就職活動・社会人1年目を頑張るあなたへ(生活編)

この時期になると、社内外でリクルートスーツに身を包んだ学生さんをよく見かけ、その都度自分の就職活動時代を思い出します。

また、新年度が近いので、自分が社会人になりたての頃のことも頭に浮かびます。

 

そして、昔のことを考えると、最初に出てくるのが失敗したこと。

大きな失敗、小さな失敗、それぞれたくさん重ねたことも今では良い思い出です。

 

でも、できるならそのような失敗はしない方がいいのは当然のこと。

このブログは「就職活動日記」と称して就職活動にまつわる事柄をつづるものでした。

そこで、今回は「今の自分から就職活動時・社会人になりたての頃の自分に送るアドバイス」という内容で、何かしら就職活動や社会人1年目を頑張っている方にお役に立つことをお伝えできればと思います。

自分は就職活動も社会人1年目も全然うまくいかなかった人間ですので、人様にアドバイスをするなんておこがましいことは言えません。

あくまで過去の自分に対するアドバイスとしていることをご承知おきください。

そして、自分の意見が正しいとも思いませんので、気楽に読んでいただき、なるほどと思ったところだけ役立ててもらえればと思います。

 

では、過去の自分へアドバイスを送ってみたいと思います。

 

【生活について】

1.ネクタイは洗えない

就職活動や社会人になってネクタイをする頻度が上がると、ついついネクタイを洗いたくなることがあると思います。

そう思わずとも、間違ってネクタイを洗濯機に入れてしまうこともあるでしょう。

しかし、ネクタイを洗濯機に入れてしまったが最後、もしゃもしゃ(?)になって二度と使えません。

お気に入りのネクタイがあれば、それはクリーニングに出しましょう。

※洗濯機で洗う方法もあるようですが、難しいようですので気を付けた方がよいと思います。

 

2.ワイシャツは形状記憶が便利

スーツを着る仕事をすると、原則として毎日ワイシャツを着ることになります。

ワイシャツを着るのであれば、しわがあっては身だしなみとしてはアウト。

そのため、アイロンを毎日かける必要がありますが、アイロンをかける時間と手間は案外負担になります。

形状記憶のワイシャツを着ると、その手間が省けて大変便利です。

私は形状記憶のワイシャツを着ない場合はスリーピース(ベスト)を着てワイシャツのしわを隠しています(笑い)。

 

3.スーツの靴下は黒系

就職活動をしていると黒のスーツを着ていると思いますが、黒のスーツには黒の靴下が基本です。

グレーやブラウンなどは許容範囲だと思いますが、白やピンクは就職活動中の人や若手にはハードルが高い気がします。

おしゃれですし、個人的にはいいと思うのですが、就職活動や社会人になりたての頃は黒やグレーが無難かと思います。

 

4.足元は見られている

よく言われることですが、足元というのは案外よく見られているものです。

自分も電車に乗っているときについ人の足元を見たりします。

高い靴を履く必要はないですが、服装・体形にあった靴を履き、靴の手入れをしっかりすることは大事です。

時間や手間をかけなくてもいいので、靴墨などを使ってきれいにしておくと安心です。

 

5.お酒は飲みすぎない

社会人とお酒はある意味切っても切り離せないものかもしれません。

ストレス解消、友達付き合い、会社の飲み会などなど、お酒の出番は多いです。

しかし、そこで飲みすぎて人に迷惑をかけるのは言語道断ですし、二日酔いになって会社に行けなかったり、満足に仕事ができないというのも社会人失格の誹りを免れません。

自分に合ったペースや酒量を把握し、適度に飲むとともに、ときどきお水やお茶を飲みながらお酒を楽しむといいと思います。

 

6.野菜を摂る

忙しかったり、財布が苦しくなると食費の中で削られやすい野菜。

特に最近は野菜が高くなっているのでそういう人も多いのではないかと思います。

しかし、野菜には健康を維持するための栄養素が豊富で、それを削るといずれは健康に悪影響が出ます。若いうちは健康を気にしなくても健康診断では問題がないかもしれませんが、徐々に健康状態の悪化は健康診断にも表れてきます。

そして、一度失った健康は、回復するのに時間がかかったり、場合によっては元に戻らなかったりします。

健康はお金で買うことは難しく、そして我々の生活に非常に大きな影響があります。

だからこそ、できるだけ健康を意識した食生活を維持することが重要です。

 

7.習慣を作る

仕事を始めると学生時代とは変わって忙しくなり、生活がズボラになりがちです。

しかし、日々を充実したものにするためには、できるかぎり生活のリズムを整えたいところ。

そこでおすすめなのは、何か習慣を作ること。

習慣を作れば、それをしなければいけないというある種の強迫観念が生まれ、自ずと生活のリズムが整えられます。

時間まで固定すると、否が応にも生活のリズムは一定のものになります。

例えば、毎朝6時に走るというのが習慣になると、前日寝るのが遅くても、朝は6時に走るように体が自然と調整され、その日のリズムがリセットされます。

運動でも勉強でも、食事など生活の一部でも何でもいいのですが、できるだけスキップすると自己嫌悪してしまうようなものがおすすめです。そうするとスキップしないようになるので。

もちろん、自己啓発や運動など、自分のレベルアップにつながることとリンクさせると効果は大きいと思います。

 

 

以上、就職活動時及び社会人1年目のときの自分に送りたいアドバイス(生活編)でした。

続編もお楽しみにー。

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武田氏滅亡

戦国時代には多くの事件や物語がありますが、その中でも特にインパクトの大きいものの一つが「武田氏滅亡」ではないでしょうか。

それは、単に一つの勢力が滅亡したということにとどまらず、織田信長という新興勢力に敗れ去った名門、甲斐の虎・戦国最強との異名をとった武田信玄という偉大な人物の死後わずか10年足らずの出来事であったこと、そしてそれが長篠の戦いに代表されるようなイノベーションの結果であったこと(この点はいろんな解釈ができますが)、そして武田勝頼が最後には多くの人に見放され、武田家とともに非業の最後を遂げたこと、などの要素があるからだと思います。

以前は大武田家を滅亡に導いた張本人として武田勝頼を強いだけの愚か者として評価する傾向が強かったのですが、最近は勝頼研究が進み、再評価が進んでいます。
とはいえ、あれほど強大な勢力を誇った武田家が信玄死後わずか10年で滅び去るというのは、武田家の中に何かしら問題があったのでしょうし、それが勝頼の資質に帰するものでなければ何が原因だったのかということは非常に関心がもたれるところです。

自分自身は、学生時代に新田次郎「武田勝頼」を読んでから、当時置かれた勝頼の立場や限界に触れ、その奮闘と苦悩に賞賛と同情の念を持っていて、結構好きな人物だったのですが、最近の研究がまとめられた書籍が注目されているということで読んでみました。

大河ドラマで歴史考証を務めるなど活躍されている平山優氏の「武田氏滅亡」です。
本書はタイトルの通り、武田家が滅亡する過程に焦点を当てており、取り上げる時期も武田家が下り坂に入ったと一般的に言われる長篠の戦い以降が大半です。

 

戦国大名武田氏の最後の当主(厳密にいえば勝頼は滅亡直前に息子の信勝に家督を譲っていますが)、武田勝頼は武田家の当主としては数奇な運命が定められていたといえます。
武田信虎・晴信(信玄)のように、武田家の一門には「信」という字が入っているのが一般的(通字)ですが、勝頼の名に「信」の字はありません。
これは、信玄が勝頼を、自ら滅ぼした諏訪家の家督を継がせるものとして想定しており、武田家の人間としては扱っていなかったことを意味します(武田家の「信」と諏訪家の「頼」を合わせて「信頼」でもよかった気がしますが、それもありませんでした)。
しかも、その諏訪家でも嫡流ではなく、庶流高遠家を継いだといわれます。

ともあれ、勝頼は「諏訪勝頼」として生きることが求められ、実際に武田家内でも他家からも諏訪家ないしは高遠家の人間とみられていました。
しかしながら、兄・武田義信は今川攻めを巡る武田家の内紛で自害し、勝頼は武田家本家の後継者となります。
この時点で、諏訪勝頼は武田勝頼になりますが、他の武田家の人間からすれば、信玄の息子であっても他家の人物が自分たちの主君として君臨することには抵抗があったかもしれません。

そして、信玄の勢力拡大の野望の中で、武田・今川・北条の三国同盟は破棄され、今川量を併呑した後には徳川・織田との同盟も破棄され、織田信長・徳川家康から恨みをかった状態で信玄は1573年に死去。
まだ若年で武田家の人間としての期間も短い中で、勝頼は武田家の当主となります。

信玄の死の直後、武田家の動揺は大きく、勝頼はそのとりまとめに苦労します。
信玄のカリスマ性もありますが、何より勝頼が諏訪家出身であったことやその子・信勝の成長までつなぎとして位置づけられていたことが大きいようです。

勝頼が当主として家中をまとめ上げるのに苦労している間は軍事行動も行うことができず、その間織田・徳川勢は一気に浅井・朝倉氏を滅亡させ、足利義昭も京都を追放され室町幕府は滅亡しています。信玄死後、わずか半年以内の出来事です。

その後、何とか家中をまとめ上げた勝頼は攻勢に出て、遠江の要衝・高天神城を落城させますが、1575年の長篠の戦いで大敗し、多くの重臣(=ベテラン)を失います。
ここからが本書のメインの時期になります。

その後の武田家・勝頼の動向は一般的に知られているものと大筋では同様ですが、その中でも本書ではこれまであまり知られていなかった、勝頼が必死に時代に抗おうとしていた事績を示してくれます。
以下、本書に綴られている、武田家の奮闘の事績です。

長篠の戦い以降、織田・徳川に対して守勢に回った武田家ですが、一方で足利義昭主導で武田・上杉・北条による対織田の三国同盟が進められていました。
三国同盟は実現直前までまとまりましたが、関東で上杉家とともに北条家に対抗している諸勢力が上杉家に北条家と和睦しないように要請したため、結局三国同盟は成立しませんでした(武田・上杉の和睦は成立)。

その後、武田家と北条家が死闘を繰り広げて体力を消耗したことを考えると、三国同盟が成立しなかったことはその後の歴史を大きく変えた可能性があります(謙信死後、どのみち上杉・北条は御館の乱のように決裂したかもしれませんが)。

御館の乱では最終的に景勝側についた勝頼は、旧上杉領の東上野のほか、越後にも拠点を確保していました。
御館の乱の結果、北条家と決別した武田家は、関東の反北条の諸勢力と同盟を結び、北条包囲網を構築しました。

そして北条領の上野・武蔵に侵攻し、多くの国人が武田方につくなど、まだまだ武田家は脅威で、むしろ北条家の方が存亡の危機を迎えていようです。

北条包囲網に危機感を持った北条氏政は織田家への依存を強くし、嫡男・氏直に信長の娘を縁組させるとともに、氏直に家督を譲ることで織田家との連携の強化を図っています(氏政は縁組を強く望んだものの、結局は成立せず)。

この結果、長篠の戦いで奥三河の領土は失ったものの、その後越後や上野にも進出し、この時期に武田家の最大版図が築かれたようです。

 

とはいえ、各地で戦線を展開するには費用も掛かり、実際武田領内では増税が繰り返されていて、国人・領民の負担は大きく、武田家の体力は苦しくなっていました。
そのため、勝頼は表面的には織田家との対決姿勢を維持しながら、織田家との和睦を模索します。この試みは1579年と1580年の二度行われており、それぞれ甲江和与甲濃和親と呼ばれます(甲江和与についてはこんな記事を書いていました。)。

しかし、武田家を滅亡させることを考えていた信長はそれを拒否。

しかもただ拒否するだけでなく、結論を引き延ばしたため、勝頼は信長を刺激するような強い対抗姿勢をとれませんでした。そのため、遠江に確保していた高天神城へ援軍を出すこともできず、1581年に高天神城は落城。

信長はこれを「勝頼が高天神城を見捨てた」と喧伝し、勝頼への信頼は失われていきます。実際、高天神城落城の後から家臣・国人の離反が顕著になります。

そして1582年1月、勝頼の義弟・木曽義昌が信長に内通。

信濃への侵攻路を抑えていた木曽氏が離反したことで、2月には織田・徳川連合軍は信濃になだれ込みます。
甲州征伐に先立ち、信長は朝廷に働きかけ、武田家を朝敵としています。さらに2月14日に浅間山の噴火があったことから武田軍の士気は急速に低下します。

迎撃に向かった勝頼ですが、各地で織田軍への降伏・逃亡が相次ぎ、失地奪回どころか、軍の維持すら困難になってきます。
結局、勝頼は新たに築いた本拠・新府城に撤退しますが、その時には軍勢はほとんどいませんでした。

そして、弟・仁科信盛(盛信)が高遠城で奮戦して時間稼ぎをする間に勝頼は重臣・小山田信茂の本拠・郡内に退くことを決断します。
その際、従兄弟の武田信豊を北信濃の小諸城に戻し、甲斐に侵攻してきた織田勢を南と北から挟撃する戦略だったそうです。
信豊は勝頼を見放して逃亡したと思っていましたが、このような背景があったことを初めて知りました。

なお、破竹の勢いで進んでいた織田勢ですが、信長自身は武田家を侮っておらず、進撃する嫡男・信忠に対し、慎重に進むように指示をしていたそうです。
また、北条氏も武田家がこれほど早く瓦解したということが信じられず、参戦が遅れたといわれています。

しかし、最後には頼みの綱であった信茂が離反。
勝頼はすべての望みを絶たれます。

最後は、祖先の武田信満が上杉禅秀の乱の際に自害した天目山棲雲寺を目指しますが、その途中の田野にて織田軍に捕捉され、奮戦の後、嫡男・信勝と自害(または討死)。
天正10年(1582年)3月11日午前10時頃、武田家は滅亡しました。

勝頼の首級を見た信長の反応は諸説ありますが、「三河物語」によると、「勝頼は日本においても隠れなき弓取り(武将)であったが、運がなかったためにこうなってしまった」と話したそうです。信長は勝頼のことを高く評価していたようで、この反応が自然なような気がします。

勝頼が最後を迎える直前、北条家から嫁いできた北条夫人が自害します。
その最後を見た勝頼の反応にはいくつかの記録がありますが、どれも夫人への愛情が溢れるもので、現代でも人の心を打つようなラブストーリーでした。

なお、北条夫人は勝頼から実家に帰るように言われていますが、勝頼と一緒に死にたいといって、最後を共にしています。

軍記物や歴史小説ならいざ知らず、信憑性のある史料にもそのような愛情の記録が残っていることが意外でした(女性の名前すらなかなか残らない時代です)。

本書は歴史小説ではなく、専門書に近いといっていい分類の書籍で、700ページを超える大著ですが、それを全然感じさせず、引き込まれて気づいたら読み終わっていました。

本書ではこれまであまり語られることのなかった、長篠の戦い以降の勝頼の活躍と苦悩、そして武田家を取り巻く諸勢力の必死の生き残りが丁寧に描かれていて、非常に読みごたえがありました。

また、あとがきでは著者の武田家への思い入れが述べられていて、こちらも興味深かったです。

結果として歴史上敗者となってしまった武田勝頼ですが、様々な相克や制約の中最後まで生き残りをかけて奮闘する姿は美しく、心を打たれるものがありました。

現在国立大学の文系縮小など、文系、とりわけ人文系は向かい風の状況にあると思いますが、このような素晴らしい研究成果に出合うと、学問の価値とは何かということはよく考えなければいけないと思わされます(逆に研究者の方も自分たちの研究成果をどのように世間に還元するかを考える必要があると思いますが)。

 

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享徳の乱と太田道灌

歴史上の人物にはいろんな個性やドラマがありますが、中でもどんなに苦戦しても頑強に抵抗するという話には心を強く惹かれます。

そのような話の中で、最近関心を持っているのが、享徳の乱です。

享徳の乱はその歴史上の重要性の割に取り上げられることが多くないのですが、その登場人物たちの物語や個性に関心を持ち、標記の書籍を読みました。

足利尊氏が室町幕府を打ち立てた際に、彼は将軍は京都で政務をとり、将軍一門の別の有力者を鎌倉において、関東(及び東北)の統治に当たらせる方針を採りました。
関東統治のトップは鎌倉公方(または関東公方)と呼ばれ(公方は将軍の意)、初代鎌倉公方には足利尊氏の子息・基氏が就任しました(初代は尊氏の長男・義詮とも)。

鎌倉公方は中央と離れて独立した存在として動こうとする傾向があり、鎌倉公方の補佐役として中央政権から任命されている関東管領と対立する傾向がありました。
その結果、基氏のひ孫にあたる持氏は(前)関東管領に反乱を起こされ(上杉禅秀の乱)、それは鎮圧したものの、新たな関東管領である上杉憲実とも対立し、最終的には中央政権への反抗とみなされ、戦闘になった結果、持氏は中央政権及び関東管領に敗れ、自害することになります(永享の乱)。

持氏は敗れましたが、持氏に恩顧を感じていたり、強い利害関係を持っていた者は少なくなく、彼らは持氏の遺児である春王・安王を擁して幕府に抵抗します。
その中心にいたのが結城氏朝であり、彼らは結城城に籠城しますが、ついには落城し、結城氏朝や持氏の遺児らは落命します(結城合戦)。

 

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結城城址。跡地には結城合戦(タイムカプセル?)記念碑もあります。

 

親持氏の勢力が一掃されたところで、幕府と関東管領が関東を統治するか、となるかといえば、そうはいきませんでした。
というのも、持氏征伐を主導した将軍・足利義教が重臣・赤松満祐に暗殺され(嘉吉の乱)、幕府が関東統治に関与する余裕がなくなってしまったからです。

関東管領自体は関東の統治者としての権威を有していないため、新たな鎌倉公方を求める必要があり、持氏の子・足利成氏が鎌倉公方に就任しました。
そして彼は享徳の乱の主人公となり、新たな関東の動乱を起こすことになります。

成氏が鎌倉公方になったとき、永享の乱のときの関東管領・上杉憲実は引退し、彼の長男の憲忠が関東管領に就任しました。
成氏から見ると、父の仇の息子。内心いい感じはしなかったことでしょう。

そして、やはり成氏と憲忠は対立することになり、成氏は上杉方の攻撃を受けますが、何とか退け、逆に憲忠を弑殺します。
時に享徳3年(1454年)、公方方と管領方の対立は決定的となり、享徳の乱が始まることになります。

ちなみに、上杉憲忠の父・憲実は主君・足利持氏のために懸命に尽くし、持氏の敗北が確定したのちも助命嘆願を行っていますが、その甲斐なく持氏を討つことになったことを悔やみ、自分の子供が自分の跡を継いで関東管領になるとろくなことがないとして、厳しく禁じていました。そのため、憲忠が関東管領になった際には義絶したものとみられています。
そして、成氏の憲忠殺害は、まさに憲実の懸念が現実化したものといえます。

憲忠を討ち果たした後、成氏は上杉家の勢力を討伐するため、自ら出陣して北関東に赴き、また味方の勢力に多くの指示を出しています。

そうした中、当初は公方方が優勢に戦いを進めていましたが、中央政権が上杉方につき、成氏討伐の姿勢を見せ、新たな鎌倉公方(将軍・足利義政の兄・政知)の派遣を決めると、公方方の大名たちに動揺が走り、上杉方につく勢力も現れてきます。
成氏は、父親の持氏と同じ轍を踏まないよう、あくまで鎌倉公方と関東管領の争いの枠内で処理し、中央政権に反抗する意思はない旨を中央に訴えていたのですが、彼の思惑通りにはいかず、中央政権を敵に回した形となってしまいました。

当時の上杉方は、関東管領の上杉房顕(山内家、憲忠の弟)をはじめ、越後守護・上杉房定(越後守護家)、相模守護・上杉持朝(扇谷家)が中心となって、武蔵の五十子(いかっこ)に陣を築き、室町幕府の支援を得て戦っています。
上杉方支援の一環として、幕府は駿河守護の今川氏に鎌倉攻撃を命じており、成氏が不在の間に鎌倉は失陥します。
本拠地を失った成氏は、関東の中心で交通の要所でもある古河に本拠地を移動。これより後、古河公方と呼ばれるようになります。

 

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古河城跡。成氏のほか、江戸時代にも譜代大名の統治の拠点となりました。

 

その後、公方方と上杉方は一進一退の攻防を繰り返し、一時は成氏の本拠地・古河城も陥落しますが、成氏はすぐに取り返すなど、決定的な打撃を与えるには至りませんでした。
この時点で享徳の乱勃発から17年が経過。関係者の世代交代が進んでいたこともあり、徒労感・倦怠感も大きかったかもしれません。

そして、その世代交代が享徳の乱に転換期をもたらします。

成氏が古河城を回復した翌年(文明5年=享徳22年*、1473年)、山内上杉家の家宰職としてまとめ役を務めていた長尾景信が病死、家宰職はその弟の忠景が継ぎます。
これに反発したのが景信の嫡男・長尾景春です。
*成氏は中央政権と対立していたため、中央で元号が変更された後も享徳年号を使い続けています。

通常は景信の嫡子が跡を継ぐのが一般的であることに加え、忠景は同じ長尾氏ではありますが、景信・景春の白井長尾氏から別の家(惣社長尾氏)に養子に出ていることもあり、家系に絡む利害関係も反発の背景にありました。

景春は謀反することに決め、親戚筋に当たる、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に謀反を呼びかけますが、道灌はそれに応じず、上杉房顕の跡を継いで関東管領となっていた上杉顕定に景春謀反を報告しますが、顕定はそれを無視しました。

その後、景春は五十子の陣を襲い、上杉勢は五十子からの撤退を余儀なくされます。
当然、足利成氏もこの動きを見逃さず景春と示し合わせて攻勢に出ます。

その結果、これまで上杉方として安定していた南関東に景春=公方方の勢力が出現し、情勢が不安定化していき、上杉方を窮地に追い込みます。

その状況の中、江戸を本拠としていた太田道灌は奮戦し、南関東はもちろん、北関東、房総にまで転戦し、上杉方の勢力挽回に貢献します。
一方、成氏も上杉勢を北関東に追い込み、双方に和睦の機運が高まります。

成氏は享徳の乱を通じて、幕府との融和を目指していましたが、越後守護・上杉房定(関東管領・上杉顕定の父)・結城氏広・長尾景春のルートを通じて幕府に放免を依願し、ついに幕府と関東公方の和睦(都鄙和睦・都鄙合体)が成立し、ここに享徳の乱は終結します。
文明14年(1482年)、享徳の乱発生から約30年。足利成氏は逆賊の汚名を背負い、多くの人の表裏を見ながらも、ついに長い闘争を戦い抜きました。

一方、上杉方の柱石として奮戦を続けた太田道灌はその勢力拡大を恐れた主君・(扇谷)上杉定正に誅殺されます。
太田道灌誅殺を契機に山内上杉家と扇谷上杉家の間で戦争状態となり(長享の乱)、長尾景春の抵抗もあり、両上杉家はその国力を落としていきます。

このような15世紀後半の動きは関東公方や関東管領家などの旧来の勢力は力を失い、新興勢力である伊勢氏(後北条氏)の勢力拡大を招くことになります。
享徳の乱の中で勢力を拡大した太田道灌は誅殺され、山内上杉家の重臣であった長尾景春も長く奮闘しましたが、最後は没落していきました。

本書は「敗者の日本史」というシリーズのもので、著者も書いているとおり、すべての関係者が「敗者」となった戦いであるといえます。
後の時代から見れば、後北条氏の時代の呼び水となった出来事ともいえます。

しかしながら、自分の信念のため、意地のため、そして自分の利益のために戦い抜いた足利成氏や上杉氏、太田道灌や長尾景春たちの戦いの物語は、誇り高きものとして語り継がれるべきものであると思います。

享徳の乱や長尾景春の乱は知名度こそ高くはないですが、そういう出来事の中に多くのドラマが盛り込まれている、というのも歴史の面白いところではないかと思います。

ちなみに、古河公方や古河藩の歴史を巡るため、古河を訪れてみたら、非常に落ち着いた感じで住みやすそうでした。
公園やゴルフ場に恵まれているのも素敵です。
住んでみたいと思いつつも、東京まで1時間強という通勤時間が難問ですが。。。
(JRだとグリーン車に乗れたら快適なのかもしれませんが、高い上に座れると限らないのが難しいところです)

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古河城の近辺。落ち着いていていい感じでした。

 

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城を攻める 城を守る

歴史や観光と楽しむ切り口は人によって様々ですが、その中でも多くの人が惹かれるポイントの一つに「」があります。

そして、城の味わい方についても、その城の歴史、構造などの見栄え、周囲の景色とのマッチングなど、それぞれの人のこだわりがあることでしょうが、そのうちの一つに、その城にまつわる物語、ということが挙げられると思います。

そして、城にまつわる物語の中でも特に人の関心を引くのは、その城を巡る攻防戦ではないでしょうか。

現在大規模な天守閣が残っている、あるいは再建されている城の多くは、戦国時代以降に建設されたもので、城の役割が防衛から政治の中心、あるいは権威の象徴に移り変わっていく時期であったこともあり、本格的な攻防戦・籠城戦を経験していないものが多いように思います。
例えば世界遺産として名高い姫路城は現在の姿になってからは攻防戦の事例はないと思われますし、やはり名城として名高い名古屋城や彦根城もおそらく同じです。
天守はありませんが、江戸城や青葉城(仙台城)もやはり戦争の舞台とはなっていません。

個人的な認識ですが、現在観光名所として有名な城のうち、本格的な攻防戦を経験したものは、会津若松城や大坂城、熊本城、松本城など、案外少ないのではないかと思います。
もちろん、小田原城や上田城など、他にも多くあることはあるのですが、例えば国宝に指定されている城郭の中で戦争を経験した城の割合はかなり低いように思えます。

それは城の役割や歴史を考えれば当然のことで、戦国時代に大きな役割を果たした城も江戸時代になるとその役割を終え、廃城になるケースもありますし、また政治や権威の象徴として機能することを求められる城の方が、見栄えもいいでしょうし、時代も新しいことから保存状態もよく、人の目を引くのだと思います。

しかし、城の魅力である物語に目を向ければ、天守閣も残っていなければ、観光名所として有名ではない城が活き活きとしてきます。

そんな城の物語に焦点を当てて、城の魅力を描き出してくれる書籍を読みました。
城を攻める 城を守る」。城の物語でも最も華々しい籠城戦の物語を描き、その城の魅力を再発見させてくれます。

この書籍の素晴らしいところは、有名な戦いだけでなく、重要だけれどもあまり注目されなかった攻防戦についてピックアップしてくれている点です。
例えば、桶狭間の戦いといえば、織田信長が今川義元を打ち取った場面ばかりが注目されますが、その前哨戦としていくつかの攻城戦があり、その流れの中で桶狭間における野戦となっており、そのあたりが描かれているのは興味深いです。

また、豊臣秀吉による小田原征伐については、本城である小田原城の戦いではなく、支城である八王子城・鉢形城・韮山城・山中城の戦いに紙幅を割いているのが心憎いと感じました。
特に韮山城では寡兵ながら善戦していたり、山中城は北条家の築城技術の粋を尽くした堅城といわれながらあっさりと抜かれたり、と注目すべき点は多いにもかかわらず、この両城の戦いはあまり注目されていなかったように感じていましたので、これらの城の物語に触れることができたのはとても印象的でした。
(八王子城・韮山城についてはこちら、鉢形城についてはこちらもご覧いただければと思います)

ちなみに、最近山中城に行ってきましたので、景色を少しご紹介します。

 


北条家特有の技術である畝堀

戦国時代には城砦を含めると、日本中至るところに城があり、そして多くの攻防戦が繰り広げられました。
その多くが、現在は人の関心を集めることなく、ひっそりと佇んでいますが、少しでも多く、その地で必死に生き続けた人たちの物語を知りたいと思いますし、共有していけたらと願います。

ちなみに本書では戦国時代のほか、幕末や西南戦争における城の物語も取り上げられていますので、ご参考まで。

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幕末の近代技術への開眼の立役者

史跡には一つ一つ物語がありますが、世界文化遺産ともなると、その物語のスケールや時代に及ぼした影響は格別です。

2015年に世界文化遺産に登録された伊豆の韮山反射炉も、やはり素晴らしい物語を持っています。

 


韮山反射炉

江戸時代も後期になると、鎖国政策を採っていた日本の周囲には多くの外国船が現れるようになり、幕府も外国の存在を意識せざるを得なくなってきていました(1825年には外国船打払令を出しています)。
そして、隣国ともいえるアジアの大国・清が列強に圧迫される中、独立を維持するためにも海防を強化するのは喫緊の課題でした。

海防政策の要の一つが海岸における砲台の整備です。
砲台を整備するには、その用地を確保し、多くの大砲を設置する必要があります。
そして、高性能の大砲を作るためには、高品質の鉄を加工することが前提です。
高品質の鉄を鋳造するためには、高温の熱で原材料を溶かさなければいけないのですが、その高温を出すために作られたのが反射炉です。

幕末にはいくつかの反射炉が各地で作られましたが、その中で現存しているのは韮山反射炉と萩反射炉だけとなっています。

その韮山反射炉の造営を企画・発案したのが、韮山代官の江川英龍(坦庵)です。
先日伊豆韮山に温泉旅行に行ったら、思いもかけず韮山反射炉に出会い、そのストーリーに感銘を受け、その企画者である江川英龍にも関心を持ったことから、書籍を読んで彼の人生を覗いてみることにしました。

江川家は鎌倉時代から続く由緒ある家柄で、戦国時代には北条家に仕え、その後関東に入国した徳川家に引き続き韮山の地で仕えることになりました。

江川家は酒造でも有名で、戦国時代においては「江川酒」が大名間の贈答に使われていた記録が残っています。

江川家は代々学問・芸術に造詣があったようで、学者・文人の交流の記録も多く残っており、英龍においても多くの学者・文人、あるいは剣術家に教育を受けている記録があります。
教育というものがいかに人格形成に影響を与えるか、さらにはそのような環境にいることがいかに恵まれているかということを考えさせられます(あるいは、そのような環境を子どもに提供することが親にとって大事な役割といえるかもしれません)。

英龍の交流は蘭学者にも及んでおり、例えば渡辺崋山などとも交流があったそうで、そのようなこともあり海外の技術や海防政策に関心を持ったものと思われます。

また、砲術は当時の一人者・高島秋帆に学び、免許を受けています。
ちなみに、後日秋帆が政争に巻き込まれた際には、英龍は自分が責任をもって蟄居させるからと自分が面倒を見ることを幕府に申し入れていたそうで、最終的に秋帆は韮山代官の手代(補佐役)に任命されたそうです。
高島秋帆の砲術技術向上に果たした役割は大きく、その名は彼が日本で初めて西洋砲術の公開演習を行った地にも残っています。東京都板橋区の高島平がその地です。

英龍は絵画にも才能を発揮し、多くの写生を残しています。
どれも写実性に富み、細かいところまで精緻に描かれています。
このような観察眼もまた彼の政策提言や反射炉造営に役立っていたのでしょう。

観察眼といえば、彼は代官支配地をよく見まわっており、領民からも慕われていて「世直し江川大明神」と呼ばれていたとか(その言葉が記載されている幟が現存しています)。

このほか、家族との絆や後継者の育成にも見るべきものが多かったそうです。
幕末の軍学者・佐久間象山も英龍の下で学んでいました。

彼が海防政策の要として企画した韮山反射炉は彼の死後完成し、いくつかの大砲の製造に成功しています。

彼の時代と比べて、現在は格段に情報の量は多いし、情報収集も容易になっていますが、それでもアクティブかつ効率的に情報を得ようとしなければ、やはり頭の中には入ってこないものです。
彼ほどの、とはいかずとも自分も情報収集や刺激をくれるような人との交流を通じて、少しでも面白く、価値を創造できるような人間になりたいものです。


二つの世界遺産・富士山と韮山反射炉を一望

 

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ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由

日本随一の古書店街でオフィス街でもある、東京・神保町には1軒のユニークな定食屋さんがあるそうです。

その名は、「未来食堂」。

 

そのユニークなポイントの一つが、「ただでご飯を食べさせてくれる」こと。

そんな「ただめし」を食べさせる食堂が、ボランティアではなくしっかり黒字を出している。

そんな話を耳にして、その店主の方が書かれた書籍を読んでみました。

 

未来食堂の大きなユニークポイントは、「まかない」「ただめし」「あつらえ」「さしいれ」。

 

まかないとは、その名の通り、お店を手伝ってくれた方に対して、食事を提供すること。

50分で1食と標準化されていて、1度お客さんとして来た方は誰でもまかないを申し出ることができるそうです。

興味深いのは、必ずしも食事が目的でまかないを申し出るわけではないということ。

飲食業界では自分でお店を出したいと思っても、修業期間が長く、すぐには技術を身につけさせてもらうことが難しいことから、そのような方が修行目的でまかないを行ったりすることもあるのだとか。

つい「食事が無料」「労働力の補てん」という点に目が行きがちですが、こういう価値もあるのかと、目から鱗でした。

 

ただめしもその名の通り、無料で食事を提供すること。

ただ、食事(食費)を提供するのがお店ではなく、「まかない」で無料券を取得した人、のがユニークです(もっとも、まかないをした人が自分で食べるだけだと「ただめし」=「まかない」になりそうですが)。

前述のとおり、「まかない」をする人の中には無料で食事をすること自体が目的ではない人もいて、そういう人は無料でご飯を食べる権利を持て余してしまいます。

そういう場合には、その無料券を他のお客さんに譲ることができ、結果として他のお客さんは「ただめし」を食べることができるということです。

まかないさんとお客さんがちょっとした縁でつながるのが面白いです。

 

あつらえ、とはお客さんの好みや要望に合わせた食べ物を提供すること。

ベースとなるのは定食ですが、お客さんのその時の気分や食べたいものに合わせて、小鉢をつけたり、定食の一部を変更したりしてそのお願いに応えます。

もともと店主の方は偏食だったこともあり、「おいしい」を押し付けられるのに違和感があり、だからこそ、いろんな人に「おいしい」を押し付けず、人それぞれに好みに合ったものを提供したいと考えたそうです。

こういうこともお店の個性を生み出すのですから、人の特徴を安易に評価してはいけないと思わされます。

 

そして、4つ目のさしいれ

一般的に居酒屋などでお酒を持ち込むと持込料がかかりますが、未来食堂では持込料はとらず、持ち込んだ量の半分をお店に提供することになります。

お酒の行方はケースバイケースのようですが、基本的にはお店においてあって、他のお客さんが自由に飲んでよいようです。

つまり、お酒を持ってきたお客さんが他のお客さんに差し入れするのをお店が媒介しているということです。

 

 

普通のお店だと、お客さんは自分たちでご飯を食べるので、あまりお店の人や他のお客さんとの関係を意識することはありませんが、未来食堂では、顔は見えないながらも、無料券を提供してくれたまかないさんや差し入れをくれた他のお客さんとの関係を感じることになりますので、その程よい距離感は素敵だと思います。

 

また、行き場のない人のセーフティネットとなることや、経営の透明性(ウェブで業績が公開されています)、飲食業界で頑張りたい人の経験を積む場の提供といったことを意識されているということも興味深く感じました。

 

そのほかにも、起業するには具体的なイメージ・情景を描くことの大切さも記されていて、自分でサービスを作ることについての大きなヒントをもらった気がします。

何かを考えるとき、つい抽象的な言葉で進めてしまうことがありますが、それではうまくいかないことがよくわかります。

 

 

自分は今資産運用業界にいますが、未来食堂と同じように、投資家の方とのもっと近い関係を築き、また資産運用業自体にもっと社会的な意義を持たせ、それを投資家の方と共有したいと思っていましたので、全く業種は違いますが、考えさせられることが多かったです。

 

まずは未来食堂さんにお邪魔して、ご飯や雰囲気を味わってみたいところです。

 

 

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