学で医学を修める、を採る。まず、渡部鼎に弟子入りを志願した。当時はこのような若者が多く、野口も受け入れられた。

なんとか医学者への第一歩を踏み出した野口だが、生活は楽ではなかった。居候の身なので、まず雑用からこなさなければならなかった。さらに野口は新入りなので、先輩たちに雑用を押し付けられるのでさらに仕事が増える。そのような中で、国家試験に合格するための勉強もしなければならない。しかし、国家試験はとても難しく、合格に数年かかると言われていた。今でも医学部を卒業(修了)するのは6年なので、特に驚くには当たらないかもしれないが、そのように時間がかかるのが普通なので、先輩たちもゆっくり構え、結構遊んでいた。そのような誘惑にも打ち勝たなければ勉強はできなかった。

このような様々な障害にも負けず、野口はひたすら勉強に打ち込む。さらに野口にとってよかったのは、野口が弟子入りして半年後、吉田という青年が渡部に弟子入りしたことだ。この吉田もまた優秀な人物であり、野口と吉田が特に優秀であることを感じた渡部は二人を同じ部屋に住まわせた。こうして二人は身近にライバルを置くことになり、切磋琢磨していく。また、渡部の病院には漢文の書物が多くあり、さらに英語やフランス語、ドイツ語の先生までいたので、勉強するには環境が整っていた。このような環境で野口は1日3時間しか寝ない、といわれるほど勉強し続けた。驚く吉田がいつ寝るのか、と聞くと、「ナポレオンは3時間しか寝なかった」と答えたそうである。恐ろしい集中力であった。

1894年日清戦争が始まると、衆議院議員でもあった渡部は軍医として戦場に赴くことになった。留守中の責任者に抜擢されたのが野口だった。留守中は、渡部の正妻と愛妾の争いに巻き込まれ、先輩たちの嫉妬を受けながらも勉強を続けた。

この時期、野口に面白い話が残っている。野口の初恋物語だ。ある時、野口は美しい女学生を見つけた。誰かと知り合いに聞くと、没落した名家の娘だとか。しかし、時代は明治の世。身分なんて関係ない!ということで野口はなんとか自分の恋心を相手に伝えようとした。しかし、今のように直接告白!ということはしなかった。彼は、相手方の家に、彼女の親友の名を方って手紙を送った。しかも漢文調で。かっこいい、と言いたいところだが、相手は15,6の娘。漢文は理解できず、結局野口の真意は伝わらないまま、この話は終わった。・・・と言いたいのだが、同じ事を続けた野口は気味悪がられ、文句さえ言われてしまった。恋愛の仕方も方法次第、ということだろうか。

渡部が戦場から帰ってくると、一人の人物を紹介される。東京で医者をしていた血脇守之助という人物である。当時は会津で臨時の医者をしていた。そのころよく渡部のところに遊びに来ていた血脇は野口とも親しくなった。この縁で、野口が国家試験を受けるために渡部の下を離れて東京に行くと、血脇のもとに身を寄せた。

ここでも野口は持ち前の勤勉ぶりを発揮する。野口は居候であったため、いろいろ雑用をこなさなければならなかったが、それでも勉強を怠ることはなく、時間を無駄にはしなかった。ただ、実は東京に出てきた当初は血脇のもとに身を寄せる計画はなかったのだが、遊びまわるなど無駄遣いを重ねてしまい、結局血脇に頼るしかなかったのだった。お金に関しては浪費癖が激しかった。そして、この浪費癖は一生野口について回ることになる。普通の人間はお金の浪費はせず、時間の浪費をするものだが、この点野口は大物であったのかもしれない。

さらに、野口は意外な?才能をも発揮する。野口はドイツ語を勉強するため、月1円必要だったので、血脇に無心する。しかし、血脇の月給は4円。とても捻出できる額ではない。そこで野口は病院の理事長に給料を上げてもらうよう提案する。少ない中から捻出する方法を考えるのではなく、全体を多くすればよい、ということだ。結局血脇の給料は3円上がり、血脇は野口に月2円与えることにした。
また、臨床(実技)の勉強をするため、専門学校に行くために着き15円必要になった。これも血脇の7円では無理。そこで野口はまた提案する。「理事長の経営する赤字続きの病院を経営させてもらって会計から15円回してください」と。ここまで来ると犯罪のような気もするが、また血脇は理事長のもとに行き、了承を得る。これで野口は臨床の勉強もすることができ、国家試験に合格した。

 さて、その後野口はどうしたかというと、しばらくはそれまで世話をしてくれていた血脇のもとに身を寄せるが、やがて順天堂医院という私立の病院に移る。野口の野望は、単に医者になるだけでなく、日本一の医学者になる、というところまで膨らんでいたので、より素晴らしい医者のいる順天堂に移ったのだ。
ここで、野口は臨床(実際に患者を診察すること)はあまりさせてもらえなかったが、代わりに医学の雑誌を編集する仕事を与えられた。野口もかなりこの仕事にやりがいを感じ、次第に編集に関する中心的な仕事も任されるようになった。自分から論文を書くようにもなった。この仕事が、後年、論文を発表する上で大きな財産になったといわれている。

そんなある日、野口は細菌学に関する本(洋書の原書)を手にとった。実は、野口はこの本を翻訳してお金にしようとしたのだ。しかしながら、無名の人間が翻訳した本など、そう売れるわけもない。この計画は挫折するが、野口にとっては大きな収穫になった。この本を精読することで細菌学を専攻することを決意したのだった。
当時、細菌学は医学の花形で、しかも野口は、左手が不自由だったので臨床が苦手で、研究を志していた。当時の細菌学の大家といえば、日本人では赤痢菌を発見した志賀潔ペスト菌を発見した北里柴三郎などが挙げられる。今で言うと癌の研究くらいにあたるのかもしれないが、その注目度は比べものにならないらしい。

当時、細菌学を学ぶには、東京帝国大学と伝染病研究所の二つの道があった。伝染病研究所とは、先述した北里柴三郎が、帝大しか認めない東京帝大の古さに反発して作った研究所である(北里は帝大出身だったが、帝大に残らず、官吏として医学を発展させる道を選んだ。このあたりも、北里の進歩的な考えが伺える)。しかし、帝大は言うまでもなく、伝染病研究所の方ですら、帝大万能の組織だった。したがって、野口が入るのはかなり無理があった。しかしながら、血脇や、順天堂医院の先輩の奔走で何とか入ることができた。

しかし、入ったはいいが、やはり帝大万能(今でも医学界は学歴がモノをいう封建社会らしい。他の学問分野ではほとんどありえないことなのだが)。与えられる仕事は雑用ばかり。野口はすっかり腐ってしまう。そんなところに、アメリカからフレキスナーという教授が研究所を訪問しに来た。この時、英語のできる野口が通訳の任に就いた。せっかくの機会を逃してたまるか、と言わんばかりに自分を積極的に売り込む。最後に野口が教授に「自分もいつかはアメリカに留学してみたいのですが」と伝えると、教授は「その時は私も力添えができるかもしれません」と返した。普通に考えると、社交辞令にしかとれないのだが、野口は真に受けてしまう。このことがまた、野口の人生を切り開いていくことになる。それはともかく、何とか無事に教授の接待を終えることができたのだった。

しかしながら、この後、研究所で野口の居場所が次第になくなっていく。というのも、学歴万能の組織の中で野口が軽視されていた、ということに加えて、野口自身が公私の区別を付けられない性格で、重要な本を勝手に持ち出した上、紛失したりして、同僚の反感をかっていたからだ。そんなところに、北里柴三郎所長が野口に横浜の検疫所に移ることを勧める。居心地悪く感じていた野口もこれに応じ、研究所を去ることになる。

横浜検疫所に移ると、野口はいきなり大仕事を成し遂げる。なんと、日本で初めて、ペスト患者を発見したのだった。野口がこの患者をペストと断定しなければ、国内にペストが流行していたかもしれなかった。
しかしながら、どうも、これだけで、野口が凄い、とも言い切れないようである。この時同僚も一応ペストの可能性も疑っていたが、断定をすることができなかったのだ。野口にしても、一度もじかにペスト患者と接したことがなく、断定するのは困難であったと考えられる。一般に、学識のある者ほど容易に断定をしないらしく、この話はむしろ野口の若さを示している、と言えるのかもしれない。

しかし、このペスト患者発見で、野口はその名を知られることになる。このこともあってか、北里に、清国訪問医師団に推薦されることになる。この医師団は当時の日本のエリートたちの集団で、野口がいかに北里に買われていたかわかる。当然野口もこの話を承諾し、清に渡る。この清でも野口のエピソードは多く残っている。。

その一つが、野口の中国語習得の話。清に行くまでの間、他のメンバーたちは必死に辞書と格闘していた。今の我々と同じ感じだろうか。しかしながら、野口は中国人船員と積極的に交わり、生の中国語に触れようとした。結局、野口は清に行くまでの間に簡単な中国語は話せるようになってしまった。このことで、他のメンバーにはない武器を手にすることにもなった。この点、我々も学ぶことがあるだろう。

また、清国では、他のメンバーたちは、もともと学者として招かれていたので、あまり臨床をしなかったのだが、野口は積極的に臨床に携わった。これには、日本ではほとんど臨床をさせてもらえなかった、という事情もあるのだが、臨床をしない他のメンバーと対照的に、清国の人には野口が素晴らしい医者に見え、実際に多くの人を救ったので、感謝状さえもらうことになった。船内で習得した中国語も役に立ったのだろう。

しかし、いいことばかりではなかった。野口は横浜の時の6倍以上の高給を得ていたのだが、遊んでばかりで、ほとんどお金は貯まらなかった。ここでお金を貯めて、アメリカ留学の資金にしようと考えていたのにも関わらず。アメリカに行く時、野口はこの時の1月分の給料で行っている。このくらいのお金も貯められなかったのだ。お金をあるだけ使ってしまう、貯金の苦手なタイプだったのだろう。野口に言わせれば、金は天下の回りモノ、くらいに思っていたのかもしれないが。このあたり、なぜか野口には計画性というものに欠けていたようだ。この欠点が、後々も野口に災いを(そしてなぜか幸運も)もたらすことになる。

清国から帰国した野口は、アメリカに留学しようとする。留学資金は、清国で貯まっているはず・・・なのだが、結局貯まらなかった。それでも、野口は強硬に留学することを考える。できることは一つ、借金だ。まず、故郷の同窓生に借りようとするが、恩師・小林栄が「いつも人に頼ってばかりでは人間として偉くなれない。大学者たらんとするならまず人間として立派になるべきだ」と意見したので、見送る。
しかしながら、いままでスポンサー頼みで生きてきた人間が急に自立できるわけもなく、やはりスポンサーを探すことを考える。もっとも、スポンサーというのも、相手に対する投資なのだから、必ずしも悪いわけではないと思うが。で、落ち着く先はやはり血脇だった。結局、血脇は知人の伝で、留学資金をかき集めてきた。これで野口も何とかアメリカに行くには行けることになった。

・・・が、ここで何とも信じられない事件が起こる。横浜検疫所の同僚が野口のアメリカ渡航を祝ってくれることになったのだが、そのお金を野口が全て払うことになったのだ。何と言っても野口はお金を持っていた。ハメをはずした野口たちは超のつく乱痴気騒ぎを続け、野口のお金をほとんど使い切ってしまった。このお金は血脇が出したものだった(実は、野口にほれ込んだ人が自分の娘と結婚する結納金として提供したのだが)。
もともと野口は自分でお金を稼ぐことがあまりなくスポンサーに頼ることが多かったので、まともな金銭感覚というものがなかったのだろう。二世経営者などが失敗するのもこの辺りに原因があるのだろうか。

とにかく、事の次第を血脇に告げざるを得ない。恐る恐る血脇に切り出すと、血脇もさすがに呆れてしまったようだった。しかし、血脇も野口にほれ込んでしまった一人。今更諦めろとも言えず、高利貸を回って何とか資金を集める。さすがに、出航まで野口にお金を渡すことはなかったが。

この時の血脇にも面白い話が残っている。後年、血脇は息子にこういったと伝えられている。

女に惚れてもいいが、男には絶対に惚れるな。女に費やすお金などたいしたものではないが、男に吸い取られると底がない

こう言わしめた野口も立派だが、こう言い切った血脇も、野口のよき理解者であった大人物と言える。野口の活躍は、母・シカや小林、渡邉鼎、そして血脇というよき理解者の支えの上に成り立っていた。このことも野口を語る上で見逃せない。この点は、どのような大人物にも共通のことだろう。それにしても、同性異性問わず、本当に人に惚れる、ということが、いかに覚悟を必要とするか改めて思い知らされる話でもある。軽々しく惚れるだの惚れないだの言うのが恥ずかしくなる。

とにもかくにも、今度こそ、アメリカに出立できるようになった。こうして、野口は、学歴秩序から離れて、実力主義の国、アメリカに希望を求め、旅立っていった。

さて、アメリカに留学した野口だが、早速問題に直面する。行き場がなくなってしまったのだ。というのも、もともと、留学する場合は、相手大学と連絡を取り、誰に何を教えてもらうかをあらかじめ決めておくのが普通だが、野口はそれをせずに行ってしまったのだ。行った先は、かつて通訳をして「アメリカに来たらお世話しますよ」と言っていたフレキスナー教授。しかし、社交辞令のつもりだったので、教授も驚く。当然のことながら、教授は大学に入れることはできないと言う。しかし、教授も人間、お金がなく、宿さえ決まっていない野口に一番安い宿を探してきた。

こうして、アメリカに来るや否やピンチに陥ったが、野口は諦めなかった。連日教授のところに行って採用の口を頼み込む。そして、結局、野口の粘り強さに教授が参り、教授が個人的に助手として採用することになった。

このときのエピソードが面白い。教授は血清が専門で、毒蛇についての知識がある助手を求めていた。そこで野口に「毒蛇の知識があるなら助手として採用しよう」と申し出た。野口はそのような知識は全くないのだが、なんとか食らいついていくため、知っていると答え、採用されたのだった。もっとも、月給はとても安く、なんとか食いつないでいくことができる程度だったのだが。

何はともあれ、アメリカに残ることができた野口は、教授の助手として働き始める。野口の仕事は毒蛇の飼育と取り扱いだった。命がけの仕事だが、野口は引けないとばかり必死に取り組んだ。そして、また、野口に転機が訪れる。

野口が採用されて1ヵ月後、フレキスナー教授が出張することになった。その間、野口は免疫学の権威であるミッチェル博士に教えを乞うことができた。そして、フレキスナー教授が帰ってくるまでに、毒蛇の文献を網羅したレポートを作成し、フレキスナー教授に提出したのだ。このレポートは、まことに分かりやすく、問題点なども的確にまとめられていて、教授も野口の能力を認めた。こうして、野口は本当に教授の弟子になったのだった。もちろん、レポートを作成する間、野口は昼夜問わず図書館にこもりっきりで、閉館日までも頼み込んで勉強したというほど努力をしたわけだが。

こうして、頭角を現し始めた野口は、渡米して4ヵ月後に学会で発表する機会を与えられる。今でもそうだが、封建社会の日本医学界ではありえないことだ。野口の努力もさることながら、いかにアメリカが能力に対して寛容であるかわかる。こうして、野口は学者としての道を踏み出すのだった。

この後も不眠不休の努力を続け、今度はアメリカの一流学者が集まった学会で、ミッチェル博士と発表する機会も与えられた。こうして、野口の名はアメリカ中に知られていくことになった。このことは、日本にも知られ、野口は日本の学者の鼻を明かすこともできたのだ。

このように努力を続けていた野口にさらなる転機が訪れる。米国の石油王・ロックフェラーが医学研究所を設立し、フレキスナー教授が所長に内定し、野口がその助手に選ばれ、経験を積むためにヨーロッパに留学することになったのだ。こうして、野口はさらなる経験を積むことになった。

ロックフェラー研究所のメンバーになった野口は梅毒の研究に取り掛かる。ここで、野口は次々と新たな発見をして、アメリカ中のみならず、世界中に名を知られるようになった。日本からも留学生を受け入れる身となった(ただし、東大への反発心からか、同大学からの留学生は受け入れていない。東大の方も、野口を全く認めていなかった)。日本を代表する学者としても認められたのだ。実際に日本に帰ったときも日本中上げての大歓迎だった。

そして、ついに野口は最大の敵と対することになる。世界中を震撼させた黄熱病である。

まず、野口は南米のエクアドルを訪れる。そこで、いきなり野口は黄熱病の病原菌らしき細菌を発見する。その病原菌からワクチンを作ってみたところ、黄熱病にかかったものはいない、ということで、さらに野口の株は上がった。さらに、黄熱病の脅威にさらされていたメキシコに行く。そこでも野口の恐るべきエピソードが残っている。

メキシコはもともとスペインの植民地で、スペイン語が話されている。野口は、アメリカから汽車で7日間かけてメキシコに行くのだが、なんと、その間籠りっきりでスペイン語を話せるようになり、最初のスピーチもスペイン語で話したのだった。中国に行った時もそうだが、野口の集中力と語学の能力は驚嘆すべきものがあると言える。

野口はメキシコでも成果を上げ、アメリカに戻る。その頃、日本から一人の人が野口の元を訪れた。野口が上京してからずっと面倒を見てきた、血脇守之助である。野口は今までの恩を返そうとばかりにアメリカ中を案内した。なんと、大統領まで訪問した。

しかし、この後、野口は次第に学者として苦しい立場に立たされる。前の黄熱病の病原菌の発見が、実はよく似ているワイル氏病の病原菌ではないか、と批判されたのだ。野口は満足な反論をすることはできなかった。そこで野口はワクチンの効かなかったアフリカに行くことになる。

アフリカでも、野口は、独善的であったが、精力的に研究を行う。しかしながら、独善的であったが故に、なかなか仕事が進まなかった。それでも、なんとか目途がたって、アメリカに帰国しようとする間際に黄熱病に感染してしまう。最初は軽かったものの、感染後も研究を続け、容態を重くしてしまい、アフリカで亡くなってしまう。享年53。

野口の晩年は、自信過剰と、学者としての名声を維持するための焦りに追われて、むしろ不幸であったと言える。現在、野口の学者としての業績は、我々の野口に対するイメージほどではないとも言われる。それも、野口が焦りすぎたからともいえる。

結局、野口が発見した黄熱病の病原菌らしきものは、ワイル氏病の病原菌と解明された。黄熱病は、野口の死後、電子顕微鏡の発明により、発見された。野口が使っていたのは、我々が学校の理科室などで使う光学顕微鏡だった。黄熱病の病原菌はウィルス、つまり細菌より小さい菌で、光学顕微鏡では発見できなかったのだ。

しかし、野口の欠点より、その偉大なる長所に目を向ける必要がある。その集中力、努力を惜しまぬ学問への姿勢、親孝行、などなど。そして、コンプレックスの払拭。

多くの人が、何らかのコンプレックスを負っている。しかし、それを乗り越えなければ、満足に生きていくのはは難しい。野口は、そのコンプレックスを何重にも乗り越え、偉大なる業績を築いたのだった。

その一方で、自らの考え方が保守的でないかを常に見直す必要がある。保守的であることが常に悪いわけではないが、学閥などがあまりに排他的になると、本当に優秀な人材を確保もできないし、全体的な発展も見込めない。常に先進的な考え方をすべき。これも、野口と当時の日本の学界が残した教訓ではないだろうか。

ともあれ、野口は現在、紙幣のモチーフとなったり、伝記の人気タイトルとなったり、偉人の代表として今も我々に多くのことを教えてくれている。

野口をモチーフにした1000円紙幣
(日本銀行ホームページより)
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