RSMが急浮上

IELTSの受験にも失敗したりして凹む中、MBSに受かるかなー、なんて弱気になりながらスケジューリングをつめたり、選択肢を増やそうと検討している中、新しい道を見つけました。

オランダにあるRotterdam School of Management です。

RSMは1月入学のため、2012年1月の入学を目指します。

2012年1月の入学希望者の出願締め切りは10月3日。

RSMはローリング制を採用しているため、枠が埋まってしまえば、それまでに扉が閉じられる可能性もなきにしもあらず、ということになります。

なぜ、RSMに関心を持っているかというと、単にランキングが高い(FT2011 :36位、過去3年平均29位)、欧州のトップスクール、というだけではなく、社会的責任分野・サステナビリティの分野に非常に強いという特徴があるためです。

RSMのサイトでもその強みを謳っていますし、ビジネススクールの社会的責任・サステナビリティ分野におけるランキングとして有名なBeyond Grey Pinstripes では世界7位、欧州1位につけています。

また、オランダという国自体が多様な価値観に寛容な雰囲気であり、非常に国際的な環境でもあります。さらにオランダにはソーシャルファイナンスで有名なトリオドス銀行 があり、この銀行に対しコンタクトを取りいろいろなことを学べたらいうことはありません。

ちなみにIELTS不要GMATも600点弱でも可能性はあるそうです

ということで、留学予定が半年以上前倒しになりますが、RSMに挑戦しようと考えた次第です。

とはいえ、急な変更で実際のところどうなんだろう?というところもあり、Twitterやお世話になっている濱口塾 の濱口塾長に相談したところ、何とかなりそうという感触をつかんだので、本格的に準備を進めようと思っています。

幸いTwitter上でRSMの卒業生・在校生の連絡先がわかり、さっそく両者にコンタクトをとりました。そのうちアドミッションにもメールを送って、さりげなくアピールしていきたいと思います。

今後の予定としては下記の通り進めていこうと思います(理想の予定ですが)。

【5月】

下旬にGMAT初受験。自分の能力がどのくらいか、何が足りないかを認識する。

Mathは練習を繰り返し、回答時間の短縮を図り、VはSCのパターンの理解、RC・CRの読解力・理解力の向上を目指す。

IELTSも下旬に受験。RSMはIELTS不要でも、MBSや他の学校では必須ですので、何とかOA6.5ほしいです。

【6月】

5月のGMATで把握した弱点をつぶしにかかる。GMAT練習に重点。

一応6月中旬にもIELTS受けます。もうOA6.5とりたい・・・。ホントに。

【7月】

7月上旬くらいに2回目のGMAT。何とかここで500点後半はほしいですね。

IELTSはお休み。というか、もう卒業してるはず。もちろん、リスニングやスピーキングの練習は続けます。

また、このころからエッセイのネタ出しやCV作成、推薦状の確保にも動きます。

推薦状のことを会社の人に頼むのが一番心理的負担が大きいプロセスです・・・。

【8月】

8月にも3回目のGMATを受験予定。何とか600あればありがたいです。これならRSM、MBSともに戦えます。

M50、V25でTotal640 というのが理想の形でしょうか。

同時にエッセイもやります。RSMのエッセイは数が少なく、テーマも書きやすいので、一気に仕上げます。

塾長も比較的早く仕上げることができるとのお話。

GMATやアプリケーションの出来次第ですが、できれば8月下旬にRSMに出願したいところです。

【9月】

RSMに出願し、うまくいけばインタビューが待っています。

インタビューのカウンセラーにもお世話になりつつ、その時を待ちます。

しかし、恐れることはないでしょう。英会話もやってきているし、エッセイで自分の考えも整理されているはず。

あとは自分の思いをぶつけるだけです。

・・・が、3回の受験でGMATが不首尾なら、さらに受験しているかもしれません、4回目。何が何でも600弱はほしいところです。

GMAT、アプリケーションが整い次第、RSMに出願予定。

もしIELTSでOA6.5が出ていなければ、受験も検討・・・。

【10月】

10月にはRSMのプロセスは終わっていると思います。インタビューも含め。

早く進んだ場合、結果も出ていることでしょう。

もし合格していた場合、Offerをすぐに受諾し、留学の用意をすることになろうかと思います。

一方、MBSの1stがこの時期ですので、こちらもにらんだ対応が必要になるかもしれません。

おそらく11月の2ndの出願になると思います。それまでに必要ならエッセイなどの準備をしておくことになりそうです。

【11月】

RSMが合格なら、いろいろと留学準備をしていると思います。

会社の親しい人にはこのあたりから留学する旨を伝えるようになるかと。

会社にもその旨を言わなくてはなりません。これまた気の重い作業です。

そのほか、住居の準備、ビザ等々、やるべきことは多そうです。

また、一度RSMに見学に行きたいです。

RSMがダメだった場合、当初の予定通りMBSに焦点を当てて準備を進めます。

そのほか、可能であればNottingham にも出願しようと思います。NottinghamもCSR分野に強い学校です。

11月には出願したいですね。インタビューに呼ばれたらMBS-Nottinghamとキャンパスビジットも検討します。

【12月】

RSMに行くなら、12月の後半は有給を消化しようと思います。思いっきりバカンスです。

そして、ぎりぎりまで日本での時間を楽しみたいです。

MBSルートなら、このあたりでインタビューですね。当初のMBS愛をぶつけます。Nottinghamも同様。

【2012年1月】

RSMに合格していたら、夢のMBA生活の始まり始まり~。

MBSルートなら、この頃きっと合格をもらっているはず。

・・・とざっくりとした想定スケジュールを書き出してみました。

もちろんとらぬ狸の皮算用という面はありますが、RSMとMBSの二段構えで、以前よりは確実性が増したのではないかと思います(虻蜂取らず、とも言いますが)。

当面の目標は、日程を具体的に決めたGMATの攻略。

いきなり600は難しいかもしれませんが、できるだけそれに肉薄し、少しでも早く準備を進められるように頑張りたいと思います。

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GMAT-Math

直近2回のIELTSでかなり凹み気味ですが、ここで足踏みしているわけにもいかないので、IELTSの対策も進めつつ、同時に次のステップであるGMAT対策も並行して行っています。

GMATでネックになるのはもちろんVerbalなのですが、まずは後顧の憂いを絶つべく、Math対策を一気に進めることにしました。

まず、予備校の教材で各分野を一通り勉強して、GMATPrepのMathの部分をPCで、実際の時間(75分)で解きました。これによって、実際の受験環境や時間のプレッシャーを疑似体験することができます。

結果は、Math49 Verbal13 でTotal510でした。ちなみにVは全ての問題を適当にクリックしています。

とりあえず、Mathはそれなりに解くことができたと思います。ただ時間のプレッシャーは結構ありました。本番はさらに緊張すると思いますので、そのあたりは頭に入れておく必要がありそうです。

また、本番の問題はprepより難しいようですので、もう少し練習はしておいた方がよさそうです。

一方、すべてランクリしたVですが、それでも13いくのがびっくり。そんなものなんですね。Vは何とか20強とればTotal600が見えてくるので、しっかり練習・復習して基礎力をつけたいところです。

現在のところ、GMATの初回受験は6月24日を想定しています。あと2か月。この間にIELTSも2回受験するのですが、それはそれとして、Mathの力をキープしつつ、Vの各分野を強化して、600取りできるようにしたいと思います。

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IELTS6回目(汗)

IELTS5回戦は奮戦むなしく散ってかなり凹んだのですが、結果発表の翌日に6回目のIELTSがあったので、何とか気を取り直して受験してきました。

・・・が、今回は結果発表を待つまでもなく、再受験を決めました。

一応書いておくと、こんな感じです。

Listening

最初のリスニングで完全にコケました。スピードはかなり速く、内容も難しく感じました。

section1から難しかった・・・。

section3とかほとんどわからなかったし。

スコアは5.0~6.0というところか。

Reading

前回同様、時間配分を意識して取り組みました。

しかし、今回は少々時間が足りず。反省です。

スコアは6.5~7.0くらい?

Writing

とりあえず、テンプレートと字数は意識して書きなぐりました。

しかし、Task2が二項対立ではなく自分の意見を自由に書くもので、これに苦労しました。

正直スコアはわかりませんが、前回の結果を考えると、5.0~6.5くらい。

Speaking

珍しく、スピーキングも同日にありました。実はライティング終了後にスピーキングは13時から~と言っているのを聞いて、その時同日に行うことに気づきました。翌日だと思い込んでいたので危なかったです。

試験官の愛想は悪くなく、それなりに話しやすかったです。

part1の前半は前回と同じ内容で、ある程度楽に話せました。

part2では、話すテーマはすぐに思い浮かんだのですが、意外に展開する内容が思い浮かばず、2分間話すのに苦労しました。

part3では自分の意見はガンガン話しましたが、文法的に微妙な部分も多く、どのくらい相手が理解してくれたかはわかりません。でもジェスチャーもたくさんしたので、きっとわかってくれていると思います。

スコアは5.5~6.0くらい。

ということで、かなり出来の悪い試験となってしまいました。

OAの予想としては、OA5.5~6.5のレンジですが、まあL5.5 R6.5 W5.5 S5.5 でOA6.0というところでしょうか。

奇跡が起きたらL6.0 R7.0 W6.5 S6.0 でOA6.5 ですが、まあそんなに甘くはないと。

試験終了後すぐに次回のIELTSを申し込みました。次は5/28と6/11です。

今度こそIELTSを卒業したい。

ちなみに、前回のIELTSで無事卒業された方が何人かいらっしゃるようで、お祝い申し上げます。

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IELTS5回目結果(泣)

この前の金曜日、IELTS5回目の結果が発表されました。

今回はそれなりに自信があったのですが、結果は・・・OA6.0(泣)

内訳は下記の通り。

Listening:5.5

Reading :7.0

Writing :5.0

Speaking:5.5

もう惨敗で振り返る気もなくなりますが、一応振り返っておきます。

Listening(5.5)

6.0くらいはいったかと思いましたが、詰めが甘いようです。

高得点を狙うなら、ここは安定して取れるようにならないといけないですね。

Reading(7.0)

GMATのRCの練習をしたり、コツを教えてもらったりして結構できたと思ったのですが、7.0止まり。

時間配分はもっと考えなくてはいけないようです。

Writing(5.0)

テンプレートを少し取り入れ、字数もかなり書いたのですが、結果は5.0。

これまでと比べて何が悪かったのか正直よくわかりません。

あえて言うなら、Task2が論理展開に苦労したので、そのあたりに敗因があったのかもしれません。

あと、Writingの添削結果を見ると、Task1の評価が悪いので、Task1が大幅に足を引っ張っている可能性もあります。

Speaking(5.5)

確かにうまく話せたか、というと必ずしもそうでないですが、試験終了後には握手までしたのに・・・orz

スコアは試験官がその場でつけるらしいので、試験官の雰囲気がある程度スコアに反映されると思っていたのですが、この結果。情けないとしか言えません。

正直、今度こそはOA6.5は超えたと思っていたので、想像以上の悪さにかなり失望しています。

本当にIELTSで6.0を超えないのでは、なんて鬱状態にもなりかけました。

しかし、そんな僕を多くの人が励ましてくれ、またアドバイスをくれました。

こんなに多くの人が見守っててくれるなら、負けるわけにはいかない、となんとか立ち上がろうとしています。

実は土曜日にも受験していますが、また2回追加で予約しました。5月28日と6月11日に受験します。

それまでにはリスニングの抜本的な改善とライティングの修正を図り、何とかOA6.5は超えたいと思います。

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荻原重秀と新井白石

日本の歴史をひも解いていると、一般的に認知されている限り、不当に評価を下げられていると思われる人物が多く存在します。

有名なところでは石田三成田沼意次新田義貞広田弘毅、カウナスでの善行が世に知られる前の杉原千畝氏などもそうかもしれません。

彼らに対する批評に共通しているのが、何をしたか、より賄賂をもらったとか傲慢である、腰抜けであるなどの人格面での評価が先に来ること。

英雄の評価は業績重視であるのと正反対です。

歴史は勝者によって作られるといいますが、事実がある以上業績を完全否定するのは難しいので、人格否定から始める、ということなのでしょうか。

さて、ここにもう一人名前を連ねたい人物がいます。

その名は、荻原重秀。江戸元禄期の貨幣改鋳、一般的には貨幣改悪を行った人物として知られています。

僕の認識では、明暦の大火による家康以来の貯蓄の費消や徳川綱吉の浪費に伴う江戸幕府の財政難を救うために貨幣改鋳で貨幣を粗悪化し、通貨発行益で幕府の財政を救った一方、インフレで庶民を苦しめた悪人、といったところでした。

一方、最近知ったのですが、この政策は管理通貨制度の先駆けであり、経済の実態に合わせた量の通貨を供給し、経済の運営を円滑化するという側面があったそうです。

そこで、その責任者である荻原重秀に関心が出て、関連する歴史小説を読んでみました。

重秀は元は小身の武士で、勘定所(現在で言う財務省といったところでしょうか)の平職員でした。

しかし、若いころから資料を読み込むなどよく勉強し、上役にも意見をはっきり述べていました。

そのようなところを買われて、少しずつ上役に目をかけられ、その評価は老中(今でいう首相?)にまで届きます。

彼には実は貨幣改鋳以外にも多くの実績があるのですが、最初の実績として知られるのが畿内の検地です。

太閤検地以降検地が行われていなかった畿内ですが、幕府財政の改善のためにも正確な石高を把握したいこところ。しかしながら、現地では代官と農民との癒着も見られ、その抵抗は大きいものでした。しかし、重秀はそれにもめげず、周辺大名の力も利用しながら、また、代官の処分も辞さず、ついには検地をやり遂げました。

さらに、金の産出量が落ちてきた佐渡の経営を佐渡奉行として経営改善に乗り出したり、長崎貿易の促進とそれに伴う税収入の増加などの取り組みを行い、江戸幕府の財政を支えました。

しかし、前述のように、彼の最大の業績は貨幣改鋳であり、彼の「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。今、鋳するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙鈔に勝る。これ遂行すべし。」という言葉は、管理通貨制度の先駆けとして知られています。

ちなみに、近代日本が金本位(兌換)制度を廃止し、管理通貨制度に移行したのは1931年であり、ある意味で時代を200年以上先取りしていたと言えるかもしれません。

しかしながら、通貨とはそれ自体に額面と同等の価値がなければいけない、と考える従来の価値観からすると、彼の施策は信じられないものであり、まさに悪行でした。

その代表格として扱われるのが、後に彼の政敵となり、最終的に彼の政治生命を断ち切った新井白石です。

白石は儒者であり、独学で聖人の道を探求していたところ、豪商の河村瑞賢に見いだされ、大学者の木下順庵の門下となり、後の将軍、徳川家宣の講師となり、後に側近として幕府の政治を左右することになります。

しかし、綱吉死後も幕府随一の財政課である重秀は留任することになり、価値観が合わない白石は執拗に重秀を陥れようとし、ついには重秀は罷免されることになります。

その後、白石と同じく家宣の側近である間部詮房は正徳の治と呼ばれる政治を行いましたが、白石は商業を蔑視したため、経済運営については失敗した、という評価もあるようです。

ちなみに、重秀の賄賂をたくさんもらっていた、というのは白石が重秀を陥れるために流した話で、それ以外にも多くの策を弄しており、聖人の道を追求していたという割にはやっていることは悪魔です(この辺りは史実みたいです)。

まあ、白石には白石の正義があったのかもしれませんが、少なくとも本書の中では白石は極悪人で、現実がわかっていない人間として扱われています。

少なくとも本書を見る限りでは、重秀に大いに共感するところであり、また、河村瑞賢のようにビジネスで社会を大きく変えて、社会に貢献できるようになりたいと改めて思いました。

同時に、白石のように世の中を特定の概念でとらえたり、抽象的な言葉だけで把握しようとして現実離れした思考に陥ることは避けたいと思いました。何事も具体的な、自分の言葉で考えるように心がけようと思いました。

月華の銀橋 勘定奉行と御用儒者/高任 和夫
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武田勝頼

名将の後を継ぐも時代の波に飲み込まれた悲運の武将

「武田」になり切れなかった武田家当主

武田勝頼は、一般に武田家を滅ぼしてしまった当主として捉えられる。
確かに、勝頼の代で武田家が滅亡したのは事実であり、そのトップとして責任を追及されるのは仕方のないことである。
しかし、それだけで勝頼が愚将と言い切ることはできない。では、勝頼はどんな人物だったのか。

武田勝頼は、1546年に武田晴信(信玄)と諏訪御料人(諏訪頼重の娘)の子として生まれた。信玄の四男に当たる。
諏訪家はもともと信濃(長野県)の名家として知られているが、頼重の代に信玄に滅ぼされた。しかし、信玄は諏訪家やその家臣などを懐柔するため、頼重の娘を側室とし、その子を諏訪家の当主とすることとした。それが勝頼である。つまり、勝頼は当初より武田家の人間というより諏訪家の人間として見られていた。

成長すると正式に諏訪家(実際には庶流の高遠家とも)を継ぎ、高遠城主となる。この高遠城は、後に勝頼にとって大きな意味を持つ城となる。
この時に「勝頼」を名乗っているが、「勝」は父・信玄の幼名「勝千代」からの偏諱で、「頼」は諏訪氏の通字であるといわれている。

初陣でも勝頼は活躍し、信玄を喜ばせる。ただ、勝頼が自ら先頭に立って戦ったため、信玄にたしなめられたという話もある。

1565年には、信玄が今川家・北条家との同盟を破り、今川家を攻撃しようとしたことに対し反対した兄・義信(妻は今川家出身)が幽閉され、その後死去した(自害とも病死とも)。二人の兄は早くに死去したり盲目だったりしたため、勝頼は次期武田家当主候補として急浮上した。
ちなみに1565年には、武田家を恐れる信長が養女を勝頼の正妻にと申し入れ、勝頼と結婚している。二人の間には信勝が生まれたが、間もなく妻は病死し、両家の婚姻関係は消滅する。

その後、北条家との戦いでは、北条氏照の居城・滝山城攻めや撤退時における三増峠の戦いなどで奮戦している。滝山城の戦いの際には、北条氏照と直接戦ったとの逸話もある。二人とも武芸には自信のある武将なので、さもありなんという感じの話ではある。

この頃、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、信玄の眼は西を向く。

北条家との激闘の末、1570年には駿河を奪取。そして、2年後、北条家と同盟を結び(1571年に北条氏康が死去し、後継の氏政が同盟を復活)、信玄は西上作戦をとる。

織田信長と同盟を結ぶ徳川家康と武田軍は、家康の居城・浜松城近くの三方ヶ原で激突。勝頼も部隊を率いて突撃する。結局、この戦いで徳川軍は散々に追い散らされてしまう。

しかし、三方ヶ原の戦いの直後、信玄は急死。「後継は勝頼の信勝であり、勝頼は信勝が成人するまで後見すること。3年間喪を秘すこと」と遺言を遺した。この遺言が勝頼の足かせとなる。
ちなみに遺言の中では勝頼が武田家の旗を使うことも禁じている。信玄は勝頼を後継者に指名はしたものの、やはり諏訪家の人間としてみていたようである。

 

若き武田家当主

信玄の死後、武田軍は甲斐に引き返す。信玄は喪を秘すように命じたが、この不自然な撤退は信玄の死を各地の武将に推測させた。
信長や家康は、これを好機にと調略の手を伸ばしている。
一方、信玄のライバルであった上杉謙信は、これを好機に武田家に攻め入るべきとの進言を「人の不幸に付け込むのは義に反する」として退けている。

勝頼は武田家の正式な当主ではなかったうえ(名目上は期限付きの仮当主だったうえ、3年間は信玄は生きていると扱われている)、諏訪家出身であることや信玄が家督を譲っていなかったため後継者としての経験・名声に乏しかったため、家中をまとめるのに時間がかかったが、しばらくして勝頼も反撃に出る。

1574年には美濃(岐阜県)の明智城を攻略。続いて、信玄も攻略できなかった遠江(静岡県)の高天神城を攻略。勝頼の名声は一気に高まった。ただ、この高天神城の攻略が勝頼を驕らせ、より攻撃的にさせたという指摘もある。また、この城は後の悲劇の舞台でもある。

 

長篠の戦い

高天神城の落城に危機感を覚えた家康は信長に援軍を要請。武田軍と織田・徳川連合軍は三河・長篠で激突。長篠の戦いである。連合軍約38,000、武田軍約15,000。

天下に名高い武田の騎馬隊を恐れた信長は、大量の鉄砲を準備するとともに、陣に馬防柵を築いた。一方、長篠城を囲んでいた武田軍は、一部戦力を残し、連合軍に相対する。

この時期は梅雨の時期に当たり、鉄砲の使用に適していなかった。一方、地面がぬかるんでおり、騎馬隊にとっても有利な状況ではなかった。

一般に、信長の大量の鉄砲と三段撃ちにあっけなく勝敗が決したと認識されている長篠の戦いであるが、事実はそうではない。戦いは8時間の長時間に及んでいるし、武田軍の戦死者は約1,000名で、そのほとんどが追撃の際に被った被害であるとされている。そもそも、鉄砲で狙撃されるとわかっていて何度も突撃を繰り返すなど、絶対的権力を握っていない勝頼には難しい。

なぜ武田軍は圧倒的に兵力で勝る連合軍と戦ったのか。この理由には諸説ある。
勝頼が重臣たちの反対を押し切り強硬策をとった、武田軍全体が騎馬隊の力を信じていた、梅雨時であり、鉄砲は役に立たないと判断した、信長の謀略にかかった、など。

理由はともあれ、武田軍は8時間にわたって勇敢に戦った。
しかしながら、兵力差や酒井忠次の奇襲、武田一門の早期の戦場離脱などによって、多くの名将を失い敗北した。
長篠で失った主な人物には、山県昌景馬場信春内藤昌豊、真田信綱・昌輝(共に真田昌幸の兄)、原昌胤など重要な人物が多く含まれている。

長篠の戦いによって、武田家が失ったものは大きかった。物的な損失はもちろん、武田家を信玄時代から支えた多くの重臣、そして何より武田家無敗伝説の終焉である。

ちなみに、この時点で上杉謙信はまだ健在。武田・上杉両家が連合して戦いに臨んでいたらどうなったか、というのは興味深いものである(なお、信長に京都を追放され、毛利家に庇護されていた足利義昭が武田・上杉・北条を和睦させ、織田家に対抗する構想を立てていて、実現間近であったが、最終的には実現していない)。

 

上杉謙信の死去と御館の乱、北条氏との決別

その上杉謙信は、長篠の戦いの後、織田家に戦いを挑み、柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦いで破るも、1578年に急死する。

上杉謙信は生涯結婚せず、養子を二人取っていた。一人は一族の上杉景勝、もう一人は北条氏康の息子で上杉家に人質を兼ねて養子になった上杉景虎(北条氏政の弟。異説あり)である。
謙信はまだ自分が健康であると思っていたのであろうか、後継については遺言もなく、景勝が一方的に後継を称した。当然景虎は納得できるわけもなく、上杉家を二分しての争いになった。御館の乱である。

武田家と北条家は同盟関係にある上、前年には氏政の妹を正妻として迎えていたため、当初は景虎に味方し、和睦を試みたが失敗に終わる。
上杉家の半分を味方にし、北条・武田の後ろ盾がある状況では、景虎が圧倒的に有利。
そこで、景勝は勝頼を味方につけようと試みる。すなわち、大量の金の贈与、上野領の割譲、武田・上杉両家の縁組である。

武田家は金策に困っていたのは事実であり、この条件は非常に魅力的であった。しかし、北条家を裏切ると、世間の誹りを免れないだけでなく、北条家を敵に回し、織田・徳川・北条の大勢力に包囲されることになる(もちろん、越後を手に入れた北条家が後に武田家と手を切らないという保証はない)。味方は疲弊した上杉家だけ。

勝頼も迷ったであろうが、結局上杉景勝を選ぶことになる。
これを受け、景勝は景虎に猛攻を仕掛ける。北条氏照・氏邦軍も景虎を救おうと懸命であったが、景勝軍の妨害を受け進軍できず、結局景虎は自害して上杉家の内紛は幕を閉じる。

 

北条家との死闘、最大版図の形成

北条家を敵に回した武田家は、北条家と対抗するため、北条家に対抗する佐竹家や里見家など関東の諸勢力と同盟を結び、逆に北条包囲網を作り上げていく(甲佐同盟)。
関東においては優勢に勢力拡大を続け、ついに上野の要衝・沼田城の奪取に成功する。
また、武蔵にも侵攻し、北条家に対して攻勢に回っていた。
御館の乱の過程で越後にも拠点を確保しており、武田家が最大版図を築いたのは実は長篠の戦いの後であるこの頃である。


高天神城落城直前のざっくりとした武田家の版図はこんな感じである(絵心はご容赦)。
北は新潟県糸魚川市・魚沼市(越後)、東は群馬県沼田市(西上野)、西は長野県(信濃)を抑え、南は静岡県掛川市(遠江・高天神城)に至る。

 

織田家との和睦の失敗と高天神城失陥

しかし、各地において戦いを続けていくためには多額の費用が必要で、それは領民や家臣たちに大きな負担となっており、確実に武田家の体力は弱まっていた。
また、勝頼は織田家との和睦を模索していたが甲江和与・甲濃和親)、あくまで武田家を滅ぼすことを考えていた信長は和睦を拒否している。

武田家の体力低下を好機と見た徳川家康は、高天神城の奪回に取り掛かる。
勝頼は援軍を送りたかったがその余力もなく(信長との和睦交渉をしていたため、信長を刺激する援軍の派遣ができなかったとも)、1581年に高天神城は、一部の生還者を除くほぼ全員の戦死という悲惨な結末を迎える。7年前に勝頼に名声をもたらした城は、この時勝頼と武田家の威信を致命的に失墜させた。
これ以降、家臣・国人たちが武田家から離反する動きが顕著になっていく。

この時期、勝頼は織田・徳川軍の侵攻に備えて甲斐国内に城(新府城)を築いた。築城の目的には、従来の豪族の寄合所帯から、武田家への集権という目論見があるという説もある。
しかし、築城によって生じた負担は大きかったし、また、甲斐国内に城を作らないという信玄以来の伝統が覆されたことにより、一層武田家の信用はなくなっていく。

 

甲州征伐と武田家の終焉

1582年2月、満を持して織田・徳川・北条連合軍は武田家に侵攻。
勝頼の義弟・木曽義昌を謀略で降伏させ、信濃国内に乱入。武田家への信用を失っていた家臣団は一気に崩壊。信玄の弟である武田信廉は城を捨て逃亡した。
さらに間の悪いことに、2月14日に浅間山が噴火。浅間山の噴火は不吉であるとされ、武田軍の士気は低下した。

勢いを増した信長の嫡男・信忠率いる織田軍は、勝頼のかつての居城・高遠城に到達。城を守っていた勝頼の弟・仁科盛信(信盛)に降伏勧告を行うも、盛信は拒否。激闘が繰り広げられた末に落城。盛信は自害した。
この戦いが、滅びゆく武田家最後の勇姿であった。

信濃で武田家の勢力が侵されていく中、武田軍からは逃亡者が続出し、軍を維持できないまでになった。しかも、一族の筆頭・穴山信君(梅雪)まで連合軍に寝返り、家臣団の動揺はピークに達する。そのため、勝頼は新府城を捨て逃亡を余儀なくされる。

武田攻めにあたって、信忠が攻勢を続けている中でも、信長は信忠に慎重になるように指示を送り続けていた。
決して信長は武田家を侮っていはいなかったし、どこかで勝頼が反攻にに出ると考えていたが、皮肉にも信長が思っていたより、武田家の瓦解はあっけなかった。

とはいえ、この時点でも勝頼は決して諦めていたわけではなかった。
信頼する従兄弟の武田信豊を北信濃・小諸城に戻し、甲斐に侵攻してきた織田軍を南と北から挟撃しようと考えていた。

勝頼の受け入れを表明したのは、甲斐の名門・小山田信茂と、勝頼の参謀として活躍し続けた真田昌幸。どちらも武将としては一流で、頼りがいのある人物である。
勝頼は、小山田信茂を選んだ。甲斐国内であるということと、武田家との古くからの付き合いということが重視されたものと思われる。

しかし、この選択が仇となった。信茂の判断か否かはともかく、小山田家は勝頼を裏切り、領内に入れなかった。この段階で、武田家の滅亡は決定的になった。
なお、真田昌幸も、他の上野の国人同様に北条家と連絡を取り合っていたともいわれるので、彼を頼っていたら武田家はなお戦うことができたとも言い切れない(ただ、昌幸が勝頼を信長に差し出していたら、逆に信長に成敗されたと思われる)。

勝頼一行は死場所を求め、武田家ゆかりの天目山を目指すが、途中の田野で織田軍と衝突し、勝頼は自害(戦死とも)。享年37。
この戦いで、信長と信玄の孫である信勝も戦死。
天正10年(1582年)、3月11日午前10時頃、信玄死後10年目のことであった。

この頃、破竹の勢いで進撃してきた織田軍は兵糧不足と寒さに苦しんでいたという指摘があり、あと数か月粘ることができていたら、違った展開があったのかもしれない。

勝頼らの首実験を行った信長は、怒りにまかせてその首を蹴ったという話がよく知られている(実際には信長は勝頼のことを高く評価しており、「勝頼は運がなかった」と言ったといわれる)。
また、家康はその首を丁重に扱い、武田家遺臣の心をつかんだと云われる。

 

武田勝頼の評価

勝頼の評価は、主に「甲陽軍艦」に基づき低い評価がなされているが、これは一般に信憑性が低い史料とされており、最近では再評価も進んでいる。
勝頼にとって不運なことは、後継者としての経験と人望を得るための時間が短すぎたこと、領内の金の産出量が減少していたこと、信玄世代の後継の人材が少なかったこと、武田家の中での立場が微妙であったこと、そして何より、信玄が偉大すぎたことである。
そのような状況下で、勝頼はよく織田・徳川の覇権に抗した。多くの制約があり、彼の思い通りにならなかったことも多い中で数々の戦果を上げていることは評価に値するのではないだろうか。

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