エブラハム・リンカーン

アメリカを南北分裂の危機から救い、人種融合の基礎を築いた「奴隷解放の父」

エブラハム・リンカーンAbraham Lincoln)は、現在アメリカはもとより、世界中で最も尊敬されている人物の一人である。アメリカの人気大統領ランキングでは常に上位を占めていることもよく知られている。

リンカーンは、1809年にケンタッキー州の農家の子として生まれた。貧しい家庭であったようだが、彼はそれによく耐えた。そのせいか、身長が高く、体力にも優れていたそうだ。
のちに一家でイリノイ州に転居したのち、22歳で一家から離れ、独立している(イリノイ州には在住のまま)。

独立後、義勇兵として戦ったのち、州議員となる一方、弁護士としての活動も開始。弁護士としてのキャリアを着実に積んでいった。州議会議員の方は4期務めている。

1846年には連邦議会下院議員となるが、任期終了後には再び弁護士としての活動に力を入れることになる。

しかし、1860年に、共和党の大統領候補となり、民主党に勝利。第16代大統領となる。
彼はもともとひげを生やしていなかったが、ある少女からの投書で、「ひげを生やした方が堂々として見える」というアドバイスを受け、それからひげを伸ばし始めた。それがリンカーンのトレードマークともいえるひげが生まれたきっかけであった、というエピソードが残っている。

奴隷制度に反対とみられていたリンカーンの大統領就任に伴い、奴隷制度撤廃を拒んでいた南部の州が合衆国連邦からの離脱を表明し、アメリカ連合国を設立した。

この背景には、北部と南部で経済の構造が大きく異なっていたことが挙げられる。
北部は鉄鋼や機械などの工業が発達していたのに対し、南部の産業は農業、特に綿花栽培が盛んであり、奴隷という労働力を北部に比べ必要としていた。19世紀中頃には、南部の熟練労働者の80%が奴隷であったとも言われる。
無論、南部にも道徳的な理由で奴隷制度に反対する者もいたが、南部の経済の奴隷への依存の状況を鑑みると、主流にはなりえないものであった。

また、リンカーンが大統領選を戦う前年、奴隷制度反対者であるジョン・ブラウンという人物が奴隷を解放するために蜂起したことも、南部を敏感にさせていた。

1861年、南軍が南部に残っていた北部の拠点・サムター要塞を攻撃。ここに南北戦争の火ぶたが切って落とされる。
戦争がはじまった頃は、南部が戦闘に勝利し続け、主導権を握っていた。

南軍を率いたのは、名将として名高いロバート・リー将軍。ウエストポイント陸軍士官学校を出たのち、長年にわたって活躍した将軍である。
また、彼は南部出身であったが、奴隷制度に反対であり、自らの奴隷も解放していた。また、人の悪口を言わず、たばこを吸わず、酒も飲まず、非常に尊敬されていた。
しかし、彼は故郷に対し刃を向けることはできなかった。そのため、合衆国から指揮をとるよう要請されてもそれを断り、南軍の司令官となった。

ロバート・E・リー(Robert Edward Lee,1807-1870)

メキシコとの戦いなどで活躍を見せただけでなく、その人格においても尊敬を受けた、アメリカ屈指の名将である。

南北戦争においては終始神出鬼没の戦いを続け、北軍を苦しめた。

戦後は人材育成に尽力し、ワシントン大学(現ワシントン・リー大学)の学長などを務めた。

一方、リー将軍の活躍に頭を痛めた合衆国政府は、リーの士官学校の後輩にあたるユリシーズ・グラント将軍を起用。ここに、南北戦争の両雄が相まみえることになる。

ユリシーズ・S・グラント(Ulysses Simpson Grant,1822-1885)

陸軍士官学校を卒業し、軍隊に入るも、大酒が原因で辞職。
南北戦争開始時はイリノイ州で父親の革製品の店で働いていた。

開戦後、志願兵を組織し、北軍に参戦。頭角を現したグラントは数々の戦いに勝利し、1864年には北軍の最高司令官となる。
南北戦争における数々の功績から、アメリカ屈指の名称としての栄光を受ける(彼の名誉を称えるために陸軍元帥というポストが新設された)。

戦後、第18代大統領となるが、スキャンダルなどに悩まされ、大統領としての評価はかなり低い

1863年、リンカーンは「奴隷解放宣言」を行う。すなわち、南部の(つまり北部は含まれない)奴隷については今後自由の身になるということである。
この宣言は、黒人たちに勇気と希望をもたらした。

戦争が続く中、物量に勝る北軍がグラントの指揮の下、徐々に優勢になっていった。
戦局を覆すため、リーは北部の町、ゲティスバーグに駒を進める。
一方、北軍も南軍を待ち構え、両軍はここで激突する。

激戦の末、両軍多大な被害を出しながら、北軍は勝利し、南軍は遠路撤退した。
この戦いが転機となり、北軍は優位に立った。

ゲティスバーグで戦死した兵士の栄誉を称え、北部の州知事はこの地に国立墓地を設立することを決め、リンカーンに演説を依頼した。

そのときリンカーンが述べたのが、有名な「人民の、人民による、人民のための政府」である。
we here highly resolve that these dead shall not have in vain; that this nation,under God,shall have a new birth of freedom, and that government of the people,by the people,for the people shall not perish from the earth.:ゲティスバーグで亡くなった人の思いを無駄にしないように、人民の、人民による、人民の政府をこの世界から消させないようにしよう)

1865年、南部の首都リッチモンドは陥落し、リー将軍も降伏。南部の首脳も逮捕され、南北戦争は終結した。これ以上の血を流すことを嫌ったリンカーンは南部に対し寛容に対応しようとした。

しかし、リー降伏5日後の1865年4月14日、芝居を見ていたところ、奴隷制度の支持者であるジョン・ブースに射殺された。

リンカーンの奴隷解放への戦いはここで終わったが、その後キング牧師モハメド・アリをはじめ多くの人種問題に対する抵抗者が戦い、2009年、初の黒人大統領であるバラク・オバマ第44代大統領が誕生した。
オバマ大統領が就任の宣誓をした時、その手には150年前にリンカーンが宣誓の際に使った聖書があった。

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