世界の祝日②

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夏休みの季節。今日も仕事か・・・、なんて思いながら目をこすっていると、昔懐かしのラジオ体操の音楽が流れてきます。
子どもはのどかにラジオ体操をしててうらやましい、なんて思います。
今回も休日の増加を祈りつつ、世界の祝日のお話です。
ちなみに8月1日はスイスの建国記念日だそうです。
●革命記念日(7月14日:フランス)
時は18世紀末、フランスではブルボン朝の支配(アンシャン・レジーム)に陰りが見えてきました。
相次ぐ戦争や貴族の贅沢などによる財政負担だけでなく、民主国家アメリカの独立や啓蒙思想家の登場などで、ブルボン朝・ルイ王家への国民の反発は強まっていきました。
このような国民の不平を鎮めようと、政府もなんとか平民層の取り込みを図りますが、貴族や宗教者との利害調整が順調に進まず、怒りが爆発した民衆は、1789年7月14日に政治犯が収容されていたバスティーユ監獄を襲撃します。これがフランス革命の始まりとなり、革命記念日となっています。
その後、フランス人権宣言をめぐって王家と民衆が対立するも、結局人権宣言を王が承認。
さらに、王家が亡命を測って失敗し、国民の支持を失うなど、王家を取り巻く環境は悪化。
一方の革命軍は対外戦争も乗り越え、勢いづきます。
1792年には普通選挙により議員が選ばれ、フランス第一共和政が誕生。ナポレオン失脚まで王朝は途絶えることになります。
1793年、ルイ16世、王妃マリー=アントワネット処刑。
その後、ロベスピエールをはじめフランス革命の立役者の内乱を経て、ナポレオンの帝政、ルイ王朝の復古王政、第二共和政、ナポレオン三世の第二帝政、第三共和政、(ヴィシー政府)、第四共和政、そして冒頭のシャルル・ド・ゴールから始まる現在の第五共和制へとつながります。
●青年とスポーツの日(5月19日:トルコ)
13世紀末より脈々と続き、大勢力を誇ったオスマン帝国も、19世紀頃にはロシアとの対立やヨーロッパ諸国におけるナショナリズムの台頭、制度疲労などによって次第に陰りが見えるようになりました。
そんな帝国を列強も狙っていて、まさに内憂外患。
1914年の第一次世界大戦では同盟国側として参戦、善戦も見せますが、敗戦の憂き目に。
この結果、オスマン帝国は連合国の占領を受けることになります。
時の皇帝、メフメト6世はこれを機に自らの権力を強めようと、あえて連合国の占領を受け入れます。
これに反発し、各地で独立運動が勃発。1919年5月19日、第一次世界大戦で活躍した軍人、ケマル・アタテュルク(ケマル・パシャ)が独立運動への参加します(5月19日に活動拠点に到着)。
ケマルは各地の独立勢力を糾合し、オスマン政府を実質的に引き継ぐととも、外敵にも自ら軍を率いて勝利します。
このような活躍が影響し、連合国と有利な条件で休戦。1923年には共和政を宣言し、現在のトルコ共和国初代大統領となります(メフメト6世は1922年に廃され、これをもってオスマン帝国は滅亡)。
彼はいまでも国民の尊敬を受けており、彼の名のついた大学や空港、大通りがあるそうです。このあたり、フランスのド・ゴールと似ています(ちなみにド・ゴールも軍人出身の政治家です)。
爽やかな名前に似ず、血なまぐさい背景がある記念日です。
この日は国旗が掲げられ、スポーツの祭典が開かれるようです。
なお、トルコの祝日の多くがこの時期の出来事に由来しており、いかにトルコがこの時期のことを大切にしているかが窺えます。

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