木川田一隆

企業倫理を説いた「財界の良心」

国を支える、最重要な産業を基幹産業という。その中でも、特に重要な産業の一つに、電力産業がある。東京電力は、東京をはじめとした首都圏の産業や生活を支える、日本最大の電力会社であり、木川田一隆はその東京電力の社長・会長として「理想派経営者」として知られた人物である。

 木川田一隆は、1899年(明治32年)、福島県伊達郡に生まれた。父は医師・一治。三男であった。父は、とても厳格であり、木川田は、父の影響を強く受けたと言われている。少年時代は、成績はよく、穏やかで大人しかったようである。

しかし、進学するにつれ、スポーツも活発に行うようになった。これには、遠距離通学(田舎だったので、高等教育機関に進学しようとすると長い距離を徒歩で通学することになった。この点は、同じ福島県の出身である野口英世にも通じる) を通じて、肉体が強靭になったことも関係あるだろう。

 当時、特に、地方では、高等教育機関に進学する生徒は、ごく一部であった。野口英世も、小林栄などの協力があったからこそ進学が可能であった。木川田は比較的裕福な家であったので進学できたが、彼の友人の中には、家の事情で進学できないものも多くいた。これが彼に労働問題を考えたり、教育の充実を図らせるきっかけになった。

 中学卒業後、陸軍士官学校を目指すも、失敗。二浪の後、山形高校へ。山形高校在学中に、運命を決める本に出会う。東京帝国大学助教授・河合栄治郎著「労働問題研究」である。自分の周囲で有望な生徒が次々と経済的な事情で学業を諦めていく状況を肌で感じていた木川田にとってはまさに決定的な出会いである。

 河合栄治郎に憧れた木川田は、東京帝国大学経済学部に進学する。入学当初は河合は英国に留学していたため、日本にいなかったが、木川田が2年の時に東大に復帰した。木川田は、河合の授業はいつも最前列で受けていたとらしい。河合の熱意溢れる授業により、木川田はさらに河合に傾倒していくことになる。そして、1926年(大正15年)、大学を卒業する。木川田、27歳であった。

 就職するにあたって、まず希望したのは三菱鉱業であった。その理由は「労働問題に取り組みたかった」。労働組合と言うと、敬遠する人が多いが、そのような中で、木川田の姿勢は特殊であったと言える。もちろん、その姿勢の背景には河合栄治郎の存在があった。そして、採用試験で面接が行われる。面接官と論争をして落とされたらしい。そして、第二志望の東京電灯、後の東京電力の門を叩き、採用される。

 現在と異なり、当時は電力事業は自由競争であったため、多くの企業が乱立し、吸収・合併が相次いだ。東京電灯もそのような中で次第に巨大化し、五大電灯と言われる日本トップの電力企業五社の筆頭を占めるに至った。日本最大もいえる。また、電力会社が独占でなかった代わり、現在のような供給義務もなかったため、地域間の不公平が目立った。木川田の故郷、伊達郡にもなかなか電力は来なかった。

 木川田が入社した翌年の1927年には金融恐慌、さらに1929年には世界恐慌に巻き込まれ、日本経済は厳しい状況にあり、各業界の再編が進んだ。その過程で失業者が増加、地方では身売りが当然のように行われるようになった。財閥はリストラで被害を最小限に押さえ、政党はその財閥と癒着。一番被害を受けたのは庶民であると言うことで、政党や財閥への不満は高まっていた。

そのような中、斎藤実浜口雄幸井上準之助犬養毅高橋是清などの政治家、団琢磨のような財界人が暗殺される事件が起こった。5・15事件や2・26事件はこのような背景で生じた事件である。

 1937年には、電力会社国有化法案「電力国策要綱案」が閣議で可決された。1940年の第2次電力国策要綱により、配電部門の行政管理が決定、41年3月には国家総動員法により、電力会社は9つに統合された。東京電灯は関東配電株式会社に移行、木川田は秘書課長になった。

 41年12月8日、太平洋戦争勃発。45年まで戦争は続くことになる。終戦を迎え、電力事業は、新たに再編を迫られることになる。

 電力再編には各界によって様々な意見があり、なかなか収拾がつかなかったが、1949年、電力再編のための通産大臣の諮問委員会である電気事業再編成審議会が発足、会長には「電力の鬼」と讃えられた松永安左ヱ門が就任し、木川田はその補佐として活躍した。このとき、松永は木川田を「将来の電力業界を担う人物」と評した。

 1961年、副社長から東京電力社長に昇格。その前年には経済同友会代表幹事に就任していた。

 木川田が経営の核として掲げたのは「企業倫理」「企業の社会的責任」ということである。環境問題には、時代を先取りしていち早く対策を打ち、社内教育を充実させ、天下りを廃するなど、東京電力の基幹産業としての責任を十分に果たしたと言える。

また、日中関係の改善にも力を入れ、1971年には中国を訪問し、周恩来首相と会談したりしている。

なお、近年、環境問題などの社会問題の深刻化に伴い、企業の社会的責任(CSR)という考え方が注目されている。CSRに関しては、日本古来よりある考え方という意見もあるが、高度成長期に顕在化する社会問題に最も早くCSRの観点から対応した経営者の一人は彼であろう。

 電力料金引き上げも極端に嫌がった。それでも、オイルショックの時には電力料金を引き上げざるを得なかった。その時も、木川田でさえ、ということで、批判は小さかった。消費者からの信頼は抜群であった。また、電力料金の引き上げに伴い、政治献金を廃止している。

 木川田は1977年に亡くなるが、亡くなる二ヶ月前まで経済審議会の会長の座にいた。命が尽きる寸前まで日本のために奮闘した、まさに理想派経済人である。

そんな彼は、「Bussiness Stateman」と評された。彼にとって、最高の栄誉といえよう。

 昨今、東京電力をはじめ、電力会社の不祥事が目立つが、木川田の精神を思い起こしてもらいたいものである。

なお、木川田の趣味の一つに釣りがあり、釣りに関する句を残したりもしている。

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社宅

今日、就職先から、社宅をどうするか、というメールが来た。自分で選びたいけど、自分で選んでしまっていいものか?礼金とか敷金はどうなの?まあ、どっちでもいいのかな?
それ以前に卒業できるかどうかが微妙だけど。心配性なのかな・・・

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研修だ~!

今日、内定先から研修の案内が来た。12月に研修があるのだとか。
いよいよ社会人になるのだと、身の引き締まる思い。楽しみ。
恋人が最近機嫌が悪い。就職活動を控えてるせいでもあるのだろうけど、やたら暴れる。
今まで甘やかしてきたのがいけなかったのだろうか。子育ての参考にもなる。
今日も勝手に怒って出て行った。
さあ、どうする?

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ふう・・・

昨日、待ちに待った内定通知書が届きました。内々定が出てから2週間。
内定取消などないかと不安な毎日でしたが、ようやく安心することができました。
確認しようとも思いましたが、しなくてよかった。
ということで、内々定から通知書が届くまで時間が空いて不安な人も、のんびり待ちましょう。
大学の単位がまだまだ残ってるので、まだ安心はできませんが。
まあ、しっかり学生時代を楽しみたいと思います。

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ゆーけーの就職日記

もう11月になろうとしてますね。秋風が身に沁みる時期です。
回りの大学生を見回すと、2006年卒は就職活動を終え、のんびりしています。
2007年卒は、就職活動に希望と不安を抱いていますね。
・・・が、この狭間には、未だ就職活動を続けている学生が少なからずいるのです。
公務員試験・大学院入試・留学・就職活動続行など、理由は様々ですが。
私も、10月の末に内定が決まり、就職活動を終えました。
ということで、一筋縄でいかなかった私の就職活動の経験を織り込みながら、様々な記事を書いていこうと思います。
就職活動で苦労した人、苦労してる人、不安な人が癒されるような、そんなブログにしていきたいです。

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渋沢栄一

現在に残る多くの事業・団体を設立した、近代日本経済興隆の立役者

 渋沢栄一は、日本で最初の銀行を設立したり、数多くの会社を設立したりして、日本を資本主義の流れに乗せた立役者である。

 渋沢は1840年に生まれた。7歳の時には漢籍を学んでいたと言われる。若い頃は血気に溢れ、「尊皇攘夷」の考え方に共鳴し、外国人が多くいた横浜の焼き討ちを計画した。但し、実行は中止したが。24歳の時に一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)に仕え、後に才能を見込まれ、フランスに遊学する。ここで渋沢は、先進諸国の優れた政治・経済の制度を目の当たりにする。

 1868年に明治維新で帰国した後は、新政府に仕えることになる。新政府では、民部省や大蔵省で活躍。官立富岡製糸場設置の責任者にもなっている。

 1873年に、民間に移り、国立第一銀行を設立。国立銀行条例に基づき、民間人の銀行設立を許可されたことを受けてのことである。このとき作られた国立銀行(「国立銀行」とはいうものの民営である)の生き残りが七十七銀行(東北)などの、名前に数字がついている銀行である。渋沢が設立した国立銀行は第一勧銀として生き残っていたが、先年富士銀行や日本興業銀行と合併し、みずほフィナンシャルグループとして現在に至っている。

 東京会議所・東京商法会議所などを設立し、その会頭になっている。商法会議所は、その後商工会議所と言われるようになっている。全国の商工会議所が経済界に大きな位置を占めているのは周知の通りである。日本商工会議所はその連合体である。

 渋沢が設立した会社は500にも及ぶと言われている。その中でも、今でも有名な会社としては、東京電灯(後の東京電力)、帝国ホテル、札幌麦酒、石川島造船所、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)など、数多い。これだけでも渋沢の民間経済の強化にいかに貢献したかがよくわかるというものである。国立第一銀行も含めて、これらの会社をはずして日本経済は語ることができないだろう。

 さらに、渋沢は民間外交の推進役として積極的に海外を訪問している。盛田昭夫氏を見てもわかるが、民間外交の推進役は経済界の代表的存在であることが多い。このことから、渋沢が当時の経済界の第一人者であったことがわかる。グラント将軍(元大統領。南北戦争で活躍)やタフト大統領(桂-タフト協定で有名)、ハーディング大統領、ルーズベルト大統領などと会見している。もちろんアメリカだけでなく、中国やフランスも訪問している。

 50歳の時には貴族院議員に任命されている(当時衆議院議員は選挙で、貴族院議員は天皇の任命で決定されていた)。これで、渋沢は政・官・財の全てを経験したことになる。

 渋沢は76歳で実業界を引退しているが、民間外交のほうはその後も行っている。単に経済だけのためでなく、排日問題(この問題を解決するためにハーディング大統領と会談)、児童問題(日本国際児童親善会創立)、障害者問題にも取り組んでいた。また、学校を創設(日本女子大学校など)したり、校長を務めるなど、教育にも理解を示しており、教育の普及に熱心であった。経済だけでなく、幅広いものを見ることができた視野の広い人物であったと言える。「徳川慶喜公伝」という旧主・徳川慶喜の伝記も刊行している。

 「道徳経済合一説」を唱え続け、日本の産業育成に貢献してきた渋沢は1931年、91年の生涯を閉じた。現在道徳経済合一説を実行している企業は多いとはいえない。しかしながら、彼の設立してきた企業から、木川田一隆や平岩外四(共に東京電力社長)、土光敏夫(石川島播磨社長・経団連会長)など、彼の志を理解した経営者が輩出されたのは、偶然なのだろうか、それとも彼の薫陶によるものなのだろうか。
なお、彼の、「道徳経済合一説」は、現在、企業の社会的責任(CSR)として復権しようとしている。

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