荻原重秀と新井白石

日本の歴史をひも解いていると、一般的に認知されている限り、不当に評価を下げられていると思われる人物が多く存在します。

有名なところでは石田三成田沼意次新田義貞広田弘毅、カウナスでの善行が世に知られる前の杉原千畝氏などもそうかもしれません。

彼らに対する批評に共通しているのが、何をしたか、より賄賂をもらったとか傲慢である、腰抜けであるなどの人格面での評価が先に来ること。

英雄の評価は業績重視であるのと正反対です。

歴史は勝者によって作られるといいますが、事実がある以上業績を完全否定するのは難しいので、人格否定から始める、ということなのでしょうか。

さて、ここにもう一人名前を連ねたい人物がいます。

その名は、荻原重秀。江戸元禄期の貨幣改鋳、一般的には貨幣改悪を行った人物として知られています。

僕の認識では、明暦の大火による家康以来の貯蓄の費消や徳川綱吉の浪費に伴う江戸幕府の財政難を救うために貨幣改鋳で貨幣を粗悪化し、通貨発行益で幕府の財政を救った一方、インフレで庶民を苦しめた悪人、といったところでした。

一方、最近知ったのですが、この政策は管理通貨制度の先駆けであり、経済の実態に合わせた量の通貨を供給し、経済の運営を円滑化するという側面があったそうです。

そこで、その責任者である荻原重秀に関心が出て、関連する歴史小説を読んでみました。

重秀は元は小身の武士で、勘定所(現在で言う財務省といったところでしょうか)の平職員でした。

しかし、若いころから資料を読み込むなどよく勉強し、上役にも意見をはっきり述べていました。

そのようなところを買われて、少しずつ上役に目をかけられ、その評価は老中(今でいう首相?)にまで届きます。

彼には実は貨幣改鋳以外にも多くの実績があるのですが、最初の実績として知られるのが畿内の検地です。

太閤検地以降検地が行われていなかった畿内ですが、幕府財政の改善のためにも正確な石高を把握したいこところ。しかしながら、現地では代官と農民との癒着も見られ、その抵抗は大きいものでした。しかし、重秀はそれにもめげず、周辺大名の力も利用しながら、また、代官の処分も辞さず、ついには検地をやり遂げました。

さらに、金の産出量が落ちてきた佐渡の経営を佐渡奉行として経営改善に乗り出したり、長崎貿易の促進とそれに伴う税収入の増加などの取り組みを行い、江戸幕府の財政を支えました。

しかし、前述のように、彼の最大の業績は貨幣改鋳であり、彼の「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。今、鋳するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙鈔に勝る。これ遂行すべし。」という言葉は、管理通貨制度の先駆けとして知られています。

ちなみに、近代日本が金本位(兌換)制度を廃止し、管理通貨制度に移行したのは1931年であり、ある意味で時代を200年以上先取りしていたと言えるかもしれません。

しかしながら、通貨とはそれ自体に額面と同等の価値がなければいけない、と考える従来の価値観からすると、彼の施策は信じられないものであり、まさに悪行でした。

その代表格として扱われるのが、後に彼の政敵となり、最終的に彼の政治生命を断ち切った新井白石です。

白石は儒者であり、独学で聖人の道を探求していたところ、豪商の河村瑞賢に見いだされ、大学者の木下順庵の門下となり、後の将軍、徳川家宣の講師となり、後に側近として幕府の政治を左右することになります。

しかし、綱吉死後も幕府随一の財政課である重秀は留任することになり、価値観が合わない白石は執拗に重秀を陥れようとし、ついには重秀は罷免されることになります。

その後、白石と同じく家宣の側近である間部詮房は正徳の治と呼ばれる政治を行いましたが、白石は商業を蔑視したため、経済運営については失敗した、という評価もあるようです。

ちなみに、重秀の賄賂をたくさんもらっていた、というのは白石が重秀を陥れるために流した話で、それ以外にも多くの策を弄しており、聖人の道を追求していたという割にはやっていることは悪魔です(この辺りは史実みたいです)。

まあ、白石には白石の正義があったのかもしれませんが、少なくとも本書の中では白石は極悪人で、現実がわかっていない人間として扱われています。

少なくとも本書を見る限りでは、重秀に大いに共感するところであり、また、河村瑞賢のようにビジネスで社会を大きく変えて、社会に貢献できるようになりたいと改めて思いました。

同時に、白石のように世の中を特定の概念でとらえたり、抽象的な言葉だけで把握しようとして現実離れした思考に陥ることは避けたいと思いました。何事も具体的な、自分の言葉で考えるように心がけようと思いました。

月華の銀橋 勘定奉行と御用儒者/高任 和夫
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武田勝頼

名将の後を継ぐも時代の波に飲み込まれた悲運の武将

「武田」になり切れなかった武田家当主

武田勝頼は、一般に武田家を滅ぼしてしまった当主として捉えられる。
確かに、勝頼の代で武田家が滅亡したのは事実であり、そのトップとして責任を追及されるのは仕方のないことである。
しかし、それだけで勝頼が愚将と言い切ることはできない。では、勝頼はどんな人物だったのか。

武田勝頼は、1546年に武田晴信(信玄)と諏訪御料人(諏訪頼重の娘)の子として生まれた。信玄の四男に当たる。
諏訪家はもともと信濃(長野県)の名家として知られているが、頼重の代に信玄に滅ぼされた。しかし、信玄は諏訪家やその家臣などを懐柔するため、頼重の娘を側室とし、その子を諏訪家の当主とすることとした。それが勝頼である。つまり、勝頼は当初より武田家の人間というより諏訪家の人間として見られていた。

成長すると正式に諏訪家(実際には庶流の高遠家とも)を継ぎ、高遠城主となる。この高遠城は、後に勝頼にとって大きな意味を持つ城となる。
この時に「勝頼」を名乗っているが、「勝」は父・信玄の幼名「勝千代」からの偏諱で、「頼」は諏訪氏の通字であるといわれている。

初陣でも勝頼は活躍し、信玄を喜ばせる。ただ、勝頼が自ら先頭に立って戦ったため、信玄にたしなめられたという話もある。

1565年には、信玄が今川家・北条家との同盟を破り、今川家を攻撃しようとしたことに対し反対した兄・義信(妻は今川家出身)が幽閉され、その後死去した(自害とも病死とも)。二人の兄は早くに死去したり盲目だったりしたため、勝頼は次期武田家当主候補として急浮上した。
ちなみに1565年には、武田家を恐れる信長が養女を勝頼の正妻にと申し入れ、勝頼と結婚している。二人の間には信勝が生まれたが、間もなく妻は病死し、両家の婚姻関係は消滅する。

その後、北条家との戦いでは、北条氏照の居城・滝山城攻めや撤退時における三増峠の戦いなどで奮戦している。滝山城の戦いの際には、北条氏照と直接戦ったとの逸話もある。二人とも武芸には自信のある武将なので、さもありなんという感じの話ではある。

この頃、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、信玄の眼は西を向く。

北条家との激闘の末、1570年には駿河を奪取。そして、2年後、北条家と同盟を結び(1571年に北条氏康が死去し、後継の氏政が同盟を復活)、信玄は西上作戦をとる。

織田信長と同盟を結ぶ徳川家康と武田軍は、家康の居城・浜松城近くの三方ヶ原で激突。勝頼も部隊を率いて突撃する。結局、この戦いで徳川軍は散々に追い散らされてしまう。

しかし、三方ヶ原の戦いの直後、信玄は急死。「後継は勝頼の信勝であり、勝頼は信勝が成人するまで後見すること。3年間喪を秘すこと」と遺言を遺した。この遺言が勝頼の足かせとなる。
ちなみに遺言の中では勝頼が武田家の旗を使うことも禁じている。信玄は勝頼を後継者に指名はしたものの、やはり諏訪家の人間としてみていたようである。

 

若き武田家当主

信玄の死後、武田軍は甲斐に引き返す。信玄は喪を秘すように命じたが、この不自然な撤退は信玄の死を各地の武将に推測させた。
信長や家康は、これを好機にと調略の手を伸ばしている。
一方、信玄のライバルであった上杉謙信は、これを好機に武田家に攻め入るべきとの進言を「人の不幸に付け込むのは義に反する」として退けている。

勝頼は武田家の正式な当主ではなかったうえ(名目上は期限付きの仮当主だったうえ、3年間は信玄は生きていると扱われている)、諏訪家出身であることや信玄が家督を譲っていなかったため後継者としての経験・名声に乏しかったため、家中をまとめるのに時間がかかったが、しばらくして勝頼も反撃に出る。

1574年には美濃(岐阜県)の明智城を攻略。続いて、信玄も攻略できなかった遠江(静岡県)の高天神城を攻略。勝頼の名声は一気に高まった。ただ、この高天神城の攻略が勝頼を驕らせ、より攻撃的にさせたという指摘もある。また、この城は後の悲劇の舞台でもある。

 

長篠の戦い

高天神城の落城に危機感を覚えた家康は信長に援軍を要請。武田軍と織田・徳川連合軍は三河・長篠で激突。長篠の戦いである。連合軍約38,000、武田軍約15,000。

天下に名高い武田の騎馬隊を恐れた信長は、大量の鉄砲を準備するとともに、陣に馬防柵を築いた。一方、長篠城を囲んでいた武田軍は、一部戦力を残し、連合軍に相対する。

この時期は梅雨の時期に当たり、鉄砲の使用に適していなかった。一方、地面がぬかるんでおり、騎馬隊にとっても有利な状況ではなかった。

一般に、信長の大量の鉄砲と三段撃ちにあっけなく勝敗が決したと認識されている長篠の戦いであるが、事実はそうではない。戦いは8時間の長時間に及んでいるし、武田軍の戦死者は約1,000名で、そのほとんどが追撃の際に被った被害であるとされている。そもそも、鉄砲で狙撃されるとわかっていて何度も突撃を繰り返すなど、絶対的権力を握っていない勝頼には難しい。

なぜ武田軍は圧倒的に兵力で勝る連合軍と戦ったのか。この理由には諸説ある。
勝頼が重臣たちの反対を押し切り強硬策をとった、武田軍全体が騎馬隊の力を信じていた、梅雨時であり、鉄砲は役に立たないと判断した、信長の謀略にかかった、など。

理由はともあれ、武田軍は8時間にわたって勇敢に戦った。
しかしながら、兵力差や酒井忠次の奇襲、武田一門の早期の戦場離脱などによって、多くの名将を失い敗北した。
長篠で失った主な人物には、山県昌景馬場信春内藤昌豊、真田信綱・昌輝(共に真田昌幸の兄)、原昌胤など重要な人物が多く含まれている。

長篠の戦いによって、武田家が失ったものは大きかった。物的な損失はもちろん、武田家を信玄時代から支えた多くの重臣、そして何より武田家無敗伝説の終焉である。

ちなみに、この時点で上杉謙信はまだ健在。武田・上杉両家が連合して戦いに臨んでいたらどうなったか、というのは興味深いものである(なお、信長に京都を追放され、毛利家に庇護されていた足利義昭が武田・上杉・北条を和睦させ、織田家に対抗する構想を立てていて、実現間近であったが、最終的には実現していない)。

 

上杉謙信の死去と御館の乱、北条氏との決別

その上杉謙信は、長篠の戦いの後、織田家に戦いを挑み、柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦いで破るも、1578年に急死する。

上杉謙信は生涯結婚せず、養子を二人取っていた。一人は一族の上杉景勝、もう一人は北条氏康の息子で上杉家に人質を兼ねて養子になった上杉景虎(北条氏政の弟。異説あり)である。
謙信はまだ自分が健康であると思っていたのであろうか、後継については遺言もなく、景勝が一方的に後継を称した。当然景虎は納得できるわけもなく、上杉家を二分しての争いになった。御館の乱である。

武田家と北条家は同盟関係にある上、前年には氏政の妹を正妻として迎えていたため、当初は景虎に味方し、和睦を試みたが失敗に終わる。
上杉家の半分を味方にし、北条・武田の後ろ盾がある状況では、景虎が圧倒的に有利。
そこで、景勝は勝頼を味方につけようと試みる。すなわち、大量の金の贈与、上野領の割譲、武田・上杉両家の縁組である。

武田家は金策に困っていたのは事実であり、この条件は非常に魅力的であった。しかし、北条家を裏切ると、世間の誹りを免れないだけでなく、北条家を敵に回し、織田・徳川・北条の大勢力に包囲されることになる(もちろん、越後を手に入れた北条家が後に武田家と手を切らないという保証はない)。味方は疲弊した上杉家だけ。

勝頼も迷ったであろうが、結局上杉景勝を選ぶことになる。
これを受け、景勝は景虎に猛攻を仕掛ける。北条氏照・氏邦軍も景虎を救おうと懸命であったが、景勝軍の妨害を受け進軍できず、結局景虎は自害して上杉家の内紛は幕を閉じる。

 

北条家との死闘、最大版図の形成

北条家を敵に回した武田家は、北条家と対抗するため、北条家に対抗する佐竹家や里見家など関東の諸勢力と同盟を結び、逆に北条包囲網を作り上げていく(甲佐同盟)。
関東においては優勢に勢力拡大を続け、ついに上野の要衝・沼田城の奪取に成功する。
また、武蔵にも侵攻し、北条家に対して攻勢に回っていた。
御館の乱の過程で越後にも拠点を確保しており、武田家が最大版図を築いたのは実は長篠の戦いの後であるこの頃である。


高天神城落城直前のざっくりとした武田家の版図はこんな感じである(絵心はご容赦)。
北は新潟県糸魚川市・魚沼市(越後)、東は群馬県沼田市(西上野)、西は長野県(信濃)を抑え、南は静岡県掛川市(遠江・高天神城)に至る。

 

織田家との和睦の失敗と高天神城失陥

しかし、各地において戦いを続けていくためには多額の費用が必要で、それは領民や家臣たちに大きな負担となっており、確実に武田家の体力は弱まっていた。
また、勝頼は織田家との和睦を模索していたが甲江和与・甲濃和親)、あくまで武田家を滅ぼすことを考えていた信長は和睦を拒否している。

武田家の体力低下を好機と見た徳川家康は、高天神城の奪回に取り掛かる。
勝頼は援軍を送りたかったがその余力もなく(信長との和睦交渉をしていたため、信長を刺激する援軍の派遣ができなかったとも)、1581年に高天神城は、一部の生還者を除くほぼ全員の戦死という悲惨な結末を迎える。7年前に勝頼に名声をもたらした城は、この時勝頼と武田家の威信を致命的に失墜させた。
これ以降、家臣・国人たちが武田家から離反する動きが顕著になっていく。

この時期、勝頼は織田・徳川軍の侵攻に備えて甲斐国内に城(新府城)を築いた。築城の目的には、従来の豪族の寄合所帯から、武田家への集権という目論見があるという説もある。
しかし、築城によって生じた負担は大きかったし、また、甲斐国内に城を作らないという信玄以来の伝統が覆されたことにより、一層武田家の信用はなくなっていく。

 

甲州征伐と武田家の終焉

1582年2月、満を持して織田・徳川・北条連合軍は武田家に侵攻。
勝頼の義弟・木曽義昌を謀略で降伏させ、信濃国内に乱入。武田家への信用を失っていた家臣団は一気に崩壊。信玄の弟である武田信廉は城を捨て逃亡した。
さらに間の悪いことに、2月14日に浅間山が噴火。浅間山の噴火は不吉であるとされ、武田軍の士気は低下した。

勢いを増した信長の嫡男・信忠率いる織田軍は、勝頼のかつての居城・高遠城に到達。城を守っていた勝頼の弟・仁科盛信(信盛)に降伏勧告を行うも、盛信は拒否。激闘が繰り広げられた末に落城。盛信は自害した。
この戦いが、滅びゆく武田家最後の勇姿であった。

信濃で武田家の勢力が侵されていく中、武田軍からは逃亡者が続出し、軍を維持できないまでになった。しかも、一族の筆頭・穴山信君(梅雪)まで連合軍に寝返り、家臣団の動揺はピークに達する。そのため、勝頼は新府城を捨て逃亡を余儀なくされる。

武田攻めにあたって、信忠が攻勢を続けている中でも、信長は信忠に慎重になるように指示を送り続けていた。
決して信長は武田家を侮っていはいなかったし、どこかで勝頼が反攻にに出ると考えていたが、皮肉にも信長が思っていたより、武田家の瓦解はあっけなかった。

とはいえ、この時点でも勝頼は決して諦めていたわけではなかった。
信頼する従兄弟の武田信豊を北信濃・小諸城に戻し、甲斐に侵攻してきた織田軍を南と北から挟撃しようと考えていた。

勝頼の受け入れを表明したのは、甲斐の名門・小山田信茂と、勝頼の参謀として活躍し続けた真田昌幸。どちらも武将としては一流で、頼りがいのある人物である。
勝頼は、小山田信茂を選んだ。甲斐国内であるということと、武田家との古くからの付き合いということが重視されたものと思われる。

しかし、この選択が仇となった。信茂の判断か否かはともかく、小山田家は勝頼を裏切り、領内に入れなかった。この段階で、武田家の滅亡は決定的になった。
なお、真田昌幸も、他の上野の国人同様に北条家と連絡を取り合っていたともいわれるので、彼を頼っていたら武田家はなお戦うことができたとも言い切れない(ただ、昌幸が勝頼を信長に差し出していたら、逆に信長に成敗されたと思われる)。

勝頼一行は死場所を求め、武田家ゆかりの天目山を目指すが、途中の田野で織田軍と衝突し、勝頼は自害(戦死とも)。享年37。
この戦いで、信長と信玄の孫である信勝も戦死。
天正10年(1582年)、3月11日午前10時頃、信玄死後10年目のことであった。

この頃、破竹の勢いで進撃してきた織田軍は兵糧不足と寒さに苦しんでいたという指摘があり、あと数か月粘ることができていたら、違った展開があったのかもしれない。

勝頼らの首実験を行った信長は、怒りにまかせてその首を蹴ったという話がよく知られている(実際には信長は勝頼のことを高く評価しており、「勝頼は運がなかった」と言ったといわれる)。
また、家康はその首を丁重に扱い、武田家遺臣の心をつかんだと云われる。

 

武田勝頼の評価

勝頼の評価は、主に「甲陽軍艦」に基づき低い評価がなされているが、これは一般に信憑性が低い史料とされており、最近では再評価も進んでいる。
勝頼にとって不運なことは、後継者としての経験と人望を得るための時間が短すぎたこと、領内の金の産出量が減少していたこと、信玄世代の後継の人材が少なかったこと、武田家の中での立場が微妙であったこと、そして何より、信玄が偉大すぎたことである。
そのような状況下で、勝頼はよく織田・徳川の覇権に抗した。多くの制約があり、彼の思い通りにならなかったことも多い中で数々の戦果を上げていることは評価に値するのではないだろうか。

・「武田氏滅亡」の書評はこちら

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MBAアプリカント夕食会

去る日曜日、ひょんなことからMBAのアプリカントたちで一緒に夕食でも食べよう~、ということになり、声をかけているうちにどんどん人数が増えて、最終的に15人もの人数が集まりました。

いや、インターネットの力はすごいです。普段から顔を合わせているわけでもないのに、いざ集まろうとなると、普段からコミュニケーションをとっているだけに抵抗もなくオフラインの関係にもつなげられる。人見知りの僕でさえ、即決で参加を決めました。

年末にもアプリカント飲み会はありましたが、その時に話せた方だけでなく、話せなかった方や出席されていなかった方もいらっしゃいました。

当然初対面なのですが、普段からオンラインでコミュニケーションをとっているので、自己紹介でゆーけーです、なんて紹介すると、あ~、ゆーけーさんね、わかるわかる、ウサギの人ね、とかそんな反応が返ってきます。もちろん僕も他の人が自己紹介すると、あの人だ~、とわかります。

これまた人見知りの僕にはありがたいことでした。

イメージと違っていたりすることもあって、そのギャップがまた面白かったりします。

今年はMBA戦線はかなり厳しいという話ですが、すでに合格をもぎ取った方や現在奮闘中の方、僕のように来季の出願を目指す人それぞれの立ち位置から活発な情報交換がなされました。

受験の話や近況報告が主で、将来のキャリアや留学中にしたいこと、という話はまだあまり出ませんでしたが、今後行われる壮行会ではきっとそのような話もできると思いますので、その時には受験の話だけでなく、そういう中長期的な話もできたらいいな、と思っています。

わが(?)Manchester Business Schoolについて出た話といえば、アプリケーションのフォーマットが厄介なので要注意、ということと、TOEFLの基準は厳格、ということでした。まあ、有力校の中では控えめな基準ですから、そこはしっかり満たしてほしい、ということなのだと思います。そういう意味では、IELTSも6.5をとらなくては合格はできないと考えたほうがよさそうです。

出席されていた方はなぜかわかりませんが、会計士の方が多かった気がします。話しただけでも3人はいました。会計士も最近では伝統的な監査だけでなく、ファイナンシャルアドバイザリーやコンサルタントにも進出しているという話を聞きますが、そのような業務に従事すると、自然とMBAに意識が行くのかもしれません。数字がわかるというのは非常に強みなので、きっとプログラムやポストMBAにおいて活躍されることだろうと思います。

皆さんと話していて感じたのは、やはり仕事で忙しい中、努力されているということ。IELTSもそうですが、TOEFLやGMATで高得点を出すのは想像を絶する努力が必要だと思います。

そのような努力を仕事と両立させているということだけでも頭が下がります。

そのような同志からエネルギーをいただいたので、夏頃にでも開催されるであろう壮行会では、しっかりと皆さんを送り出すとともに、自信を持って進捗状況の報告をしたいと思いました。

ちなみに、今お世話になっている予備校の先輩の方にもお会いしました。

トリビアをもらったりして、有意義(?)なお話ができました。

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IELTS5回戦

4月2日、3日と5回目のIELTSを受験してきました。

目標は大きくOA7.0ですが、せめてMBSの要求スコアであるOA6.5(かつ各セクション6.0以上)は確保しようと臨みました。

ということで、今回の振り返りです。

Listening

滑り出しは好調。sction1はほとんど自信を持って回答することができました。

やや苦手なsection2は少し聞き逃しましたが、致命的な状態にはならずに済みました。

そして、鬼門のsection3。section3は穴埋めではなく、択一でしたが、この手の問題が苦手です。

こんな感じだったかな~、と選択しましたが、必ずしも自信はなく。ここは不安です。

section4は大体話は分かりましたがうまく回答ができず、また、試験後に正解を理解した問題があったりして、結構悔しい思いをしました。

予想スコアは6.0~6.5くらい。

Reading

今回は時間の管理に気を付けて解きました。

幸いにも最初の問題が社会科学であったため、比較的スラスラ解きました。

2・3題目は自然科学で参った、と思いましたが、ある程度読めば話は飲み込めてきましたので理解するのはそれほど難しくなかったです。

しかし、どうしても時間が苦しい。

何とか滑り込みで全問解き終えましたが、ハイスコアを狙うにはもっと効率的に解かなくてはいけないようです。

予想スコアは7.5~8.0くらい。

Writing

今回のIELTSに先立って、ライティングでもスコアを上げたいと思い、オンラインの添削サービスを使ったり、テンプレートの準備をしたりして臨みました。

・・・が、問題を見て硬直。論点を考えるのがかなり難しく感じました。

賛成・反対の論拠などをどう組み立てるか悩みましたが、とにかく構成を考え、一気に書き上げました。

Task2は5段落の構成にしたため、字数は結構書きました。数えていませんが、300語弱は書いたと思います。

Task1はグラフの内容を理解するのに手間取りましたが、理解してからは一気に書きました。

こちらも字数は数えていませんが、150語は超えているはずです。

論点が難しかったため、論理構成がどう評価されるかわかりませんが、字数はかなり多めに書いたし、テンプレートなども利用して形を整えたため、それなりに評価されると信じています。

予想スコアは6.5~7.0くらい。

Speaking

スピーキングで抜群の結果を出した方から事前にコツを仕入れて臨みました。

・・・が、緊張のあまりpart1でいきなりうまく話せず。

一つ、pardonを2回もしてしまった問題もありました。

ただ、前回pardonを2回して答えられなかった問題があっても6.5だったのであまり気にせず。

part2は比較的答えやすい問題でしたが、ある数字を言おうとして、口がうまく回らず。

でも、言いたいことはかなり言えました。

part3では、part2の延長で質問をされました。

で、「・・・です。あと、これもあります。さらに・・・もありますね。」とやや長めに答えたら、そこで試験終了。

あれ、これからディスカッションするんじゃないの!?という感じで終わってしまいました。

はあ~、またスピーキングで足引っ張ったかな、と思っていたら試験官が雑談してくれて、ついでに握手までしてくれました。これは高得点の兆し!?などと勝手に思い込んでいます。

予想レンジは6.0~6.5くらい。まあ、7.0はさすがにないでしょう。

ということで、OA6.5~7.0くらいの予想です。

OA7.0は奇跡に近いと思っていますが、OA6.5はそろそろ出てもいいと思うので、神にも祈る気持ちで結果を待っています。結果が出た翌日にまたIELTSなのですが(笑)

早くIELTS6.5、GMAT600を揃えてMBSのアプリケーション準備に取り掛かりたいところです。

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大災害から飛ぶ不死鳥

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ご存じのとおり、去る3月11日、東北地方太平洋沖にて国内観測史上最大の地震が発生し、東北地方を中心に非常に多くの方が被災されました。
犠牲になられた方のご冥福をお祈りするとともに、避難されている方々に心よりお見舞い申し上げます。

今回は、震災の被害を受けた皆様、復興に向けて活動される皆様に元気を届けるべく、大災害から不死鳥のように蘇った人々のお話をお届けします。

●ボランティア元年

今般の東日本大震災も大きな被害をもたらしましたが、私たちが地震というものに強い意識を本格的に持ち出したのは、1995年の阪神・淡路大震災の頃からではないでしょうか。
もちろん、建築基準などはそれ以前から耐震性を重視していたり、震災はそれまでにもいろいろあったわけですが、阪神・淡路大震災以前と以降では、震災に対する意識がかなり違ってきたように思います。

最近は、NPO・NGOあるいはボランティアという言葉も市民権を得て、いろいろな舞台で活躍する姿を見かけますが、彼らが活躍し、広く認知されるようになったきっかけも、また阪神・淡路大震災でした。
もちろん、それまでにも地縁社会や地域コミュニティといったものは存在し、その中で助けあいが行われていたわけですが、阪神・淡路大震災で全国の人が心を揺さぶられ、地域外からも多くの人がボランティアに駆け付けたそうです。延べ人数では100万人を超えたとも言われます。

実際にはボランティア初心者が多く、ボランティアの活動が十分に機能しなかったケースも多かったようですが、この震災をきっかけにボランティア活動やNPOに対する認知度が高まり、その2年後の、ナホトカ号重油流出事故では、多くのボランティアが集まったそうです。このように、阪神・淡路大震災でボランティア活動が注目されたことを受けて、1995年は「ボランティア元年」と称されています。

また、近年ではボランティア活動を単位として認める学校も出てきているそうで、ボランティア活動はより我々にとって身近な存在になっているといえそうです。

ちなみに、今回の震災を見てもわかるとおり、海外(欧米)ではNPOやボランティア活動に携わることは一般的なことであり、逆にそのような活動をしていないと評価が下がる、という面があるそうです。
そのような活動をしていないから評価が下がる、ということと是非はさておき、日本でも学校や会社を離れた場で誰かのためになることをすることがより一般的になればいいと個人的には思います。

●日頃のケチは何のため?

戦国時代の幕を閉じた徳川家康は、非常に吝嗇であったと伝えられています。
一枚のちり紙を追いかけて、それを笑う人間に対し、「私はこれで天下を取った」と言い放った話や、蒲生氏郷に「秀吉の次の天下人は、家康ではなく前田利家だと思う。家康はケチすぎるから」、などと言われた話など、多くの逸話が残っています。

・・・が、家康は決してただのケチではなく、お金を使うべき時に使う、ということをよく知っていました。
だからこそ、必要な戦争では見事に勝利し、また多くの人の協力を得ることができたと考えるべきでしょう。

家康が残した財産は、彼の死後も活きることになりました。
その最たる例が1657年(明暦3年)に起こった「明暦の大火」です。

明暦の大火は、家康が江戸に入った1590年以来最大の火災と言われ、江戸市街の大半が焼けたと言われ、世界三大火災の一つに数えられることもあります。
江戸城の天守閣もその時に焼失し、それ以降、現在に至るまで江戸城は天守閣のない城になっています。

さて、江戸の復興には多額の費用がかかります。当然ですが幕閣も真っ青。
そんなときに江戸を救ったのが、家康がためていたお金。そう、家康が倹約に倹約を重ねてためていたものです。

この資金のおかげもあって、江戸は見事復興を遂げ、新たな区割りで世界最大都市へと成長していくことになります。
ただし、家康の資金もこれっきりで、こののち元禄時代にかけて幕府は税制難に苦しむことになりますが。

最近も不景気の影響か蓄財のテクニックを解いた雑誌などが多いですが、本当に大事なのは、お金をいかにためるか、ということではなく、いかに有効に使うか、ということかもしれません。
もちろん、貯金は大切であるのは言うまでもありませんが、使い方も考えないともったいない気がします。

なお、蒲生氏郷に次の天下人として指名された前田利家も相当の倹約家として知られていました。
その意味では、利家も家康も同じですね。

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新徴組

たまたまネットサーフィンをしていると、幕末のある人物について興味がわいて、その話を人にしたら「新徴組」という本を紹介されたので読んでみました。

幕末といえば、まず思い浮かぶのが、薩摩・長州などの面々や、坂本竜馬中岡慎太郎のような志士、あるいは徳川慶喜勝海舟新撰組といった幕臣などではないでしょうか。

そして、薩長同盟から鳥羽伏見、江戸開城と来て、気が付けば最後の仕上げに五稜郭榎本武揚を降伏させて、明治維新が完成した、というのが多くの人の認識だと思います。

しかし、実は明治維新は必ずしも簡単に成ったわけではなく、勝海舟による江戸城無血開城の後も、幕府側の勢力の抵抗は続いていました。その最たるものが、奥羽越列藩同盟です。

幕末における佐幕の代表格といえば、松平容保率いる会津藩ですが、その頃江戸の警備を担当していた庄内藩もまた、佐幕の雄藩として知られていました。

そして、その江戸市中の取締りの部隊こそが、新徴組です。

新徴組は江戸の警備を担当していましたが、薩摩藩邸への討ち入りなどを行ったため、薩長と敵対していくことになり、会津とともに朝敵とみなされます。

その会津と庄内と救おうとするために、また薩長と伍するために奥州の藩がまとまったのが奥羽越列藩同盟ということになります。

当然、新政府軍と奥州軍は激突することになりますが、他藩が苦戦している中、酒田の本間氏の財源に支えられ最新式の装備を整えていた庄内藩は孤軍奮闘します。

その庄内藩の軍事の中心となったのが、幕末奥州の英雄ともいえる名将、酒井玄蕃了恒です。

酒井了恒は、若いながらも庄内藩の重臣としてその軍事を一手に担い、新徴組の指揮官として江戸の取締りに取り組むのみならず、戊辰戦争においては、庄内においては新政府軍を撃退するのみならず、官軍に組した久保田藩(佐竹氏)を攻撃し、ほぼ追いつめるに至ります。

その後、列藩が降伏したため、最終的には庄内藩も降伏することになりますが、彼の活躍によって、庄内藩の損害はかなり少なかったそうです。

了恒は、その戦いぶりから「鬼玄蕃」との異名をとりましたが、一方で、非常に情があり、気遣いができる人だったようです。人望も厚く、その振る舞いは、漢の李広とも似ているように思います。

ちなみに、この作品は、新徴組の隊員の一人で、新撰組の沖田総司の義兄である沖田林太郎の視点から描かれています。彼も、酒井了恒とともに戊辰戦争を戦い抜いた人物です。

本書で描かれる酒井了恒からは、情を捨てきれないとはいえ、ある種のリーダーの理想像が伝わってきます。

すなわち、

・熟慮の上目標を明確に立て、そこに向かって真っすぐに突き進む

・気遣いはしっかり、部下への心配り、弱者への支援も忘れない

・自分が最前線に立つ

・自分が信じることについては非難も恐れない

といった点が、酒井了恒のリーダーシップの要諦かと思います。

震災で東北が打撃を受ける中、このような東北の英雄に出会えたことに感謝です。

それにしても、徳川四天王と謳われた功臣でありながら、どちらかというと家康からは冷遇を受けた酒井忠次の子孫が、幕府を守るために最後まで戦うとは、歴史の巡り合わせというのは奇遇なものです。

新徴組/佐藤 賢一
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カテゴリー: 歴史人物(日本史), 読書 | 2件のコメント