職を賭し、人命を救った「日本のシンドラー」
杉原千畝(すぎはらちうね)は、昭和前期に活躍した外交官である。彼の功績として最も知られているのは、カウナス領事館に在任中、ドイツに迫害されたユダヤ人にビザを発行、約6000人ものユダヤ人の命を救ったことである。
杉原氏は1900年に岐阜県に生まれた。親は医者になることを希望していたが、英語に興味があり早稲田大学師範部(文学部)に進学した。その後外務省の留学制度によりソ連に留学。
その後ソ連のハルビン日本大使館に採用される。後に満州国外交部(外務省)に転任、ロシア課長としてソ連から満州鉄道を買い取ることに尽力する。このとき、ソ連と激しい交渉の末有利に買い取りを進めたという。
満州から帰国し、幸子夫人と結婚の後、ソ連に転任命令が出されるが、満州鉄道の交渉の時に杉原氏の有能さを知っていたソ連は受け入れを拒否。そのためフィンランドに行くことになる。1939年、リトアニアのカウナスの領事館に赴任。フィンランド、リトアニアともに諜報活動が主な任務であった。しかし、翌年ロシアがリトアニアを併合したため、領事館を閉鎖することになった。
1940年7月24日早朝、撤収準備を進めていた領事館に数百人のユダヤ人がやってきた。ドイツの迫害から逃れるため日本の通過ビザを出して欲しいとのことである。ただちに本国に問い合わせるが、答えは「No」。
ドイツは同盟国である上、通過ビザを出すと、杉原氏はおろか、家族まで命の危険にさらされるため悩みに悩む。
二週間後、杉原氏は決断を下す。
ビザを書く。
それから20日間ほど、朝から晩まで昼食もとらずにビザを書き続けたという。この間、杉原氏は少しでも家族の危険を少なくするため、家族には一切手伝わせなかった。9月1日の朝、ベルリン行きの列車の中で、杉原氏はギリギリまでビザ(正確にはこの頃は通過許可証)を書いていた。文字通りできる限りのことをしたのだ。冒頭にも記したとおり、このとき、約6000人のユダヤ人が命を救われたといわれている。
帰国後、杉原氏は外務省を解雇される。本国の命令に従わなかったと言うのがその理由。戦争前後、致命的な失敗を犯した者もいるが、その多くは処分されないばかりか出世し、ちぐはぐさが目立った。その理由としては、出世した者はいわゆるエリート(キャリア)であったのに対して、杉原氏がそうでなかったから、ということがよく言われている。
外務省を解雇された後、外務省では、「杉原は金をもらってビザを書いた」という噂が流行ったという。エリートたちの性根を表す話でもあるが、杉原氏は悔しさを抑え抗弁もしなかったという。
杉原氏の尊敬する人物に広田弘毅(首相・外相、A級戦犯として絞首刑。東京裁判では「自分にも戦争を止められなかった責任がある」として弁明しなかった。)がいるが、その態度は彼に通じるところがあると言える。
その後、商社などに勤務し、20年ほどが経った時、イスラエル大使館から連絡が入り、訪問すると、カウナスで交渉した代表の一人がいた。そこで杉原氏はユダヤ人のその後を知る。彼らは無事ロシアを通過し、日本に入国することができた(ロシア通過には佐藤尚武ソ連大使、日本入国には根井三郎ウラジオストク領事館領事の協力があったといわれる)。その後、ユダヤ人たちは各地に出立したという。
そして、1985(昭和60)年、東京のイスラエル大使館で、イスラエル最高の勲章である「ヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)」が授与される(杉原氏は病床にあったため夫人が代理)。このようにイスラエルから称されたのは、他に樋口季一郎氏(軍人。ソ連から満州に脱出し、国境で立ち往生していたユダヤ人を助けた。このことが杉原氏のときに簡単にユダヤ人が日本に入国できたことの伏線になった。顕彰碑「ゴールデン・ブック」にその名を記載される。)くらいのものである。
そして翌1986(昭和61)年、杉原氏は心臓病でその生涯を終える。享年86歳。その死後は世界中のユダヤ人から弔問が寄せられた。1998年にはイスラエルで杉原氏の切手が発行された。
2000年に発行された杉原氏の切手 |
1991(平成3)年、鈴木宗男外務政務次官により謝罪がなされ、一応の名誉回復が達成される。また、岐阜県の八百津町(杉原氏の故郷)にある人道の丘公園では杉原氏の胸像や母校・早稲田大学による顕彰碑、杉原千畝記念館(汚職事件が発覚するまでは鈴木氏が名誉館長であった)などがあり、杉原氏の功績を現在に伝えている。
さらに、幸子夫人も精力的に講演活動を続けられ、世界平和を訴えられた(2008年没。ご冥福をお祈りいたします)。
杉原千畝の生涯から我々が学ぶべきことは多いだろう。彼の勇気、職業倫理など、見習うべきところは多い(もちろん自分の正義のために家族を犠牲にして良いのかとかいう批判は可能だが)。
また、同様に、杉原氏を政治的に利用しきれなかった政治家・官僚たちの不手際(戦後、杉原氏のイメージを前面に押し出していれば日本のイメージも変わっていたといわれるし、アメリカは杉原氏をアメリカ大使にすることを望んでいた。しかし官僚機構の秩序を考えると到底受け入れられないことであったと言われる。また、本人はソ連大使になりたいと漏らしていたらしい。)など、反省すべきことも多い(ユダヤ系民族との関係については、杉原氏のことも含めて今後検討する必要があるだろう)。
日本、あるいは人間一人一人に新たな役割が求められる現在、杉原氏の生涯から何か手がかりがつかめるのではないだろうか。また、杉原氏の決断に従った家族の信頼も見逃すことのできない重要なポイントであるだろう。
最後に杉原氏の手記から。
「 決断
最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。
回訓を文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対して従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。
仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。
それは何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、かく首が恐ろしいからである。
私も何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。
・・・果たして浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないのか。
それが果たして、国益に叶うことだというのか。
苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。
そして私は、何を恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。
1983年 杉原千畝 」