主家乗っ取りの汚名を被った名君
鍋島直茂は、九州竜造寺氏の家老として主君・竜造寺隆信を補佐し、その後は、その子政家を補佐していたと思ったら、いつの間にか主家を乗っ取った形になっていた人物である。その武略・知略は一流で、他人思いの人格も備えていた。
直茂は隆信の義理の弟である。というのも、隆信の母が父親の後妻になったからである。そうして、直茂は竜造寺家の中で特別な地位を得ることになる。直茂はその地位に見合うだけの活躍をしていった。
この頃、竜造寺家の最大の敵は豊後を中心として九州北部に広大な版図を築いていた大友家であった。その大友家が1570年、竜造寺領筑後に侵入、圧倒的な兵力差に、竜造寺軍は本拠・佐賀城に籠城することを選ぶ。一般に、援軍のない籠城は勝利の可能性は薄い。しかし、あえて隆信は籠城を選んだ。竜造寺軍は大友軍の油断を待っていた。そして、その時は来た。大友軍の士気の低下を見て取った直茂は隆信に奇襲を進言し、容れられた。奇襲の結果、大友軍は壊滅、大将の大友親貞(宗麟の甥)を討ち、大勝利を収める。
その後、両家の力関係は逆転、今度は竜造寺家が九州北部を席捲していく。その過程の中でも竜造寺家の大黒柱として、各地を転戦し大活躍する。立花道雪に「奴は若いからもう自分の死後大友家は太刀打ちできないだろう」と言わせている。
しかし、その竜造寺氏にもさらなる転機が訪れる。九州南部から侵攻してきた島津軍及び島津家に寝返った有馬晴信軍と交戦、島津軍の数倍の戦力を持ちながら、島津軍の大将・島津家久の巧妙な戦術により竜造寺軍は敗北、総大将の隆信も戦死してしまった(沖田畷の戦い)。なお、戦後島津方が隆信の首を返還しようとした際に、直茂が断ったという話も残っている。
以降、竜造寺家の国力・内外に対する影響力は大きく減退、一時は島津家に徹底抗戦の構えを見せるが、結局は和睦し、この時島津家の傘下大名の地位に転落してしまう。この苦難の時期に、当主・竜造寺政家(隆信の子)及び重臣群は直茂に竜造寺家の舵取りを託す。
豊臣秀吉の九州制圧が始まると、今度は秀吉に謁見し、島津攻略の先鋒を志願し、竜造寺家は保たれた。その後、政家は直茂に国政を委譲し、直茂が竜造寺家を代表する。朝鮮出兵でも竜造寺軍を率いて出陣した。
秀吉の死後は、次の天下人が徳川家康であることを予測し、家康との関係を深めた。関が原の戦いでは息子の勝茂は西軍に味方するが、直茂は東軍に味方し、九州で西軍を攻撃。そのため、戦後も本領を安堵された。
その後も積極的に徳川政権に貢献、勝茂の嫁に家康の養女を迎え、一層徳川政権との関係を密にする。1607年には政家が死去。竜造寺家の嫡流は断絶し、竜造寺家も消滅。その後は鍋島家がその跡を継ぎ、正式に藩主となった。
鍋島直茂は、隆信在世中は隆信の側近としてよく隆信を補佐した。政家の代になって政権を移譲されてから主家乗っ取りの汚名を着せられてしまった。しかし、政家は、「肥前の熊」と言われた隆信と異なり、凡庸であると言われており、仮に政家が実権を握っていた時、竜造寺家が縮小・改易の難にあっていたかもしれないことを考えれば、直茂の行動は「竜造寺氏」にとっては反逆なのかもしれないが、組織としての「竜造寺家」にとっては最善の道であったのだろう。竜造寺家の一族も直茂の竜造寺家継承を承認している。
ここで直茂のエピソードを紹介。直茂は部下の人身掌握術の一つとして、「勝ったら褒美を、負けたら言葉を」と言っている。勝ったときには言葉はもちろん褒美をあげれば家臣の士気はあがるが、負けた時、失敗した時には優しい言葉をかけてやれば発奮もするし、意気消沈もせずにすむ。間違ってもむやみに責めることはしてはいけない、その前にリーダーである自らの責任を問え、ということである。最近は逆のパターンばかり目立つのだが、こうした直茂の謙虚な考え方が直茂に人心が集まった理由であろう。
また、部下の管理術に関しては「部下の長所をはっきりと見極め、その長所を最大限に活かすようにしなければいけない」と言っている。実際に勝茂がそのような人材の使い方をしていた時に諌めたらしい。
こうして、結果として竜造寺家を乗っ取ったわけだが、鍋島家は幕末まで安泰であった。幕末には鍋島直正が藩政改革を実行、一躍雄藩へと脱皮させ、明治維新を迎えることになる。