負けを認めるのは難しい…
今年は積極的にブログを更新するぞ!と意気込んでいましたが、なかなか更新できずに日を重ねてしまいました…
単にブログのネタが思いつかなかったというのもありますが、ブログを書く気分になれなかったというのもあります。
というのも、実は昨年末に初めて博士学位申請論文を提出してから2度審査を受けましたが、2回とも博士号には至らず結果的に単位取得退学という選択をしたのですが、それを公表するのが恥ずかしかったというのが実のところです。
論文自体はまだ修正中で、近日中には再度挑戦する予定ですが、とにもかくにも負けるのは恥ずかしいし、認めるのは悔しくて不快で、本当に嫌なものですね。
ちなみにこの記事を書こうと思ったのは、元プロ野球選手の新庄選手が48歳にしてプロ復帰にチャレンジして、いろんなことを言われても最後までやり通し、また(サバサバと?)結果を受け入れられていたことに感銘を受けたことによるものです。
彼の日ハムでのキャラクターが好きだったので、一連の挑戦はすごく応援していてオファーなしという結果は一ファンとしても残念でしたが、一番悔しいはずのご本人がすっぱりと気持ちを切り替えているのがすごいと思いました。
すごいよSHINJO!
挑戦には価値がある
…と悔くて恥ずかしい思いをすると、何で要らぬ苦労をしてこんな気持ちにならなければいけないんだろうと思ってしまいます。
こんな挑戦なんて無駄ではなかったのか、と。
博士課程を単位取得退学という結果で終わらせることについては人によって評価が異なると思います。
学位をとれなかったら無駄(最終学歴としての評価も微妙?)という人もいれば、学習したことは無駄ではないという人もいるでしょう。
個人的には学習したことは無駄ではないと思いつつも、やはり基本的には学位をとってこそ(あるいは学位への確かな道筋としてこそ)の博士課程だと思いますので、博士号を取らないままだと自分の博士課程を有意義なものだったとは結論付けられないと思います。
とはいえ、挑戦する姿勢は無駄なのかというとそうではないと思います。それが失敗に終わったとしても。
何事にも挑戦しないという人生を過ごすのはさほど難しくないと思います。
しかし、挑戦しない、言い換えると結果がわかっている選択肢ばかりを選ぶことはつまらないとも思います。
また挑戦をしないということは今の自分より高いレベルのものを目指さないということなので、自分の能力にストレッチがきかないということになり刺激も成長もありません。
だから、挑戦というのは人生を楽しむために必要なものだし、同時に挑戦から得られる結果はどのようなものでも最大限自分にとって価値のあるものにすることを心掛けるようにすべきだと思います。
挑戦の結果成功するのがベストではありますが、仮に失敗したとしてもそこから得られるものが大きければ、それは失敗・無価値とは言えないと思います。
それが学習であってもブログのネタであっても、ただでは転ばないという姿勢を持っていれば失敗のダメージは収穫で相殺されるのではないでしょうか。
とはいえ自分にとっての博士課程の価値は博士号取得という一点に尽きると思いますので、失敗という結果は受容せず何としても取りたいと思いますが。
また失敗することによって自分の現在地を知ることもできます。
成功するために自分に足りないものを知れば、成功への距離は格段に近づきます。
また実現が不可能だということを知れば、いつまでもリソースを投下し続ける、無為に夢を見続けるということも避けられるかもしれません。
あるいは夢への近道が見つかるなどのこともあるでしょう。
どのようなことでも試しにやってみるというのは机上の空論を超える学びがあると思います。
挑戦は正義
挑戦は失敗を伴うもので、失敗したら恥ずかしいし悔しいし、時には人からバカにされたりして、それなりに怖いものではあります。
でも、小さいことでも挑戦することこそ日々の生活に目標と刺激をもたらし、人生を楽しくさせるものだと思います。
また、我々の豊かな生活は多くの人の挑戦の結果によるものです。決して成功が最初から保証された行動の結果ではないはずです。
日本で起業が広がらないのが挑戦を受容しない社会であるから、という言説が正しいかはさておき、社会における挑戦の量が増えていけば、同時に挑戦の結果の失敗に対する受容性も向上され、きっとより多くの素晴らしい何かが増えていくのだと思います。
だからこそ、自分も小さな挑戦を重ねる姿勢を忘れず、また人の挑戦を後押しできるような人間でいたいと思います。
そういえば先日観た鬼滅の刃劇場版でも挑戦の悔しさを言ってました(ボソッ)。
年末の駆け込み記事になりましたが、2021年も楽しい挑戦ができますように!