隙を見せない大阪桐蔭高校
第100回の節目を迎えた夏の甲子園は大阪桐蔭高校の優勝で幕を閉じました。
今回も多くのドラマがあって毎日のように感動させられましたが、個人的に特に印象に残っているのは、春夏連覇を狙う大阪桐蔭高校がどの試合でも決して油断しなかったということです。
甲子園の試合を見ていてもこまめにタイムを取ったり、終盤で点差がついていても手を緩めないという印象があり、「隙を見せないチーム」と高い評価を得ていますが、地方大会(北大阪)でもすごかったようです。
ライバルの履正社高校に勝利して迎えた決勝戦。
対戦相手の大阪学院大学高校はセンバツの出場経験がある強豪校ですが、夏の甲子園に出場したことはない学校。
もちろん強豪校の多い北大阪地区で決勝まで勝ち上がってきているので強いチームであることは間違いないのですが、近年激しい甲子園のきっぷ争いをしている履正社に比べると与しやすい相手のようにも思えます。
実際、5回を終わって10-0と、前半は大阪桐蔭の大量リードでした。
そして、6回の表に大阪学院大高校が2点をとって10-2とした直後の6回裏、大阪桐蔭は11連打・13点の猛攻。
もちろん、どの選手も最高のパフォーマンスを出したいわけで、手を抜くことなどありえないと思いますが、点差がついても集中力を切らさずに打席に立っていたということがすごいと思います。
投げ抜いた大阪学院大高校の投手陣も立派ですが…。
試合後、大阪桐蔭の西谷監督は「点差がついていても決勝なので楽ではなかった」と話しています。
実際、高校野球にはセーフティリードはない、と言われるので、点差はいくらあっても安心できませんし、まして決勝なので当然かもしれません。
それでも後半に入って10点以上差がついても気を緩めないという姿勢はただただすごいというしかないと思います。
ライオンはうさぎを取るにも全力を尽くす、などといいます。
しかし、勝負事においてはどんなに自分に有利な状況でも油断してはいけない、というのは理屈ではわかっていても、普通は気が緩みそうなものです。
ちょっと状況が有利になると油断するのは古今東西、人の常。
歴史上にもそんな事例は山のようにあります。
ここでは、大阪桐蔭高校の精神力に敬意を評しつつ、「大阪桐蔭」になりきれなかった人たちの事例をもって他山の石としたいと思います。
彭城の戦い
油断した項羽、油断した劉邦を破る
秦の始皇帝が築いた秦王朝が崩壊した後、中国の覇権を争った項羽と劉邦。
僻地に追いやられた劉邦に対し、政権の主導権を握った項羽。
両者の戦力の差は圧倒的かと思われました。
実際、項羽は秦滅亡前後に劉邦と主導権争いをする中で、ずっと劉邦が下手に出ており、しかも僻地に追いやっていたことから、劉邦の存在は眼中にもなかったようです。
しかし、諸侯に対し不公平な扱いをした項羽は各地で反発を受けており、それらを味方につけた劉邦が徐々に勢力を拡大し、項羽が敵対勢力の討伐に向かっているうちに、項羽の本拠地である彭城を陥落させました。
これを聞いた項羽は激怒し、精兵3万を引き連れ、急遽彭城奪還に向かいました。
一方の劉邦は圧倒的な戦力で彭城にいることに安堵し、毎日のように酒宴を開いていました。
これを知った項羽は夜明けとともに劉邦軍を攻撃しました。
項羽軍3万に対し、劉邦軍は56万。
しかし、勇将項羽に率いられた精鋭たちはすさまじい勢いで劉邦軍を駆逐。
劉邦軍は20万ともいわれる被害を出して潰走してしまいます。
この結果、劉邦に味方した諸侯の多くが項羽側に寝返り、劉邦の中国統一への道は遠ざかることになってしまいました。
彭城の戦いの教訓を活かした劉邦
しかし、劉邦はこの教訓を後日活かすことになります。
項羽を破り、漢王朝を打ち立てた劉邦ですが、皇帝になってからは猜疑心にとらわれます。
その結果、大きな戦功を挙げた韓信・英布・彭越を粛清。さらに功臣の蕭何まで疑ってしまいます。
また、戦功によって王となっていた重臣たちに代え、自分の子供などの一族を各地の王に封じています。
劉邦の死後、この一族たちが漢王朝に反乱を起こしたこともあり、功臣を理不尽に粛清したことや一族を王にしたことについては劉邦の失策と指摘されることが多いです。
しかし、力を持ちすぎた家臣が政権運営の足かせになることはよくあることであり、理不尽であるにせよ、強い軍事力や能力を持った韓信たちを粛清したことは、政権の安定のためには必要なことであった可能性があります。
このように、猜疑心にとらわれたとはいえ、劉邦は政権の安定については決して油断しておらず、彭城の戦いで得た教訓を活かした、といえるのかもしれません。
その結果、何度か王朝崩壊の危機はありましたが、漢王朝(前漢)は200年の長きにわたって維持されることになりました。
川越夜戦
北条氏康、絶体絶命の危機
戦国時代中期、伊豆(静岡県東部)で勃興した戦国大名・北条氏は瞬く間に相模(神奈川県)を席巻し、武蔵(東京都・埼玉県)に進出していきました。
関東地方でも多くの戦国大名が勢力争いを繰り広げていましたが、彼らも新興勢力である北条氏に対し、次第に警戒するようになっていきました。
そして1546年(天文15年)、北条氏の関東進出の橋頭堡である川越城を、関東のエスタブリッシュメントともいえる上杉家(扇谷上杉家・山内上杉家)や足利家(古河公方家)その他の勢力が包囲します。
守る川越城は3000人、攻める包囲軍は80000人。
さらに攻撃側は駿河・遠江(静岡県中央・西部)の今川家にも手を回し、東西から北条家を締め上げます。
北条家はここに存亡の危機を迎えます。
当時の北条家当主は三代目の氏康。
氏康は川越城の救援に向かうか、川越城を放棄するかの選択を迫られます。
氏康の決断は、川越城救援。
背後を脅かす今川家と領土の割譲を条件に速やかに和睦し、主力部隊を率いて川越城に向かいます。
その数、8000。包囲軍の10分の1です。
圧倒的優位にある敵を油断させ、勝機をつかむ
川越に着陣した北条軍ですが、圧倒的な劣勢のまま戦っても勝敗は明らか。
しかし、いつまでも手をこまねいていると川越城は自落する可能性もあります。
そこで氏康がとった作戦は、包囲軍を油断させたところに奇襲をかけるというものです。
もともと圧倒的な優勢を保っている包囲軍は油断しやすい状況であり、そこをつきました。
氏康は包囲軍を率いる足利家・上杉家に対して低姿勢に「川越城を明け渡して降参するから、城兵の命だけは助けてほしい」と訴えます。
自軍の勝ちを確信している包囲軍はそれを無視し、逆に北条軍を攻撃しますが、北条軍は戦わず、退却。
このような状況で、包囲軍は北条軍に戦意が乏しいと思い込んでしまいました。
それを待っていた氏康は8000の兵を4つに分け、1部隊を遊軍として、3部隊で夜襲をかけます。
北条軍の攻撃を全く想定していなかった包囲軍は大混乱。更に城内からも籠城軍が打って出たため、包囲軍は壊滅しました。
ここですごいのは、氏康の作戦はもちろんですが、北条軍は劣勢にありながら1部隊を予備軍として備えていたことです。
完全に油断していた包囲軍に対して、氏康はとことん慎重でリスクの最小化を考えていました。
こうして最大の危機を乗り切った北条家は怒涛の勢いで関東制覇に進んでいくことになりました。
なお、氏康の父・氏綱が氏康に残した遺訓の一つに「勝って兜の緒を締めよ」があります。
この父の教えこそ、氏康のピンチを救ったと言えるのかもしれません。
「あと一歩」はこれほどまでに遠いのか…
東北地方の悲願である甲子園の優勝旗。
100回大会では高校No.1との評価もある吉田投手を擁する秋田県の金足農業高校が春夏連覇を狙う大阪桐蔭を破って、今回こそ真紅の優勝旗を東北地方に持って帰ってきてくれるかも、と期待していました(判官びいきでもありますが、東北に住んでいたこともあるので、やっぱりシンパシーは感じます)。
しかし、結果は13-2と、大阪桐蔭の強さを見せつけられました。
もちろん、この試合でも油断する気配などありませんでした。
前述のように、命がけで戦っている武将たちでさえ油断をしてしまうのに、大阪桐蔭の監督や選手たちは本当に油断しない。
しかも、大阪桐蔭は試合中何度か相手選手のケアにも気を配っているシーンがあり、自分のチームだけでなく、試合全体を広い視野で見ているようでした。
昨年の悔しい敗戦を胸に、ずっと優勝だけを追いかけてきた、ということで、努力もプレッシャーも想像を絶するものだと思いますが、ここまで強いのか、と思わされました。
金足農業も素晴らしいチームでしたので、多くの人が今度こそ、と思ったと思いますが、本当に「あと一歩」というのは遠いものだと思いました。
甲子園で優勝するようなチームは本当に精神的にも技術的にも中々隙がないようです。
1年間頑張ってきた大阪桐蔭は素晴らしいし、ここまで勝ち上がってきた金足農業も素晴らしい。
一高校野球ファンとしてはそれしか言う資格はないかもしれませんが、本当に「あと一歩」は遠い…。
ともあれ、大阪桐蔭高校、金足農業高校、そして多くの素晴らしい試合を見せてくれた高校球児たちにお礼を言いたいです。
そして、いつかは真紅の優勝旗が白河の関を越えるのを楽しみにしています。