大毛利を支えた文武両道の猛将
吉川元春は中国に覇を唱えた毛利元就の次男である。元春は子供の頃から勇猛であった。元春と、同様に毛利家を支えた弟・小早川隆景の性格を現すエピソードがある。
ある時、元春と隆景が雪合戦をした。最初は元春ががむしゃらに突っ込み、隆景が逃げ出したと言う。次は隆景がうまく元春を誘い出して元春を痛めつけ、両者引き分けに終わった。これを見ていた元就は、「元春は勇猛なので、勇猛な武将の多い山陰地方に、隆景は智謀に優れているので、策略をめぐらせることの多い瀬戸内海地方に配置するのが良い」と語った。ちなみにおとなしく見ていた長男・隆元に関しては「自分も雪合戦をしたいだろうにおとなしく我慢していた隆元はトップにふさわしい」としている。
しかし、元春は武勇だけの武将だけではなかった。彼の器量を表す言葉として「眼東南を向き、心西北にあり」というものがある。要は、四方八方に気を配り、決して隙を見せないということだ。
元春は名家・吉川家に養子に出され、吉川家を乗っ取ってしまう。同じように隆景も小早川家に養子に出され、同家を乗っ取っている。元就の作戦であることは言うまでもない。
毛利家は中国地方の覇者であった大内家の家臣であった。その毛利家が大内家の勢力圏から脱するのにはきっかけがあった。大内家の重臣・陶隆房による大内義隆の殺害である。隆房は豊後(現在の大分県)の大友宗麟の弟・義長を義隆の後継に据える。もちろん傀儡政権である。隆房と元春は兄弟の契りを交わしているほどで、隆房は毛利家の同調を求め、毛利家の去就に元就らも迷ったが、結局陶晴賢(隆房から改名)と対決することを選ぶ。そして、両者は厳島で激突することになる。
元就は厳島に陶の大軍をおびき寄せるための城を建設した。案の定陶の大軍は狭い厳島に殺到し、身動きが取れなくなった。そこに元春らが突撃するだけでなく、隆景が村上水軍を動員し海上封鎖を行ったため、陶軍は逃げ道を失い、壊滅した。この戦いを厳島の戦いと言う。
厳島の戦いの後、毛利家は旧大内家の版図を吸収することに成功する。次に照準を合わせたのは山陰の尼子家である。山陰の担当は元春であったため、山陰での戦いは元春が中心になって進めることになる。徐々に山陰を攻略していくと1566年、尼子家の本拠・月山富田城を完全に包囲する。そして11月、尼子家の当主・尼子義久は毛利の軍門に降り、尼子家も滅亡する。ここに、毛利家は中国地方の雄としての地位を確立した。
この月山富田城包囲中に、元春は「太平記」を全巻書写したと言われる。元春は学問にも造詣が深かったのだ。
1571年、元就が死去。長男の隆元も死去していたので、その長男の輝元が後継者として当主になる。元就在世中同様、元春と隆景は毛利両川(吉川と小早川)として輝元を補佐し続けることになる。
元就の晩年の頃から、毛利家には東から大敵の存在がちらついてきていた。織田信長である。元就が死去した頃に毛利家と織田家の衝突が本格化する。織田家の中国地方軍団長は羽柴秀吉。播磨や摂津で反乱が起こり、石山本願寺と組んで織田水軍を壊滅させるなど、当初は毛利家が優勢であったが、秀吉は播磨などで苦戦を続けながらも、着実に版図を広げていった。さらに、最大のポイントである備中・備後の領主である宇喜多直家も織田家に寝返り、一気に形勢が逆転した。
秀吉は山陰にも手を伸ばしたが、毛利家もただ手をこまねいていたわけではない。尼子家の遺臣山中鹿之助(鹿助)が尼子一族の勝久を擁立して播磨の上月城に立てこもると、元春は急襲して落とした。また、山陰地方で秀吉と対峙すると、背水の陣を敷き、決戦の意気を示す。この時、秀吉の家臣・宮部継潤は「吉川のいる限り毛利の武道は衰えないだろう」と感嘆したと言う。
しかし、秀吉の弟・秀長や黒田孝高(官兵衛・如水)などの活躍で、毛利家は徐々に西に後退せざるを得なくなった。そして、備中高松城で羽柴軍と対峙している頃、毛利家の運命を変える事件が起こった。本能寺の変である。秀吉が撤退する際、両川の意見は分かれた。元春は「追撃すべし」、隆景は「秀吉は伸びる。追撃をせず恩を売るべき」と主張。結局、隆景の意見が通った。この時点から、元春は隆景の陰に隠れ始める。
その後、羽柴家の拡大とともに、毛利家と小早川家は栄達の道を登っていった。その一方で、吉川家及び元春の存在感は薄れていった。しかし、元春はそのことにあまり拘泥しなかった。
九州遠征の際、隠居していた元春は、幾度の固辞にも関わらず秀吉に参陣を求められ、出陣する。そして陣中で病を得、陣没した。
吉川元春に関するエピソードは数多い。特に有名なのが次の話であろう。
元春の正妻はとんでもない醜女だと言われている。が、この結婚は元春自信が望んだことらしい。その理由としては、親の熊谷信直が有力な家臣であり、その忠誠心を勝ち取るためであるとか、女色に溺れないようにするためであるとか言われている。どちらにしてもお嫁さんにとってはひどい言われようなのだが、このことからも元春の器量がわかるというものである(ただし創作ともいわれる)。
また、元春の死因としては、親友の黒田如水が差し入れた鮭を、持病に悪いと知りながらも、好意を無駄にしないために無理して食べ、病を悪化させて亡くなったとも言われている。元春の信義の厚さが伺える話である。
元春の死後、輝元と隆景は五大老になるなど、栄達を極めていった一方、吉川家は相変わらず存在感が薄いままだった。
しかし、関が原の戦いで、輝元は精彩を欠き、小早川秀秋(隆景の養)が優柔不断に行動している一方、元春の三男・広家は、主家の存続のために必死に奔走する。そのため、戦後、毛利家は存続し、広家は、その独断を批判されながらも毛利家に重きをなした。一方、小早川家は秀秋がすぐに亡くなり、跡継ぎがおらず、断絶。毛利両川は再び対照的な道をたどった。