「甲斐の虎」と恐れられた戦国最強の武将
武田信玄は、甲斐の虎と呼ばれた戦国最強の武将といわれた名将である。その戦闘力のみでなく、人身掌握術・組織管理術にも定評があり、数々の本に取り上げられている。
武田信玄は、1521年に甲斐の大名(守護)であった武田信虎の長男として生まれる。幼名は太郎、元服して晴信と名乗る。後に出家して信玄と名乗る。以後信玄で通す。13歳で結婚するが(ちょっと羨ましい?)、翌年お嫁さんが亡くなる。
信玄の初陣は信濃の豪族・平賀源信攻めであった。平賀源信は江戸時代の発明家・平賀源内の祖先である。戦いは源信が城を堅守し、なかなか城を落とせそうにない上、大雪に見舞われてしまう。そこで信玄は撤退を進言する。
進言が受け入れられ、信玄は殿軍を引き受ける。進言は「正月である上、雪も降っているから敵は追ってこないだろう」と読んでいた。その読みの通り、敵は追ってこないだけでなく、軍を解散してしまった。信玄はそこを突いて攻撃し平賀源信を討ち取った。しかし、信虎は信玄を褒めなかった。信玄は可愛がられていなかったのだ。
その後も信虎は戦争を続けた。戦争をしなくては甲斐がまとまることができなかったのかもしれないが、信虎が戦争好きだったということもあるだろう。戦争ばかり続けていては国が疲弊するのは当然で、国内から怨嗟の声があがる。
さらに、信虎は粗暴な性格で、妊婦の腹を割いたりしていたと言われる。この怨嗟の声を背景に信玄は信虎隠居を画策する。信玄が信虎隠居を画策したのは、信玄が信虎に嫌われていて、家督を継ぐのも危うかったという理由もあるようである。
ただし、信虎は信玄のことを可愛がっていなくとも家督を継がせることは考えていたようである(例えば、晴信の「晴」は将軍・足利義晴からもらっている)。このあたり、父の心を読みきれなかったともいえるかもしれない。どちらにせよ、信虎を隠居させなければ戦争が終わらず甲斐が危うかったのは事実であろう。
信玄は重臣たちと結託し、信虎を駿河に追放(強制的な隠居)する。駿河には信虎の娘が嫁いでいた。重臣に背かれる時点で信虎は主君たる資格を失っていたと言ってよいだろう。こうして信玄は第17代当主となる。ちなみに、信玄の代わりに父に可愛がられていた弟・信繁も信玄に協力し、信玄の最高の家臣となる。
甲斐の国主となった信玄は信濃侵攻を行う。まず、妹の夫(つまり義弟)の諏訪頼重を自害させ、その娘をあろうことか側室にしてしまう(彼女は後に武田勝頼を産む)。
さらに信濃の奥深く侵攻するが、信濃には有力豪族の村上義清と信濃守護・小笠原長時という二人の強敵がいた。さすがの信玄もこの二人のために信濃侵攻に手間取った。特に村上義清には、筆頭家老の板垣信方らを失った「上田原の戦い」や「砥石崩れ」など、手痛い敗北も喫している。
しかし、持ち前の根気強さと計略で彼らの力を削いでいき、ついには彼らを信濃から追い出し、信濃攻略を達成した。
一方で、甲斐・信濃は内陸の国であり、回りは敵だらけなので、同盟を組む必要があった。信玄は相模の北条氏康、駿河・遠江の今川義元と三国同盟を結ぶ。三者とも、当時では有数の大勢力であり、同盟の規模・継続期間ともに珍しいものであった。こうして信玄は後顧の憂いを除いたが、正面に強力な敵が現れる。生涯のライバル・上杉謙信である。
信濃から逃亡した村上・小笠原はその後、越後に行き、上杉謙信(正確にはその頃は長尾景虎だが、信玄同様固定)を頼っていた。信玄の勢力拡大を恐れたのか、単なる義侠心だったのかはわからないが、謙信は彼らの要請を受け入れ信濃に出兵する。第1次川中島の戦いである。この時は本格的な衝突にならなかったが、以降4回繰り返される。4回目の戦いが最も激しく、有名な戦いである。
1560年、三国同盟を形成していた今川義元が桶狭間の戦いで死亡。義元の息子・氏真は凡庸で、信玄・氏康と渡り合える人物ではなかった。彼が跡を継ぐや否や、松平元康(後の徳川家康)が独立するなど、次第に勢力を失っていく。こうして三国同盟に亀裂が入っていくことになる。
1561年、信玄と謙信は4度目の戦いを行う。第4次川中島の戦いである。両者とも、今度こそ決着をつけようと意気込み、決戦の態勢を整えていた。
両軍が対峙する中、先に動いたのは武田軍であった。信玄は上杉軍を挟み撃ちにしようと、軍を二つに分け、片方を上杉軍の方に向けた。しかし謙信はそれを読み、全軍で信玄の方に向かって突撃してきた。不意を突かれた武田軍は押されていく。長年にわたり信玄を助けてきた弟の信繁を始め、多くの家臣が信玄の盾となっていった。また、史実かどうかは別として、謙信が信玄に斬りつけたという。それだけの激戦であった。
しかし、信玄は押されながらも持ちこたえ、もう半分の軍と上杉軍を挟み撃ちにする。形勢は逆転、今度は上杉軍が押さる。結局両軍痛み分けに終わる。
この後、信玄は信濃を勢力下においているので、戦術では謙信の、戦略では信玄の勝ちと言える。その後も計略で謙信を悩ませ続ける。
こうして信濃を安定させた信玄は南に目を向ける。今川氏真は凡庸で、かつ駿河は海がある、ということで駿河に侵攻しようとする。しかし、信玄の長男・義信は義元の子を嫁にもらっていたため、大反対した。信玄も駿河侵攻を諦める気はなく、この親子の対立は、義信の反乱という形に発展する。しかし、重臣で後見人の飯富虎昌が責任を取って自害、さらに虎昌の弟・昌景が密告し、反乱は未然に防がれる。信玄は、昌景が肩身の狭い思いをしないように「山県(やまがた)」の姓を与えている。その後義信も自害してしまう。
こうして、長男を失うという犠牲を伴って行った駿河侵攻だが、大きな困難に直面した。北条氏康が今川方に立ち信玄に敵対し、さらに上杉謙信と同盟を組んだのである。
北条氏康は信玄や謙信と互角以上に渡り合って関東制覇を達成した人物であり、彼の敵対は信玄にとって大きな障害になった。彼は駿河に侵攻したものの、北条軍に敗れて撤退する。
北条軍が厄介だと判断した信玄は、今度は北条攻略に目を向ける。といっても、北条家を滅ぼすつもりはなく、牽制するつもりであった。武田軍は、北条家の本拠地・小田原城に殺到、包囲する。しかし、小田原城は上杉謙信の攻勢をも退けた城であり、簡単に落とせるものではなかった。
牽制の目的を達成したと判断した信玄は撤退する。その帰路を襲おうと、北条軍が待ち伏せするが、信玄は逆に奇襲をかけ、圧勝する。この戦いを三増峠の戦いと言う。
小田原侵攻にはもう一つの意味があった。それは、小田原に兵を集めさせ、駿河を手薄にさせることであった。これが当たり駿河は手薄になっていて駿河占拠を達成できた。
なお、今川領の侵攻にあたっては徳川家康と共同作戦を行っていたが、武田軍が遠江にまで侵攻したことから徳川家康の不信を招き、上杉・北条・徳川に包囲される形となったことから、1569年に織田信長を通じて徳川・上杉と和睦している。
このことは信玄にとっても屈辱だったようであり、後に徳川領に侵攻する際に「3か年の鬱憤を晴らす」と宣言している。
こうして駿河をその領土に加えた信玄は、1571年に北条氏康の死を機に北条氏と同盟を結び、1572年、ついに上洛の軍を起こす。将軍・足利義昭の要請を受け、織田信長を討つ、という名目であった。武田軍はまず、遠江・三河(愛知県東部)の徳川家康を攻撃する。家康も戦巧者といわれるが、その時期では信玄とは経験が違いすぎた。
居城の前を悠々と通過する武田軍を見逃すことができず、城を出て野戦を挑むが、武田の騎馬隊の前に完敗する(三方ヶ原の戦い)。しかし、家康もこの時の勇敢な行動により名声を高める。その後、京を目指した信玄だったが、野田城攻略中に病死してしまう。享年53。その死を聞いた謙信は食事中であったが、箸を落として嘆き、国中に喪に服すよう命じたと言われる。
信玄は戦争だけでなく内政にも優れた業績を残している。今でも残っている「信玄堤」や、農産業の奨励(もっとも商業を奨励した織田信長よりは保守的と言われるが)、枡の統一などに表れている。喧嘩両成敗で有名な「甲州法度」もその一つに挙げられる。この甲州法度には、「自分がこの法度を破ったら申し出て欲しい」とあった。トップ自ら規則を守ると言う態度が人をついてこさせたのだろう。
また、「人は城、人は石垣、人は濠」といった言葉に表れているように、信玄は人使いも上手だった。わざと家臣に留守居をさせて発奮させて戦功を立てさせたり、性格の違う二人を組み合わせて物事をうまくこなさせたり、と色々ある。信玄の強さはここにあったと言っても過言ではないかもしれない。「10分の勝ちより8分程度の勝ちがよい」という言葉も人間をよく知っているから言えた言葉であろう。
しかし、彼にも過ちはあった。無理やり意見を通すため長男の義信を失ってしまったり、後継者の勝頼を「勝頼の息子・信勝が成人するまでの代理」という曖昧な立場にしてしまったため、家中の統制が取れなくなってしまったり、ということもあった。結局これが武田家の命取りになる。もちろん、そうせざるを得ない事情があってのことなのだが。
なお、信玄は子煩悩な親として知られている。娘が北条家に嫁ぐ時は大軍勢に守らせて、大いに飾らせて送り出している。勝頼にしても信玄にとても可愛がられていたらしい。義信自殺の裏には勝頼を後継者にしたかった信玄の思惑があったとさえ言われている。人間・信玄の一面である。
ちなみに、信玄の弟・信繁も優秀な人材だった。彼は、弟としてより、家臣として信玄に仕え、「武田の真の副大将」と人望が厚い、文武両道の名将であった。彼が川中島で戦死した時、信玄は大泣きしたと伝えられている。織田信長、上杉謙信、北条氏康といった戦国屈指の英雄たちにその死を悼まれている。その死は武田家にとってあまりにも大きい損失であった。
信玄の死後、勝頼が家督を継ぐが、曖昧な立場におかれていたため、家臣団を統制できなかった。そのような状況の中でもよく戦ったが、長篠の戦いで敗れてからは衰退の一途をたどり、1582年、信玄の死後10年足らずにして武田家は滅亡する。
信玄が織田家との同盟を破ったこともあり、信長は武田家を滅ぼす強い意志を持っており、勝頼が目指した織田家との和睦(甲江和与)もならなかった、ということも信玄の負の遺産といえよう。
武田家を滅ぼした織田信長が本能寺の変で死亡するのはその直後のことである。