法学博士課程に入学しました

自分は現在投資信託委託会社でコンプライアンス(法令順守)の業務を担当していますが、この業務を始めて結構な時間が経ちました。
以前はコンプライアンス以外の業務も経験してみたいと思い、MBAを取得したりしていろんな可能性を探ってきましたが、それ以降もコンプライアンスの仕事をすることになり、こうなればコンプライアンスの専門家として生きていくしかない、と腹をくくるようになりました。

コンプライアンスの仕事とはその名の通り、会社の業務が法令に則って行われるようにルールを整備したり、チェックを行ったりする仕事です。
法令順守というからには法令を理解したうえで業務を遂行することが求められるのですが、判断の基準には法令そのもののほか、業界のルールや社内規程、それに加えて業界の慣行などがあり、これらを理解したうえで判断を行う必要があります。

しかし、投資信託は複雑な仕組みの制度であることに加え、昨今では海外の運用会社に運用を委託したり、海外の投資信託を組入れたり、あるいは日本の運用会社が海外で販売されている投資信託の運用を行うなど、海外との関係も深くなっていて、さらに複雑になっています。

そのような要因もあり、法令の文言をそのまま読むだけではなく、それを投資信託のビジネスの実態にいかに沿う形で解釈するかということが重要になっています。

そのようなこともあり、業界としても各種のルールや慣行ができているわけですが、それが本当の意味で法令の趣旨にかなっているか、あるいは投資家に対して責任を果たすことになっているか、ということは判断が難しいケースもあります。

もちろん、当局や業界のルールや指示に従っていればペナルティを受けることはない、という意味ではそれらを把握しておけば会社に対するコンプライアンスの責務は果たされるのですが、それが本当にあるべき姿であるのか、もっと良いあり方はないのか、ということを問い続け、改善を目指すことも業界のプロフェッショナルとして重要なことです。

そこで自分自身も、投資信託ビジネスのあり方について長らく課題であると考えていたテーマについて研究すべく、法学の博士(後期)課程に入学することにしました。

博士課程とは一般的には研究者の卵を要請する課程であり、これまでの研究の集大成を博士論文として昇華させることが求められています。

一方、自分はといえば、学部は経済学部で、修士課程は経営学(MBA)と、法学について体系的に教育を受けたことはなく、また修士論文も書いたことがないという、法学については素人とっても過言ではない状態です。

しかしながら、法学と実務の橋渡しをすることによって業界の発展に貢献するという目標を果たすには博士課程が適しており、その考えを入学試験においても理解していただき、法学の博士課程に入学することになりました。

専門的な教育を受けていないということで苦労をすることも多々ありますが、自分の目標を達成し、キャリア的にも新しい挑戦ができるように頑張っていきたいと思います。
願わくば、標準期間の3年間で博士号を取得したいと思いますが、それ以上の時間がかかっても今後の目標のために最後まで頑張りたいと思います。

今後、博士課程での体験についても綴っていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

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就職活動・社会人1年目を頑張るあなたへ(就職活動編)

前回は就職活動・社会人1年目の方向けに、過去の自分に向けてのメッセージの形で生活のアドバイスを送ってみましたが、今回は就職活動について書いてみたいと思います。

今でこそ人並みに生きていますが、就職活動では超のつくほどの劣等生で、惨憺たるものでした。

就職活動は大学卒業時と(社会人になった後)MBA中・終了時の2回経験しましたが、どちらも苦労の連続でした。
新卒時は比較的売り手市場でしたし、MBA卒業生は比較的容易にいいところに職を得る傾向があるので、なおさら自分の劣等生ぶりが際立っていました。

本来はそんな人間が就職活動についてアドバイスをすることはおこがましいのですが、そんな人間のアドバイスこそ役立つことがあるかもしれませんし、あくまで過去の自分に伝えたいことですので、その辺はご海容ください。

【就職活動時のアドバイス】
1.自分を差別化する

事実かどうかはわかりませんが、就職活動中にはよく「副部長」「副キャプテン」が登場すると聞きます。

リーダーシップをアピールしつつ、部長・キャプテンだと色んなリスクがあるから「副」なのでしょう。

しかし、これは非常にもったいないアピールの仕方だと思います。
というのも、就職活動で勝ち抜くということは他の人と競争で勝ち抜くことであり、他の人と同じアピールをするということは、その枠で激しい競争をすることになります。

それよりは、他に自分がアピールできる経験や技能を見つけ、それを前面に出した方がよいと思います。
組織というのはいろんな役割の人がいて成り立つものであり、決してリーダーの集団ではありません。
また、リーダーシップというのは役割のみに基づき発揮されるわけでもなく、個々人の頑張る姿や気遣いが人をリードしていくこともあります。

もちろん、「副」として頑張ってきたのであれば、それをアピールすることにも意味があると思いますが、無理に「副」を押し出すよりは、他の人とは違った自分の長所をアピールした方がよいと思います。
どんな小さなものでも、組織に貢献できるのであれば、聞き手にとっては新鮮で面白いものになるのではないでしょうか。決して奇をてらう必要はありません。

2.色んな業界・会社を見てみる

世の中は自分の思っているより広く、自分の知らない業界や仕事がたくさんあります。
社会人になってもそう思いますし、学生さんにとってはなおさらだと思います。

就職活動にあたって、業界や会社を絞ってエントリーをする人も少なくないかと思いますが、それ以外に自分の知らない面白い仕事がある可能性を考えると、それはもったいないことだと思います。
特に、就職活動中は多くの会社が大っぴらに会社のことを話してくれますが、それは社会人になるとなかなか得られない機会です。

ステータスを目的として、特定の業界や会社を志望する場合もあるでしょう。
その気持ちはよくわかりますが、それもあまりお勧めできません。

ステータスで会社を選ぶと、会社の存在が自分のアイデンティティの大きな割合を占めることになります。
プライベートで自己紹介をするときに、「○○会社のxxです。」と始めてしまうような人というような感じでしょうか。
それは時として愛社精神として評価されるのでしょうが、会社はあくまで自分とは別の存在であり、それが一体化するのは寂しい気がします。

またステータスに縛られると、どんなに辛くなっても、他の仕事がしたくなっても、自分の気持ちに正直に行動することができなくなります。会社のステータスと自分の幸福度が比例するとは限りません。

さらに、会社のステータスは時代による変わる可能性がありますし、その重要性も変わります。
世界に名だたる大企業でも危機に瀕してリストラ敢行という事例はたくさんありますし、また個人的な感想ですが、若い世代の人は昔の世代の人に比べ、会社のステータスより「どのような仕事をしているか」「個人としてどのような人間であるか・価値があるか」ということを重視している傾向があるように思います。
そのような時代の中で「自分は●●会社に所属している」というステータスは、昔ほど重視されるものではないようにも思います。

だからこそ、最初から業界や会社に絞るのではなく、いろんな業界や会社を見てみて、自分の可能性を広げてみることは大事だと思います。
一番大事なのは、仕事の内容や会社との相性、それに待遇・ステータスなどを加味した総合的な満足度・幸福感であり、より多くの選択肢の中から選択した方が大きな満足度を得られる可能性があるのではないでしょうか。

3.具体的な仕事をイメージする

志望する会社を選ぶとき、その会社の手掛ける事業やプロジェクトを見て、「こういうことをやりたい」と思ってエントリーすることが多いと思いますが、その会社の個々の従業員が行っていることは「事業」や「プロジェクト」ではなく、その人たちに割り当てられた具体的な業務・作業です。

例えば「ロケットを飛ばす」というプロジェクトがあったとして、それは「ロケットを飛ばす」という仕事があるのではなく、ロケットを設計する、材料を調達する、資金を確保する、行政の許認可を得る、報道機関に情報提供をする、といったいろんな業務があります(あくまでイメージですが)。
そしてそれはさらに細分化され、「文書を作る」、「何かを調べる」、「資料・データを分析する」、「関係者と調整する」といった具体的な(そして、大抵は地味で地道な)業務に落とし込まれます。

そして、就職活動で採用された人に期待される役割も、当然具体的な業務・作業を行うことです。
そのため、その会社で貢献するためには、そういう具体的な業務をこなすことができるということが必要で、またやりがいを感じるためには、そういう具体的な業務に魅力を感じることが必要です。

そのため、志望動機を考えるにせよ、自分の能力をアピールするにせよ、具体的な業務をイメージしてみることが第一歩だと思います。
そうすれば、自己アピールもより採用側に響きやすくなるような気がします。

4.社会人とできるだけ話してみる

前項のとおり、志望動機を考えたり、自己アピールをしたりするにあたって具体的な業務をイメージすることが大事と書きましたが、学生が自分の頭で考えても、具体的な業務、あるいは自分が業務をしている姿をイメージすることは難しいと思います。

であれば、具体的な業務をしている社会人に話を聞くのが有効です。
卒業生を紹介してくれる大学もあるでしょうし、バイト先の先輩などとコンタクトをとることもできるでしょう。
最近であればSNSを使って希望する人とコンタクトをとることも不可能ではないですし(Twitterやココナラなどでそういう人にコンタクトできます)、それも難しければ、家族・親戚から話を聞くこともできます。

実際に仕事をしている人に、「具体的な業務として何をしている(してきた)のか」、「その業務にはどういう能力が必要なのか」、「その業務は会社全体の中でどのような役割を果たしているのか」などを聞いてみると業務のイメージが多少は描けるでしょう。
また、「●●といった仕事をしたいと思っているのだけどこの会社でできるか」、「●●をしたいとして、具体的にどういう業務をすることになるのか」という話を聞いてみるのもよいかもしれません。

社会人と話すことのもう一つのメリットは、社会人慣れできるということです。
自分が就職活動を始めたころは、社会人と話した経験がほとんどなく、面接の都度緊張したり、マナーに戸惑ったりしました。気づかないうちにマナー違反で失敗したこともあったと思います。
もう少し事前に社会人と話して慣れておけば、多少は緊張の度合いも下がったでしょうし、マナーについてももう少し勉強したり、指摘を受けたりして改善できたと思います。

いきなり学生から話を聞きたい、なんて言われて迷惑ではないかと躊躇される方もいるでしょう。
でも、それを心配する必要はあまりありません。
おそらく、多くの社会人は普段話さない若い学生と話すのは歓迎だと思いますし、自分の経験が求められるというのも嬉しいものです。
もちろん、中には多忙であったりそういうことが苦手で取り合ってもらえない時もあるでしょうが、それなりの確率で話を聞かせてもらえることと思います。

最初は慣れないこともあるでしょうが、時間を割いてもらっていることの感謝と、その方が仕事を頑張っていることに対しての敬意を忘れずにいれば、気持ちよく話を聞かせてもらえると思います(ただし、自分で調べれば簡単にわかるようなことを質問するのは不可)。

5.面接は芝居ではなくミーティングである

大学生の時、就職活動の面接は芝居だと思っていました。
面接という芝居をうまくこなすため、志望動機や自己アピールは暗記して、すらすらと答えなくてはいけない。
面接者から聞かれた質問についてはすぐに返事しなければならない。
最後の質問もとりあえず言っておかなければいけない。

実際、自分の周りもそんな感じでしたし、採用側も多くの候補者を短期間に評価しなければならないため、一定の枠にはめられた形が効率的なのでしょう。

それはそれで受け入れる必要があるのですが、本来あるべき面接とはそのような形でしょうか。
面接とは本質的には会社が候補者の労働力を購入するという商談であり、そのためのミーティングです。
商談をするときには決して暗記には頼らず、お互いに資料を見ながら話しますし、場合によっては相手には出さない手持ち資料も使います。
また社会人がミーティングをするにあたって筆記用具を持たないことはありえず、メモをする、メモを見るというのは自然な行為です。

したがって、面接中にメモをみながら話したり、質問した時には回答をメモするというのは許容範囲ですし、むしろ社会人としての行動原則に則っていて評価の対象になるのではと思います。

社会人になった後の転職活動ではそのような考え方から、面接時には手持ち資料を見ながら回答・質問したり、こちらからの質問の回答をメモしたりしていますが、特段悪い評価をもらったことはないですし、むしろ好評価をもらったこともあります。

もちろん、新卒採用と社会人が転職するときの面接では状況が違いますし、自分のやり方を押し通して採用側の差しさわりになること(面接の時間が延びてしまうなど)は避けなければいけませんが、そのようなことがないのであれば、社会人としての行動原則に則った面接の仕方を試してみてもいいと思います。
緊張しやすく、頭が真っ白になりがちの人にとっては、特に有効かもしれません。

 

以上、就職活動中の自分(と就職活動中の方)に向けたアドバイスを書いてみました。
賛否両論あるかもしれませんし、もっと有意義なアドバイスもたくさんあることでしょう。
ただ、過去の自分はこういったことも十分にできていなかったし、自分のように就職活動がうまくいかない人はこういったところを気をつければ、少しでも状況がよくなっていくかも、ということで自分の思うところを書いてみました。
参考になるかはわかりませんが、少しでもお役に立てれば幸いです。

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就職活動・社会人1年目を頑張るあなたへ(生活編)

この時期になると、社内外でリクルートスーツに身を包んだ学生さんをよく見かけ、その都度自分の就職活動時代を思い出します。

また、新年度が近いので、自分が社会人になりたての頃のことも頭に浮かびます。

 

そして、昔のことを考えると、最初に出てくるのが失敗したこと。

大きな失敗、小さな失敗、それぞれたくさん重ねたことも今では良い思い出です。

 

でも、できるならそのような失敗はしない方がいいのは当然のこと。

このブログは「就職活動日記」と称して就職活動にまつわる事柄をつづるものでした。

そこで、今回は「今の自分から就職活動時・社会人になりたての頃の自分に送るアドバイス」という内容で、何かしら就職活動や社会人1年目を頑張っている方にお役に立つことをお伝えできればと思います。

自分は就職活動も社会人1年目も全然うまくいかなかった人間ですので、人様にアドバイスをするなんておこがましいことは言えません。

あくまで過去の自分に対するアドバイスとしていることをご承知おきください。

そして、自分の意見が正しいとも思いませんので、気楽に読んでいただき、なるほどと思ったところだけ役立ててもらえればと思います。

 

では、過去の自分へアドバイスを送ってみたいと思います。

 

【生活について】

1.ネクタイは洗えない

就職活動や社会人になってネクタイをする頻度が上がると、ついついネクタイを洗いたくなることがあると思います。

そう思わずとも、間違ってネクタイを洗濯機に入れてしまうこともあるでしょう。

しかし、ネクタイを洗濯機に入れてしまったが最後、もしゃもしゃ(?)になって二度と使えません。

お気に入りのネクタイがあれば、それはクリーニングに出しましょう。

※洗濯機で洗う方法もあるようですが、難しいようですので気を付けた方がよいと思います。

 

2.ワイシャツは形状記憶が便利

スーツを着る仕事をすると、原則として毎日ワイシャツを着ることになります。

ワイシャツを着るのであれば、しわがあっては身だしなみとしてはアウト。

そのため、アイロンを毎日かける必要がありますが、アイロンをかける時間と手間は案外負担になります。

形状記憶のワイシャツを着ると、その手間が省けて大変便利です。

私は形状記憶のワイシャツを着ない場合はスリーピース(ベスト)を着てワイシャツのしわを隠しています(笑い)。

 

3.スーツの靴下は黒系

就職活動をしていると黒のスーツを着ていると思いますが、黒のスーツには黒の靴下が基本です。

グレーやブラウンなどは許容範囲だと思いますが、白やピンクは就職活動中の人や若手にはハードルが高い気がします。

おしゃれですし、個人的にはいいと思うのですが、就職活動や社会人になりたての頃は黒やグレーが無難かと思います。

 

4.足元は見られている

よく言われることですが、足元というのは案外よく見られているものです。

自分も電車に乗っているときについ人の足元を見たりします。

高い靴を履く必要はないですが、服装・体形にあった靴を履き、靴の手入れをしっかりすることは大事です。

時間や手間をかけなくてもいいので、靴墨などを使ってきれいにしておくと安心です。

 

5.お酒は飲みすぎない

社会人とお酒はある意味切っても切り離せないものかもしれません。

ストレス解消、友達付き合い、会社の飲み会などなど、お酒の出番は多いです。

しかし、そこで飲みすぎて人に迷惑をかけるのは言語道断ですし、二日酔いになって会社に行けなかったり、満足に仕事ができないというのも社会人失格の誹りを免れません。

自分に合ったペースや酒量を把握し、適度に飲むとともに、ときどきお水やお茶を飲みながらお酒を楽しむといいと思います。

 

6.野菜を摂る

忙しかったり、財布が苦しくなると食費の中で削られやすい野菜。

特に最近は野菜が高くなっているのでそういう人も多いのではないかと思います。

しかし、野菜には健康を維持するための栄養素が豊富で、それを削るといずれは健康に悪影響が出ます。若いうちは健康を気にしなくても健康診断では問題がないかもしれませんが、徐々に健康状態の悪化は健康診断にも表れてきます。

そして、一度失った健康は、回復するのに時間がかかったり、場合によっては元に戻らなかったりします。

健康はお金で買うことは難しく、そして我々の生活に非常に大きな影響があります。

だからこそ、できるだけ健康を意識した食生活を維持することが重要です。

 

7.習慣を作る

仕事を始めると学生時代とは変わって忙しくなり、生活がズボラになりがちです。

しかし、日々を充実したものにするためには、できるかぎり生活のリズムを整えたいところ。

そこでおすすめなのは、何か習慣を作ること。

習慣を作れば、それをしなければいけないというある種の強迫観念が生まれ、自ずと生活のリズムが整えられます。

時間まで固定すると、否が応にも生活のリズムは一定のものになります。

例えば、毎朝6時に走るというのが習慣になると、前日寝るのが遅くても、朝は6時に走るように体が自然と調整され、その日のリズムがリセットされます。

運動でも勉強でも、食事など生活の一部でも何でもいいのですが、できるだけスキップすると自己嫌悪してしまうようなものがおすすめです。そうするとスキップしないようになるので。

もちろん、自己啓発や運動など、自分のレベルアップにつながることとリンクさせると効果は大きいと思います。

 

 

以上、就職活動時及び社会人1年目のときの自分に送りたいアドバイス(生活編)でした。

続編もお楽しみにー。

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武田氏滅亡

戦国時代には多くの事件や物語がありますが、その中でも特にインパクトの大きいものの一つが「武田氏滅亡」ではないでしょうか。

それは、単に一つの勢力が滅亡したということにとどまらず、織田信長という新興勢力に敗れ去った名門、甲斐の虎・戦国最強との異名をとった武田信玄という偉大な人物の死後わずか10年足らずの出来事であったこと、そしてそれが長篠の戦いに代表されるようなイノベーションの結果であったこと(この点はいろんな解釈ができますが)、そして武田勝頼が最後には多くの人に見放され、武田家とともに非業の最後を遂げたこと、などの要素があるからだと思います。

以前は大武田家を滅亡に導いた張本人として武田勝頼を強いだけの愚か者として評価する傾向が強かったのですが、最近は勝頼研究が進み、再評価が進んでいます。
とはいえ、あれほど強大な勢力を誇った武田家が信玄死後わずか10年で滅び去るというのは、武田家の中に何かしら問題があったのでしょうし、それが勝頼の資質に帰するものでなければ何が原因だったのかということは非常に関心がもたれるところです。

自分自身は、学生時代に新田次郎「武田勝頼」を読んでから、当時置かれた勝頼の立場や限界に触れ、その奮闘と苦悩に賞賛と同情の念を持っていて、結構好きな人物だったのですが、最近の研究がまとめられた書籍が注目されているということで読んでみました。

大河ドラマで歴史考証を務めるなど活躍されている平山優氏の「武田氏滅亡」です。
本書はタイトルの通り、武田家が滅亡する過程に焦点を当てており、取り上げる時期も武田家が下り坂に入ったと一般的に言われる長篠の戦い以降が大半です。

 

戦国大名武田氏の最後の当主(厳密にいえば勝頼は滅亡直前に息子の信勝に家督を譲っていますが)、武田勝頼は武田家の当主としては数奇な運命が定められていたといえます。
武田信虎・晴信(信玄)のように、武田家の一門には「信」という字が入っているのが一般的(通字)ですが、勝頼の名に「信」の字はありません。
これは、信玄が勝頼を、自ら滅ぼした諏訪家の家督を継がせるものとして想定しており、武田家の人間としては扱っていなかったことを意味します(武田家の「信」と諏訪家の「頼」を合わせて「信頼」でもよかった気がしますが、それもありませんでした)。
しかも、その諏訪家でも嫡流ではなく、庶流高遠家を継いだといわれます。

ともあれ、勝頼は「諏訪勝頼」として生きることが求められ、実際に武田家内でも他家からも諏訪家ないしは高遠家の人間とみられていました。
しかしながら、兄・武田義信は今川攻めを巡る武田家の内紛で自害し、勝頼は武田家本家の後継者となります。
この時点で、諏訪勝頼は武田勝頼になりますが、他の武田家の人間からすれば、信玄の息子であっても他家の人物が自分たちの主君として君臨することには抵抗があったかもしれません。

そして、信玄の勢力拡大の野望の中で、武田・今川・北条の三国同盟は破棄され、今川量を併呑した後には徳川・織田との同盟も破棄され、織田信長・徳川家康から恨みをかった状態で信玄は1573年に死去。
まだ若年で武田家の人間としての期間も短い中で、勝頼は武田家の当主となります。

信玄の死の直後、武田家の動揺は大きく、勝頼はそのとりまとめに苦労します。
信玄のカリスマ性もありますが、何より勝頼が諏訪家出身であったことやその子・信勝の成長までつなぎとして位置づけられていたことが大きいようです。

勝頼が当主として家中をまとめ上げるのに苦労している間は軍事行動も行うことができず、その間織田・徳川勢は一気に浅井・朝倉氏を滅亡させ、足利義昭も京都を追放され室町幕府は滅亡しています。信玄死後、わずか半年以内の出来事です。

その後、何とか家中をまとめ上げた勝頼は攻勢に出て、遠江の要衝・高天神城を落城させますが、1575年の長篠の戦いで大敗し、多くの重臣(=ベテラン)を失います。
ここからが本書のメインの時期になります。

その後の武田家・勝頼の動向は一般的に知られているものと大筋では同様ですが、その中でも本書ではこれまであまり知られていなかった、勝頼が必死に時代に抗おうとしていた事績を示してくれます。
以下、本書に綴られている、武田家の奮闘の事績です。

長篠の戦い以降、織田・徳川に対して守勢に回った武田家ですが、一方で足利義昭主導で武田・上杉・北条による対織田の三国同盟が進められていました。
三国同盟は実現直前までまとまりましたが、関東で上杉家とともに北条家に対抗している諸勢力が上杉家に北条家と和睦しないように要請したため、結局三国同盟は成立しませんでした(武田・上杉の和睦は成立)。

その後、武田家と北条家が死闘を繰り広げて体力を消耗したことを考えると、三国同盟が成立しなかったことはその後の歴史を大きく変えた可能性があります(謙信死後、どのみち上杉・北条は御館の乱のように決裂したかもしれませんが)。

御館の乱では最終的に景勝側についた勝頼は、旧上杉領の東上野のほか、越後にも拠点を確保していました。
御館の乱の結果、北条家と決別した武田家は、関東の反北条の諸勢力と同盟を結び、北条包囲網を構築しました。

そして北条領の上野・武蔵に侵攻し、多くの国人が武田方につくなど、まだまだ武田家は脅威で、むしろ北条家の方が存亡の危機を迎えていようです。

北条包囲網に危機感を持った北条氏政は織田家への依存を強くし、嫡男・氏直に信長の娘を縁組させるとともに、氏直に家督を譲ることで織田家との連携の強化を図っています(氏政は縁組を強く望んだものの、結局は成立せず)。

この結果、長篠の戦いで奥三河の領土は失ったものの、その後越後や上野にも進出し、この時期に武田家の最大版図が築かれたようです。

 

とはいえ、各地で戦線を展開するには費用も掛かり、実際武田領内では増税が繰り返されていて、国人・領民の負担は大きく、武田家の体力は苦しくなっていました。
そのため、勝頼は表面的には織田家との対決姿勢を維持しながら、織田家との和睦を模索します。この試みは1579年と1580年の二度行われており、それぞれ甲江和与甲濃和親と呼ばれます(甲江和与についてはこんな記事を書いていました。)。

しかし、武田家を滅亡させることを考えていた信長はそれを拒否。

しかもただ拒否するだけでなく、結論を引き延ばしたため、勝頼は信長を刺激するような強い対抗姿勢をとれませんでした。そのため、遠江に確保していた高天神城へ援軍を出すこともできず、1581年に高天神城は落城。

信長はこれを「勝頼が高天神城を見捨てた」と喧伝し、勝頼への信頼は失われていきます。実際、高天神城落城の後から家臣・国人の離反が顕著になります。

そして1582年1月、勝頼の義弟・木曽義昌が信長に内通。

信濃への侵攻路を抑えていた木曽氏が離反したことで、2月には織田・徳川連合軍は信濃になだれ込みます。
甲州征伐に先立ち、信長は朝廷に働きかけ、武田家を朝敵としています。さらに2月14日に浅間山の噴火があったことから武田軍の士気は急速に低下します。

迎撃に向かった勝頼ですが、各地で織田軍への降伏・逃亡が相次ぎ、失地奪回どころか、軍の維持すら困難になってきます。
結局、勝頼は新たに築いた本拠・新府城に撤退しますが、その時には軍勢はほとんどいませんでした。

そして、弟・仁科信盛(盛信)が高遠城で奮戦して時間稼ぎをする間に勝頼は重臣・小山田信茂の本拠・郡内に退くことを決断します。
その際、従兄弟の武田信豊を北信濃の小諸城に戻し、甲斐に侵攻してきた織田勢を南と北から挟撃する戦略だったそうです。
信豊は勝頼を見放して逃亡したと思っていましたが、このような背景があったことを初めて知りました。

なお、破竹の勢いで進んでいた織田勢ですが、信長自身は武田家を侮っておらず、進撃する嫡男・信忠に対し、慎重に進むように指示をしていたそうです。
また、北条氏も武田家がこれほど早く瓦解したということが信じられず、参戦が遅れたといわれています。

しかし、最後には頼みの綱であった信茂が離反。
勝頼はすべての望みを絶たれます。

最後は、祖先の武田信満が上杉禅秀の乱の際に自害した天目山棲雲寺を目指しますが、その途中の田野にて織田軍に捕捉され、奮戦の後、嫡男・信勝と自害(または討死)。
天正10年(1582年)3月11日午前10時頃、武田家は滅亡しました。

勝頼の首級を見た信長の反応は諸説ありますが、「三河物語」によると、「勝頼は日本においても隠れなき弓取り(武将)であったが、運がなかったためにこうなってしまった」と話したそうです。信長は勝頼のことを高く評価していたようで、この反応が自然なような気がします。

勝頼が最後を迎える直前、北条家から嫁いできた北条夫人が自害します。
その最後を見た勝頼の反応にはいくつかの記録がありますが、どれも夫人への愛情が溢れるもので、現代でも人の心を打つようなラブストーリーでした。

なお、北条夫人は勝頼から実家に帰るように言われていますが、勝頼と一緒に死にたいといって、最後を共にしています。

軍記物や歴史小説ならいざ知らず、信憑性のある史料にもそのような愛情の記録が残っていることが意外でした(女性の名前すらなかなか残らない時代です)。

本書は歴史小説ではなく、専門書に近いといっていい分類の書籍で、700ページを超える大著ですが、それを全然感じさせず、引き込まれて気づいたら読み終わっていました。

本書ではこれまであまり語られることのなかった、長篠の戦い以降の勝頼の活躍と苦悩、そして武田家を取り巻く諸勢力の必死の生き残りが丁寧に描かれていて、非常に読みごたえがありました。

また、あとがきでは著者の武田家への思い入れが述べられていて、こちらも興味深かったです。

結果として歴史上敗者となってしまった武田勝頼ですが、様々な相克や制約の中最後まで生き残りをかけて奮闘する姿は美しく、心を打たれるものがありました。

現在国立大学の文系縮小など、文系、とりわけ人文系は向かい風の状況にあると思いますが、このような素晴らしい研究成果に出合うと、学問の価値とは何かということはよく考えなければいけないと思わされます(逆に研究者の方も自分たちの研究成果をどのように世間に還元するかを考える必要があると思いますが)。

 

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享徳の乱と太田道灌

歴史上の人物にはいろんな個性やドラマがありますが、中でもどんなに苦戦しても頑強に抵抗するという話には心を強く惹かれます。

そのような話の中で、最近関心を持っているのが、享徳の乱です。

享徳の乱はその歴史上の重要性の割に取り上げられることが多くないのですが、その登場人物たちの物語や個性に関心を持ち、標記の書籍を読みました。

足利尊氏が室町幕府を打ち立てた際に、彼は将軍は京都で政務をとり、将軍一門の別の有力者を鎌倉において、関東(及び東北)の統治に当たらせる方針を採りました。
関東統治のトップは鎌倉公方(または関東公方)と呼ばれ(公方は将軍の意)、初代鎌倉公方には足利尊氏の子息・基氏が就任しました(初代は尊氏の長男・義詮とも)。

鎌倉公方は中央と離れて独立した存在として動こうとする傾向があり、鎌倉公方の補佐役として中央政権から任命されている関東管領と対立する傾向がありました。
その結果、基氏のひ孫にあたる持氏は(前)関東管領に反乱を起こされ(上杉禅秀の乱)、それは鎮圧したものの、新たな関東管領である上杉憲実とも対立し、最終的には中央政権への反抗とみなされ、戦闘になった結果、持氏は中央政権及び関東管領に敗れ、自害することになります(永享の乱)。

持氏は敗れましたが、持氏に恩顧を感じていたり、強い利害関係を持っていた者は少なくなく、彼らは持氏の遺児である春王・安王を擁して幕府に抵抗します。
その中心にいたのが結城氏朝であり、彼らは結城城に籠城しますが、ついには落城し、結城氏朝や持氏の遺児らは落命します(結城合戦)。

 

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結城城址。跡地には結城合戦(タイムカプセル?)記念碑もあります。

 

親持氏の勢力が一掃されたところで、幕府と関東管領が関東を統治するか、となるかといえば、そうはいきませんでした。
というのも、持氏征伐を主導した将軍・足利義教が重臣・赤松満祐に暗殺され(嘉吉の乱)、幕府が関東統治に関与する余裕がなくなってしまったからです。

関東管領自体は関東の統治者としての権威を有していないため、新たな鎌倉公方を求める必要があり、持氏の子・足利成氏が鎌倉公方に就任しました。
そして彼は享徳の乱の主人公となり、新たな関東の動乱を起こすことになります。

成氏が鎌倉公方になったとき、永享の乱のときの関東管領・上杉憲実は引退し、彼の長男の憲忠が関東管領に就任しました。
成氏から見ると、父の仇の息子。内心いい感じはしなかったことでしょう。

そして、やはり成氏と憲忠は対立することになり、成氏は上杉方の攻撃を受けますが、何とか退け、逆に憲忠を弑殺します。
時に享徳3年(1454年)、公方方と管領方の対立は決定的となり、享徳の乱が始まることになります。

ちなみに、上杉憲忠の父・憲実は主君・足利持氏のために懸命に尽くし、持氏の敗北が確定したのちも助命嘆願を行っていますが、その甲斐なく持氏を討つことになったことを悔やみ、自分の子供が自分の跡を継いで関東管領になるとろくなことがないとして、厳しく禁じていました。そのため、憲忠が関東管領になった際には義絶したものとみられています。
そして、成氏の憲忠殺害は、まさに憲実の懸念が現実化したものといえます。

憲忠を討ち果たした後、成氏は上杉家の勢力を討伐するため、自ら出陣して北関東に赴き、また味方の勢力に多くの指示を出しています。

そうした中、当初は公方方が優勢に戦いを進めていましたが、中央政権が上杉方につき、成氏討伐の姿勢を見せ、新たな鎌倉公方(将軍・足利義政の兄・政知)の派遣を決めると、公方方の大名たちに動揺が走り、上杉方につく勢力も現れてきます。
成氏は、父親の持氏と同じ轍を踏まないよう、あくまで鎌倉公方と関東管領の争いの枠内で処理し、中央政権に反抗する意思はない旨を中央に訴えていたのですが、彼の思惑通りにはいかず、中央政権を敵に回した形となってしまいました。

当時の上杉方は、関東管領の上杉房顕(山内家、憲忠の弟)をはじめ、越後守護・上杉房定(越後守護家)、相模守護・上杉持朝(扇谷家)が中心となって、武蔵の五十子(いかっこ)に陣を築き、室町幕府の支援を得て戦っています。
上杉方支援の一環として、幕府は駿河守護の今川氏に鎌倉攻撃を命じており、成氏が不在の間に鎌倉は失陥します。
本拠地を失った成氏は、関東の中心で交通の要所でもある古河に本拠地を移動。これより後、古河公方と呼ばれるようになります。

 

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古河城跡。成氏のほか、江戸時代にも譜代大名の統治の拠点となりました。

 

その後、公方方と上杉方は一進一退の攻防を繰り返し、一時は成氏の本拠地・古河城も陥落しますが、成氏はすぐに取り返すなど、決定的な打撃を与えるには至りませんでした。
この時点で享徳の乱勃発から17年が経過。関係者の世代交代が進んでいたこともあり、徒労感・倦怠感も大きかったかもしれません。

そして、その世代交代が享徳の乱に転換期をもたらします。

成氏が古河城を回復した翌年(文明5年=享徳22年*、1473年)、山内上杉家の家宰職としてまとめ役を務めていた長尾景信が病死、家宰職はその弟の忠景が継ぎます。
これに反発したのが景信の嫡男・長尾景春です。
*成氏は中央政権と対立していたため、中央で元号が変更された後も享徳年号を使い続けています。

通常は景信の嫡子が跡を継ぐのが一般的であることに加え、忠景は同じ長尾氏ではありますが、景信・景春の白井長尾氏から別の家(惣社長尾氏)に養子に出ていることもあり、家系に絡む利害関係も反発の背景にありました。

景春は謀反することに決め、親戚筋に当たる、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に謀反を呼びかけますが、道灌はそれに応じず、上杉房顕の跡を継いで関東管領となっていた上杉顕定に景春謀反を報告しますが、顕定はそれを無視しました。

その後、景春は五十子の陣を襲い、上杉勢は五十子からの撤退を余儀なくされます。
当然、足利成氏もこの動きを見逃さず景春と示し合わせて攻勢に出ます。

その結果、これまで上杉方として安定していた南関東に景春=公方方の勢力が出現し、情勢が不安定化していき、上杉方を窮地に追い込みます。

その状況の中、江戸を本拠としていた太田道灌は奮戦し、南関東はもちろん、北関東、房総にまで転戦し、上杉方の勢力挽回に貢献します。
一方、成氏も上杉勢を北関東に追い込み、双方に和睦の機運が高まります。

成氏は享徳の乱を通じて、幕府との融和を目指していましたが、越後守護・上杉房定(関東管領・上杉顕定の父)・結城氏広・長尾景春のルートを通じて幕府に放免を依願し、ついに幕府と関東公方の和睦(都鄙和睦・都鄙合体)が成立し、ここに享徳の乱は終結します。
文明14年(1482年)、享徳の乱発生から約30年。足利成氏は逆賊の汚名を背負い、多くの人の表裏を見ながらも、ついに長い闘争を戦い抜きました。

一方、上杉方の柱石として奮戦を続けた太田道灌はその勢力拡大を恐れた主君・(扇谷)上杉定正に誅殺されます。
太田道灌誅殺を契機に山内上杉家と扇谷上杉家の間で戦争状態となり(長享の乱)、長尾景春の抵抗もあり、両上杉家はその国力を落としていきます。

このような15世紀後半の動きは関東公方や関東管領家などの旧来の勢力は力を失い、新興勢力である伊勢氏(後北条氏)の勢力拡大を招くことになります。
享徳の乱の中で勢力を拡大した太田道灌は誅殺され、山内上杉家の重臣であった長尾景春も長く奮闘しましたが、最後は没落していきました。

本書は「敗者の日本史」というシリーズのもので、著者も書いているとおり、すべての関係者が「敗者」となった戦いであるといえます。
後の時代から見れば、後北条氏の時代の呼び水となった出来事ともいえます。

しかしながら、自分の信念のため、意地のため、そして自分の利益のために戦い抜いた足利成氏や上杉氏、太田道灌や長尾景春たちの戦いの物語は、誇り高きものとして語り継がれるべきものであると思います。

享徳の乱や長尾景春の乱は知名度こそ高くはないですが、そういう出来事の中に多くのドラマが盛り込まれている、というのも歴史の面白いところではないかと思います。

ちなみに、古河公方や古河藩の歴史を巡るため、古河を訪れてみたら、非常に落ち着いた感じで住みやすそうでした。
公園やゴルフ場に恵まれているのも素敵です。
住んでみたいと思いつつも、東京まで1時間強という通勤時間が難問ですが。。。
(JRだとグリーン車に乗れたら快適なのかもしれませんが、高い上に座れると限らないのが難しいところです)

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古河城の近辺。落ち着いていていい感じでした。

 

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城を攻める 城を守る

歴史や観光と楽しむ切り口は人によって様々ですが、その中でも多くの人が惹かれるポイントの一つに「」があります。

そして、城の味わい方についても、その城の歴史、構造などの見栄え、周囲の景色とのマッチングなど、それぞれの人のこだわりがあることでしょうが、そのうちの一つに、その城にまつわる物語、ということが挙げられると思います。

そして、城にまつわる物語の中でも特に人の関心を引くのは、その城を巡る攻防戦ではないでしょうか。

現在大規模な天守閣が残っている、あるいは再建されている城の多くは、戦国時代以降に建設されたもので、城の役割が防衛から政治の中心、あるいは権威の象徴に移り変わっていく時期であったこともあり、本格的な攻防戦・籠城戦を経験していないものが多いように思います。
例えば世界遺産として名高い姫路城は現在の姿になってからは攻防戦の事例はないと思われますし、やはり名城として名高い名古屋城や彦根城もおそらく同じです。
天守はありませんが、江戸城や青葉城(仙台城)もやはり戦争の舞台とはなっていません。

個人的な認識ですが、現在観光名所として有名な城のうち、本格的な攻防戦を経験したものは、会津若松城や大坂城、熊本城、松本城など、案外少ないのではないかと思います。
もちろん、小田原城や上田城など、他にも多くあることはあるのですが、例えば国宝に指定されている城郭の中で戦争を経験した城の割合はかなり低いように思えます。

それは城の役割や歴史を考えれば当然のことで、戦国時代に大きな役割を果たした城も江戸時代になるとその役割を終え、廃城になるケースもありますし、また政治や権威の象徴として機能することを求められる城の方が、見栄えもいいでしょうし、時代も新しいことから保存状態もよく、人の目を引くのだと思います。

しかし、城の魅力である物語に目を向ければ、天守閣も残っていなければ、観光名所として有名ではない城が活き活きとしてきます。

そんな城の物語に焦点を当てて、城の魅力を描き出してくれる書籍を読みました。
城を攻める 城を守る」。城の物語でも最も華々しい籠城戦の物語を描き、その城の魅力を再発見させてくれます。

この書籍の素晴らしいところは、有名な戦いだけでなく、重要だけれどもあまり注目されなかった攻防戦についてピックアップしてくれている点です。
例えば、桶狭間の戦いといえば、織田信長が今川義元を打ち取った場面ばかりが注目されますが、その前哨戦としていくつかの攻城戦があり、その流れの中で桶狭間における野戦となっており、そのあたりが描かれているのは興味深いです。

また、豊臣秀吉による小田原征伐については、本城である小田原城の戦いではなく、支城である八王子城・鉢形城・韮山城・山中城の戦いに紙幅を割いているのが心憎いと感じました。
特に韮山城では寡兵ながら善戦していたり、山中城は北条家の築城技術の粋を尽くした堅城といわれながらあっさりと抜かれたり、と注目すべき点は多いにもかかわらず、この両城の戦いはあまり注目されていなかったように感じていましたので、これらの城の物語に触れることができたのはとても印象的でした。
(八王子城・韮山城についてはこちら、鉢形城についてはこちらもご覧いただければと思います)

ちなみに、最近山中城に行ってきましたので、景色を少しご紹介します。

 


北条家特有の技術である畝堀

戦国時代には城砦を含めると、日本中至るところに城があり、そして多くの攻防戦が繰り広げられました。
その多くが、現在は人の関心を集めることなく、ひっそりと佇んでいますが、少しでも多く、その地で必死に生き続けた人たちの物語を知りたいと思いますし、共有していけたらと願います。

ちなみに本書では戦国時代のほか、幕末や西南戦争における城の物語も取り上げられていますので、ご参考まで。

城を攻める 城を守る (講談社現代新書)
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