児島惟謙

大津事件の混乱にあって、日本の司法権の独立を明確にした裁判官

現在の日本国憲法では、司法権は裁判所に属すものと規定されている(下記参照)。すなわち、国民の代表である国会が刑法等を法律で定め、その運用に際しては、個々の独立した裁判が自身の良心に従い判断することとされている。

【参考】日本国憲法
第七十六条
 

すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。 
○3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

 しかし、このような司法権の独立が確立されたのは近代になってからであり、例えば江戸時代の封建制度においては恣意的な法の運用は珍しいものではなく、それは明治時代に入ってからも同じであった。
一方で、明治時代に日本においては、近代国家として法制度を整備する中で、司法権の独立について要請されるようになっていた。

そのような明治日本において、司法権の独立について明確に争点となったのが大津事件であり、司法権の独立を勝ち取った最大の功労者が、時の大審院(現在の最高裁判所に相当)長・児島惟謙である。

児島惟謙は、1837(天保8)年、伊予(愛媛県)宇和島に生まれた。この年は、大塩平八郎の乱が発生した年にあたる。

幼いころから里子に出されるなどの苦労もあったが、後に生家に戻り、文武の修業に励む。青年期には剣道の修業に励み、教官にもなっている。

その頃、幕末の動乱期に入っており、彼も各地を回り見聞を広める中で、その動きに絡んでいくようになる。
最後には、追放処分扱いで長崎留学をしたあげく、脱藩している。

その後、新政府の征討軍に参加し、明治維新を迎える。
新政府樹立後は、新潟県に赴任するなど、地方行政官として出仕したが、その後元上司である楠田英世の引きで司法省に異動。ここから彼の司法人生が始まる。

 時に児島惟謙・35歳。
翌年には判事に任命されている。

彼には行政官としての経験はあったものの、司法官としての経験・知識はなかったが、司法に携わる者としての第一の資質とも言える勇気や正義感は十分に持ち合わせていた。
また、先進的な考えを持つ江藤新平が司法卿(大臣)になるなど、上司にも恵まれていた。
江藤は、各種の司法(省)制度・行動規則を定めるなど、司法制度を急速に整えた。
また、中央集権制度を進めるため、各地に裁判所を設置し、地方官の専横の排除を図った。この過程で、児島も江藤の手足となって各地で活躍した。

1874(明治7)年、民選議院設立建白書を上程するも受け入れられなかった江藤は下野し、後に佐賀の乱を起こすことになる。しかし、政府軍に敗れた江藤は遂に捕えられ処刑される。

江藤の死後、福島裁判所に赴任。そこでも地方官の専横を正すなどの活躍をした。その後、名古屋・大阪に赴任。大阪では大阪事件(思想家の大井憲太郎が韓国の内政改革を図り、爆発物を持ちだそうとして逮捕された事件)に遭遇するが、彼は政府の俄作りの爆発物取締規則を適用せず、旧法によって判決を下した(法律不遡及の原則)。

そして1891(明治24)年、彼は大審院長に就任する。その数日後、大津事件が勃発する。

大津事件は、日本を訪問していたロシア皇太子を巡査が斬りつけて重傷を負わせた事件である。
当時ロシアは極東の大国であり、日本は近代国家の道を歩み始めた二流国。この事件がきっかけで戦争にでもなれば日本の滅亡は必至とみられた。
そのため、政府は必死に謝罪するとともに、犯人を何としてでも死刑に処し、政府としての誠意を見せ、ロシアの追及をかわそうとした。

しかし、当時の刑法では、不敬罪(旧刑法第116条)は皇室への犯罪に限られ、法を厳格に適用しようとすれば、殺人未遂罪として裁く必要があった。

政府は、不敬罪を援用適用させようとして、判事に圧力をかけた。一方、大審院長であった児島は各判事に司法の独立と己の良心に従い判断するべきことを説いた。
無論、児島自身に対しても西郷従道(西郷隆盛の弟)内相や山田顕義法相から圧力がかかったが、それらを意に介さなかった。

ちなみに、児島が各裁判官に対し持論を説得したことについて、司法内部における独立の侵犯という意見もある。しかし、児島が説いたのは、裁判官としての正義であり、個々の論点でないとすれば、これは裁判官の意思を曲げるということとは異なるのではないかと考える。

最終的に、この事件は殺人未遂罪が適用され、無期徒刑の判決が下される。
政府の干渉を退け、司法の独立が確立された瞬間ともいえる。

その後、大審院判事の不祥事疑惑の責任を取って辞任。
辞任後は貴族院議員・衆議院議員、銀行頭取などを歴任し、1908(明治41)年、死去。72歳であった。

大津事件で注目されることが多い児島惟謙であるが、大津事件以前からその公正さ、正義感で権力におもねらない裁判を行ってきた。この点について、現代の我々も見習うところ大であることは間違いないだろう。

また、大津事件に際してロシアにおもねらず司法の正義に照らし、司法の独立を確立したことで、列強の信任を得、日本は真の先進国への道をたどることになった。

戦後、日本国憲法によって、司法の独立は制度的に強化されている。
一方、現在でも司法は行政から独立して運営されていないという見方もある。
最高裁判事の罷免権のみならず、裁判員として国民が直接裁判に参加できるようになった今こそ、児島惟謙の志が国民一人一人に求められていると言えるのかもしれない。

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