幕末の近代技術への開眼の立役者

史跡には一つ一つ物語がありますが、世界文化遺産ともなると、その物語のスケールや時代に及ぼした影響は格別です。

2015年に世界文化遺産に登録された伊豆の韮山反射炉も、やはり素晴らしい物語を持っています。

 


韮山反射炉

江戸時代も後期になると、鎖国政策を採っていた日本の周囲には多くの外国船が現れるようになり、幕府も外国の存在を意識せざるを得なくなってきていました(1825年には外国船打払令を出しています)。
そして、隣国ともいえるアジアの大国・清が列強に圧迫される中、独立を維持するためにも海防を強化するのは喫緊の課題でした。

海防政策の要の一つが海岸における砲台の整備です。
砲台を整備するには、その用地を確保し、多くの大砲を設置する必要があります。
そして、高性能の大砲を作るためには、高品質の鉄を加工することが前提です。
高品質の鉄を鋳造するためには、高温の熱で原材料を溶かさなければいけないのですが、その高温を出すために作られたのが反射炉です。

幕末にはいくつかの反射炉が各地で作られましたが、その中で現存しているのは韮山反射炉と萩反射炉だけとなっています。

その韮山反射炉の造営を企画・発案したのが、韮山代官の江川英龍(坦庵)です。
先日伊豆韮山に温泉旅行に行ったら、思いもかけず韮山反射炉に出会い、そのストーリーに感銘を受け、その企画者である江川英龍にも関心を持ったことから、書籍を読んで彼の人生を覗いてみることにしました。

江川家は鎌倉時代から続く由緒ある家柄で、戦国時代には北条家に仕え、その後関東に入国した徳川家に引き続き韮山の地で仕えることになりました。

江川家は酒造でも有名で、戦国時代においては「江川酒」が大名間の贈答に使われていた記録が残っています。

江川家は代々学問・芸術に造詣があったようで、学者・文人の交流の記録も多く残っており、英龍においても多くの学者・文人、あるいは剣術家に教育を受けている記録があります。
教育というものがいかに人格形成に影響を与えるか、さらにはそのような環境にいることがいかに恵まれているかということを考えさせられます(あるいは、そのような環境を子どもに提供することが親にとって大事な役割といえるかもしれません)。

英龍の交流は蘭学者にも及んでおり、例えば渡辺崋山などとも交流があったそうで、そのようなこともあり海外の技術や海防政策に関心を持ったものと思われます。

また、砲術は当時の一人者・高島秋帆に学び、免許を受けています。
ちなみに、後日秋帆が政争に巻き込まれた際には、英龍は自分が責任をもって蟄居させるからと自分が面倒を見ることを幕府に申し入れていたそうで、最終的に秋帆は韮山代官の手代(補佐役)に任命されたそうです。
高島秋帆の砲術技術向上に果たした役割は大きく、その名は彼が日本で初めて西洋砲術の公開演習を行った地にも残っています。東京都板橋区の高島平がその地です。

英龍は絵画にも才能を発揮し、多くの写生を残しています。
どれも写実性に富み、細かいところまで精緻に描かれています。
このような観察眼もまた彼の政策提言や反射炉造営に役立っていたのでしょう。

観察眼といえば、彼は代官支配地をよく見まわっており、領民からも慕われていて「世直し江川大明神」と呼ばれていたとか(その言葉が記載されている幟が現存しています)。

このほか、家族との絆や後継者の育成にも見るべきものが多かったそうです。
幕末の軍学者・佐久間象山も英龍の下で学んでいました。

彼が海防政策の要として企画した韮山反射炉は彼の死後完成し、いくつかの大砲の製造に成功しています。

彼の時代と比べて、現在は格段に情報の量は多いし、情報収集も容易になっていますが、それでもアクティブかつ効率的に情報を得ようとしなければ、やはり頭の中には入ってこないものです。
彼ほどの、とはいかずとも自分も情報収集や刺激をくれるような人との交流を通じて、少しでも面白く、価値を創造できるような人間になりたいものです。


二つの世界遺産・富士山と韮山反射炉を一望

 

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ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由

日本随一の古書店街でオフィス街でもある、東京・神保町には1軒のユニークな定食屋さんがあるそうです。

その名は、「未来食堂」。

 

そのユニークなポイントの一つが、「ただでご飯を食べさせてくれる」こと。

そんな「ただめし」を食べさせる食堂が、ボランティアではなくしっかり黒字を出している。

そんな話を耳にして、その店主の方が書かれた書籍を読んでみました。

 

未来食堂の大きなユニークポイントは、「まかない」「ただめし」「あつらえ」「さしいれ」。

 

まかないとは、その名の通り、お店を手伝ってくれた方に対して、食事を提供すること。

50分で1食と標準化されていて、1度お客さんとして来た方は誰でもまかないを申し出ることができるそうです。

興味深いのは、必ずしも食事が目的でまかないを申し出るわけではないということ。

飲食業界では自分でお店を出したいと思っても、修業期間が長く、すぐには技術を身につけさせてもらうことが難しいことから、そのような方が修行目的でまかないを行ったりすることもあるのだとか。

つい「食事が無料」「労働力の補てん」という点に目が行きがちですが、こういう価値もあるのかと、目から鱗でした。

 

ただめしもその名の通り、無料で食事を提供すること。

ただ、食事(食費)を提供するのがお店ではなく、「まかない」で無料券を取得した人、のがユニークです(もっとも、まかないをした人が自分で食べるだけだと「ただめし」=「まかない」になりそうですが)。

前述のとおり、「まかない」をする人の中には無料で食事をすること自体が目的ではない人もいて、そういう人は無料でご飯を食べる権利を持て余してしまいます。

そういう場合には、その無料券を他のお客さんに譲ることができ、結果として他のお客さんは「ただめし」を食べることができるということです。

まかないさんとお客さんがちょっとした縁でつながるのが面白いです。

 

あつらえ、とはお客さんの好みや要望に合わせた食べ物を提供すること。

ベースとなるのは定食ですが、お客さんのその時の気分や食べたいものに合わせて、小鉢をつけたり、定食の一部を変更したりしてそのお願いに応えます。

もともと店主の方は偏食だったこともあり、「おいしい」を押し付けられるのに違和感があり、だからこそ、いろんな人に「おいしい」を押し付けず、人それぞれに好みに合ったものを提供したいと考えたそうです。

こういうこともお店の個性を生み出すのですから、人の特徴を安易に評価してはいけないと思わされます。

 

そして、4つ目のさしいれ

一般的に居酒屋などでお酒を持ち込むと持込料がかかりますが、未来食堂では持込料はとらず、持ち込んだ量の半分をお店に提供することになります。

お酒の行方はケースバイケースのようですが、基本的にはお店においてあって、他のお客さんが自由に飲んでよいようです。

つまり、お酒を持ってきたお客さんが他のお客さんに差し入れするのをお店が媒介しているということです。

 

 

普通のお店だと、お客さんは自分たちでご飯を食べるので、あまりお店の人や他のお客さんとの関係を意識することはありませんが、未来食堂では、顔は見えないながらも、無料券を提供してくれたまかないさんや差し入れをくれた他のお客さんとの関係を感じることになりますので、その程よい距離感は素敵だと思います。

 

また、行き場のない人のセーフティネットとなることや、経営の透明性(ウェブで業績が公開されています)、飲食業界で頑張りたい人の経験を積む場の提供といったことを意識されているということも興味深く感じました。

 

そのほかにも、起業するには具体的なイメージ・情景を描くことの大切さも記されていて、自分でサービスを作ることについての大きなヒントをもらった気がします。

何かを考えるとき、つい抽象的な言葉で進めてしまうことがありますが、それではうまくいかないことがよくわかります。

 

 

自分は今資産運用業界にいますが、未来食堂と同じように、投資家の方とのもっと近い関係を築き、また資産運用業自体にもっと社会的な意義を持たせ、それを投資家の方と共有したいと思っていましたので、全く業種は違いますが、考えさせられることが多かったです。

 

まずは未来食堂さんにお邪魔して、ご飯や雰囲気を味わってみたいところです。

 

 

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投資信託 基礎と実務

投信業界の第一人者が書き記した、投信会社の業務のイロハ本。

投資信託を取り巻く法令諸規則等の制度(金融商品取引法等の法令改正にも対応しています)や、投信会社の様々な業務の流れが手に取るようにわかります。

投資信託委託会社の従業員の机上にも置かれているのをちらほら目にします。

実際に長く従事されている方が書かれた本で、評論家ぽさは全くなく、本当に実務の内容が丁寧記載されています。
しかも特定の業務に偏らず、運用からミドル・バックまで丁寧に記載されていて、委託会社の人間でも勉強になると思います。

投信会社で働きたい人、投信業務に関心のある人はもちろん、投信会社で働かれている方にもお勧めできる名著・座右の著です。

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占守島の戦い

日本において終戦日は1945年8月15日とされていますが、実際にはその後も連合国との戦闘状態は局地的に続き、法的な効果が発生する終戦日は9月2日でした(降伏文書への調印日)。
 
そして、8月15日から9月2日における隙間の2週間においても数々のドラマがありました。
そのうちの一つが、占守島の戦いです。
 
連合国は協調して第二次世界大戦を戦ったとはいえ、各国は大戦後を見据えて行動しており、ソ連は南部(日本北部)に一気に勢力を拡大する目論見でした。
そのため、アメリカには北海道東部をソ連占領地とするように要求するなどの動きを見せていました(この要求はアメリカに拒否されます)。
また、実力行使も進めており、千島列島を一気に南下し、北海道に上陸する予定だったようです。
 
そのため、8月15日以降も戦闘を停止することはなく、千島列島の攻略を開始しました。
その千島列島の最北部に位置するのが、カムチャッカ半島と目と鼻の先にある占守島(しゅむしゅとう)です。
 
終戦当時、占守島はソ連ではなく、対米国との北部戦線の最前線として守備が固められていました。
各地で戦況が苦しくなってくる中で兵力が引き抜かれていきましたが、それでも8月15日時点では占守島付近には約25,000名の兵力が配置されていました。
しかし、アメリカが攻撃してくることはないまま終戦を迎えましたが、緊張の糸が解けたのも束の間で、代わりにロシアがポツダム宣言受諾後に攻撃をかけてきました。
 
国家としては降伏を決めたものの、日本軍は軍隊としてはまだ意気軒高で、また戦闘は中止していたものの自衛は認めていたため、占守島の守備部隊は反撃を行うことになり、占守島の戦いが幕を開けます。
 
その占守島を、停戦の軍使としてソ連軍に派遣された長島厚大尉の目線から書かれた書籍を最近読みました。
長島氏は少なくとも5年前まではご存命で、講演なども行われているそうです。
こうして歴史の証言者がその物語を残し続けてくださることは非常にありがたいことです。
 
8月18日未明にソ連が占守島に上陸を開始し、激しい戦闘が始まります。
そして、18日の午後には激戦のさなか、停戦の軍使として長島氏が派遣されます。
 
著者が長島氏に「死ぬかもしれないという恐怖を感じなかったか」と質問したのに対し、「大任を光栄に思い、その遂行のことしか考えられなかった」と長島氏は答えています。
著者は愚問を恥じたと書いていますが、やはり一般人は同様の気持ちを持つでしょうし、また戦陣に身を置いていた長島氏が任務を光栄に思い、それを果たすことだけしか考えなかったのも事実だと思います。
この辺りが一般人と戦陣に身を置いていた人との違いでしょうし、改めて立派な軍人が今の日本の礎となっていることに思いを巡らせました(もちろん軍人に限らず多くの先人の努力の賜物ですが)。
 
さて、その長島氏は護衛・通訳を連れてソ連軍の陣に向かうのですが、戦闘中の同輩からはなぜ敵陣に行くのかと詰られ、途中で護衛・通訳が戦死し、そもそもソ連軍とのコミュニケーションが取れない状態になっていましたが、途中でソ連軍の捕虜を見つけて連れて行ったり、停戦文書に司令官名のサインがないからと受け取りを拒否されかけると、その場で切腹(ハラキリ)するぞと脅したりして、その後の本格的な停戦・武装解除交渉につなげます。
 
そして、8月21日正午ごろ、ついに両軍は戦闘を中止し、占守島の戦いは終わりました。
 
もし長島氏が途中で戦死していたり、ソ連軍とうまくコミュニケーションをとれなかったりしたら、停戦が遅れ、より多くの犠牲者が双方に出たことは確実で、長島氏のおかげで多くの人命が救われたことは確かでしょう(その後シベリアに抑留されてしまいますが)。
 
本書では長島氏の軍使としての活躍だけでなく、占守島の守備隊がいかによく戦い、またいかに素晴らしい人たちだったかも描かれています。
 
今もって北方領土問題が解決していないのは残念なことではありますが、占守島の戦いがなければ、北方領土問題は北海道東部の帰属を争うものとなっていたかもしれず、その意味では北方四島が係争地となっていることは不幸中の幸いともいえるかもしれませんし、改めて占守島で戦ってくれた方々に敬意を表するべきだと思います。
 
 
ともあれ、先人たちが命を懸けて守ってくれたこの国を、我々も少しでも良くして次の世代につなげられるように生きたいものです。
 
 
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戦国の貧乏天皇

天皇陛下の「ご意向」が表明されて以降、(象徴)天皇・天皇制のあり方についての議論が盛んになっていますが、言うまでもなく天皇の存在は古くから日本社会にとって重要であり続け、歴代の天皇・朝廷はその存在意義を維持すべく努力を積み重ねてきました。
天皇・朝廷のポジション・存在意義は時代によって異なり、古代や明治~戦前のように絶対的権威として君臨した時代もあれば、武士政権の時代のように、時の政権を権威によって後押しし、間接的に世情の安定に貢献した時代もありました。
そんな天皇・朝廷の存在意義が最も脅かされた時期(の一つ)は室町末期・戦国時代(織田信長の上洛以前)ではないかと思います。
個人的には、天皇の権威とは、権威の受け手となる、ある程度安定した政権があってこそ機能するもので、安定した政権がなく、混とんとして人々がその日の安全や生活にも困るような場合には機能しにくいものなのではないかと思います。
生活に困っていれば、偉い人のありがたいお言葉よりも目先の衣食住が大事になるのは想像に難くありません。
そして天皇・朝廷はその権威の提供と引き換えにその運営をサポートされているという側面があるため、権威の受け手がいない場合には、当然ながらその運営に支障をきたすことになります(戦国時代においても、天皇・貴族の自前の荘園は多少存続していましたが、武士の横領・侵略の憂き目に遭うことが多かったようです)。
そして、その存在価値が低かったゆえに、その時期の天皇については認知度が低く、研究もあまりなされてこなかったようです。
そのような経緯から、一般的にはその日の生活にも困窮しているというイメージが広がっていた戦国時代ですが、実際はどのような状態だったのか関心を持っていたところ、そのものズバリ、渡邊大門氏の「戦国の貧乏天皇」という書籍を見つけたので、読んでみることに(上記の認識も、本書に書いてある内容に基づくものです)。
本書で取り上げられるのは、後花園天皇後土御門天皇後柏原天皇後奈良天皇です。
時期的には応仁の乱から戦国時代中期頃(桶狭間の戦いの前)になります。
後花園天皇の頃の室町幕府の将軍は6代将軍・足利義教。
強権政治で一時幕府の権威を立て直したともいわれますが、実は関東公方・足利持氏が反乱を起こした際(永享の乱)には、義教は朝廷の権威に頼り、後花園天皇より持氏追討の綸旨を受けています。
さらに義教が重心の赤松満祐に討たれる事件(嘉吉の乱)が発生すると、混乱して有効な手立てを打てない幕府を援護すべく綸旨を発しています。
しかも、その綸旨は天皇自ら添削するなど、世情の安定のために強い意志を持っていたことがうかがわれます。
また、市井の民が飢餓貧困に苦しむ中、市民の安寧のために祈祷を行うとともに、御所造営を行おうとする将軍・足利義政に対しては漢詩をもって叱責するなど、人々の暮らしを思いやる気持ちを持っていたそうです。
後花園天皇以降、財政難のため即位式を含め数々の儀式が行われなくなっていきましたが、伝統的な儀式や教養は朝廷の存続のために必要なことから、天皇や貴族たちはそのような環境下でも学問や儀式のリハーサルを続けていたそうです。
財政難を解決するために、寄付をしてくれた大名に官位を与えるなどの苦肉の策をとる一方で、例えば後奈良天皇はその状況を苦々しく思っていたようで、官位をすぐには与えなかったり、公家大名の一条房冬がやはり献金で官位を求めたとき、それを事後的に聞いた後奈良天皇は激怒して返金してしまったというエピソードが残っています。
苦しい現実の中で、少しでも理想に近づこうとしている後奈良天皇の苦心が察せられます。
戦乱と財政難のため、内裏が危険にさらされたり、修繕が十分にできなかったり、と住居にも苦労した天皇・朝廷ですが、それを支えたのは戦国大名たちでした。
戦国大名は権威付けという目的はありながらも、朝廷に寄付を行うとともに、天皇・貴族領を支配している大名の中には、その年貢を朝廷に納付するものもいました(横領されたケースの方が多いのではないかと思いますが)。
戦国の姦雄として知られる宇喜多氏は、実はかなり律儀に朝廷に年貢を納付していたそうで、戦国大名としての顔とは違った一面が垣間見られます。
織田信長登場以降、豊臣政権・徳川幕府と安定した政権が確立されたことにより、朝廷の財政は安定するとともに、それまでとは違った役割を果たすことになります。
戦国時代には財政難で苦労を重ねながらも、自らの存在意義を忘れず、努力を続けていた戦国時代の天皇の姿は、現在とは位置づけは異なるといえどもやはり国家統合・国家安寧の象徴なのだと印象深く読みました。
皇位継承に限らず、今後天皇制がどのような道をたどるのかはわかりませんが、天皇の存在は日本の歴史とは切り離せないものであり、歴代天皇の想いが報われるようなあり方であってほしいものです。
戦国の貧乏天皇

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後北条氏と大日本帝国

「後北条氏(小田原北条氏)は他の戦国大名に比べて地味だからなかなか話題にならない」という話をよく聞きますが、それはなぜなのか、ということをいつも疑問に感じています。

 

地方の小勢力が既存の名門勢力(今風に言うとエスタブリッシュメント、ということでしょうか)と戦いを繰り返しながらのし上がっていき、最後は時代の波に飲み込まれて一気に滅亡してしまう、という後北条氏の歴史はむしろドラマチックだし、変化の激しい現在だからこそ受け入れられやすいのではないかと思います。

実際には後北条氏の祖・北条早雲(伊勢盛時)は室町幕府の名門・伊勢氏出身であるといわれていますが、それでも関東にあっては余所者ですし、関東には堀越公方・古河公方・関東管領上杉氏などのエスタブリッシュメントがひしめいていました。

そして北条氏はそれらの勢力と抗争を繰り返し、最終的には関東に覇を唱えます。

最近は田中角栄ブームみたいですが、それなら同じような歴史を持つ後北条氏ももっと注目されてもいいのかな、と密かに思っています。

 

それはさておき、最近昭和史に関する本を読んでいたら、ふと後北条氏と大日本帝国の歴史には共通点が多いのでは、なんてことを考えました。

 

例えば、

・後北条氏も大日本帝国も地方の小勢力から一大勢力を築いた。

・両者とも、自勢力をはるかに上回る巨大勢力との戦争は望んでいなかったが、最終的には交渉がうまくまとまらず、紛争状態になってしまった(北条氏政も豊臣氏に従属の意思を表明していますし、昭和天皇も戦争は望んでいなかったとされています)。

・その交渉の過程で、自勢力内の意思統一ができずまとまりがなかった。

・紛争状態に入るきっかけをうまくかわせなかった(豊臣政権からの最後通牒にせよ、ハル・ノートにせよ、うまくかわす方法はあったそうです)。

・既存の同盟勢力との戦争状態になっていた(徳川氏は小田原征伐の直前まで北条氏と同盟しており、英国も第二次世界大戦の少し前までは日英同盟を締結していた)。

・頼りにしていた同盟者が自分より早く戦線離脱し、一手に戦争を引き受けることになった。

・負け戦が多かったが、局地戦では意地を見せたケースもあり(硫黄島の戦い、忍城の戦い、韮山城の戦い、など)。

・第二次世界大戦時のABCD包囲網を北条氏に当てはめるなら、アメリカ:豊臣家、イギリス:徳川家、中国:上杉家、オランダ:佐竹家みたいな?

※豊臣政権の前身である織田政権と北条家はもともと友好関係にあった。徳川家とは小田原征伐の直前まで同盟関係。上杉家とは越相同盟時を除けば仇敵の関係。佐竹家と北条家も長年の敵対関係で、佐竹家は北条家と伊達家という敵対勢力に挟まれ窮地にあった。

・終戦を決断した時には、すでに無条件降伏するしかない状況になっていた(本拠地小田原城の包囲、原爆投下)。

・一度の敗戦で、建国以来の成果物をほぼすべて失った。

・敗者側の責任者は勝者によって裁かれた(北条氏政・氏照は秀吉の命により切腹、主要戦犯は東京裁判で死刑判決)。

 

これらの内容は滅亡に向かうものに共通のものもあるので、後北条氏や大日本帝国固有のものばかりでもないでしょうが、それでもこれほど共通点があるのは意外でした。

これを見ると、北条氏の歴史も見せ方によっては人々の関心を引き立てられるのではないかと思ったりします。

 

とりあえず、せっかく思いついたので、妄想も交じってますが書き綴ってみました。

 

 

せっかく後北条氏推しをしたので、ついでに最近訪れた後北条氏ゆかりの場所の写真を載せておきます。

これで少しでも多くの人に北条氏に関心を持ってもらえれば嬉しいです(笑)

 

八王子城

八王子城は北条氏康の三男・北条氏照の居城で、北条氏の武蔵支配と西の守備の拠点となりました。

豊臣秀吉の攻撃を受けたときは、氏照は小田原城に籠城し、城は家臣たちが守っていましたが、奮戦むなしく落城。

落城の際には凄惨な光景が繰り広げられたようで、悲話も残っています。

 

城主の活動・生活の場である御主殿入口。

 

 

落城時に家臣や女性たちが身を投げたと伝わる御主殿の滝。

ホラースポットとしても有名です。

 

外部と御主殿をつなぐ曳橋。

 

 

韮山城

韮山城は北条氏康の五男・北条氏規の居城で、豊臣秀吉による小田原征伐時には最前線の城として激戦を繰り広げ、城主・氏規の指揮の下、寡兵ながら数か月の籠城に耐えた堅城です。

坂の厳しさ・道の狭さからも攻めにくさが伺えます。

 

坂道は長く、急で、道も細く、登るのが大変でした。

 

 

険しい道のりを越えて本丸に上ると、見事な眺望でした。

 

 

ついでに、韮山城近くにある世界遺産・韮山反射炉にも行ってきたので、こちらも。

 

韮山反射炉と富士山という二つの世界遺産が並んでいます。

 

 

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