ヴィクトリア女王

夫君アルバート公とともに大英帝国の最盛期「ヴィクトリア朝」を築いた女王

ヴィクトリア女王は、大英帝国の最盛期「ヴィクトリア朝」のときの英国女王として有名であるとともに、彼の夫・アルバート公と良い家庭を築いたことで知られている。

ヴィクトリアが誕生したのは1819年。産業革命が進む一方、フランス革命やナポレオンへの対応で大英帝国が疲弊し、国内の不満が高まっていたころである。当時、戦争期に穀物価格の高騰を背景に多額の投資を行ってきた地主を保護するため、穀物の輸入を制限し、穀物価格の維持を図る「穀物法」が制定されていたが、それに反対する労働者の集会を鎮圧した「ピータールーの虐殺」が生じたのも1819年である。
ちなみに、この穀物法は、マルサスとリカードという二大経済学者の論争を引き起こしたことから経済学史にその名を刻むことになる。

ジョージ4世、ウィリアム4世が継嗣なく没したため、1837年に18歳で即位。後年に見られる好意的な印象とは裏腹に、ピータールーの虐殺やジョージ4世の贅沢など、王室に対する国民感情は悪かったようである。

そんなヴィクトリア女王が夫君アルバートと結婚したのは1840年。16歳で出会ってからの付き合いで、ヴィクトリアが一目ぼれしたと伝わっている。

ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(1819-1861)

ヴィクトリアのいとこであったアルバートは、ヴィクトリアの求婚に応じ、イギリス王室に入ることとなる。

王室の改革を進め、王室内からは人気を得られることはなかったが、頭脳明晰であり、時の政治家からは高く評価されていた(何かあると女王より先に相談されたとか)。

また、夫婦仲は非常によく、この点国民からは人気が高かった。

なお、現在親しまれているクリスマスツリーの習慣は、彼が母国のドイツから伝えたものである。

世界中に植民地を拡大したヴィクトリア朝であるが、その道のりは決して平坦なものではなかった。

ヴィクトリアが女王に就任した直後、参政権を得ていない労働者階級が「人民憲章」の制定や「チャーティスト運動」といった参政権を求める運動を大規模に展開する。

労働者の参政権付与については実現しなかったが、1846年に穀物法は廃止され、労働者階級をはじめとして国民は広くその恩恵を受けることになる。これには、先進的な農業を進める農家の協力もあった。

また、1833年には英国内での奴隷が禁止されている(1807年には奴隷貿易が禁止されていた)。

1851年には初の万国博覧会(万博)を開催する。特に鉄骨とガラスでできたクリスタル・パレス(水晶宮)が注目を集めた。
万博への出展者は14000、半数は海外からだったという。また、半年間の会期で600万人以上が訪れたという。

国内問題に対応する一方で、大英帝国は植民地の拡大も進めていた。

オーストラリアやニュージーランドに対する植民地建設を本格的に行うほか、インドへの支配も強化。ヴィクトリアは初代インド皇帝となった。

また、対中国(清)では、自由貿易を求める政策の延長としてアヘン戦争が勃発。この戦争に勝利したイギリスは香港を獲得。以後、中国の半植民地化が進むことになる。

しかし、大英帝国が拡大を続ける中、1861年、愛する夫・アルバートが死去。
以降、ヴィクトリアは悲嘆のあまり公の場に顔を見せなくなったという。

ヴィクトリアは表に出なかったものの、帝国は太平天国の乱を鎮圧、スエズ運河株の獲得、エジプトの占領など、次々と勢力を拡大していく。

1875年には上述のとおり、ヴィクトリアがインド皇帝に就任。この戴冠も、ヴィクトリアの気を引くためのものだったともいわれる。

パックス・ブリタニカの繁栄を見守りつつ、1901年に死去。享年81。

即位当初は政治への介入を行い、議会との対立もあったといわれるが、その後は「君臨すれども統治せず」の伝統に従い、議会制民主主義の発展に努めた。
また、外交においては大英帝国の拡大、パックス・ブリタニカの確立などの成果を収めた。
家庭においては、アルバート公と良好な関係を維持し、英国における良い家庭のモデルともなった。
子孫が多くヨーロッパで重要な地位に就いたことから「ヨーロッパの祖母」とも呼ばれる。

その実績は、まさに大英帝国中興の祖であり、ヨーロッパの祖母である。

なお、現在一般的になっている純白のウェディングドレスの習慣や、指輪を贈る習慣もヴィクトリアに由来すると言われている。

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