豊臣秀吉

魅力と知恵で天下をとった「人たらし」

 豊臣秀吉は、もともと尾張の農民で、後には武家に転じ、最後には天下を統一した人物である。中国には同様に農民から天下を獲った人物に漢の高祖・劉邦がいるが、この両者は性格が似ていて、同じようなエピソードが多い。

 彼は尾張の農民の家(自作農であったと言われる)に生まれたが、農業を嫌い、また、腕白であったため、幼い頃に寺に預けられた。このあたりの事情は石田三成とは大きく異なる。しかし、あまりの腕白ぶりに寺からも追い出され、実家に帰ってきた。彼の父親は早くに亡くなっており、母は再婚し、義理の父親が家にいたのだが、その義理の父親と合わずに針売りの旅に出た。その過程で今川家の家臣・松下之綱に仕えるが、家中で浮いてしまい、出奔。その後、尾張の織田信長に雑用係として仕える。

信長に仕えていた頃のエピソードは数多い。その中で一番有名なのは草履を懐で温めたという話であろう。

 彼が信長の草履取りをしていた頃、ある寒い日に信長が草履を履いたところ、草履が暖かかった。尻に敷いたのかと詰問する信長に、秀吉は懐で暖めていたと言う。あからさまなご機嫌取りのような気もするが、このような嬉しがらせに、信長は秀吉に目をかけるようになった。

 そうやって過ごすうちに、秀吉は家中の取り仕切りの裁量権を与えられるようになる。つまり、小さいながらも政治をするようなものだが、彼はここでも知恵を発揮する。ここでも有名なエピソードを挙げる。

 ある日、信長の居城・清洲城の城壁が壊れているのを見た信長は家臣に城壁を修理するように命令する。しかし、何日経っても城壁は修理されない。そこで秀吉が「私なら数日でやってのけます」と言い切った。そこで信長も秀吉にやらせてみることにした。

 秀吉は部下を数組に編成、各組に修理する城壁を割り当て、同時に仕事を行わせ競争させることにした。最も早くできた組には賞金を用意したのである。さらに秀吉の気遣いは違うところに向いていた。名目上の責任者に重臣の丹羽長秀を立て、嫉妬の声をかわし、さらに仕事場に信長を呼び、信長に対する部下たちの敬意を高揚させたのだ。これらのことは、後に秀吉に大いなるプラスとして返ってくることになる。

 そうして、次第に信長に認められていった秀吉に、またも大きな転機が訪れる。美濃斎藤氏攻撃である。1560年、三河から大軍を率いて攻め込んできた駿河・遠江・三河の太守で、当時最強と言われた今川義元を破った信長は、三河の松平元康徳川家康)と同盟を組み、後顧の憂いをなくして美濃に攻め込んだのだ。しかし、戦況は一進一退。そんな時に秀吉がまた登場する。秀吉は「敵中の墨俣に城を築き美濃攻めの拠点をしましょう」と提言した。驚いた信長だったが、ここでも秀吉に任せた。有名な墨俣城築城である。

 秀吉はまず、美濃側が油断している雨季に森林から木を伐採、工作していかだで川に流し、下流で一気に築城。さらに近辺の野武士を味方につけ、籠城の準備を整えたのだ。果たして、築城されたことに驚いた斎藤軍は攻撃してくるが、秀吉らは必死に防戦し、信長が駆けつけるまで守りきったのだ。さらに、秀吉は斎藤氏の3人の重臣(美濃三人衆)と、智謀で有名な竹中半兵衛を味方につけ、斎藤氏攻略に勢いをつけた。結局、これらの秀吉の働きが功を奏し、斎藤氏は滅亡し、秀吉は墨俣城を与えられ、城持ちとなったのだった。この時協力した野武士たちは以降秀吉に協力し、共に出世していく。その一人が、後に阿波の大名となる蜂須賀小六正勝である。

 美濃を手にした信長は、その頃、元将軍である足利義輝の弟の義昭を庇護。義昭を前面に立てて上洛の軍を起こした。上洛に先立ち、北近江の浅井長政と同盟を組んでいた信長は、南近江の六角氏を破り、一気に上洛し京都を押さえる。この頃秀吉は「木下藤吉郎秀吉」から「羽柴秀吉」に改名している。これは織田家の重臣丹羽長秀と柴田勝家から一文字ずつとったと言われている。このように上位の者に対する気遣いを忘れなかった。

 最初の頃は義昭は信長に感謝し、父と敬っていたが、傀儡政権であることに気づくと、各地の大名に信長打倒を呼びかける。ここから信長とその家臣たちの苦難が始まる。

 義昭の呼びかけに応じたのは、甲裴の武田信玄、越後の上杉謙信、摂津・讃岐・阿波の三好氏、越前の朝倉義景、相模の北条氏政、そして本願寺(当主は顕如)である。のちに中国の毛利氏も本願寺に協力し、織田家と敵対することになる。

 秀吉も一軍の将として各地を転戦する。1573年、武田信玄が上洛の軍を起こした時は、盟友の徳川家康が大敗するなど最大のピンチであったが、朝倉義景との連携に失敗し、また、信玄自身が途中で病死したため、このピンチをピンチを脱出した。上杉謙信が上洛しようとした時も、畿内で松永久秀が反乱を起こし、上杉軍に柴田勝家軍が大敗するなど窮地に陥るが、勝家が踏ん張り、さらに謙信も病死したため、この危機も脱出した。本願寺は1580年まで11年間抵抗し、織田包囲網の構成者の中で最も遅くまで抵抗していたが、結局講和して石山を退去。ここに織田家は包囲網を殲滅し、天下への道をさらに大きく踏み出した。

 この時期のエピソード。謙信が上洛の軍を起こした時、秀吉は勝家に従って出陣していた。しかし、勝家と意見が合わなかった秀吉は、もともと勝家とそりが合わなかったこともあって、無断で領地に帰った。本来は軍律違反で罰せられるところなのだが、信長に多大な貢物をし、さらにどんちゃん騒ぎをして、謀反の疑いをかけられないようにしていた。そのため、罰せられることもなくこの事件は終わった。

 この後、秀吉は中国方面の軍団長として播磨に出陣、姫路城主・黒田官兵衛の出迎えを受けるが、前面に毛利家がいる上に播磨の豪族の多くが離反、さらに後方攝津の軍団長・荒木村重が織田家に謀反し、秀吉は播磨に孤立することになる。播磨北部の上月城に、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の遺臣を配置していたが、信長はそれらを見捨て帰還するように命令する。秀吉は必死に反対するが、結局命令に従い、見捨てざるを得なくなった。

 体勢を立て直した秀吉は播磨を平定。三木城を包囲して開城させるなど、被害を抑えながら勢力圏を拡大、さらに弟・秀長に山陰地方も平定させていた。計略によって備前・備中の太守宇喜多直家を織田家に寝返らせると、秀吉も山陰に出陣。鳥取城を囲む。ここでは「鳥取城の渇殺し」と言われるような徹底した食糧攻めを行う。近隣の住民を城内に保護させるのはもちろん、戦争前に米を高値で買い取り、近辺の村の米はもちろん、城内の米さえ売らせていた。おかげで城内の兵糧はかなり少なく、すぐに底をついた。そこからは地獄絵のような光景だったという。食糧を求めて城内から出てきた者はひたすら撃ち、城内では食べられるものは何でも食べたという。このように、秀吉は自軍の被害を最小限にする戦いを進めていき、戦況を有利にしていった。

 毛利家の領土を侵食していった羽柴軍は備中高松城で毛利軍と対峙する。ここで、秀吉は黒田官兵衛の提案を容れ、高松城を水攻めにする。その一方で織田信長に華を持たせ、また、毛利軍を一気に降伏に追い込むために信長に援軍を依頼。しかし、このことが日本史を変えることになる。

 1582年、織田信長は秀吉の援軍の依頼を受け、京都に進軍し、本能寺に宿泊する。しかし、その時、周りには兵がおらず、そこを家臣の明智光秀に襲われ、嫡子・信忠と共に死亡する。本能寺の変である。光秀は一気に京近辺を制圧した。

 この事件で、秀吉は正面に毛利軍、後方に明智軍という敵を抱えることになった。運良く、明智軍から毛利軍に本能寺の変を知らせる使者が秀吉軍に捕まった。信長の死を知った秀吉は大いに泣いた。この涙の裏にあったものが信長への恩義なのか、天下への打算なのかはわからない。あるいはその両方であったのかもしれない。その時、黒田官兵衛が、「今こそ天下を獲る時」と進言した。この時から秀吉は彼を警戒し始めたという。

 秀吉はすぐに毛利軍と講和交渉を行う。毛利軍の猛将・吉川元春は追撃を主張するが、その弟の小早川隆景は秀吉が天下を獲ることを見越して恩を売るため、また、日本に一刻も早く平和が来るようにするため、秀吉との講和を主張。結局隆景の意見が通り、講和する。その後、秀吉軍は一気に姫路まで帰還。そこで金銀兵糧を全て放出。光秀との決戦に勝利しなければ生きて帰る気のないことを示し、兵の士気を上げる。その後、織田の旧臣も糾合し、京都に進軍。光秀と山崎・天王山で戦うことになる。明智軍も善戦したが、羽柴軍の勢いに押され敗北。光秀は居城に退却する途中に農民に殺害された。この戦いから「天王山」という言葉が生まれた。
(「天王山」(大山崎町)と「関ヶ原」(関ヶ原町)は「天下分け目の戦い」の座を巡って長年争っていたが、2017年に投票があり、「関ヶ原」が多数の票を得て、天下分け目の戦いを制したそうである。)

 こうして信長の仇をとった秀吉は織田家で最も大きい発言権を得ることになる。そして、織田家家臣は織田家の今後の処理を決めるため、清洲城で会議を開いた。清洲会議である。ここで秀吉は織田家の嫡流・信忠の息子で3歳の三法師秀信)を推し、柴田勝家は信長の三男の信孝を推した。当然のことながら、これは織田家の主導権を巡った争いである。結局、両者は決戦を迎える。

 羽柴・柴田両軍は翌83年に賤ヶ嶽で衝突。柴田軍も善戦したが、秀吉の奇襲作戦により、柴田軍は崩壊し、柴田勝家は居城・北の庄城で自害する。信孝も後に自害し、以降秀吉は信長の遺志を受け継ぎ、天下統一に向けて動き出す。

 1584年には徳川家康と小牧・長久手の戦いで衝突、戦術では敗れるが、信長の次男・信雄を取り込み、家康に戦いの口実を失わせ講和する。1585年には四国に乱入、四国の覇者・長宗我部元親を降伏させる。この年、秀吉は関白に就任し、豊臣秀吉となる(豊臣の姓を新設したものであり、羽柴の苗字がなくなったわけではない)。なお、「太閤」とは、関白を退いた人に対する称号である。

 長宗我部元親が降伏したときのエピソード。元親は秀吉のところに挨拶に行こうとするが、家臣は危険であると止める。しかし元親はだまし討ちするような人物ならたいした者ではないと言い切って大坂に向かった。果たして秀吉は元親を歓迎し、譜代の者と同じように扱ったので、元親は秀吉に心から服したという。

 家康を臣従させる時は、なんと自分の妹を差し出した上、母親まで人質として謁見するように要請した。結局、家康は秀吉の押しに感じてとりあえず臣従の形をとることにした。このことで、豊臣政権は一層天下統一に近づいた。

 1587年には九州を制圧。緒戦では敗れるものの、その後は圧倒的な兵力で九州の覇者・島津軍を圧倒。当主の島津義久が降伏を申し入れ、秀吉も承諾した。90年には小田原北条氏を攻撃。北条氏も敢闘したが、圧倒的な国力の差の前に屈した。当主・北条氏直は助命、秀吉への臣従を拒否した前当主氏政と弟氏照は自害。奥州の伊達政宗も降伏し、ここに秀吉は天下統一を成し遂げる。なお、北条家の領地は徳川家康が受け継いだ。

 天下統一を成し遂げた秀吉の関心は2つの方向に向かう。一つは国内の統治、もう一つは朝鮮への出兵である。国内の統治に関しては、太閤検地刀狩などを行い、兵農分離身分固定に努めた。この方針は江戸幕府にも受け継がれていく。

 一方、朝鮮出兵に関しては、九州制圧の頃から朝鮮国王に朝貢するように言ってあったのだが、当然のことながら拒否される。朝鮮出兵に関しては、子供を失った悲しみからだとか、日本国内では大名に与える土地がないためであるとか、国内の不満を外にそらすためであるとか、明との交易のためであるとかいわれている。

 その真意はともかく、1592年、日本軍は朝鮮に出兵した。戦国で活躍した大名たちは、最初のうちは破竹の勢いで進んでいった。しかし、明軍が援軍に駆けつけると戦況は一変、たちまち不利になった。しかも、制海権を握られ、散々の戦いであった。結局、出陣していた大名の一人・小西行長に講和させる。しかし、講和は決裂してしまい、再び97年に出兵する。

 その一方で、秀吉は、親類の秀次を養子にしていたが、息子・秀頼が生まれると、秀次の行動が荒れてきたため、切腹させるなど、国内は安定しなかった。しかも、地震により京都が荒廃するなど、災害の被害も大きかった。また、加藤清正ら武功派と石田三成ら文治派が仲たがいするなど、政権内の亀裂も大きく、豊臣政権に大きな不安が残っていた。

 そして、そんな中、1598年に秀吉は死去する。直前には家康ら五大老、三成ら五奉行を始めとした家臣たちに秀頼の将来を懇願しての死であった。辞世の句「露と落ち 露と消えにし わが身かな なにわのことも 夢のまた夢」。

 秀吉はまさしく魅力と知恵で天下を獲った。そのことを表すエピソードを挙げていく。

 かつて信長のもとで「長槍と短槍はいずれが有利か」という議論があった。信長はどちらが有利かをはっきりさせるために兵士を与えて試合をすることにした。短いほうを某が、長いほうを秀吉が担当した。某は、兵士一人一人をしごいた。そのため、兵士には嫌気がさしてきた。一方、秀吉のほうは兵士たちにご馳走攻めをするばかり。訓練はほとんどしなかったしなかったが、兵士のほうが自ら「訓練させてください」というほどの士気だった。結果は秀吉の勝利。長い短いの議論の外の結果であった。が、結局織田家では長い槍が採用されている。

 秀吉は、子もいないこともあって、信長の子供を養子にもらっていた。これは、もちろん羽柴家の名を絶やさないためでもあろうが、そのほかに、結局秀吉の死後は羽柴家の領地も織田家に返るようにして、信長に粛清されないようにするためでもあった。信長は林道勝佐久間信盛など、自分の擁立に功のあった功臣も次々と粛清していたため、そういう気遣いも必要だったのだ。明智光秀も粛清の恐怖から逃れるために信長を殺害したとも言われている。

 また、秀吉は千利休らを代官として登用し、商業都市・堺などを支配下に置くなど、経済感覚にも優れたものを持っていた。もっとも、利休と秀吉は結局は芸術の分野などで決別してしまったが。秀吉自身の直轄領は大きくなかったため、彼は必然的に経済力に頼るしかなかったのだ。

 秀吉はその魅力と知恵で天下を獲った。しかし、晩年は失策が続き、その屋台骨を崩してしまった。秀吉の死後、彼が最も恐れていた家康が天下をうかがった。石田三成らは豊臣政権の安泰を図るため、関が原の戦いで家康と決戦するも、武功派武将が家康に味方してしまい敗れてしまう。その後、1603年には徳川幕府が誕生。家康は豊臣政権に臣従を迫ったが、秀頼と淀君(浅井長政・お市の方の娘、織田信長の甥、秀吉の側室、秀頼の母)は拒否。14年には大坂冬の陣で攻撃、15年に大坂夏の陣で豊臣政権は完全に崩壊。豊臣家も滅亡する。

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