SRI 社会的責任投資入門

SRI(社会的責任投資)のバイブル的存在。
「入門」と銘打ってはいますが、その内容の濃さは国内のSRI関連書籍でも群を抜いています。著者も、谷本教授をはじめ、我が国のSRIにおける第一人者ばかりです。

本書では、「社会的責任投資とは何か」という基本的なところから、その発展の経緯、各国におけるSRIの動向、SRIの評価・運用事例などを詳細に記載されています。

また、SRI関連機関(評価機関など)についても多くの情報があり、SRI関連の情報を収集する一助になります。

余談ながら、この本はSRIに興味を持つきっかけとなった本で非常に思い入れがあります。


 

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井上成美

良識と合理的思考をひたすらに貫いた「最後の海軍大将」

井上成美(しげよし)は、終戦直前に海軍大将に昇進し、「最後の海軍大将」という言い方をよくされる。
しかし、井上が「最後の海軍大将」として、日本海軍のある種の象徴となるのは、単に時期的に最後だったからなのではなく、古き良き海軍の伝統・良識を具現化し、時代の流れに抗したためであると思われる。
彼はその合理的思考とリベラリズム、そして清廉さ・責任感の強さで知られている。 そしてこれらは今もなお求められる美徳である。
「最後の海軍大将」は、どのように生き、日本や海軍に何をもたらしたのか。

井上成美は、1889年(明治22年)に、江戸幕府直参の武家の子として生まれた。12男1女の11男である。
父は計数に通じた有能な人間であり新政府でも能吏として活躍したが、薩長閥がはびこる新政府では出世の見込みがないと判断し、帰農することとなった。帰農の道も棘の道で貧しかったようで、農作業も手伝っていた。
父は厳しかった。厳格な生活態度や姿勢をたたきこまれた。これが井上の人間形成に大きな影響があったことは容易に想像がつく。
母は大名の家であったが、温和で音楽に優れていた。井上がギターやピアノをたしなむようになったのも母の影響かもしれない。

井上を含め兄弟は学業に優れていたが、家計が貧しいために井上は海軍兵学校に進むことを選んだ。貧しいながら優秀な人間の選択肢としては一般的なものである。
井上は首席で合格。16倍の難関であった。

海軍兵学校に合格した井上は江田島(広島県)へ。この「江田島」は井上の生涯においてキーワードとなっていく。
兵学校では、全国から秀才が集まりしのぎを削った。成績が今後のキャリアを左右するからである。井上はこの中でもトップクラスを維持した。
ただ、井上は成績ばかりを競ったり、出世のことばかり考えるのをよしとしなかった。
後年、兵学校の校長になったとき、「出世主義ではいけない」と歴代大将の額を下ろさせたこともあった(これには秘められた意図もあった)。

卒業後、結婚したのち、第一次世界大戦の後始末のため欧州赴任となる。
井上はこの赴任中に、ドイツ語をマスターする。語学に強い彼ならではではあるが、「夢でドイツ語を話せたら一人前」と言われ、その通りになったというエピソードもある。
また、ここで得たドイツ人観が後年のドイツ不信につながる。

戦後開催されたワシントン会議では、日米英の艦艇保有比率が3:5:5に決定。海軍内部では「あくまで7割」と主張する者も多かったが、全権加藤友三郎の判断でワシントン軍縮条約を締結。後年井上はこの時の心境を「悔しいが、英米との比率は低く、外交で対応するのが上策」と語っている。また、見方を変えれば、英米を縛るものでもあり、また日本の財政も救った条約である。

帰国後少佐に昇進するも、すぐにイタリアに赴任。音楽や芸術を楽しむが、イタリア人の考え方には否定的であったようで、ドイツ同様、後年のイタリア不信につながる。
イタリアから帰国後、海軍兵学校教官に。初めての教育経験である。

1929年、イギリスの呼びかけで軍縮を進めようということになり、ロンドンで会議が行われた。日本海軍軍令部は対米7割を要求するも、海軍省は7割弱で妥結。いわゆる条約派と呼ばれる山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長の働きがあったことはもちろん、このとき財部海軍大臣がロンドンにいたため、浜口雄幸首相が海軍大臣を代理していたこともロンドン軍縮条約締結につながった。
しかし、これには軍令部が統帥権を侵すものと反発し、浜口首相暗殺、さらに軍部の政治への進出につながることになる。

1932年5月、5・15事件が発生。これを機に、井上は陸軍の暴走を注視することになる。
同年、軍務局第一課長に。これはエリートコースだったようだが、就任直後夫人が逝去。井上はこの後、長く独身を貫くことになる。

第一課長になるや否や、軍令部の海軍省からの独立という問題が生じる。陸軍は作戦指揮を担当する参謀本部と陸軍省が独立の関係であったが、海軍軍令部は予算などについて基本的に海軍省との協議が求められた。それを分離させ、作戦指揮を担当する軍令部が戦力や編成について決定したいということである。

このとき井上とやり合ったのが南雲忠一。南雲は勢い込んで「賛成しないなら殺す」と脅した。井上は「殺されるのが怖くてこの仕事ができるか、遺書も書いてある」とやり返したのはよく知られている。
結局は軍令部に押し切られてしまうのだが、井上は最後まで抵抗。軍令部のトップであった伏見宮をして「彼には良いポストを与えるべし」と言わしめた。

1936年2月。陸軍の若手将校により2・26事件が勃発。井上はこの事態を予期し、海軍が速やかに動けるようにしていた。その上で、すぐに首謀者を「反乱者」とみなし、鎮圧に動いた。

その後、陸軍が日独伊三国同盟の締結を画策すると、ドイツ・イタリアが頼みにできないこと、三国同盟によって英米を敵に回しては勝てないことを冷静に判断し、海軍省軍務局長として、海相・米内光政、次官・山本五十六とともに阻止に動き、一度は破談に追い込む。
(井上は、ヒトラーの「我が闘争」を原語で読み、日本人に対して差別的な考えがあることを把握していたという。この内容は日本語版では削除されていた)

その後、中将に昇進し海上勤務。1939年に、第二次近衛内閣により、日独伊三国同盟が締結される。1940年に、海軍航空本部長に就任。航空戦力を重視していた彼は「新軍備計画論」を練り上げる。

1941年、日米開戦。この直前、井上は戦争反対を押し通せなかった及川古志郎海相を難詰している。勝てないと分かっていて開戦することに絶対反対であった。
開戦については、山本五十六が近衛文麿首相から戦争の見通しについて聞かれ、「1年は戦って見せるが、その後は保証できない」と答えたことについても「絶対にできないと言わなければだめだった」と、結果的に近衛に期待感を抱かせてしまったことを批判している。
また、開戦に際して祝意を述べた参謀に「バカヤロー!」と怒鳴りつけたとも言われる。

開戦後、南洋にて指揮をとるが、その戦いぶりは拙劣で、戦争下手との評価をとってしまった。ただし、この評価には異論もあり、井上も素直には受け入れていないようだ。

その後、江田島の海軍兵学校長に就任。英語が敵性言語として忌避される中、「国際人たる海軍将校が英語もできないのでは役に立たない」と、あくまで英語教育を行った。ちなみに彼自身だけでなく、主要な将校には外国語に堪能な者が多かった。
井上はこのポストが気に入っていたようで、最後までやっていたいと思っていた。

しかし、時代はそれを許さない。終戦に向けて動くべく、米内海相は渋る井上を無理やり次官に起用。最後は意見の相違からか(井上は米内以上に終戦工作を急ぐべきと考えていた)、大将に昇進のうえ、次官から外れることになる(次官は原則として大将のポストではないため)。

このとき井上が遺したのが「負けいくさ 大将だけは やはり出来」。

1945年、終戦。
戦後はその責任を感じ、横須賀に逼塞する。当初は本当に人との交流がなかったようだが、次第に交流ができ、英語塾を開いたりした。英語塾では英語しか話してはいけなかったそうである。また、テキストは手作りであったという。
しかし、彼の教育の本文は考え方の育成にあった。教え子たちは一様に「英語より生き方を教わった」と語っているとか。
海軍兵学校の様子も含め、教育者としての方が向いていたという声は多い。

彼を慕う教え子たちからは度々援助の申し出があったが、ほとんどを拒否し、貧しい生活を送り、公的な場所に出ることもなかった。

彼は戦後、戦争のことについてほとんど語ることがなかったが、東条内閣の海相の嶋田繁太郎が海上自衛隊の練習艦の壮行会で乾杯の音頭をとったことを聞くと「恥知らずにもほどがある。人前に出せる顔か」と激怒したという。

晩年に再婚。慎ましいながらも人並みの幸せをようやく手に入れられたといえるかもしれない。

昭和50年没。享年86。自宅に広がる海を見ての大往生だったという。

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伊達政宗

奥州から天下を睨んだ独眼竜

伊達政宗は、奥州(東北地方)の名族・伊達家の当主・伊達輝宗の長男として1567年に生まれた。戦国時代の名将といわれる人物の中では、最も遅い部類に入ると思われる。織田信長とは33、豊臣秀吉とは30、徳川家康とは25、武田信玄とは46、上杉謙信とは37、北条氏康とは52、毛利元就に至っては68歳も違っていた。信玄や氏康、元就らは、政宗が10にもならないうちに亡くなる。

1567年は、信長が天下人への道を踏み固め、信玄や足利義昭が、それを阻もうとする時期。一方、奥州では、豪族たちが一進一退の抗争を繰り返し、大勢力がなかなか生まれなかった。輝宗も、そのような中、周囲の豪族たちと抗争の毎日を過ごしていた。

政宗の母は、出羽(山形県)の最上氏から嫁いできた、義姫。美貌を誇る一方で、非常に激しい気性の持ち主だった。その血を引いて、政宗もかなり激しい気性の持ち主だった。

生まれた当初、輝宗も義姫も、政宗を可愛がっていた。しかし、その愛を、政宗から奪う悲劇が起きた。疱瘡という病気にかかってしまい、片目が見えなくなってしまったのだ。疱瘡という病気はよくわからないが、眼が飛び出したとか、そうでないとか。とにかく、失明し、醜くなってしまった政宗を、義姫は嫌った。この時点で、母の愛を失ったわけである。しかも、もともと人前に出るのが苦手であった上、このことで、さらに人前に出るのを避けるようになった。政宗、5歳のことである。

母の愛を幼くして失ったことは、織田信長に似ているが、父の愛を一身に受け続けた、というところも信長と似ている。輝宗は、政宗のことを可愛がり続けた。期待もしていた。そこで、元服(成人式)の時には、これまでの幼名「梵天丸」に代えて、正式に「政宗」という名をつけたのである。政宗というのは、伊達家の中興の祖の名前で、由緒のあるものだった。それだけに、政宗がいかに期待されていたかが伺える。

政宗も父の期待に応えようと、自分を変える努力をした。自分の劣等感を消すため、醜く飛び出た眼球を除去したのだ。政宗は側近の片倉小十郎景綱に自分の目玉を取り除くように命じ、景綱もそれを断行したのだった。こうして、政宗の劣等感は一応取り除かれた。

こうした間にも、輝宗は転戦につぐ転戦だった。父以来の宿敵・相馬氏や、妻の兄の最上義光などと戦い続けた。最上義光は、義姫の兄だが、父・義守と敵対しており、輝宗は義守に肩入れしているため、義光と戦い続けていた。しかし、この義光、今でも山形城跡に銅像が建つほどの名将で、輝宗も苦戦した。政宗には叔父にあたるわけだが、政宗も散々苦労させられる。

そのような中、政宗は初陣を迎える。側近の片倉景綱や伊達成実などを連れて、堂々たる初陣だった。それ以後、輝宗と転戦し、活躍した。

しかしながら、母の義姫はそんな政宗を認めず、弟の竺丸を後継者にしようとする。そのため、家臣も分裂しかける。そこで、輝宗は、政宗に家督を譲り、内乱を未然に防いだ。輝宗の祖父・父、最上親子の戦いを見ていたうえ、自分自身、父親と仲が悪かったので、政宗とそのようなことになりたくなくて家督を譲ったとも、政宗の若さに賭けた、ともとれる。もちろん、輝宗自身41歳、と若かったのだが。

政宗が家督を継ぐと、政宗のいる米沢城(山形県)に、南奥州の雄・芦名氏の家臣・大内定綱という人物が、伊達傘下に加わることを願い出てきた。政宗はそれを許可したが、芦名氏に圧力をかけられた定綱はそれを撤回。激怒した政宗は定綱を攻撃。定綱の居城・小浜城の老若男女・家畜などを皆殺しにしている。「撫で切り」と言われる。

これに恐れをなしたのが、小浜城の南の畠山義継。彼は政宗に和議を申し出るが、政宗は「ほんのわずかだけ領有を認める」と過酷な答えを返す。義継は「もう少し認めてほしい」と返すが、政宗は「イヤなら潰す」とはねつけた。そこで、義継は隠居していた輝宗を頼った。輝宗のために援軍を出したことがあり、貸しがあったからである。

輝宗も頼られては断れない。とりあえず、政宗に取り次ぐだけはしようとした。しかし政宗は不在。鷹狩をしていた。そこで、輝宗は義継をもてなす。で、和気藹々の中での別れになる、とその瞬間、事件は起った。

なんと、義継が輝宗を拉致してしまったのだ。あっ!と思った側近たちだが、手を出すこともできず、輝宗は、そのまま畠山領付近まで連れて行かれた。

政宗も急を聞き、駆けつける。そのころには、畠山領の境まで来ていた。このまま畠山領まで連れて行かれれば、政宗の今後の戦略に支障をきたす。そこで輝宗は、「私にかまわず撃て!禍根を残すな!」と叫んだ。さすがは戦国武将であった。政宗はもちろん悩んだ。自分を一番理解し、可愛がってくれた父。しかし、父の望みは、政宗が奥州における覇権を確保すること。政宗はついに決断し、義継たちに鉄砲を撃ちかけた。義継は、仕方なく輝宗を殺害し、自分も自殺した。

父を失った政宗の悲しみと怒りはとてつもないものだった。切り刻んだ義継の遺体をつなぎ合わせて磔にかけたのだった。その上で、弔い合戦として、畠山領に攻め込んだ。

輝宗の後見なしに戦闘を行うのは、実はこれが初めてのことだった。それだけに、父のありがたさが一層身にこたえ、政宗に重圧がかかる。一方、畠山方も、義継の弔い合戦と意気が上がり、必死に伊達軍と戦い、善戦した。伊達成実にも迫る戦いぶりだった。

そのような中、さらに政宗に不利な情報が入ってきた。なんと、南奥州の雄・芦名家と常陸の佐竹家が連合して攻めて来たのだ。しかも、佐竹家を率いるのは、関東を席巻した北条氏康・氏政らと互角に戦ってきた、鬼義重こと佐竹義重。伊達軍8000に対し、連合軍は30000。圧倒的に政宗が不利だった。

政宗は必死に戦った。要地・人取橋の攻防を繰り返した。しかし、伊達軍は次第に押されていく。ついに政宗も追い詰められた。そこに60余騎の部隊が敵陣に飛び込んでいった。老将・鬼庭良直だった。齢73。必死に戦い、善戦したが、結局、討ち取られてしまう。しかし、良直のおかげで政宗は無事に引き上げることができた。これを人取橋の戦いという。政宗の戦いの中でも、特に有名な合戦である。

両軍とも、また戦うかと思われたが、連合軍内部の不和のため、連合軍は撤退。政宗は救われた。この戦いで、政宗の武名は奥州に知れ渡ることになる。

その後、畠山領を攻略。さらに、芦名・佐竹連合軍4000と、600の兵で戦う。郡山の戦いだ。この戦いでは一歩も譲らず、「独眼竜」と畏怖されるようになった。

ちなみに「独眼竜」といえば、伊達政宗、と日本人は言うが、実は、もともとは、中国・唐代の武将・李克用という名将の異名だった。李克用は、片目が異常に小さかったことからこの名前がついたのだが。曹操の部下の夏侯惇なども挙げられるだろう。彼は、戦場で流れ矢を眼に当ててしまい、以来片目になってしまった。李克用は別として、政宗も夏侯惇も片目が不自由であったことにすごいコンプレックスを感じていたそうだ。政宗は「死後、肖像画などには両目を書いてくれ」と言っているし、夏侯惇は鏡を見るたびに鏡を壊していたらしい。彼らにとってみれば「独眼竜」などという異名はありがた迷惑だったかもしれない。

そんなこんなで、ついに芦名氏との決戦を迎える。摺上原の戦いである。摺上原には、伊達軍20000と芦名軍16000が集結した。

合戦の当初は、芦名軍が押す。芦名軍にとって追い風で戦いやすかったのだ。しかも、先陣は、猪苗代盛胤。芦名対策として政宗が寝返らせた猪苗代盛国の息子だ。彼は父の裏切りに憤り、恥をすすごうと勇戦を誓っていた。そして、この盛胤が善戦した。しかし、風向きが変わると、戦況は一変。伊達軍が押しまくる。さらに、芦名軍に離反者が現れ、芦名軍は崩れた。もちろん、芦名にも忠義の武将はいて、最後まで踏ん張った者もいたが、多勢に無勢だった。

芦名家当主・義広は、そのまま本拠・黒川城から佐竹家に亡命(もともと義広は佐竹家からの養子だったので、実家に戻ったわけである。これまでの佐竹との連合も、彼が佐竹家出身だったからこそである)。政宗は黒川城に入城し、芦名領を接収。こうして、政宗は南奥州を制覇した。

しかし、順風満帆の政宗の陰に、危機は着々と近づいていたのだった・・・。

南奥州を制覇した伊達政宗だが、その前に大きな壁が立ちはだかる。関東・奥州を除き、日本全国をその勢力下においていた豊臣秀吉だ。

日本統一を目の前にした秀吉は、全国に、勝手に戦争をしないように、という命令を出していた。「関東・奥惣無事令」と呼ばれる私戦禁止令である。これは、政宗が芦名氏を攻撃する前に出されていた。しかし、政宗にとって奥州統一、中央への進出は積年の夢であり、農民出身の関白には従えないという思いもあり、無視して芦名氏を滅ぼした。

政宗には、関東の北条氏政と連合を組んで秀吉に対抗しようとしていた、という説もある。しかし、秀吉が小田原を攻撃する際に動員した兵力は20万。しかも、最新鋭の装備を有し、圧倒的な戦力を擁していた。伊達成実は、もはや戦うしかない、と主張したが、もう一人の参謀・片倉景綱は秀吉のもとに行くことを主張。ここに至り、政宗は秀吉に臣従することを決意する。そのために、秀吉のもとに行こうと決めた。

しかし、ここで、事件が起こる。母、義姫が政宗を毒殺しようとしたのだ。幸い、政宗は一命をとりとめたが、参陣はさらに遅れることになる。なお、この毒殺未遂の背景に弟・小次郎の擁立があったということで、弟を殺害している。このあたりも、織田信長に似ていると言える。義姫の兄、最上義光の謀略であったとも言われる。
ただし、この事件の背景については諸説あり、不明な点も多い。

結局、小田原にいる秀吉のところに着いたのは、小田原攻めも終わりの頃。政宗にとっては何をされても不思議ではない状況だった。実際、秀吉も政宗を亡きものにしようとしていた。政宗は幽閉された。

しかし、ここからが政宗の本領発揮だ。まず、死装束を着て髷を切り、死ぬ覚悟ができていることをアピールした。さらに、秀吉の茶道の師匠である千利休に、茶道を教わりたいと申し出た。幽閉され、殺されるかもしれないのに、茶道を学ぼうとするとは風流な男だ、と秀吉は感心し、政宗を許した。但し、会津など、旧芦名領は没収されたが。

政宗の代わりに会津に入ったのは、政宗のライバルとも言える名将・蒲生氏郷。氏郷は、信長の娘を娶るなど、信長に直々に眼をかけられていたほどの逸材だった。氏郷は、奥州の最高責任者として君臨することになり、政宗は心の中で強く反発していた。そのことが表れるのが、葛西・大崎一揆だ。葛西・大崎というのは奥州の名族で、小田原に参陣しなかったために所領を没収された家。そこに、新たに俄大名が入ってきて乱暴狼藉を行ったので、旧臣や領民が反発し、一揆が起きたのだ。

この一揆に際して、当然氏郷は政宗に協力を呼びかける。しかし、政宗は、表面では協力する風を装い、一方で、一揆を支援していた。これは、はっきりとした証拠はないらしいが、ほぼ確実ということだ。さらに、氏郷を招き、毒殺しようとしたとも言われている。

政宗の一揆の煽動は、家臣の裏切りによって氏郷に通報される。氏郷はこれを秀吉に通報、秀吉は政宗を召還した。

ここでまた、政宗は大芝居をうつ。自分自身が死装束を着ていただけでなく、大きな金箔張りの磔柱を持っていったのだ。こうして、上方の人々に「奥州に政宗あり」と知らしめただけでなく、秀吉の出鼻をくじくことにもなった。

そして、秀吉に、証拠の書簡を突きつけられると、これは自分の花押(サイン)ではない、と返す。嘘をつくな、と迫る秀吉に、政宗は「自分はいつも小さな穴をつけて書簡を出している」と弁明する。秀吉が、これまで政宗から受け取った書簡を確認すると、確かに穴が開いている。こうして、政宗は危機を乗り越えた。しかし、旧領の一部を取り上げられ、一揆後の領地を与えられる。自分のまいた種は自分で刈り取れ、ということだろう。

この事件について家康は、次のように評している。家康の重臣、井伊直政が「政宗の関与は明らかなのにだまされるとは秀吉もバカですな」と言ったのに対し、家康は「秀吉はわかっていたが、政宗の機転と深謀遠慮に免じたのだ。政宗はまさに大将の器だ」と返している。このように、政宗は多くの人物から高い評価を受けていた。これは、同時に信用のできない人物ということでもあるのだが。

この直後、1592年に朝鮮の役が勃発し、政宗も500(1500とも)の兵を出すように要求される。しかし、秀吉の信頼を回復しなければならなかった政宗は、3000の兵を出した。しかも、この時は派手な格好で道沿いの人々がはやし立てたという。

その一例として、重臣の原田宗時(後年伊達騒動の主役となる原田甲斐宗輔の祖先)の装備が残っている。彼は、丈余の太刀を背負い、駿馬にまたがり、それを金鎖で結んだ、ということだ。

ちなみに、翌年の93年に、政宗のライバルの一人、蒲生氏郷は亡くなっている。わずか39歳。この後、会津には上杉謙信の後継者・上杉景勝が入っている。

朝鮮で活躍した政宗は、その後帰国し、秀吉の養子で、後継者と見られていた秀次と交際を深める。しかし、これがまた、政宗に危機をもたらした。

秀吉には子がなく養子の秀次が後継者と見られていて、秀次自身もそのつもりだった。しかし、幸か不幸か、秀吉に子が生まれる。秀頼だ。秀吉は、当初は、後継者に変更はないとしながらも、次第に秀頼に跡を継がせたくなった。秀次は秀次で、自分の将来に不安を感じ、行動が乱れてきた。秀吉はこれを口実に、秀次に謀反の容疑を着せ、自害させたのだった。

さらに、秀次の周囲にも疑惑が降りかかる。最上義光の娘は秀次の側室だったのだが、殺害された。当然、政宗にも疑惑の目は向けられる。そこで、政宗は機先を制して上京。詰問してきた使者に「太閤ほどの人物でさえ見誤ったのに、片目の自分が間違えるのは当然だ」と言い返す。これには秀吉も返す言葉がなく、疑惑を解かざるを得なかった。ちなみに、太閤とは、前関白の意味である。

さて、これから数年後、秀吉は死去。豊臣政権は秀吉が信長の跡を継ぎ、わずか10年ほどで確立した政権であり、秀吉自身、農民出身のため、征夷大将軍になれず、武家の棟梁という立場を確立できず、一代での出世だったので、譜代の家臣もいないため、秀吉の死後、急速に崩壊への道をたどっていくことになる。

豊臣政権の重鎮として、五大老五奉行と呼ばれる大名がいた。五大老は、実力最高、関東250万石の徳川家康、秀吉の親友で、大河ドラマの主役にもなった前田利家、秀吉の養子の宇喜多秀家、上杉謙信の後継者で会津120万石を治める上杉景勝、そして、中国の雄・毛利輝元。五奉行は秀吉の親類の浅野長政、僧侶出身の前田玄以、事務官僚の長束正家増田長盛、そして、石田三成。他に、大きな実力を誇った大名に、南九州77万石の島津義久義弘、南肥後の小西行長、北肥後の加藤清正、出羽57万石の最上義光、そして、奥州52万石の伊達政宗などがいた。

これらの人物は、豊臣政権を守るために、あるいは天下を取るために、そして、自分の身を守るために、様々な策謀をめぐらす。家康は、豊臣政権を崩壊させるために、秀吉が遺言で勝手な大名の縁組を禁じていたにもかかわらず、縁組を色々行った。政宗もこの時徳川家と婚姻関係を結んだ。伊達家からは政宗の長女、五郎八姫(いろは)、徳川家からは家康の六男・忠輝が出された。

このように、家康サイドの人間が豊臣政権崩壊を画策する一方で、豊臣政権を守るために動いた大名ももちろんいた。その代表が、前田利家石田三成だ。彼らは、家康たちを詰問したが、のらりくらりとかわされるだけ。そうしているうちに、豊臣政権を守る側の中心であった前田利家が亡くなった。彼は、豊臣擁護側と徳川側の仲介をしていた。彼が亡くなったことで、一気に両者の対立が深まった。

そして、1600年。両者の対立は関が原の戦いで決着を迎えた。中央での戦いは、短期決戦で徳川軍の勝利で終わった。一方で、奥州も関が原の戦いの中で大きな戦いの場となった。会津の上杉景勝は当初家康の攻撃目標となっていたが、家康は三成と決戦するため引き返し、上杉軍は、出羽にその兵力を向けた。謙信以来の強兵に、さすがの最上軍も苦戦し、政宗に救援を要請した。最上家は敵とはいえ、母の実家であり、母自身山形にいた。そのため、政宗は悩んだ。参謀の片倉景綱は、「あえて山形を見捨て、両軍が疲労困憊したときに、一気に攻めるのがいいでしょう」と進言した。しかし、血のつながりは濃く、信頼する景綱の言葉だったが、政宗は山形に救援の軍を向けた。上杉軍もよく戦ったが、結局中央で西軍が敗れたということで撤退した。

伊達家が徳川家に協力する条件に、家康はいわゆる「100万石のお墨付き」というものを政宗に与えていた。勝利したら50万石を加増して100万石にする、というものだ。しかし、戦後、政宗に与えられたのは2万石にすぎなかった。家康の怒りをかってしまったためだ。というのも、東軍の南部家(北奥州)の当主・南部利直が最軍の救援に出陣している間に、一揆を起こさせたのだ。家康にばれないように首謀者は殺害したが、秀吉にばれたように、家康にもばれた。こうして、家康は政宗に50万石を与えることを辞める口実を得たのだった。

政宗が家康から約束されていた「100万石のお墨付き」の文書

その後、政宗は家康に対しては従順になった。1615年の大坂夏の陣では、後藤又兵衛真田信繁(幸村)とも戦っている。そして、その翌年、家康は亡くなった。

しかし、政宗には「天下は力があるものが獲る」という考えがあり、力のある家康が天下を獲るのは認めるが、その後継者の秀忠が簡単に継ぐのは認められなかった。そこで、婿の忠輝と組んで天下をひっくり返そうとした。政宗は「忠輝を皇帝に、自分は関白になって天下を治めよう」と考えていたそうだ。そのために、支倉常長を欧州・ヒスパニアに派遣したとも言われる(慶長遣欧使節)。しかし、家康の死の直後、秀忠は忠輝を改易し、政宗たちの野望を砕いた。忠輝と五郎八姫は離婚した。

この後は、政宗は領国経営に力をいれ、その方針が代々引き継がれていった結果、伊達家の領国は、表向きは62万石だが、実質は200万石にもなったそうだ。

政宗の長男は秀宗といった。名前からも分かるとおり、秀吉に近い人間だった。正室(愛姫)の子でもないということで、家康に宇和島10万石を与えられ、宇和島藩の藩祖となる。そして、仙台藩は嫡子の忠宗が継いだ。政宗の死後も、お互いに繁栄していった。なお、幕末の名君、伊達宗城は宇和島藩主である。

政宗のエピソードは数多く残っている。

例えば、朝鮮の役のとき、九州・名護屋に在陣していたとき、前田利家と徳川家康が井戸の水を巡って反目していた。前田家に借財があった政宗は利家に協力する旨伝えた。しかし、利家は政宗を信用していなかったので、政宗の陣を調べさせたところ、伊達軍の銃口は前田の方に向いていたという。それを聞いた利家は「政宗は油断のならない男だ」と吐き捨てたと言う。また、秀吉に臣従する時斡旋してくれた浅野長政が、もともと政宗のものだった金山を管理することになったときは、一揆を起こさせ、長政に義絶されたりしている。

その一方で、目をかけた家臣には誠実さを旨とするよう心がけさせたり、絶対に暗殺はしない、というポリシーをもったり、ダンディズムを感じさせるところもある。

また、大名同士の歌会で、景品に瓢箪を提供し、いざ瓢箪を渡す段になると、名馬を進呈し「瓢箪から駒」と笑わせる、などといったユーモア精神も持っていた。

現在、仙台は100万都市に成長し、東北地方の中心地として、今もなお、発展を続けている。仙台城跡には、大学や伊達家関連博物館がある。また、仙台駅には政宗像が立ち(現在は撤去済)、待ち合わせの場所になったり、仙台市のマスコットに政宗が採用されるなど、政宗は今でも仙台では敬われている。

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北条氏康

武田、上杉、今川と対等に渡り合った小田原北条三代目

 北条氏康は1515年、小田原北条氏二代目・北条氏綱の長男(すなわち北条早雲の孫)として小田原城に生まれた。長じては名将と言われる氏康であるが、子供の頃は臆病であると言われていた。

氏康が子供の頃のエピソードがある。
氏康は子供の頃、剣道(爆弾とも)を見るにつけ泣き出していたという。多くのものは臆病者だと軽蔑し、氏康は自殺しようとまでするが、ある家臣は氏康のことを止めて「子供の頃からそのようなことを思うのは大物になる兆しです」と言った。その言葉どおり、氏康は天下に名を成す名将となっていった。
ちなみに、氏康は戦場において、敵に背を見せたことがないといわれ、彼の向こう傷を「氏康傷」と言ったりした。

初陣は16歳の時。北条家の宿敵扇谷上杉朝興と戦い、敗走させた。
1538年には第一次国府台の戦いで小弓公方足利義明・安房(現在の千葉県南部)の大名里見義堯を破る。

1541年に氏綱が死去。氏康が北条家の実質的な当主となる。
ちなみに、「勝って兜の緒を締めよ」とは、このとき氏綱が遺した言葉である。

1546年、氏康は人生最大ともいえる危機に陥る。山内上杉憲政と扇谷上杉朝定、古河公方・足利晴氏の連合軍が8万の兵で武蔵の拠点である河越城を囲んだのである。しかも、駿河の今川義元とも敵対状態にあった。

元来北条氏(伊勢氏)は今川家に従属する立場で、氏綱の時代に独立した後も親密な関係にあったが、今川義元が北条家と敵対関係にあった武田信虎(信玄の父)と同盟を結んだことにより関係が悪化し、駿河東部で紛争状態にあった(河東一乱)。

今川勢と対峙するために駿河に出陣していた氏康は、今川家と和睦するとすぐさま河越城に転進し、連合軍と対峙した。このときの北条軍の兵力は8千。河越城に籠るのは氏綱から娘と姓をもらった北条家随一の勇将・北条綱成であった(兵3千)。
氏康はまず講和を提案するが、勢いに乗り北条軍を侮る連合軍は拒否する。しかし、氏康は何度も交渉を続けていった。交渉は毎度決裂するが、氏康にとって交渉そのものは目的ではなかった。氏康の目的は交渉を続けることで相手を油断させることであったからである。
氏康の狙い通り、連合軍は次第に警戒心を解いていった。間者(有名な風魔一族)の報告により連合軍が油断していることを知った北条軍は夜襲を決行。籠城していた綱成隊も出撃したため連合軍は壊滅し、上杉朝定は戦死、上杉憲政は逃亡した。
夜襲は灯火を使わず、首を取らずということを徹底したため抜群の成果を上げた。これが世に言う日本三大夜戦の一つ、河越の夜戦である。

河越の夜戦以降、北条家は武蔵(現在の東京都)、ひいては関東の覇権を掌握した。1552年には関東管領・上杉憲政を居城・平井城から放逐、関東一円の支配権を確立する。

外交面でも武田晴信(信玄)今川義元三国同盟を結び、関東経略に専念できるようにしていた。また、河越の戦いで敵対した古河公方・足利晴氏を廃し、義氏を立てて、関東支配の正統性を示している。

1559年には長男の氏政に家督を譲っている。
これは当時関東を覆った飢饉について、氏康が責任を取るとともに、新しい当主の下で復興を図っていくという姿勢を見せたもので、その後も氏康は実質的な当主として北条家の指揮をとっている。

確実に版図を広げていた北条家だが、新たなライバルが加わることになった。上杉憲政から関東管領と上杉の姓を譲られた長尾景虎こと上杉謙信である。1561年、関東管領として関東に出陣してきた謙信は、関東の反北条勢力を糾合し、11万の大軍を率いて北条家を攻撃した。
上杉軍の勢いを恐れた氏康は小田原城に籠城、謙信の気勢を削ぎ、将兵の指揮が下がるのを待つ作戦を採った。果たして、最初のうちこそ積極的に攻撃したが、決して反撃しない北条軍に対して持久戦を行わざるを得なかった。

しかし、武田軍が海津城を築き北信濃における勢力を強めていたことに加え、上杉軍は遠征軍でもあるため補給が続かず、さらに長期戦による負担に耐え切れない諸将が退陣したため、謙信は兵を引かざるを得なくなった。
なお、この間に謙信は鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀式を行っている。

ちなみに、氏康は籠城した理由をこう述べている。「謙信は血気盛んで、野戦で戦うと厄介だ。しかし、長期戦になり、頭を覚ますと思慮深くなり、撤退するだろう。」結局、氏康の読み通りになった。

この後も上杉軍は毎年のように越境し、北条家の関東制覇を阻むことになる。しかし、氏康は信玄と協力し、謙信を翻弄している。

 

1564年には第二次国府台の戦い里見義弘を敗走させ、後顧の憂いをなくしている。

このときは、上杉謙信の来襲が予想され、氏康は早急に決着をつけなければならなかったのだが、前哨戦では里見軍の知略に敗れてしまった。そこで、氏康は油断している里見軍に奇襲をかけ、一気に決着をつけた。

しかし、転機はまた訪れる。1560年に今川義元が桶狭間で織田信長に敗れ、戦死したことで、1566年に武田信玄が三国同盟を破棄し今川家を攻撃したため、北条家は武田家と断交、上杉家と同盟し(越相同盟。この時に息子の三郎を謙信の養子としている。)、北条・上杉・徳川・今川・織田による武田包囲網を形成した。

一説によると、娘(今川氏真の妻である早川殿)が駿府脱出に際して輿もなく、命からがら逃げだすことになったことに対して激怒し、武田家と断交することになったともいわれる。

越相同盟に伴い、北条家は正式に謙信を関東管領と認めることとなり、室町幕府の秩序の中においては、北条家は上杉家の下につくことになった。
また、越相同盟は北条家と対立している勢力にとっては謙信の裏切り行為ともいえ、謙信と同盟して北条家と戦っていた里見家などは武田家と結んで北条家と戦うことになる。

越相同盟などにより武田家を締め上げていった北条家であったが、武田家の巧みな外交と戦争により、包囲網は結局武田家を滅ぼすには至らなかった。北条家と断交した武田家は、牽制の意味も込めて小田原城を包囲、この時も氏康は籠城作戦を採っている。この時、謙信からはほとんど支援を受けられず、後々断交する伏線となっている。
信玄が撤退する際に挟撃しようとしたが、これは信玄に読まれ、逆に奇襲を受け打撃を受けてしまう(三増峠の戦い)。

その後も北条家と武田家は駿河の帰趨を巡って抗争を続けるが、最後は武田家が駿河を攻略する。その後も氏康が死去するまで公式には武田家と和解はしなかった。

しかし、1571年10月3日、氏康が死去。享年57。これを契機に北条家は武田家と同盟。この同盟によって再び北条家は関東攻略に専念し、武田家は上洛に向けて動くことができるようになった。武田家との再度の同盟は氏康の遺言ともいわれる。

北条氏康は武略も優れていたが、内政でも大きな業績を残した。時代を先取りした税制改革(貫高制の確立・税制の簡素化)、検地、軍団制、伝馬制度などがそれに当たる。相次ぐ戦争により領土が疲弊しても一揆が頻発しなかったのは、このような内政の業績によるものと考えられる。
家康も関東に入った時「北条家が民衆に慕われていて治めにくい」とこぼしている。

また、氏康は京から文化人を招いたり、金沢文庫を整備したり、足利学校を支援するなど、文化・学問にも造詣が深く、その分野でも大きな功績を残している。江戸時代に関東が学問の中心になりえた一因は氏康に帰するかもしれない。

ある時、氏康の様子を探ろうと、上杉憲政の家臣が偽って氏康に仕えた。やがて帰還して憲政に「北条家は信賞必罰、氏康の薫陶がいきわたっていて手ごわい相手です」と報告した。
また、憲政を平井城から追い出したとき、その子供が裏切り者により連れてこられた。その時氏康は、この裏切り者を武士の風上にも置けない、と殺害した。氏康は信義を大切にしたからこそ裏切られなかった。

氏康には嫡男の氏政の他、氏照氏邦氏規などの子供がいた。それぞれが非凡な能力を持ちながら、大きな対立なく協力したのも氏康の薫陶があったからだと言われている(上杉家を巡る外交などで軋轢を指摘されているが、内紛には至っていない)。
なお、氏政は当主として北条家をまとめ、氏照は戦闘や外交に能力を発揮し、氏邦は内政や戦闘に、氏規は外交にそれぞれ能力を発揮し、北条家を発展させていった。
なお、上杉謙信の養子となった三郎はその後、景虎と名乗り、上杉家中においても重きをなすが、謙信没後、上杉景勝との家督争い(御館の乱)にて敗死する。
なお、長男として氏親(新九郎)がいたが、早世している。

北条氏康の名は、今川義元・武田信玄・上杉謙信・織田信長・徳川家康などの陰に隠れて、あまり知られていない。しかし、その業績・能力は彼らに勝るとも劣らなかったことは確かである。

氏康の死後、北条家は新たに当主となった氏政とその嫡子・氏直が牽引し、関東制覇を進めていき、北条家の最大版図を築き上げる。
しかし、最後は豊臣政権の実力を測りきれず(氏政が上洛予定だったが、結局上洛できなかったとの説も)、1590年に豊臣秀吉に小田原城を包囲され、滅亡した。

北条氏康をイメージした「北条氏康スーツ」を作った感想の記事を書きました。

・「北条氏康の子供たち」の書評

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石田三成

何者にも臆せず、ひたすら自分の信念を貫いた清廉潔白の公務員

石田三成は、言わずと知れた豊臣政権の五奉行の一人である。その地位は必ずしも五奉行の筆頭ではなかったが、その知名度と仕事の内容は五奉行随一と言っても過言ではない。その才覚によって秀吉に見出され、最後は、その秀吉に殉ずる形でこの世を去ることになる。徳川政権のために悪く言われがちな彼だが、実際には清廉潔白で有能、仕事熱心な公務員であった。

石田三成は1560年、近江(滋賀県)に生まれた。父親は石田正継といい、和歌に造詣の深い学者肌の豪族であった。その後寺に預けられ、寺小姓をしていたところ、人生を決める人物との出逢いがあった。羽柴秀吉、後の豊臣秀吉である。三成と秀吉が出会ったときの有名なエピソードがある。

ある日、秀吉が狩の帰りに寺に立ち寄って、お茶を所望した。
その時お茶を差し出した小姓は、ぬるいお茶を茶碗8分目ほど出した。のどを潤した秀吉は、さらにもう1杯所望する。今度は少し熱めのお茶を茶碗半分ほど出した。感じるところがあったのか、さらにもう1杯所望した。今度は熱いお茶が少量差し出された。
この出し方に隠された意図は、
①最初はのどを潤したいのだからぬるいものを多く
②今度はそこまで飲みたいわけではないが、ちょっと飲みたいのでちょっと熱めを
③最後はお茶を味わいたいので熱いのを少量、
ということである。
この才知に感心した秀吉は、この小姓を自ら抱えることとした。
この少年こそ、石田佐吉、のちの三成だったというわけだ。

秀吉は近江に来るまでは尾張の人間であった。そのため、三成の前に加藤清正福島正則といった尾張出身の家臣がすでに秀吉の下にいた。尾張出身の彼らは秀吉がまず武功を立てなければならないという需要のせいか、武将肌の者が多かった。
しかし、近江の大名になると当然経営ができる人材も必要になるわけで、近江に来てからはそのような人材を積極的に登用した。五奉行の増田長盛も近江出身の経理に長けた能吏である。が、当然この両者の確執というのは生じてくるわけで、この確執が羽柴家拡大の中で大きくなっていき、のちのち歴史を動かすこととなる。ともあれ、秀吉の家臣となった三成は、領土の経営に能力を発揮していくこととなった。

そして、1582年、その時、ガムシャラに走っていた羽柴家だけでなく、日本の歴史を変える事件が起こった。本能寺の変である。この事件により、主君織田信長及び嫡子織田信忠は死亡。この時点で羽柴家は織田家の勢力内にとどまることはなくなったと言ってよい。
中国地方で毛利家と対峙していた秀吉は京に急ぎ帰還し、信長・信忠父子を殺害した明智光秀山崎の戦いで破り、光秀を殺害。
その後、織田家の処理を巡って行われた清洲会議では、信忠の息子、秀信を跡継ぎとして擁立し、柴田勝家らと対立する。柴田勝家とは賤ヶ嶽の戦いで衝突。この時、三成も清正や正則らと奮戦し、武功も上げたらしいが、それ以上に、補給活動や上杉家との停戦斡旋など、兵站・外交・政治面での功績が大きかった。

柴田勝家らの敗北により織田家内部に敵のいなくなった羽柴家は織田信長の遺志を継ぎ、天下統一へと邁進する。1585年には秀吉は関白に就任、姓も豊臣となる。三成は治部少輔に就任する。石田治部などという呼び方はここから来ている。
1587年には九州遠征を行い、九州全土を勢力圏に収めていた島津義久を降伏させる。
1590年には関東の雄・小田原北条家後北条家。当主は北条氏政)を滅亡させ、奥州の伊達政宗も参陣し服従を誓い、豊臣家の天下統一は成った。九州には25万、小田原にも同等以上の兵力で押し寄せたわけだが、三成はこの動員を少しも遅滞させないように後方から軍を援護していた。補給などの円滑な進行である。戦国時代も後期になると万単位で兵が動くようになり、その合戦を有利に導くためには、部将の武功より、補給作戦の徹底の方が重要であり、その点で三成は時代に恵まれていたといえよう。

このうち、三成の戦場でのエピソードとしては、忍城攻めが有名である。
北条家の版図において、堅城として知られていた忍城を三成が攻略することとなった。率いるは、真田昌幸や関東の豪族など。
三成は、忍城を攻めるにあたって水攻めを行った。が、連携がうまくいかなかった、天候に恵まれなかった、計画に漏れがあった、などの理由で堤防が決壊し、結局忍城は小田原城が開城した後に開城し、三成の戦下手が露呈したといわれている。

なお、この説には異論も多く、忍城攻めで三成と戦った武将の多くが関が原で三成に味方したことを見ても、三成がこの戦いをもって戦下手であったとも一概には言えないようである。
また、三成は水攻めが困難と判断していたが、秀吉の強い意向で水攻めを行わざるを得なかったとも言われている。

豊臣家による天下統一の達成後、秀吉は全国に検地を行っていった。太閤検地である。三成はその責任者の一人であった。彼は、能吏らしく仕事を進めていった。三成以前の検地は指出検地と言われ、収穫量を自己申告するものであったが、不正申告も多かったらしく、三成は自ら村に入って測量を行った。これを丈量検地という。
また、農民から武器を奪う刀狩も行った。この刀狩には①農民一揆を防ぐ身分の固定化という二つの側面があり、豊臣政権としては検地と並ぶ重要な内政政策だったのだが、三成はこれも見事にこなした。検地や刀狩の時、大名配置の大きな転換、それにともなう改易・転封などで一揆や反乱が多かったのだが、三成は自ら接収にあたることで、民心の安定を図り、一揆や反乱を防ぎ、検地や刀狩を進めることができたと言われている。

朝鮮出兵では、朝鮮半島に出陣もしたが、ほとんどは国内に待機していた。そのため、朝鮮に出兵していた大名との亀裂は深まる一方であった。そして、朝鮮戦争停戦の命令もないまま、1598年、秀吉が死去する。その直後、三成ら文治派と、清正ら武功派との確執が一気に噴出。両者の衝突をかろうじて抑えていた五大老の前田利家が死去すると、武功派が三成を襲おうとするが、三成は徳川家康の庇護を受け、危機一髪で逃れるが、隠居させられてしまう。家康は秀吉の遺言を無視し、大名同士の縁組を進めるなどして、三成を始め、多くの大名から反感を買い、三成にとっても一番の大敵であったが、背に腹は変えられないというわけである。隠居後も、当然三成は家康打倒の計画を積極的に立てるのだが、家康に味方する大名たちに阻まれ、それらの計画が実行されることはなかった。

そして、1600年。三成にとって最大のチャンスが訪れた。家康が五大老の一人、会津の上杉景勝を、不審な行動をしているとして上洛を要求したのだが、上杉家は拒否。家康は会津に出兵することになり、上方を留守にすることになった。上杉家と仲のいい三成は、兵を起こして挟撃しようとした。家康の方も三成を起たせて、一気に反家康勢力を叩くつもりであったので、会津に行く前に急転、両者は関が原で対峙することとなった。関が原の戦いである。

三成率いる(正確には総大将は五大老の毛利輝元、副将は五大老の一人で秀吉の養子であった宇喜多秀家を立てた)西軍は、三成を始め、盟友である小西行長大谷吉継真田昌幸・幸村父子の他、五大老の毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝、そして小早川秀秋など。一方、家康率いる東軍は、徳川家8万の他、武功派の加藤清正、福島正則、黒田長政如水の子)、細川忠興幽斎の子)などで構成された。
関が原での戦闘の前に、伏見城攻防戦、岐阜城攻防戦、大津城攻防戦などの前哨戦があったが、戦いの帰結を決定したのは関が原での戦闘である。

関が原での戦闘は、最初は西軍が石田軍・小西軍・宇喜多軍・大谷軍の善戦で優勢に進めていた。しかし、毛利軍・小早川軍が戦闘に参加しなかった上、家康の要請によって1万5千の兵を持つ小早川軍が東軍に寝返ったため、西軍は壊滅。大谷吉継は小早川軍に一撃を与えたが、兵力の差がありすぎ、壊滅し、自害。宇喜多軍・小西軍も壊滅し、両者は逃亡。そして、大部隊として最後まで奮戦したのが石田軍である。
一般に石田三成は戦争下手と言われ、武功派大名にも軽蔑され続けてきたのだが、日頃から優秀な人材を抱えることに熱心であったため、島左近蒲生郷舎などの勇将が三成のために最後まで-恐らく関が原の戦いに参加した部隊の中で最も-勇敢に戦った。しかし、石田軍も奮闘むなしく壊滅。三成も最後は逃亡した。

再起を図るため、必死に大坂城目指して逃亡した三成であったが、旧友の田中吉政に捕らえられた。そして手厚いもてなしを受けたあと、家康に引き渡される。その時、東軍の諸将に囚われの身になった姿を見せることになったわけだが、その時のお互いの反応が興味深い。

武功派の筆頭格、福島正則は三成を見るや「無様な姿をさらしているな」と馬上から見下したが、三成は「貴公を捕らえられなかったのが残念だ」と言い返したという。
同じ武功派の黒田長政は三成にいたわりの言葉をかけ、上着を着せたという。
豊臣恩顧で東軍に味方した藤堂高虎は三成に「我が軍の至らぬところがあれば教えてください」と謙虚に教えを請い、三成も感激していろいろ気づいたところを教えた。石田軍の奮戦に敬意を表したのだろう。
東軍に寝返った小早川秀秋は三成に一方的に罵倒されたまま一言も言い返すことができず去っていった。家康も敬意をもって引見したらしい。

1600年10月1日、三成処刑。享年41。辞世の句は作らなかったと伝えられている。

三成は、協調性に優れてはいなかったとされ(もっとも、彼を慕う人間は多かったし、武功派とも昔から仲が悪かったわけでもないようなので、彼自身に協調性がないとまでは言い切れない)、武功派と亀裂を生じさせたが、一人の公務員として彼を見ると、まさに理想の公務員だったと言える。その優秀さは今更述べるまでもないが、清廉潔白さを示すエピソードも残っている。

 関が原の戦いの後、東軍は三成の居城・佐和山城に殺到した。諸将は、権勢を誇った三成のこと、さぞかし金銀宝物の山だろうと思って楽しみにしていたが、意外なことに、壁の手入れさえ満足にできていない、貧相な城であった。もちろん、実用的にはなっていたが。三成は私服を肥やすことより、豊臣政権のために仕事をすることを望んでいたのだ。

その他、三成の器量や忠義の度合いを示すエピソードも数多い。

三成が勇将・島左近を招聘するため、自分の禄高の半分を与えたと言う話は有名であるし、善政をしいていたため、三成の領地の領民は江戸時代の間も徳川家をはばかりながらも三成を敬愛していたという話もある。また、忠義に関しては、彼が家康に必死の抵抗をしたということだけでもわかる。

また、ある茶会で、ハンセン病を患っていた大谷吉継と一緒になったとき、先にお茶を飲んでいた吉継のお椀の中に膿が落ち、彼がお椀を回すに回せず窮地に陥っていた時に、三成が順番を抜かして「のどが渇いたから先に失礼」とお椀を吉継の手から取り飲んでしまい、吉継は面目がつぶれずにすんだ、という話もがある。
この話は三成ではなく秀吉のエピソードとしても残っているので事実かどうかはわからないが、このようなエピソードが残っていること自体、彼が人を思いやることのできる人間だったと見られていたことの証左になろう。

そして、最後に最も三成を印象付けるエピソード。

三成が刑場に連れて行かれるとき、のどが渇いてお湯を所望した。ないのでかわりに渋柿を勧められたが、痰の毒だと言って断った。周りの者は今から死ぬものが、と笑ったが、「大志を思うものは最後まで命を大切にするものだ」と言ったという。大志を持つもの、こうありたい、と思うものは私だけではあるまい。

ちなみに、この考え方は、源頼朝の故事に由来するという説と、項羽が最期のとき、江南に逃げていれば、再起を図れたものを・・・という内容の漢詩に由来するという二つの説がある。

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新渡戸稲造

日本の道徳を世界に知らしめた「太平洋の架け橋」

新渡戸稲造は、五千円札の肖像画で知られる。国連事務次長東京・京都帝大教授旧制第一高等学校校長などを歴任。日本初の農学博士でもある。

 新渡戸は1862年に盛岡に武士の子として生まれた。幼い頃、伯父太田時敏の養子になる。後に東京英語学校(現在の東京大学)に、その後、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学する。当時、有名なクラーク博士はいなかったが、その気風は受け継がれ、キリスト教の精神を教えられた。同期に内村鑑三宮部金吾(北大植物学教授、文化勲章受賞)などがいた。

 新渡戸は当初、法律家を目指していたそうだが、聖書を読んで農学を志すようになったようだ。だからこそ、東京からクラーク博士の名残のある農学校に入学したのだろう。

 卒業後、北海道庁に入庁するが、米国のジョンズ・ホプキンス大学に留学、同期に米国第28代大統領となるウィルソンがいた。後に、ドイツのボン大学(農政・農業経済を研究)・ベルリン大学・ハレ大学に移る。この頃兄が死亡し、新渡戸姓に戻る。その地で結婚した後、留学期間を終了し、帰国する。帰国後は農学校教授となるが、公衆のために「私立北鳴学校」・「遠友夜学校」を設立する。
しかし、長男(遠益。出産後8日で早世)を失った悲しみから神経症になったため、休職してカリフォルニアに移住する。その地で著されたのが「武士道」である。

帰国後は復職せず、台湾総督府(当時の総督は児玉源太郎、民政局長は後藤新平)の殖産課長・製糖局長として、製糖の発展に尽力し、製糖産業を軌道に乗せた。
児玉・後藤共に民政に理解があったらしく、新渡戸としても働きやすい環境だったようだ。
新渡戸をスカウトしたのは後藤だが、その際には体調のすぐれない新渡戸の毎日の昼寝についても了解している。

その後、京都帝大植民地政策学の教授として赴任し、さらに、第一高等学校に赴任した。同時に東京帝大農学部教授を兼任していた。一高では、彼を排斥する動きもあったが、よく学生に慕われた。

 彼が結婚した時のエピソードが残っている。彼はアメリカ人の女性と結婚したのだが、当初は親類一同にものすごく反対された。人種のためである。しかし、何度も説得し、ついに許可を得た。彼の粘り強さが通じたのだ。

 「武士道」が著されたときのエピソードもある。ある時、新渡戸はベルギーの法律学者・ラブレーに「欧州の人はキリスト教の考え方に基づいて身を律しますが、宗教教育のない日本人は何を以て道徳とするのですか」と聞かれた。この時新渡戸は応えに窮し、考えた。その時浮かんだのが武士道である。もちろん、武士道以外の道徳もあるのだろうが、武士の子に生まれた新渡戸には武士道が最も身近だったのかもしれない。こうして武士道はアメリカで発行され、大いに売れた。ルーズベルト大統領も武士道を読み、感激し、知人に配りまわったという話も残っている(実際には日本人が本当に武士道精神を持っているのか疑問だったらしいが)。曰く、「忠の部分以外は役に立つ。忠の部分は、君主を国旗と入れ替えて読むとよい」。また、新渡戸はこの時期「農業本論」という本を著し、農業博士の学位を得ている。

 農学本論には、彼が農学を専攻した理由が書かれている。それによると、彼が農学を専攻したのは、一般に言われているように聖書に感化されたからだけではなく、彼が、文系科目は得意であったが、理数系科目が苦手であり、開拓関係の学問の中ではあまり理数系科目を必要としない農学に目をつけたからだということである。苦手科目を避けたともいえるが、適性とは重要なものである。

 一高校長時代の話も多く残っている。当時一高にはバンカラ主義がまかり通っていたが、新渡戸はそのような主義の見直しを提唱する。そして社会性の重要性を説いた。このような新渡戸に、同感する学生と反発する学生に分かれたのである。また、新渡戸は、大逆事件で死刑にされた幸徳秋水を擁護していた徳富蘆花などを講演に招き、様々な意見を学生に聞かせていた。このようにして、狭い視野から学生たちを脱却させようとしていたのである。

 ところで、新渡戸は野球が大嫌いであったらしい。農学校時代は野球を楽しんでいたらしいのだが、いつの頃からか嫌いだして、いつの間にか、野球は害毒である、とまで言うようになっていた。何が彼を変えたのかは不明である。野球の本場・米国で何かあったのだろうか。

 新渡戸は、自分の教え子で宗教色の強い人物を内村鑑三に預けている。その中には矢内原忠雄(経済学者)、南原繁(東京大学総長)、有島武雄などがいた。

 第一次世界大戦が終結し、1920年、かつての大学の同窓生・ウィルソンの提唱によって国際連盟が設立された時、パリ講和会議日本全権団(団長西園寺公望)の推薦で事務次長に就任する。国際連盟の意義を広く理解してもらうために演説を各地で行ったり、ユネスコの前身である「国際知的協力委員会」の設立に尽力したりした。また、日米間の緊張を懸念し、米国の「排日移民法」の撤廃を求めた。また、米国内で100回を越える講演を行い、日米の平和を説いた。しかし、彼の行動は国際的に理解を得られないだけでなく、日本人からも非難を受け、孤立してしまう。そのような状況の中でも努力を続けるが、1933年カナダのビクトリアで死去。享年71歳。その後、日本は泥沼化した戦争に突入していくこととなる。

 新渡戸は若い頃から「太平洋の橋となる」という志を持っていた(彼が英文学を専攻していたのもこの考えに由来する)。「武士道」によって日本の道徳観念を海外に紹介し、国際連盟事務次長として世界平和を希求し、辞任後も日本を戦争から救うため奔走した。残念ながら最後は努力が実らなかったが、その志は現代の人々にも共有されるべきであろう。

新渡戸をモチーフにした旧5000円紙幣。

(日本銀行ホームページより)

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