ライフネット生命・出口社長講演会

留学のため日本を発つ日も近づいてきて、今のうちにできるだけ会いたい人にあっておこうといろいろ予定を詰め込んでいる毎日です。

MBAということでビジネスを学びに行くということに加え、将来はソーシャルファイナンス機関を立ち上げたいという思いもあって、今注目されている金融ベンチャーであるライフネット生命の出口社長に是非ともお会いしたいと思っていました。
実は出口社長は歴史にも非常に造詣が深く、また日本の社会構造のあり方についても鋭い見識を主と聞いており、その点でも是非ともお話を聞きたいと思っていました。

といっても、仮にも会社の社長。何のコネもない一サラリーマンが簡単にお会いできる相手ではありません。さあ、どうする?

・・・というのは一昔前の話かもしれません。今なら有名な方にも意外に簡単にアクセスできることがあります。
僕の場合、Twitterで出口社長に「10名以上人集めたら講演していただけますかー」とつぶやいたらOKをいただき、逆に後には引けない状況になって講演会を企画するということになりました

講演の内容は、MBA・起業志望者向け、ということでお願いしたのですが、現在の日本の置かれている状況から詳細に説明いただき(しかもそれが長い人類の歴史の流れの上に位置付けられていて非常に面白い)、その中で若い世代がどのように生きるべきかをお話しいただきました。

講演のポイントについて、少しご紹介します。

世界の中(世界経営計画のサブシステムの中)で自分をどのように位置づけるかを意識する
 特に起業をしたい人は、自分が何をしたいのか、何ができるのか、そして「世界をどのように認識し、そのどの部分をどのように変えたいのか」を明確に認識しなければいけない。

起業をするには人を集めることが大事。そして、思いが強ければスーパーマンだって仲間になってくれる。自分だけでリーダーシップを発揮する必要はなく、チームとしてその機能を果たすことができればよい。この点、ロード・オブ・ザ・リングは大変参考になるとのこと。

・アイディアはmonetizeすること。数字・ファクト・ロジック
 この3つは、物事を正しく理解するためにも必要。国語(ざっくりとした思考)ではなく、算数(ファクトに基づいた論理)で考える

・人と違うことを考えよう。人と違うことを考えなければ儲からない

・10年先を詠める人間なんてほとんどいない。計画もよいが、常に帆を張って、風が来たらすぐに出航する準備をしていることと、健康管理に配慮することが大事

人から学ぶ、本から学ぶ、旅から学ぶ
 多くの人に話を聞く、本(特に古典)を著者の思考を追体験するように読む。

・MBAと起業の間に相関関係はあまりないが、いずれにせよ語学は必要。
 語学ができると情報の選択肢が広がる。外国紙の見出しが読めるだけでも全然違う

・ライフネット生命は自宅で飲む缶ビール、既存の保険会社は居酒屋のビール。
 ライフネット生命はとにかく原価に近い価格でのサービス提供を目指している。

全ての人ではなく、6割の人が賛成すれば世の中は動かせる。どんなことでも6割でOKと考える。
 逆に言うと、6割の人を説得できなければ何もできない

・欧州の歴史を学ぶなら、トニー・ジャット「ヨーロッパ戦後史」がオススメ。
 日本史なら「クアトロ・ラガッツィ」「昭和史」を読むとよい。

ちきりんさんの本もオススメ!!

・商売をするなら自分を売ること、すなわちファンを作ることが重要。

楽しく仕事をしてもらうには、その仕事がしたい人にしてもらえばよい
 どんな職種でも、その仕事が好きな人はいるので、そういう人を対象に募集をかける。

講演会後には懇親会にもお付き合いいただき、いろいろお話を伺うことができました。
本当に見識が深く、どのような話題にでも対応いただけて非常に楽しかったです。

出口社長は生命保険や起業だけでなく、歴史や旅行など様々なテーマで講演されているとのことですので、関心のある方は是非コンタクトを取って講演を依頼されてみてはいかがでしょうか。非常に深くて面白いお話を聞くことができると思います。

講演の内容も有意義でしたが、自分で講演会を企画して、人を集めて、場所を確保したりコスト計算したり、という経験も非常に有意義でした。
こういう、自分が何かに強くコミットして、能動的に動くということがリーダーシップなのかな、と思ったりもしました。

MBA在学中も人を読んで講演をお願いする機会は多いと思いますが、この経験を糧に、積極的にコミットしていきたいと思います。

出口社長、ご多忙中ありがとうございました!!

ちなみに、MBA留学仲間のわっきーさんにこの講演会についてブログで触れていただきましたのでご紹介しておきます(こちら)。

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2011年振り返りと2012年抱負

気が付けば2011年も大晦日。今年も多くのことがありましたが、あっという間に過ぎ去った気もします。

自分にとって、2011年は「変化のきっかけ」の年でした。
まず、何といっても大きいのがMBAに合格したこと。
かねてよりソーシャルファイナンスを学ぶためにMBA留学をしたいと思っていましたが、多くの方のご協力のおかげもありまして、無事にソーシャルファイナンス先進国・オランダのRSMに合格することができました。

さらに、多くの人との出会いがありました。
1月にSIF-Japanのセミナーに参加したのをきっかけに、昔から憧れていた多くの社会的責任投資やソーシャルファイナンスの専門家の方にお会いすることができ、今に至るまで多くの応援・助言をいただきました。
また、年末にはかねてより注目していた、若者の就労支援を行うNPO「育て上げ」ネットで短期間ですがインターンシップをさせていただきました。大した貢献はできていませんが、現場の様子を見せていただき、大変勉強になりました。

MBA受験を通しても多くの出会いがありました。TwitterやFacebookでRSMの卒業生の方やMBA受験生・在校生の方とつながり、多くの支援を受け、また12月にはMBA忘年会やMBA向け講演会を企画したりして多くのつながりを作りました。
また、「こうすれば受かるMBA2011」の管理人を務め、多くのMBAを目指す方の参考になるサイトにすべく日々原稿収集に励んでいます。多くの方のご協力のおかげで、様々な地域のMBA合格体験記が集まりました。本当にありがとうございます。
こちらもお褒めのブログがありますのでご参考までに(こちら)。

このような出会いを通じて、人と人をつなげる機会も何度かありました。こういうことをしているうちに、人間関係のハブになりたい、と思うようになりました。ちょうどこの点について、私のことに触れてくださっているブログがありますので参考までにご紹介します(こちら)。

ちなみに、名刺交換をして障がい者の就労支援という取り組みをしていましたが、100枚を目標としていたところ、現在75名です。目標には達しなかったものの、内気な自分にしては結構頑張ったなー、と自分を少々褒めたいところです。

社会情勢としては多くのことがありましたが、やはり東日本大震災は自分にとっても大きな影響を及ぼしたと思います。
自分も東北地方に住んでいたことがあり、他人ごとではなかったというのもありますが、何より震災後の多くの善意の支援に心打たれるものがありました。「pray for Japan」というサイトに寄せられたコメントを見て涙したこともありましたし、海外から寄せられたコメントを収録した本も買いました。
また、実際の支援事業においてNPOが大きな役割を占めている状況を見て、やはりNPOの役割は今後重要になると感じました。
したがって、NPOなどソーシャルアントレプレナー、ソーシャルエンタープライズを金融を通じて支援していくことで社会課題の改善を図るという自分の方向性はないのだと信じることができました

さて、2012年はまさに「変化」の年にしたいと思います。
私にとって一番大きい変化はやはりMBA入学、オランダ生活です。
海外生活も、日本人以外の人のコミュニティに入るのも初めてという状態で、どのような状況になるのか多少の不安はありますが、日本では感じられないものを多く感じ、また自分を積極的に変えていきたいと思います。

そして何より、自分のソーシャル・ファイナンスというキャリアの方向性を確かなものにするために、ソーシャル・ファイナンス先進国が集まる欧州でいろんな人に話を聞きに行くなどの経験をして、日本では得られないソーシャルファイナンスの情報や人脈を形成し、ソーシャル・ファイナンス分野のリーダーになるべく活動したいと思います。

MBA留学の経験については、このブログでも積極的に公開したいと思います。
オランダでの生活やMBAの様子、出会った人々のことなど、いろいろなことを多くの人に知ってもらえたら幸いです。

つきましては、Just Givingを使って、お世話になった「育て上げ」ネットを支援したいと思います。
日本では、一度進路の道を踏み外すと、なかなかキャリア形成を図るのが難しい状況にあると言われたりしますが、NPO「育て上げ」ネットは、そのような若者の社会参加をサポートしています。
私は、「各人が自分の意欲に従って、自分の能力を最大限に活かして生きる(働く)ことができる」社会こそが成熟した、幸せな社会であると考えており、「育て上げ」ネットの活動はその趣旨にも当てはまるように思っています。

チャレンジの詳しい内容はこちらをご覧ください。

もし、欧州でこの人の話を聞いてきてほしい、などのリクエストがあればメッセージでお送りください。できるかどうかは分かりませんが、可能な限りチャレンジしてみたいと思います。

ご協力・ご声援のほど、どうぞよろしくお願いいたします!

・・・と書いているうちに紅白歌合戦も終わり2012年に入っていました(笑)

明けましておめでとうございます辰

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チャリティ

※このカテゴリでは、別途発行しているメールマガジンの内容を記載しています。
(バックナンバーはこちら ) 

東日本大震災や阪神大震災などで、日本でもボランティアやチャリティに関心が集まってきました。
 とはいえ、まだまだ伸びしろがあるのも事実で、海外では日本にないような活動の事例もたくさんあります。
 また、歴史上でもチャリティの面白い取り組みがたくさん見られます。
 これらの話はどれもハートフルで、爽快な気持ちにさせられ、今後の私たちのすべきことを考えるうえで参考になると思います。

 ということで、今回のテーマは「チャリティ」です。

・ロベルト・クレメンテ賞

 今シーズンはイチロー選手の安打数に注目が集りましたが、もちろん安打数に関して偉大なる業績を達成した大リーガーはたくさんいます。
 メジャー最多安打と言えば、4000本安打のピート・ローズ選手、あるいは同じく4000本安打を達成している「球聖」タイ・カッブ選手が知られていますが、3000本安打を達成した人物は30人近くいるそうです。

 そのうちの一人、ロベルト・クレメンテ選手は攻守ともに優れた選手として球史に名を刻んでいますが、それ以上に彼の名声を高めたのは、彼の献身的な姿勢だと思います。

 1970年に彼の所属するピッツバーグ・パイレーツが球場を移転した際、古い球場を名残惜しんで、また彼の功績をたたえるため「ロベルト・クレメンテ・ナイト」と称するイベントが行われました。
 その際、彼は自らに記念品を与える代わりにチャリティ団体に寄付してほしいと願い、数千ドルの寄付がチャリティ団体に行われました。

 また、彼が3000本安打を達成した1972年、中米のニカラグアで大地震が起こりました。
 地震の直前にニカラグアを訪れていた彼は直ちに支援物資を送りましたが、現地の腐敗した政府のため、被災者に届いていないことを知りました。そのため、彼は自ら飛行機に乗り込み、被災者のために救援物資を輸送しようとしましたが、不幸にもそこで飛行機事故に遭遇し、命を落としてしまいました。享年38。

 その前年、メジャーリーガーの社会貢献をたたえる「コミッショナー賞」が創設されていましたが、1973年には、彼にちなんで「ロベルト・クレメンテ賞」と改名されました。

 今では、この賞はMVPとも並ぶ名誉ある賞として知られています。

 個人的には、社会貢献に積極的なイチロー選手にもこの賞を受賞する資格があるのでは、と思ったりしています。

 ちなみに、この賞は各チームが候補者を一人出して、ファンやメディアの投票などを通じて決定するそうです。
 ファンも結構選手の社会貢献活動に注目しているのだとしたら、さすがチャリティ大国だと思わずにはいられませんね。



命の恩は必死に返す

 1600年、関ヶ原の戦いにて、武運拙く敗れた石田三成は、再起を図るべく自らの領地に潜伏します。
 当然徳川方は血眼になって三成を探すわけで、「三成を見つけたら恩賞、かくまえば重罰」と布告して三成のあぶり出しを行います。

 となると、当然近隣住民も三成探索に必死になって三成もあぶりだされる・・・と思いきやそうではなく、意外にもある住民に三成はかくまわれることになりました。

 その背景にはいくつかの説があるようですが、そのうちの一つに、かつて飢饉に陥った時に、三成が食料を提供して、飢餓から救ってくれたため、その恩返しとして命の危険を顧みず、三成をかくまった、という話があります。

 三成もその義理堅さに感銘を受け、かえって自分を徳川方に引き渡すようにと促したそうです。
 結局、三成は徳川方に引き渡されることになりますが、この話は今も美談として残っています。
 
 三成は再起を果たすことはできませんでしたが、西軍武将の相次ぐ寝返りという状況の後に、かつての恩で命の危険を侵してまで自分を救おうとする人間に出会えたことは三成にとって心の癒しになったのではないでしょうか。

 三成は善政を敷いたことでも知られていますが、その背景には政治力だけでなく、人間としての優しさがあったのではないかと思います。

 自分も能力の向上のみでなく、人格の成長についても一層努力しなくてはならないな、といつも思わされるエピソードです。

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社会起業家との出会い(1)

オランダ留学に伴う退職のため、最近は有給休暇を消費する生活に入り、欧州風のバケーションを堪能しているところです。

もちろん渡航準備やプログラム前の課題などすべきことはそれなりにあるのですが、やはり拘束時間の縛りがないと、ついダラダラしてしまいます。

このままではグータラのプータロー一直線、という危機感もあり、なんとかこの貴重な時間を有意義に使うべく、どうしたら良いかを考えてきました。

その結論は、この時間を活かして今しかできない経験をすることと、多くの人に会うこと。
人に会うなら、社会起業家としての自分のキャリアに影響を与えてくれそうな人がベスト、ということで、複数の方から是非あっておいた方が良い、と勧められていた方にぜひお会いしたいと伝え、お忙しい中お時間をいただくことができました。

その方は、若者の社会進出支援を行うNPO「育て上げネット」を立ち上げられた工藤啓氏です。
以前の記事で取り上げたこともある「NPOで働く」の著者でもあります。

あまり質問する内容を整理できていなかったのですが、普通に話の流れに乗ることができていろんな話を聞くことができました。

以下、話した内容の概要です。
・英国ではSocial Impact Bondが活用され、刑務所の整備などに使われている。

・日本では外資系企業の参入によりCSRが盛んになった。すなわち、外資系企業が日本のCSRを活性化させた。

・社会的事業については、信頼資本財団という財団が、無利子・無担保での融資をしている。

・寄付控除税制が改正され、NPOの寄付も税額控除の対象に。そのため、寄付を巡るマーケティングも必要になってくる。

・800万円から500万円に年収が下がってもNPOに来てくれる人はいるが、500万円から200万円では来てくれる人はいない。一定額の報酬は必要。

・寄付者の情報を集めることは重要だが、必要とはいえない情報はアンケートに盛り込みにくい。

・最近は若いホームレスが増えている。しかし、彼らは、「一度身なりがダメになったらもう這い上がれない」と考えているため、身なりには気を遣うし、寝る場所もマクドナルドやネットカフェなど、路上ではないところを選ぶ。そのため、支援の手を差し伸べるのが遅れがち。

他にもNPOの課題や社会の課題、社会起業家・経営者としての考え方をいろいろ伺いました。
2時間ほど話していたのですが、あっという間に時間が過ぎていきました。

本当に知見のある方で、大変勉強になりました。
やはり経営者、とりわけ時代の最先端で働いている人と話すのは楽しいですね。

これからオランダに留学するにあたり、現地や欧州、あるいは世界で活躍する社会起業家などにどんどん話を聞いていけたらと思います。

目指せ、「社会起業家との出会い」、シリーズ化(笑)

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鉢形城

先日、所用があって池袋から東武東上線にて、終点近い小川町というところに行きました。
埼玉県の西の方で、のどかな町でした。

よく知らない土地だったのですが、野菜や果物などの名物があるようで、お食事処で朝食をいただくことにしました。

小川町お食事処

面白いことに、足湯につかりながら食事ができました。
おかげで東京からの長旅の疲れがとれました。

近くにお団子屋さんもあったので、そちらもいただきました。おいしかったです。

そこから家路につくこともできたのですが、東上線の奥の方に行ってみたかったので、せっかくの機会ということで行くことにしました。

東武東上線の終点は寄居駅。埼玉県のかなり西の方で、秩父市などに近いです。
寄居町のウェブサイトによると、寄居町の人口は平成22年4月1日時点で約36,000人。平成12年の38,156人をピークに減少傾向にあるようです。

さて、なぜ寄居町に関心があったかというと、実は戦国時代に関東地方を席巻した後北条氏が北関東を統治していた拠点が寄居町にあったからです。

1546年(天文15年)、川越夜戦で関東諸氏の連合軍を破った後北条家三代・北条氏康は北関東にまでその勢力圏を広げ、関東管領・上杉憲政を長尾景虎(上杉謙信)のもとに逐い、また関東の有力な家系に自らの息子を養子に送り、取り込みを図りました。

そして、北関東の藤田氏のもとに送り込まれたのが氏康の四男・氏邦で、彼が本拠としたのが寄居町にある鉢形城です。

鉢形城の様子はこんな感じです。

鉢形城曲輪  鉢形城看板

また、城跡の中には鉢形城歴史館もあり、氏邦の活躍を顕彰しています(写真は許可を取って撮影・掲載しています)。

鉢形城案内 鉢形城模型

氏邦は鉢形城を本拠として北関東における勢力拡大に貢献したほか、養蚕業の育成など、内政にも力を入れ、北関東繁栄の礎を作りました。

しかし、豊臣政権との緊張が高まる中、氏邦の部下の猪俣邦憲が豊臣政権下の真田家と小競り合いを起こした結果、小田原征伐を招くことになります。
氏邦は兄の氏照と大規模な野戦を主張しましたが結局は籠城策を取ることとなり、氏邦は3500の兵と共に鉢形城に籠り、上杉景勝・前田利家ら50000の兵を迎え打ちます。

堅城・鉢形城に拠り1か月間抵抗しますが、善戦むなしくついに開城。
氏邦は助命され、前田氏にお預け、金沢で生涯を閉じることになります。
その葬式には非常に多くの人が訪れ、氏邦の遺徳を偲ばせたと伝わります。

鉢形城跡は寄居駅から近いのですが、帰りはバスにしました。

鉢形城バス停

寄居駅の手前には鉢形駅もあります(降車しませんでしたが)。

鉢形駅

寄居駅の前には観光案内所があり、野菜を販売していました。安かったのできゅうりとみかんを購入。
きゅうりは採れたてでおいしく、みかんもちょうどよい酸味でした。

寄居案内所

都会の喧騒を離れ、歴史の息吹に身を委ねる、贅沢なひと時でした。

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エンデュアランス号

2010年、チリのコピアポ鉱山の落盤事故により33名の鉱山作業員が鉱山の中に閉じ込められ、2か月強の忍耐の後に救出された事件は未だに忘れられないドラマですが、今から約100年前に、さらに長い期間の忍耐の末に死の淵から生還した人たちのドラマがあったことをご存じでしょうか。

エンデュアランス号

100年前、第一次世界大戦の前後は南極大陸探検が真っ盛りで、多くの人物が人類未踏の地、南極を制覇しようと競っていました。
1911年にはノルウェーのロアール・アムンセンが南極点に到達(同年イギリスのロバート・スコットも南極点に到達するも同地で遭難し、死亡)、人類の夢はなん居大陸横断に切り替わります。

1914年、スコットの南極探検に参加したこともあるイギリス(アイルランド)人のアーネスト・シャルクトンは計28人の南極探検隊を編成し、世界初の南極大陸横断に挑みます。
この時、南極に行くのに使った船がエンデュアランス号です。ちなみにエンデュアランス(endurance)とは忍耐を意味します。

軍靴の音が迫る最中、南極に向かおうとしたエンデュアランス号ですが、南極大陸に上陸する前に氷盤につかまってしまいます。
それでも隊員は氷をはがしたり、わずかな氷の切れ目を進んだりするのですが、ついにエンデュアランス号は氷につかまり、最終的には氷の圧力で船が崩壊し、沈没するに至ります。
ここに至ってはシャルクトンも計画を諦めざるを得ず、目標を南極大陸横断から生還へと変更します。

シャルクトンは低下しがちな隊員の士気を様々な方法で維持するとともに、隊の秩序を保つためにも心を砕き、また各隊員の能力を最大限に活かそうとしました。
隊員の性格は様々で、荒くれ者も多い中秩序を保つのは、特にこのような生命の危機に瀕している状況では非常に難しいと思われますが、あの手この手で秩序を保ち続けました(実際に反乱の危機にも遭っています)。

シャルクトンのリーダーシップに学ぶ点は多いのですが、彼のリーダーシップの最大の特徴は「常に楽観的であること」だと言えそうです。
船が氷につかまって以降は危機的状況の連続ですが、彼は常に楽観的に振る舞い、また悲観的な考えが広まるのをとにかく阻止しています。おそらく彼が少しでも悲観的にふるまっていたら、隊の士気は大きく低下し、秩序の維持も難しかったでしょう。
どんなに辛い状況でも率先して明るく振舞い、周囲を励まし続けるというのは素晴らしいリーダーシップだと思います

さて、船を失ったシャルクトン一行は、救命ボートで南極を脱出すべく、南極に近いエレファント島に渡ることができる地点まで氷洋上を吹雪や食糧不足に悩まされながら徒歩で移動しました。
その後、ずぶぬれになりながら何とかエレファント島に移ったものの、不毛の島で、かろうじてペンギンやアザラシなどの獲物はいたものの、天候も悪く長く居続けるべきではありませんでしたし、何より救援が期待できませんでした。

そこで、捕鯨基地がある1300キロ先の島まで小さなボートで救援を要請しに行く必要が生じたわけですが、海は大荒れ、成功することなどほとんど見込めませんでした。
しかしながら、シャルクトンは自ら船員を選び、出航。
わずかに出る太陽を手掛かりに位置を確認しながら、船は進み、高波の危険にさらされながら、16日後一行は辛くも目的地であるサウスジョージア島に到着。簡潔に書きましたが、おそらくここが今回の逃避行の最大の山場だったでしょう。

サウスジョージア島に到着した時点でもうボロボロなのですが、さらに氷原の中を基地まで歩いて行かなければなりませんでした。その氷原の横断自体誰も経験したことがないもので、非常な困難が予想されましたが、ここにきて諦めることなど考えられず、シャルクトンは半分の人員で捕鯨基地に向かいました。
ここでも多くの想定外の事象に出会いながら、何とか捕鯨基地に到達し、救援を要請。

哀しいかな、本国イギリスは第一次世界大戦で疲弊しており救援が期待できず、シャルクトンは、今回の逃避行に感銘を受けた南米各国の支援を受けて、数か月後、エレファント島に残っていた隊員たちを救出。1年半にもわたる困難にもめげず、ついに全員生還を果たしたのでした。

以上がエンデュアランス号とシャルクトンを巡るストーリーです。

このストーリーからは、リーダーシップという点で学ぶところが大きいですが、それだけでなく、一つの冒険物語としても、かつて読んだ「十五少年漂流記」のようなドキドキハラハラする素晴らしいものでした。

我々も個人レベル、あるいは組織レベルで、今回の経済危機に伴うものも含めて危機に直面することが多々ありますが、シャルクトンのリーダーシップをヒントに乗り切って行けたらと思います。

なお、本件に関連してWikipedia(こちら)を見ていると、南極点到達後帰還できたアムンセンと、南極点に到達しながら生還できなかったスコットのリーダーシップの違いについて興味深い分析がありましたのでご紹介します。

曰く、アムンセン隊は各隊員の自主性を重んじ、隊員の「やる気」を出したのに対し、スコット隊はイギリス軍伝統の上意下達の体制で挑んだために士気について細心の注意を払えなかった、ということです。

これもまた、リーダーシップ、マネジメントについて参考になる話ではないでしょうか。

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