昭和天皇

国民の幸福と世界平和に心を砕き、十字架を負われた仁君

昭和天皇は、その名の通り、昭和時代を形成してきた第一人者であった。日本の国体は第2次世界大戦を境に大きく変わったが、その中でも、天皇の心がお変わりになることはなかった。常に誠実を旨とし、平和を愛され、国民を愛された。

 昭和天皇は、1901(明治34)年にお生まれになった。御名は裕仁(ひろひと)。父親は大正天皇明治天皇は祖父に当たる。昭和天皇は、宮中の人々の愛を受け、健やかに育たれた。祖父の明治天皇も昭和天皇をたいそう可愛がられたそうだ。ちなみに、たいていの人は明治天皇の前に出ると萎縮してしまうらしいが、昭和天皇はそのようなことがなかったらしい。秩父宮は一つ下の弟で、二人は喧嘩することもなく、大の仲良しだったという。

昭和天皇が幼い頃のエピソードが残っている。ある時、伊藤博文山県有朋など、明治の元勲たちが宮中を訪れ、親王(昭和天皇)にも会った。普通の子供はいかつい(!?)大人に囲まれると萎縮してしまうが、親王はそのようなこともなく、いろいろ質問していたという。ちなみに秩父宮はびっくりして出て行ってしまったらしい。

 ご成長なさってからは学習院初等科に入学なさった。学院長には乃木希典大将が任命された。乃木は聖将と称された軍人で、私心なく清廉なことで知られていた。昭和天皇の精神の奥底には、乃木から学んだことが流れているように思われる。

 乃木が昭和天皇に語ったことをいくつか挙げてみる。

 「殿下ははどうやって学校に来られますか」「馬車で来ます」「これからは雨の日でも歩いてきてください」 その日から、親王はどのような時も歩いて登校するようになった。

 「殿下は山に登るときはどのように登りますか」「登る時は歩き、降りるときは走ります」「これからは逆にして、一歩一歩踏みしめて降りてください」

 「穴が開いた服を着ているのはよくないことですが、つぎはぎをあてるのは恥ずかしいことではありません。穴が開いたらつぎはぎをあてて着てください」

 このように、乃木は厳しくも温かい教育を施した。しかし、乃木は明治天皇に殉死した。親王は祖父と恩師を同時に失われてしまったのだ。明治天皇の死に伴い、父親王が天皇(大正天皇)となり、親王は皇太子となられた。

 初等科を卒業なさると、東宮御学問所で学ばれることになった。学長は、日本海海戦で有名な東郷平八郎。東宮では有名な学者たちにつき、よく学ばれた。聡明で、素直な生徒だったという。

 ご婚約の後、ヨーロッパに遊学なさった。将来の天皇として、広い見識を身につけるためである。皇太子は、ロンドンに立ち寄ったが、そこでのエピソードがいかにも、昭和天皇らしい。

 アソール公爵という貴族の屋敷に宿泊なさったとき、ダンスが行われた。公爵は、牛飼いの人の妻と、夫人は農家の人と組んで踊っていた。皇太子は「日本もあのように貴族や資産家も身分を越えて普通の人々と仲良くできるなら、素晴らしい国になるのだが」と語られた。後に、皇太子はこの精神のもと、国民に接せられることになる。

 帰国なさった時、大正天皇は病で国政をみることがおできにならない状態であった。そこで、皇族会議が開かれ、皇太子が摂政の任に就くことになった。

 この頃、第一次世界大戦による好景気が一変、不況に陥っていて、日本の状態も悪かった。しかも、さらなる困難が日本を襲う。関東大震災である。大震災の被害は甚大なものであったが、その傷が言えた頃、婚約していた良子姫とご結婚なさった。

 療養していた大正天皇は、結局大正15年にお亡くなりになり、年号は昭和になった。昭和元年は1週間しかなかった。

 昭和天皇即位の際にも、いかにも、というエピソードがある。
天皇即位を祝して、学生の行進が行われた。運悪く、その日は雨だった。濡れて歩くことになるだろう学生に対して天皇は「濡れるなら雨合羽を着るように」というお言葉をかけられた。そして、「学生が濡れているのに、私のところだけテントを張るわけにはいかない」と、学生とともに濡れることを選んだ。これを見て、学生たちは感激し、雨合羽を脱いだ。これを見て、天皇もマントを脱がれた。このように、天皇は人とともに苦労をなさる道を歩んでこられた。

 しかし、このように、人を思いやり、皆とともに栄えようという天皇のお志とは違った方向に国際社会は動いていた。日本もその動きに加担していたが、その直接の行動は、軍部によって行われていた。張作霖爆破事件満州某重大事件)などで、日本は満州、さらには中国に対する干渉を強めていった。この事件は、中国の出先の軍隊である関東軍の大佐が独断で行ったものだが、中央が罰せず、うやむやにしようとしたため、天皇は、首相であった陸軍大将・田中義一に対して、「干渉拡大をしないとの私との約束が違う、軍の決まりを守らせられないのか」と強く非難なさった。

 しかし、天皇のお心は軍部、特に関東軍に伝わることはなかった。関東軍は「一時的に天皇のお心に背いても、結果が陛下のためになればそれこそが大忠である。陛下のおっしゃるとおりにしか動かないのは小さな忠義に過ぎない」という論理を振りかざし、中央の統制さえも無視していた。
そして、満州事変が起こった。この結果、中国軍を満州地域から追い出す。さらに、上海に進出。またも中国軍と衝突することになる。天皇は白川義則陸軍大将を調停の使者として派遣する。そして、一応調停することに成功する。おかげで、白川大将は陸軍内部から嫌われたが、天皇は非常にお褒めになられた。しかし、この白川大将も、朝鮮人の投げた爆弾で死亡する。残念ながら、平和に尽力した人物も、やはり朝鮮の人から見れば祖国の敵だったのだ。

 さらに、関東軍は満州国を建国。ラスト・エンペラーとして有名な溥儀を皇帝に擁する。もちろん、溥儀は関東軍の傀儡だった。天皇の名で進められたこれらの政策だったが、天皇自身は不満に思われていた。満州国が国際社会に認められず、国際連盟を脱退した時も「たとえ連盟を脱退しても、国際の平和のために尽力する姿勢を見せるように」とおっしゃっている。

 昭和11年には2・26事件が起こる。この事件により、高橋是清蔵相や、斎藤実内大臣が殺害される。幸い、岡田啓介首相は、何とか難を逃れた。陸軍の若手将校が起こした反乱(本人たちはそう思っていないのだが)だったが、陸軍上層部はうろたえていた。一方、天皇や海軍は即座に事件の張本人たちを反乱軍と認定し、鎮圧の方向に向かっていった。この事件は、陸軍の統制力の弱さと、海軍の団結力の強さ、天皇の決断力の強さを明らかにした。ちなみに、この時の海軍の最高責任者が、後に海相・首相となる米内光政である。

 この後も、陸軍の暴走が抑えられることはなかった。翌年、昭和12年には、盧溝橋事件が勃発。以降、日中戦争に突入、太平洋戦争終結まで続く、泥沼戦争に陥った。
天皇はもともと、中国に日本の軍隊がいることに反対であられたらしい。中国に日本の軍隊がいるから争いが起こるのだという理由からである。なお、戦後の首相となるジャーナリスト・石橋湛山も、経済的な理由から帝国主義(植民地主義)に反対している(もちろん、石橋が平和を望んでいなかった、ということとは別の話である)。

しかし、結局、天皇の危惧が当たり、戦争になってしまった。外務省などは、広田弘毅らを筆頭に、必死に戦線拡大を阻もうとしたが、その都度陸軍にその努力を無駄にされ続けてきた。さらにまずいことに、陸軍は国境を侵したとして、ソ連にまで攻撃を仕掛けた。張鼓峰事件である。この攻撃で日本軍は痛烈な打撃を受ける。

 これでも懲りない陸軍は、次第に戦線を拡大する。そのような中、陸軍は勝手に日独伊防共協定を締結する。天皇の許可もなくである。海軍、特に米内光政や山本五十六井上成美などは大反対であった。理由としては、米英とは戦って勝てない、また、石油が入ってこなくなったら船も飛行機も動かせない、ドイツは信用できない(ドイツの指導者・ヒトラーはその著書「我が闘争(マイン・カンプ)」のなかで、日本民族を軽蔑しているらしい。日本語版では削除されているが、ドイツ語版ではそのような箇所があるらしい)ということであった。天皇も同じご意見であった。そして、この問題に対して、陸軍は十分な回答をしなかった。それなのに、勝手に独伊と同盟を結んだのだ。このことは、米英との手切れを意味すると言ってもよかった。

 しかし、海軍や天皇の危惧は当たってしまった。ドイツが勝手にソ連と不可侵条約を結んだのだった。時の首相・平沼騏一郎は「欧州情勢は複雑怪奇」と言って辞任した。後任は阿部信行陸軍大将。しかし、阿部首相も、結局時流に流されたまま、辞任。次の首相は、海軍大将・米内光政である。

 ソ連と不可侵条約を結んだドイツは欧州を席巻していった。その結果、独伊と同盟を締結すべきである、という意見が強くなった。外務省や海軍でさえ、その傾向が強く、後に外務事務次官となり、「空飛ぶ外交官」としてその頭脳・人柄を讃えられた牛場信彦でさえ、同盟説に協調したらしい。しかし、米内らは断固として反対。結局、広田内閣時に復活した軍部大臣現役武官制を濫用し、米内内閣を総辞職に追い込む。もともと、米内は首相になるつもりはなく、辞退するつもりだったらしいが、天皇に「お願い」され、就任したらしい。しかし、その政治的野心のなさ、政治交渉の不得手さから、結局陸軍の横暴をとめることはできなかった。

 その後、第二次近衛文麿内閣が発足。この内閣により、昭和15年、ついに日独伊三国軍事同盟が締結される。しかし、近衛は米英との友好の手立てを考えていた。何とか、米英と手切れにならないように、米英と必死の交渉を行った。しかし、外務大臣は親独派の松岡洋右。彼は米英より三国同盟を重視していた。何とか米英と友好関係を維持したい天皇は、近衛に命じて、松岡を除いて再組閣するようにお命じになった。こうして、松岡が除かれ、再び米英との交渉に取り掛かった。

 しかし、三国同盟を締結している日本が米英と手切れをしないためには、厳しい条件を付けられることが予想される。案の定、中国からの撤退を要求されるが、陸軍が拒否、近衛内閣も総辞職し、後任に東条英機が就任した。この東条に関しては、天皇も信頼なさっており、東条自身も、必死に戦争回避の手を探っていた。しかし、米国が最後通牒とも言える「ハル・ノート」を打診、満州からの撤退を要求したためついに、戦争に踏み切らざるを得なくなった。開戦の日、東条は大泣きしたという。

 真珠湾攻撃は成功したものの、長期戦になるにつれ、日本軍は次第に押されていく。ミッドウエー海戦での敗戦を境に日本側の戦況は次第に不利になっていった。その直後には山本五十六連合艦隊総司令官が戦死、ガダルカナル島など、東南アジアでの拠点も次々と失っていった。そして、沖縄上陸、原爆投下。
最後は、天皇ご自身のご決断、いわゆる御聖断で、ポツダム宣言受諾、つまり、無条件降伏(厳密には日本が無条件降伏したのではなく、軍隊が無条件降伏した)を決定した。昭和20(1945)年8月15日、大日本帝国はポツダム宣言を受諾した。

 敗戦に伴い、日本は連合軍が占領することになった。この時、天皇には二つの問題があった。一つは、天皇の戦争責任問題、もう一つは、天皇制の問題である。戦争責任に関して、天皇は自ら戦争責任を負う旨、マッカーサー総司令官を訪問され、お伝えになった。この申し出にマッカーサーは驚き、かつ、感銘を受けたという。
マッカーサーとの会談のときの写真があり、それには正装・小柄な天皇と、普段着で大柄なマッカーサーが対照的に映っていて、いかにも敗戦国の元首という印象を受けるが、それは会談前に撮られたものであり、会談後であれば別の写真になっただろうと言われている。

このとき撮影された、昭和天皇とマッカーサーの写真。

昭和天皇が正装で直立不動であるのに対し、マッカーサーは普段着で、腰に手を当てリラックスしている。

しかも、マッカーサーは身長が高いだけでなく、足も長い!!

 結局、天皇の戦争責任は、政治的な配慮もあって、追及されなかった。天皇制に関しても、廃止すべきという意見が国内外にあったが、これも政治的配慮で存続することになった。

また、戦犯に関して、日本政府は、日本側で、天皇の名で裁判を行いたいという意見であったが、天皇は「戦犯といえども、日本のためを思い戦ってくれた人間であり、その者たちを自分の名では裁けない」というご意見だった。どちらにせよ、日本側が裁判をさせてもらえたとは考えにくいが。

 戦後、新たな憲法、日本国憲法が発布されることに伴い、天皇は、いわゆる人間宣言をなさった。「人間である」という内容はないが、とりあえず、人間宣言といわれている。しかし、国民との距離が近くなったのは事実であろう。

 その後、天皇は敗戦の中で復興を遂げようとする国民を励まされるために全国に行幸なさった。また、有名な天覧試合など、スポーツの繁栄にも尽力なさった。なお、天覧試合では、長嶋茂雄氏・王貞治氏、いわゆるONの初のアベックホームランや長嶋氏の村山実選手からのサヨナラホームランな(村山氏は死の寸前までファールだと言い張っていたが)ど、劇的なシーンが多くあった。もちろん、この試合は阪神-巨人戦である。

 天皇は、日本国内を精力的に訪問なさっただけでなく、外国もよく訪問なされ、日本の象徴として、国際親善の役割をよく担われた。「天皇陛下の役割は大使100人に勝るとも劣らない」とさえ言われることもあった。しかし、良くも悪くも、天皇には戦前の軍国のイメージが付きまとう。そのため、外国で憎悪の念をもつ人々に遭遇なさることもあった。しかし、そのような時も笑顔を絶やさなかったと言われる。

 そのように、生涯国民の幸福と、国際平和を希求なさった天皇であったが1989年、昭和64年1月5日に崩御なさった。結局、最後まで希望していた沖縄には訪問できなかった。ちなみに、天皇のご回復を祈り記帳した人は1000万人、天皇の棺を見送った人は60万人に上った。いかに国民にお慕いなされていたかがよくわかる。

 ちなみに、昭和天皇には、天皇としての顔と、もう一つ、学者としての顔があった。天皇は生物学の学者として、著書や論文もある。天皇としても、余計な気遣いのいらない学者としての顔の方が、気が楽でよかったのかもしれない。
(元来歴史に興味があったが、政治的な要素があるため、歴史に関する研究は控えられたとのことである。)

 日本は、戦後、天皇の御意思の通り、ようやく平和国家への道を歩むことができた。そして今、国際協力のパロメーターの一つであるODA拠出金では、世界第2位となっている。ODAに関しては、いろいろ批判はなされるものの、日本が昭和天皇の願いの通り、平和国家として国際社会に多大な貢献をしていることは間違いないだろう。

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盛田昭夫

積極的に海外市場を開拓し、世界のSONYを築いた立役者

盛田昭夫は、井深大とともに「SONY」の創設者として知られる。特に盛田氏は「世界のセールスマン」として世界中にその名を知られている人物である。また、「学歴無用論」・「『No』と言える日本」・「MADE IN JAPAN」などの著書もよく知られている。

 盛田氏は、1921年に愛知県で酒屋の長男として生まれた。大阪帝国大学理学部を卒業し、海軍に所属する。1943年に民間人と陸海軍の研究者で構成される科学技術研究会で井深大氏と出会う。敗戦後お互いの消息がわからなくなるが、朝日新聞に井深氏の製作した短波受信機の記事が掲載され、消息を知ることになる。

再会した二人は1946年に東京通信工業を設立、井深氏が技術担当、盛田氏が営業を担当することになる。その設立趣意書には、「大きくなることを望むのではなく、大企業のできないことをやり、技術の力で祖国復興に役立てよう。」とある(東京通信工業設立趣意書)。

1955年には日本初のトランジスタラジオを製作する。この年から「SONY」のマークを使用し始める。SONY社によると、この名前の由来は、「音楽」を表すラテン語「SONUS」と、小さい・坊やなどを表す「SONNY」からとったということだ。どの国でも同じように、簡単に読めることを念頭に置いていたそうだ(SONYホームページ)。

1957年には世界最小のポケット型トランジスタラジオを製作する。盛田氏は「米国で売れるものは世界で売れる」と言う考えから、一軒一軒訪ねて売り込んでいったそうである。ちなみにこの時盛田氏は英語は片言しか話せなかったという。

 このトランジスタラジオに関して、盛田氏の考えを表す興味深いエピソードが残っている。盛田氏がある外国企業にトランジスタラジオを売り込もうとすると、相手企業は、「SONY」のロゴを削ったら購入するという。しかし、盛田氏はその申し出を拒否する。「SONY」の名を削ってまで売り込むようなことはしたくないということだ。盛田氏は付け加えて言う、「あなたの企業にはブランドがあるかもしれないが、50年前はそうではなかったのですよ。私たちも50年後にはブランドを築き上げて見せます」。

 1958年には社名をソニーに変更。1959年には副社長に就任する。1960年にはCBSと提携し、音楽業界に参入する。同年、世界初のトランジスタテレビ発売。1961年には日本企業として初めて米国で新株を発売(株式公開)、2時間で完売し「ソニー神話」が生まれることになる。

 1971年には社長、1976年には井深氏の名誉会長就任に伴い、会長に就任する。盛田氏は自ら企画したウォークマンを売り込み続け、ソニーは発展を続けるが、このころ、盛田氏は唯一の敗北といえる家庭用ビデオデッキの企画統一問題に直面した。盛田氏が推すのはベータ方式、一方、松下幸之助氏などが推すのがVHS方式。盛田氏は、直接松下氏の許に交渉に乗り込むが、「VHS方式の方が安い」ということで断られる。結局ベータ方式を堅持し、市場競争で敗れることとなった。

 1986年には「MADE IN JAPAN」を出版。同年、経団連副会長に就任(~1992年)。細川内閣発足時には、民間からの閣僚候補にも挙げられる。1989年には「『No』と言える日本」を出版。

 1999103日、永眠。享年78歳。
なお、生涯の盟友である井深氏は19971219日に89歳で亡くなられている。

ソニー創業者、井深大氏。

彼のアイデアから多くの製品が生まれた。

 盛田氏は米TIME誌の選ぶ「20世紀に影響力のあった経済人」、「20世紀の100人」にそれぞれ日本人で唯一選ばれている。同誌は盛田氏を「安物の代名詞であった『MADE IN JAPAN』のイメージを盛田氏が変えた」と称えている。

 盛田氏に関する評価は様々である。「日本で数少ない国際派経済人」、「戦後高度成長期の担い手」という評価もある一方で、「日本の技術は、『No』と言える日本に書かれているようないいものではない」などというマイナスの評価もある。しかし、盛田氏が国際市場に日本の製品の道を切り開いたことは紛れもない事実であり、高度経済成長を民間の立場から支えた最重要人物の一人だと言っても過言ではないだろう。

 また、盛田氏はソニーに大賀典雄という人物をスカウトしている。この人物、後にソニーの社長に就任することになるのだが、実はこの人物は東京学芸大学の出身でドイツにも留学した実力派の音楽家なのである。この大賀氏に、盛田氏は「君は音楽の分野でも一流になるだろうが、経営者としても一流になる」と説き、ソニーに入社させている。大賀氏は多大な業績を上げ、盛田氏の期待に応えることになる。このことから、盛田氏の人を見る目や、時代感覚がわかる。

 グローバル化のこの時代、我々が盛田氏に学ぶべきことは多いだろう。

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立花道雪

雷を斬った輿乗りの名将

 立花道雪は、戦国時代、豊後大友家を支えた家中随一の勇将である。旧姓は戸次(へつぎ)であったが、謀反を起こして滅亡した名門・立花家に養子入りして(家名を残すため)、立花家の人間となった(但し、彼自身は名乗らなかったとも)。彼は落雷を受けて足が不自由だったのだが、そのことについてこのようなエピソードがある。

 ある時、道雪は木の下で休んでいた。すると、雨が降り雷が鳴ったという。すると、道雪は雷神に向かって切りつけたという。雷神は斬ったものの、自らも足に被害を受けたということである。確かに、普通に考えると木の下で金属である刀を持っていると雷は真っ直ぐ落ちてきそうなのだが・・・。とりあえず、彼の勇猛さを表すエピソードである。

それ以降、彼は輿に乗って戦うことになるが、輿に乗っても勇猛さが変わることはなかった。彼は自ら輿を敵のど真ん中に置かせ、味方の士気を上げ、味方も決して逃げることはなく常に勝利を手にしたという。

 輿に乗った道雪は、各地を転戦して戦功を重ねる。また、勢力拡大につれ、奢り、堕落していく主君・大友宗麟に諫言するのも彼の役目になっていた。この諫言についてもエピソードがある。

 宗麟が遊びに呆けて政治をおろそかにし、諫言しようとするとのらりくらりとかわされ、頭を抱えた頃、道雪は家に引きこもってしまった。その後、道雪は「今まで遊びの練習をしていましたので是非お越しください」と宗麟を自邸に誘う。無骨な道雪がそのようなことをしたので、面白がった宗麟は早速駆けつける。が、邸内に入ってしまえばこれは道雪のもの。彼は長々と諫言したという。ただし、しばらくの間は宗麟の行動も収まったが、また遊びにふけるようになってしまった。

 宗麟が堕落していく一方、西の龍造寺・南の島津は勢力を急速に拡張していった。さらに北からは毛利家が進出。それらの対応に道雪は動き回ることになる。1569年には進出してきた吉川元春小早川隆景軍と対峙、1570年には龍造寺隆信を攻撃するが、味方が竜造寺家の名将・鍋島直茂に奇襲を受け敗退したので撤退。

1571年には名家・立花家の名前を継ぐ。1575年には娘に家督を譲り(娘に家督を譲るケースは武家の世界では希に見られる)、1581年には、その婿に盟友・高橋紹運から息子をもらう。これが立花宗茂である。ちなみに、宗茂は紹運の長男。最初は紹運も断ったが、主家のため、という道雪の言葉に、結局、養子入りさせた。高橋家は次男が継いだ。

 大友家が耳川の戦いで島津家に大敗北を喫した1578年からは、南方から迫る島津軍との戦いが九州の情勢の焦点となり、大友家の課題となった。この頃になると、道雪・紹運・宗茂が大友家を支える三本柱と言ってよかった。道雪も老躯をおして各地を転戦したため、1585年に発病。9月11日に死去したと伝えられる。

死に臨んで、道雪は大友家の行く末を案じ、また常在戦場の志があったのか、遺体は陣没の地に葬るように遺言を残し、背けば祟ると厳命した。
とはいえ、残された家臣たちからすればそんなことはできないので大いに悩んだ。
最終的に彼らが出した結論は、領地に戻って葬ること。
遺命に背くことになるが、もし道雪様が枕元に立って怒られるなら、光栄なことなので、喜んで腹を切ろう、と。

また、道雪の死に伴い、立花軍は陣を払うが、対陣していた島津軍は追撃することなく、その死を悼んでいたという。
さらに葬儀に当たっては大友家中のみならず、敵対していた勢力からも弔意が示された伝わっている。
それほどまでに立花道雪の名は響き渡っており、また尊敬されていたといえる。

 士を愛する道雪の人徳を表す逸話は多く残っている。例えば、「士で弱い者はいない、いたら大将の責任である」と、いつも家臣をいたわっていた。また、客の前で家臣が粗相をすると、「彼は畳の上ではこういうこともありますが、戦場に出ると誰よりも勇敢に戦います」と、かえって褒め、面目を失わせることもなかった。だからこそ、誰も輿を捨てて逃げ出すことはなく、道雪のために必死に戦ったのだった。

 ちなみに、彼の武勇は、東国まで行き届き、武田信玄も彼と手紙をやり取りしていたという。通信網のなかった時代であることを考えるととんでもない知名度である。

 家中の人望厚く、勇猛果敢な道雪が亡くなると、島津軍は一挙に押し寄せてきた。盟友・高橋紹運は、数万の島津軍に1000足らずの兵で籠城して抵抗。数度撃退し、大打撃を与え、自害。この時の抵抗による被害と時間のロスが豊臣軍の援軍まで大友家を持ちこたえさせ、主家を救ったという。その直後、主君宗麟は死亡する。道雪の養子・宗茂は秀吉に気に入られ、柳川13万石を与えられる。関が原の戦いでは西軍に味方し、一度は領土を失うが、家臣たちと苦労を乗り越え、後に旧領を回復した。

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レオナルド・ダ・ビンチ

自然科学・芸術に精通した万能の芸術家

 レオナルド・ダ・ビンチは、1452年にイタリアのビンチ村に生まれた。レオナルド・ダ・ビンチとは、ビンチ村のレオナルド、という意味。1466年にフィレンツェに出て絵画や彫刻を学んた。師の名はベェロッキオ。レオナルドは助手として、師の「コレオーニ将軍騎馬像」という作品の製作に参加した後、「受胎告知」、「ブノアの聖母」という作品を製作した。

ちなみに、この頃、世間では、男色が流行ったようで、レオナルドの工房でもやはりその色が強かったようだ。一応、法律では禁止されているのだが。で、レオナルドは、すごい美男子で、結構もてたらしい。その関係で、彼は2回も告発されたとか。師のベェロッキオも彼をモデルにして彫刻「ダヴィデ」という作品を製作している。

1482年に、ミラノに赴き、ドビコ・スフォルツァに仕え、1499年まで滞在。有名な「最後の晩餐」を描いたのもこの時期。ちなみに、この作品を完成させるのに3,4年かかった。画家の大変さがわかる。画家、というより、芸術家と言ったほうがいいかもしれないが。

1500年からは、フィレンツェに戻り、有名なチェーザレ・ボルジアに仕えている。彼については、塩野七海さんが書かれていた。マキャベリとも親交があったそうだ。その関係か、法王軍の、軍事総監督に就任していた。そこでは、画家としてのほかに、科学者としての才能を発揮し、軍事や土木事業に貢献している。また、この時期に「聖アンナと聖母子」や「モナ・リザ」を製作している。モナ・リザの製作には7,8年かかっている。大事業とはこのようなものなのだろう。改めて感服する。

その後、フランスのフランソワ1世に招かれ、フランスのアンボアーズに行く。そこで、建築などに従事し、2年後、没した。

というのが、レオナルド・ダ・ビンチの一生だ。

ここからは、レオナルドの残した言葉を紹介していく。

・「執拗な努力よ、宿命の努力よ」:天才と言われるレオナルドだが、その才能の裏には、やはり想像を絶する努力があったようだ。才能の裏に努力あり。これは普遍の真実だろう。天才と言われた元読売巨人軍の長嶋茂雄氏が、自宅では練習ばかりしていたのは有名である。

・「食欲がないのに食べるのが害であるように、欲望のない勉強は記憶を伴わない」:学生としては、考えさせられる言葉だ。もちろん、学生だけでなく、全ての人に言えることなのだろうが。やる気をもって勉強しなきゃダメってことか。

・「師をしのがない弟子はやくざ者である」:これも学生にとっては耳が痛い。先生はもちろん、親や上司もしのぐようになるよう心がけなければいけない、ということだろう。日々勉強、ってことだろうか。

・「やたらたくさんのものを求める者が貧乏である」:昔の中国の偉い人が「どんなに富貴を得ても食べられるのは一人前、寝るときも一人分の場所しかとらない、だから富貴をいたずらに追い求めるのは愚かなことだ」と言っていたが、そうなのかもしれない。大切なものを失ってまでお金を追い求めるのは、順序が違うような気がしないでもない。最近は知らないが、昔は、地位や名誉、お金に恬淡としていた大物が多い。

・「肉欲を抑制できないものは、ケダモノだ」:最近、こういう人がよく目立つ。某大学も一部のケダモノのせいで名を落としてしまった。

・「画家は万能でなければ賞賛に値しない」:芸術家の厳しさか。もっとも、どのような分野の人間でも「専門バカ」では困るだろうが

・「あらゆる自然の行動は、最短距離的に行われる」:自然は常に合理的。彼もまた、この境地を目指していたのかもしれない。

・「太陽は動かない」:隠された意図があるのだろうか。

レオナルドは、科学者として、いろいろなものを考案してきた。兵器では、殺人荷馬車(三国志に出てくる戦車みたいなもの。馬がリヤカーを引いているような感じ)、クロスボウ戦車(人力)、マシンガンなど。普通の機械では、ヘリコプターパラシュート自動車自動織機時計など。人体の解剖図を描いたりもしている。そのほかにも、天文学数学生物学植物学建築学など、自然科学のあらゆる分野に精通していたそうだ。ちなみに、彼の描いた解剖図は、今でも教科書に出ているのだとか。

 

モナ・リザ
最後の晩餐


 日本でレオナルド・ダ・ビンチに似ている人物と言えば、平賀源内が挙げられる。源内はエレキテルの発明で知られているが、他にも、戯作俳句羊毛陶器作り植物学などなど、様々な分野で業績を残している。しかし、彼の業績は、ほとんどが時代を先取りしすぎていて、認められることはあまりなかった。しかし、レオナルドは、幸いにも理解者を得ることができたため、多くのものを世に出すことができた。これには、ルネサンスという、自由な雰囲気の中で、スポンサーという、お互い自由な立場の下で活動できたからかもしれない。源内は武士だったので、封建社会の中で活動せざるを得なかったのである。

ちなみに、同じ時期に、ミケランジェロが出ている。「ダヴィデ像」で有名な芸術家だ。この二人、実は一度、相対する壁に絵を描いて競う機会があったのだが、結局、ミケランジェロがスポンサーの招きに応じて未完のまま去ってしまったので、決着はつかなかった。また、彫刻を重視するミケランジェロはレオナルドの絵を「下男でもかける」と言い、レオナルドは、「絵画論」という本を書いて、「絵画は彫刻や文学や音楽にも勝る最高の芸術だ」と言っている。

 ともあれ、レオナルド・ダ・ビンチの作品も、ミケランジェロの作品も、彼らが活躍した時代から500年ほど経った今もなお人気を博していることは確かである。

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武田信玄

「甲斐の虎」と恐れられた戦国最強の武将

武田信玄は、甲斐の虎と呼ばれた戦国最強の武将といわれた名将である。その戦闘力のみでなく、人身掌握術・組織管理術にも定評があり、数々の本に取り上げられている。

武田信玄は、1521年に甲斐の大名(守護)であった武田信虎の長男として生まれる。幼名は太郎、元服して晴信と名乗る。後に出家して信玄と名乗る。以後信玄で通す。13歳で結婚するが(ちょっと羨ましい?)、翌年お嫁さんが亡くなる。

信玄の初陣は信濃の豪族・平賀源信攻めであった。平賀源信は江戸時代の発明家・平賀源内の祖先である。戦いは源信が城を堅守し、なかなか城を落とせそうにない上、大雪に見舞われてしまう。そこで信玄は撤退を進言する。

進言が受け入れられ、信玄は殿軍を引き受ける。進言は「正月である上、雪も降っているから敵は追ってこないだろう」と読んでいた。その読みの通り、敵は追ってこないだけでなく、軍を解散してしまった。信玄はそこを突いて攻撃し平賀源信を討ち取った。しかし、信虎は信玄を褒めなかった。信玄は可愛がられていなかったのだ。

その後も信虎は戦争を続けた。戦争をしなくては甲斐がまとまることができなかったのかもしれないが、信虎が戦争好きだったということもあるだろう。戦争ばかり続けていては国が疲弊するのは当然で、国内から怨嗟の声があがる。
さらに、信虎は粗暴な性格で、妊婦の腹を割いたりしていたと言われる。この怨嗟の声を背景に信玄は信虎隠居を画策する。信玄が信虎隠居を画策したのは、信玄が信虎に嫌われていて、家督を継ぐのも危うかったという理由もあるようである。
ただし、信虎は信玄のことを可愛がっていなくとも家督を継がせることは考えていたようである(例えば、晴信の「晴」は将軍・足利義晴からもらっている)。このあたり、父の心を読みきれなかったともいえるかもしれない。どちらにせよ、信虎を隠居させなければ戦争が終わらず甲斐が危うかったのは事実であろう。

信玄は重臣たちと結託し、信虎を駿河に追放(強制的な隠居)する。駿河には信虎の娘が嫁いでいた。重臣に背かれる時点で信虎は主君たる資格を失っていたと言ってよいだろう。こうして信玄は第17代当主となる。ちなみに、信玄の代わりに父に可愛がられていた弟・信繁も信玄に協力し、信玄の最高の家臣となる。

甲斐の国主となった信玄は信濃侵攻を行う。まず、妹の夫(つまり義弟)の諏訪頼重を自害させ、その娘をあろうことか側室にしてしまう(彼女は後に武田勝頼を産む)。
さらに信濃の奥深く侵攻するが、信濃には有力豪族の村上義清と信濃守護・小笠原長時という二人の強敵がいた。さすがの信玄もこの二人のために信濃侵攻に手間取った。特に村上義清には、筆頭家老の板垣信方らを失った「上田原の戦い」や「砥石崩れ」など、手痛い敗北も喫している。
しかし、持ち前の根気強さと計略で彼らの力を削いでいき、ついには彼らを信濃から追い出し、信濃攻略を達成した。

一方で、甲斐・信濃は内陸の国であり、回りは敵だらけなので、同盟を組む必要があった。信玄は相模の北条氏康、駿河・遠江の今川義元と三国同盟を結ぶ。三者とも、当時では有数の大勢力であり、同盟の規模・継続期間ともに珍しいものであった。こうして信玄は後顧の憂いを除いたが、正面に強力な敵が現れる。生涯のライバル・上杉謙信である。

信濃から逃亡した村上・小笠原はその後、越後に行き、上杉謙信(正確にはその頃は長尾景虎だが、信玄同様固定)を頼っていた。信玄の勢力拡大を恐れたのか、単なる義侠心だったのかはわからないが、謙信は彼らの要請を受け入れ信濃に出兵する。第1次川中島の戦いである。この時は本格的な衝突にならなかったが、以降4回繰り返される。4回目の戦いが最も激しく、有名な戦いである。

1560年、三国同盟を形成していた今川義元が桶狭間の戦いで死亡。義元の息子・氏真は凡庸で、信玄・氏康と渡り合える人物ではなかった。彼が跡を継ぐや否や、松平元康(後の徳川家康)が独立するなど、次第に勢力を失っていく。こうして三国同盟に亀裂が入っていくことになる。

1561年、信玄と謙信は4度目の戦いを行う。第4次川中島の戦いである。両者とも、今度こそ決着をつけようと意気込み、決戦の態勢を整えていた。

両軍が対峙する中、先に動いたのは武田軍であった。信玄は上杉軍を挟み撃ちにしようと、軍を二つに分け、片方を上杉軍の方に向けた。しかし謙信はそれを読み、全軍で信玄の方に向かって突撃してきた。不意を突かれた武田軍は押されていく。長年にわたり信玄を助けてきた弟の信繁を始め、多くの家臣が信玄の盾となっていった。また、史実かどうかは別として、謙信が信玄に斬りつけたという。それだけの激戦であった。
しかし、信玄は押されながらも持ちこたえ、もう半分の軍と上杉軍を挟み撃ちにする。形勢は逆転、今度は上杉軍が押さる。結局両軍痛み分けに終わる。
この後、信玄は信濃を勢力下においているので、戦術では謙信の、戦略では信玄の勝ちと言える。その後も計略で謙信を悩ませ続ける。

こうして信濃を安定させた信玄は南に目を向ける。今川氏真は凡庸で、かつ駿河は海がある、ということで駿河に侵攻しようとする。しかし、信玄の長男・義信は義元の子を嫁にもらっていたため、大反対した。信玄も駿河侵攻を諦める気はなく、この親子の対立は、義信の反乱という形に発展する。しかし、重臣で後見人の飯富虎昌が責任を取って自害、さらに虎昌の弟・昌景が密告し、反乱は未然に防がれる。信玄は、昌景が肩身の狭い思いをしないように「山県(やまがた)」の姓を与えている。その後義信も自害してしまう。

こうして、長男を失うという犠牲を伴って行った駿河侵攻だが、大きな困難に直面した。北条氏康が今川方に立ち信玄に敵対し、さらに上杉謙信と同盟を組んだのである。
北条氏康は信玄や謙信と互角以上に渡り合って関東制覇を達成した人物であり、彼の敵対は信玄にとって大きな障害になった。彼は駿河に侵攻したものの、北条軍に敗れて撤退する。
北条軍が厄介だと判断した信玄は、今度は北条攻略に目を向ける。といっても、北条家を滅ぼすつもりはなく、牽制するつもりであった。武田軍は、北条家の本拠地・小田原城に殺到、包囲する。しかし、小田原城は上杉謙信の攻勢をも退けた城であり、簡単に落とせるものではなかった。
牽制の目的を達成したと判断した信玄は撤退する。その帰路を襲おうと、北条軍が待ち伏せするが、信玄は逆に奇襲をかけ、圧勝する。この戦いを三増峠の戦いと言う。

小田原侵攻にはもう一つの意味があった。それは、小田原に兵を集めさせ、駿河を手薄にさせることであった。これが当たり駿河は手薄になっていて駿河占拠を達成できた。

なお、今川領の侵攻にあたっては徳川家康と共同作戦を行っていたが、武田軍が遠江にまで侵攻したことから徳川家康の不信を招き、上杉・北条・徳川に包囲される形となったことから、1569年に織田信長を通じて徳川・上杉と和睦している。
このことは信玄にとっても屈辱だったようであり、後に徳川領に侵攻する際に「3か年の鬱憤を晴らす」と宣言している。

こうして駿河をその領土に加えた信玄は、1571年に北条氏康の死を機に北条氏と同盟を結び、1572年、ついに上洛の軍を起こす。将軍・足利義昭の要請を受け、織田信長を討つ、という名目であった。武田軍はまず、遠江・三河(愛知県東部)の徳川家康を攻撃する。家康も戦巧者といわれるが、その時期では信玄とは経験が違いすぎた。
居城の前を悠々と通過する武田軍を見逃すことができず、城を出て野戦を挑むが、武田の騎馬隊の前に完敗する(三方ヶ原の戦い)。しかし、家康もこの時の勇敢な行動により名声を高める。その後、京を目指した信玄だったが、野田城攻略中に病死してしまう。享年53。その死を聞いた謙信は食事中であったが、箸を落として嘆き、国中に喪に服すよう命じたと言われる。

信玄は戦争だけでなく内政にも優れた業績を残している。今でも残っている「信玄堤」や、農産業の奨励(もっとも商業を奨励した織田信長よりは保守的と言われるが)、枡の統一などに表れている。喧嘩両成敗で有名な「甲州法度」もその一つに挙げられる。この甲州法度には、「自分がこの法度を破ったら申し出て欲しい」とあった。トップ自ら規則を守ると言う態度が人をついてこさせたのだろう。

また、「人は城、人は石垣、人は濠」といった言葉に表れているように、信玄は人使いも上手だった。わざと家臣に留守居をさせて発奮させて戦功を立てさせたり、性格の違う二人を組み合わせて物事をうまくこなさせたり、と色々ある。信玄の強さはここにあったと言っても過言ではないかもしれない。「10分の勝ちより8分程度の勝ちがよい」という言葉も人間をよく知っているから言えた言葉であろう。

しかし、彼にも過ちはあった。無理やり意見を通すため長男の義信を失ってしまったり、後継者の勝頼を「勝頼の息子・信勝が成人するまでの代理」という曖昧な立場にしてしまったため、家中の統制が取れなくなってしまったり、ということもあった。結局これが武田家の命取りになる。もちろん、そうせざるを得ない事情があってのことなのだが。

なお、信玄は子煩悩な親として知られている。娘が北条家に嫁ぐ時は大軍勢に守らせて、大いに飾らせて送り出している。勝頼にしても信玄にとても可愛がられていたらしい。義信自殺の裏には勝頼を後継者にしたかった信玄の思惑があったとさえ言われている。人間・信玄の一面である。

ちなみに、信玄の弟・信繁も優秀な人材だった。彼は、弟としてより、家臣として信玄に仕え、「武田の真の副大将」と人望が厚い、文武両道の名将であった。彼が川中島で戦死した時、信玄は大泣きしたと伝えられている。織田信長、上杉謙信、北条氏康といった戦国屈指の英雄たちにその死を悼まれている。その死は武田家にとってあまりにも大きい損失であった。

信玄の死後、勝頼が家督を継ぐが、曖昧な立場におかれていたため、家臣団を統制できなかった。そのような状況の中でもよく戦ったが、長篠の戦いで敗れてからは衰退の一途をたどり、1582年、信玄の死後10年足らずにして武田家は滅亡する。
信玄が織田家との同盟を破ったこともあり、信長は武田家を滅ぼす強い意志を持っており、勝頼が目指した織田家との和睦(甲江和与)もならなかった、ということも信玄の負の遺産といえよう。

武田家を滅ぼした織田信長が本能寺の変で死亡するのはその直後のことである。

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大石内蔵助

君の仇を討つため、全てをかけた、忠臣蔵の主人公

 大石良雄(内蔵助)は1659年に赤穂藩の家老の家に生まれた。学者の新井白石や老中の柳沢吉保もこの前後に生まれている。良雄は21歳で家老となる。良雄は山鹿素行という有名な軍学者に兵法を学んだと伝えられ、浮世絵などで描かれた47義士の衣装(特に太鼓)も山鹿流である。実際にはかなり怪しいらしいが。

大石の人柄として有名な言葉が「昼行灯」。普段はあまり目立たない、という程度の意味だが、赤穂城明け渡しに関する諸問題を見事に片付け、討ち入りも見事にやってのけたのは、いざというときにはやる!という人だったのだろう。こういうタイプの人は、結構かっこいいかもしれない。ただ、気づかないものなのだが。また、彼は結構女好きだったようだ。軽く見えるタイプの人だったのかもしれない。

有名な吉良上野介傷害事件は1701年に起こった。赤穂藩の藩主・浅野長矩が旗本(特に家格の高い高家であった)の吉良上野介に切りつけた事件だ。事件の理由は諸説ある。一番有名なのが、浅野が朝廷の使者の接待役を命ぜられ、その儀礼などを、指導役の吉良に尋ねようとしたら吉良が賄賂を要求したのに対して浅野が拒否して、浅野が面目を失い、遺恨に思った、という説。他にも、本当に性格が合わなかったという説や、浅野が節約を第一として、吉良の計画とどうしても寄らなかったため、浅野が恥をかいたなどという説もある。

理由はとにかく、殿中(江戸城内)で刀を抜いて切りかかった浅野には即刻切腹、領地召し上げという処分が下される。つまり、殿様の命だけでなく、家臣の給料もなくなる、ということだ。

ここで初めて良雄の力量が発揮される。まず、藩内の混乱を防がねばならない。彼は筆頭家老として、家臣団の動揺と共に領民の動揺も抑えなければならない。太平洋戦争のときもそうだったが、政権や国が倒れる時特に重要になるのが貨幣の問題だ。
当時、どの藩も財政が苦しく、藩札という藩内にのみ流通させることができる紙幣を発行していた。つまり、藩が苦しいから紙幣を発行しまくったということだ。領民も藩が潰れるということは考えていないから、普通に使っている。ということで、その信用を供与している藩が潰れると、これはもう大問題。藩内だけでなく、近隣諸国にも経済的な混乱が波及する恐れがある(領民は近隣の藩の人とも交流があるはずだから)。普段からリスクを分散しておけばいい・・・、というのが経済学者のほぼ一致した意見(つまり平時から資産を円だけでなくドルやユーロ、金などに分散しておくとよい、ということ)なのだが当時そんな話があるわけはなく、藩内は大混乱。藩札と金貨との交換が求められた。この引き換えや、幕府に対す赤穂城引渡しなどを整然と行っている。これには藩内外の人が驚いた。何といっても「昼行灯」だったのだから。

討ち入りを決するまでの彼の心境には諸説ある。本当は浅野家再興あるいは再就職を考えていたが、浅野家の完全な取り潰しが決定したので、討ち入りをして世論の賞賛を勝ち取ることで他家に仕えようとしていた(もちろん就職云々に関しては自分ひとりだけでなく家臣団全体のこと)という説。一般に流布している、主君の仇を討ちたかった、幕府に抗議したかった、という説などがある。
ただ、一つ言えるのは、当時は戦乱の恐怖も遠のき、世論が仇討ちという物騒なことを求めていたということだ。結局、大石もこの世論に逆らい難かったのかもしれない。だとしたら、世論の形成と言うのは恐ろしいものだ。

ともかく、大石を中心とした47人は吉良邸への討ち入りを決意する。1年もの間、綿密に性格に情報を収集し、計画を練り上げていく。少し前に由比正雪の乱があったが、密告によって計画は潰えてしまった。このような計画は密告によって崩れてしまうことが多いのだが、彼らは一年間結束し裏切り者を出さない。このあたり、大石のリーダーシップがいかに優れていたのかを示している。また、彼らが利害関係以上のもので動いていたのではないかと思わせる。ただ、この時期、大石はできるだけ討ち入り参加者を絞っている。無駄な犠牲を出したくない、という思いやりもあっただろうが、警戒していたのかもしれない。

そして1702年年末、47人は討ち入りを決行、吉良を討ち取り、凱旋する。この討ち入りに対して、江戸の庶民は絶賛する。しかし、幕府の内部で意見が分かれた。すなわち、彼らは忠義の者であるから、厚遇すべきであるという意見と、彼らがしたことは法に背くことである。したがって即刻死罪にすべき、という意見だ。将軍徳川綱吉は助命したかったようだが、老中の柳沢吉保が法秩序を守るため死罪にすべき、という意見を強く唱えたため、結局死罪になる。ただし、武士の体面を傷つけないように切腹だった。足軽1人(助命された)を除き46人は見事に切腹した。

討ち入り後、吉良家は断絶したが、浅野家は500石の旗本として再興した。義士の志は実ったのだ。その後、現在に至るまで彼らの心は賞賛され続けてきた。

なお、忠臣蔵の裏には様々なドラマが隠されている。例えば、忠臣蔵では悪役とされている吉良上野介も領地では善政をしき、名君として慕われていたとか(ただし彼は領地で政務をとっていたわけではなく、領民の判官贔屓とも)、彼の子で米沢藩主(上杉謙信以来の伝統を誇る)だった上杉綱憲が父を救援しようとした時、家老が必死に巻き込まれるのを止めたため、米沢藩には何の影響もなく済んだ、とか。忠臣蔵の裏には、色々な人物が命を張っていた、というのがよくわかる。47義士ばかりが英雄視されるが、このような舞台裏の話も興味深い。

討ち入りの時、大石良雄は44歳。中年の方もまだまだ老け込む時期ではないということを示唆しているように思える。

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